『 東京都足立区立第九中学校で、数学を担当する2年生の学年主任の女性教諭(52)が授業中、宿題などを忘れた生徒に、「愚か者の誓い」というプリントを渡し、「私が愚か者でした」などと何度も記入させていたことが分かった。 区教委によると、教諭は4年ほど前から、忘れ物をした生徒に「私は、愚かにも(○○○)を忘れました」と書かれたプリントの空欄を埋めさせたうえで、「私が愚かでした。もう○○○を忘れません」と7回書かせていた。さらに繰り返し忘れる生徒の名前を「○○○未提出の愚か者」として教室内に張り出していた。 10月30日、区教委に教諭の行動を問題視する匿名の手紙が届き、教諭に事情を聴いて発覚した。教諭は「忘れ物をしてほしくないと思って指導した。『ばか者』より『愚か者』という言葉の方がソフトだと思ってしまったが、配慮に欠けていた。反省している」と話しているという。 鈴木啓一校長は「熱心な教え方ではあるが、まずい方法だ。私も校長として見落としており反省している」と話している。区教委も「教育の仕方として適切ではなかった。対応を都教委と相談したい」と、保護者への説明を検討している。』毎日新聞
生徒が、宿題を忘れたからと言って愚か者といえますか。数学の宿題をなぜ生徒が良く忘れるのか。数学を担当する先生として胸に手当て反省することも必要です。自分の数学の指導法が果たして良いのかどうか考える事も大切で、「○○○未提出の愚か者」と繰り返し忘れる生徒の名前を教室内に張り出しても解決出来る問題ではないと思います。一種の見せしめで、恥をかかされた生徒が、かえつて数学嫌いになると思います。なぜ生徒が、数学の宿題を良く忘れるのか、数学担当の先生として原因を考えて見て下さい。繰り返し忘れる生徒は数学の授業を十分理解出来ていないのかも分かりませんね。数学が苦手で、出来ず宿題の問題が解けないのでは無いですか。宿題を忘れたからと言って「愚か者」とは言えません。生徒に完全を求めるなら先生も完全でなくてはなりません。完全主義を求めるとうつ病になってしまいます。融通が利かない、生真面目、几帳面、責任感が強い失敗を恐れる、無理に負けてうつ病になった人も多い。数学の先生が、自分が『完全な教育者』と思って、生徒『完全』を求めるのは間違いである。自分も数学先生として『完全』であるべきである。生徒に対して『愚かで有ると書かせるのは』数学指導者として、愚かで有ると証明しているようなものである。学生時代は、成績優秀な優等生の数学の先生だったから数学の出来ない生徒の気持ちが理解出来ないのかも分かりませんか、数学授業がわかりにくく、数学が出来ない生徒が宿題を良く忘れて来ると言う可能性も有ります。「愚か者の誓い」というプリントが、「数学嫌いの誓い」と言うブリントにならないよう数学の授業と教科指導を工夫して下さい。
同志社の創立者新島襄先生の「自責の杖」事件のエピソードを下に書かせて頂きました。
「1880年3月、創立5年目を迎えた同志社で、最初の学園紛争が起こりました。
学校運営のための募金運動、またキリスト教伝道のために日本各地を飛び回っていた校長・新島襄の留守中に、教師会は、学力の違いから分かれていた二つのクラスを合併させることを決定しました。これに上級生が反発し、学校側の姿勢を問い質し、京都に帰った新島からも説明がなされましたが納得せず、ついには授業をボイコット、ストライキに突入しました。 新島はいったんは教師会の席で、校則にしたがって一週間の謹慎処分を下しましたが、途中で処分を解除しました。そして、1880年4月13日の朝の全校礼拝において彼は、今回の生徒の集団欠席にいたる紛争は、生徒の罪でも幹事の責任でもなく、自らの落ち度である、と語りました。 それは「校長たるの徳の欠けたるためである。されば、彼らの過ちは我が不行き届きと不徳の結果である。されば如何でこれを罰することができよう。されど、同志社の規則は厳然たるものである。よって、自ら校長を罰し、生徒に代わって学校の規則の重んずべき事を知らしむべき」。 そう言って、彼は壇上に持ってきた杖で、自らの左拳を何度も、杖が折れるほど打ち続けたと言います。」
2001年4月1日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教寄り引用。
(改訂版:じっさいに説教されたものに手を加えています)
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