『 政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾長)の携帯電話問題ワーキンググループは12日、子どもの有害情報対策として「小学生が携帯電話を持つことがないようにする」ことを盛り込んだ提言案をまとめた。年末に麻生首相に提出する。 中学3年生の63%、小学6年生の32%が携帯電話を持っているという文科省の調査結果を踏まえ、特に小学生が携帯を持たないようにする取り組みを重視。携帯電話がなくても困らないようにNTTに公衆電話の増設を求める。 非常連絡のため子どもに携帯電話を持たせたいとの親の声にも配慮。通話機能などに限定された子ども向け機種を無償貸与する案を検討することも盛り込んだ。 』アサヒコム
小・中学生が、携帯電話を持たせないようにする教育再生会議に対する提言に「こんなんでええんか」さんが、うまくプログに以前書かれていましたので書き込ませて頂きました。皆さん方も良く考えて見て下さい。『教育再生懇談会などは「小中学生に携帯電話を持たせるな」とアホな事を言う。規制でしか倫理が守れん人間を作る事が教育なんか?自らの意思で規制を行い、自らの意思で使用する媒体を善とするような事をするんが倫理を持った人間の解釈やろう。それを教育するんが人間教育では無いんか?それを行わないで規制をすれば、考えない、想像しない、自分で決めない人間を作るだけになる。人間は自らで考え、自らで想像し、自らで行動する事を決める動物や。ただ、そこには規範と言う根底があっての事なんやが、この規範が崩壊してるから、携帯電話の使用に関して問題が生じてる。「だから、臭いものには蓋をする」と言いたいんやろが、そんな事をしても何も変わらん。人間教育があっての物事やし、教育を再生する人間が規制を考えるなど、この懇談会に参加してるメンバーを見れば致し方ないかも知れんな。偉い仏教関係者やキリスト教関係者、そんな人を懇談会に参加させていれば、会合で「規制」が出ても反対されるやろう。宗教関係者は切捨て論では無いからや。再生論や更正論が基本にある。日本の再生は切捨て論やから冷たいねん。教育再生懇談会に宗教関係者の意見を入れる事は、基本的に人間教育の素養を上げるには絶対にエエ事なんやが、日本は宗教を語る事がタブー化されているが、少しは宗教関係者の人間を見捨てない考え方を取り入れる事は大事な事やと思う。けども、「信仰の自由」と言うて、宗教を取り入れない考え方があるが、宗教の基本となる「教え」は、様々な宗教はあれど基本に変わりは無い。「命を尊ぶ」であったり、「謙虚心を持つ」であったり、「年長者を敬う」であったり、「弱者を救済する」であったりの考え方は、仏教でもキリスト教でも同じような考え方は存在する。その規範となる教えの元に、教育を再生するような事を考えて行かないでは、これからの子供は可愛そうである。杓子定規に物事を決めて、制度の問題や規制の問題、法律の問題ばかりが先行するが、本来の「教育」と言う概念は、人間教育が基本にあるんやから、信じる神様は違えど考え方に相違は無い。宗教関係者の教育再生懇談会への参加が日本の教育再生の近道かも知れんな。ネットの問題で自殺する子供や、「いじめ」を受ける子供、犯罪に巻き込まれる事なんかから子供を守るには、プロダイバを含めたネット管理会社と、サイト管理者の問題は重要だけれども、基本は道具を使う人間の素養を上げる事が重要になる。道具に振り回されている人間が存在し、携帯電話に関して言えば、季節季節に新機種が出て購買意欲を煽るが、古い携帯電話を大事に使うのも「道具に振り回されない人間」を作る事になるんや。また、携帯電話会社が同一会社内の通話を無料にしたり、家族間の通話を無料にする事を見れば、メールやネットばかりが先行するが、人間のコミュニケーションを向上させるには、やっぱり家族との会話を重視して、連絡を密にする事で家族関係も上手く行く。加入者を伸ばす戦略として、家族間の通話を無料にするような考え方を持つのでは無く、家族でゆっくり会話を楽しむのも携帯電話だから行える事かも知れん。子供が携帯電話を持つ際に、居場所の特定や直ぐに連絡が取れる事を一番の理由に挙げるが、携帯電話会社の取り組みなんかを見てると、家族間通話無料は家族の絆を上げる一つの社会貢献かも知れん。そんな見方をせんで、「携帯電話を小中学生に持たせない」は社会貢献を無駄にしてるように感じるわ。』「こんなんでええんか」さんの2008年6月8日のブログより引用。
『子供の携帯電話の所持に関しては、様々な意見はあると思う。けれど、「危ないから持たせない」では人間としての進歩は皆無になる。「持つに値する人間形成」が大事であって、全く人間教育をされないで持たせれば、それは携帯電話に限らず、カッターナイフもハサミも同じやと思う。秋葉原の歩行者天国での無差別殺人かて、「持つに値しない人間」がナイフを持って無差別に人を殺しただけで、欠落してたのは人間教育である事は明確やろう。ならば、携帯電話かて「持つに値しない人間」が持てば人を殺める事にもなるし、「持つに値する人間」ならば便利な道具であるはずや。不可思議に世間が「学校裏サイト」や「プロフサイト」の問題を携帯電話の責任にするが、「持つに値する人間」ならば問題は起こらんのや。その分別が子供に出来る訳が無いから親が「駄目」とか「イイ」とか判断するんやろうが、その親の子育てに問題があって「持つに値しない人間」になれば、親が偉そうに判断する問題なんやろうか?僕は、英語教科を小学生で必須化するより、人間教育に時間を使う方が有効やと思ってる。教えて貰えないから分からん子供が存在すんねん。それは、昔なら家庭教育の分野なんやが、今は家庭教育も崩壊してるから、学校で教えるしか無いんとちゃうんか?親をしてて自信があるような親ばかりで、人の助言を聞く耳も持って無い。そんな親の子供を不幸と言わずして何を不幸と言うんや?子供を育む三位一体の、家庭・地域・学校の家庭と地域が崩壊してるんやから、英語教科より前に学ばせてやらんとアカンのとちゃうんか?携帯電話を持たせる?持たせない?では無く、「持つに値する人間」か?「持つに値しない人間」か?を考えるべきや。「持つに値しない人間」ならば、それは携帯電話に限らず、人間教育の欠如なんやから、先は人間教育を怠った親は反省するべきやし、人間教育をしっかりとやらんと携帯電話さえも持てない人間を作る事を弁えるべきや。携帯電話を巡って家族内で殺人未遂事件になったから記事になっただけで、物を「悪の温床」にするのは良くないなぁ。物は使う人間で良くもなれば悪くもなる。携帯電話の責任にして人間教育を考えないのは卑怯やで。』「こんなんでええんか』さんの2008年6月21日のプログより引用。
確かに携帯電話を使うのは、人間です。正しい使い方を子供たちに学校の先生や親は教えるべきです。パソコンも携帯電話も使うのは、人間です。便利な機械に人間が使われていたのでは意味が有りません。優れた文明の便利な利器を使うのはあくまで人間です。正しいことに使うことと、人間としてのモラルを持つべきです。携帯電話を持つのを禁止するより、子供たちに正しい使い方を教えることのほうが大切なように思います。学校の登下校や塾帰りに子供たちが危険な目に会う今日この頃です。子供たちが、無事自宅まで帰って来るまで保護者は安心出来ないと思います。治安の良い日本という安全神話が、学校の内外で壊れています。緊急時や非常時の連絡手段として、子供たちや保護者には携帯電話は必要です。両親が共稼ぎの家庭も多いですし、子供との連絡手段として携帯電話は必需品です。最近本当に公衆電話が少なくリ、お年寄りが倒れられても救急車が呼べず携帯電話を持っていた親切な女性が救急車を呼びました。高齢化社会で、家の近くで倒れても公衆電話が少なくなり緊急時の連絡に困ります。お年寄りは、携帯電話をもたれている方は、少ないようですので災害時に備えて是非これまでどおり公衆電話の設置を充実させて下さい。心ない人が、悪戯で硬貨を入れれなくしたり、水を注ぎ使えなくなっている公衆電話も有りますから、点検整備を欠かさないで下さい。
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