『 小学校でずっと学級委員長を置いてこなかった鳥取県。「リーダーを選ぶのではなく平等を重視すべきだ」との考えが教員にあり、徒競走でも順位を決めないほどだったが、この春、鳥取市の1校で約20年ぶりに学級委員長が生まれることになった。「横並びでは子どもの主体性が無くなる」という鳥取市教委は、各校に「委員長復活」を推奨している。学級委員長を置かない学校は全国的にも少なくないが、今回の動きはどんな影響を与えるか――。 鳥取県内の19市町村の教育委員会によると、いずれの自治体も全校調査はしていないものの、クラスを代表する学級委員長はいないという。その代わり、図書委員、保健委員といった係と同格で、学級会などでクラスの意見をまとめる「運営委員」を置いている学校が多い。 鳥取市教委学校教育課によると、同市内の小学校で学級委員長が姿を消したのは20年ほど前。当時、「他の児童を差別することにつながる」という意識が全市に広がったようだという。 鳥取県では、広い範囲で教員が集まって指導方法を検討する「研究会」が盛んに開かれている。その中で学級委員長を置かない取り組みが「先進事例」として紹介され、広がった可能性があるという。 県内の学校現場の「平等主義」は他にも例があった。運動会の徒競走で、児童の能力にあわせてコース内に「近道」を作ってゴール付近で接戦になるように調整する。学芸会で、一つの劇の主役を複数の児童が途中で交代して演じる――。「うまくできない児童の気持ちを最優先に考えるような時期があった」(同市教委)という。 同市教委は昨年度、児童・生徒と保護者に「学級集団と人権教育」をテーマにした調査を実施。その結果、鳥取大学の一盛真(いちもりまこと)准教授(人権教育)は「身近な人間関係に立ち向かえず、仲間と問題を解決する経験が欠如している」と結論づけた。 市教委は「集団を率先してまとめる存在がクラスにいないことが影響している」と判断。中川俊隆教育長は「社会性を身につける場を逃している」として、昨夏、教職員を集めた研修会で「子どもの成長に効果がある」と学級委員長の復活を求めた。 「素直でまじめだが、自主的な行動が少なく物静かな傾向がある」。昨年4月、県内で初めての小中一貫校になった鳥取市立湖南学園は、児童の特徴をこうとらえている。その対応策として、同校は、新年度から小学5、6年生のクラスに「室長」という名称で学級委員長役を新設することを決めた。児童による学級、学校活動の活性化を目指すという。 金田吉治郎校長は「リーダーがクラスをまとめ、みんなで支え合うことでチームワークを学べる。社会で求められるスキルだ」と意義を強調する。保護者からも「これまでのクラスは機会均等というより人任せだった」といった声が上がっているという。 同校の動きに対し、市内の別の校長は「クラス運営の一つの方策だ。参考に見ていきたい」という。「委員長なし」の現状を肯定する教員もいるが、一盛准教授は「リーダーを含めてクラス内に多様な役割を置き、個性を生かして支え合う関係づくりを経験すべきだ」と学級委員長を設ける意義を強調する。 文部科学省によると、学級委員長を置くかどうかの公的な決まりはなく、各学校の判断にゆだねられているという。学級委員長、他の役職と同格の場合も 福岡・東京 クラスの代表として学級会の司会をしたり、全校の児童会の会議に出たりする「学級委員長」。学校によって名称は色々あり、同じ立場でも、「長」と付けず「学級委員」などと呼ぶところもある。 岐阜大学の有村久春教授(教育学)によると、昭和40年代ごろまでは勉強ができる子などを先生が指名して決める形が全国的に多かった。それが、「民主的な教育」が唱えられた昭和50年代以降、クラスのみんなに役割を経験させようという考え方が広まったという。 立候補を募ったり、輪番制で回したりといったやり方が進む中で「学級内のヒエラルキーが薄まり、新聞係、生き物係といったその他の担当と『同格』になる学校が増えた」と有村教授は指摘する。子どもの側も個人主義が強まり、リーダーシップを取りたがらないことも影響したようだという。 それが「近年になって学級崩壊やいじめの問題が深刻化し、『民主的なリーダーシップ』を育てる必要性が指摘され始めた」。有村教授は、鳥取のケースもその一つではないかとみる。 各地の例はどうか。福岡市ではかつて「学級委員」という名称のリーダーの役職があったが、最近は「代表委員」と呼ぶことが多く、「保健委員や体育委員と同じく、みんながなる役割の一つ」(市教委)になっているという。市内の小学校教諭は「個人主義が広がり、もしいま『学級委員』が復活したとしても、その子を中心に一つになるとは考えにくい」と話す。 東京都教委は「役職を置いている学校は多いが、クラスの代表と位置づけたり、他の係の委員と同じ格だったりと、学校によってそれぞれ違う」。都教職員組合も「地域性や先生の考え方による。どの子にもリーダーシップの機会を与える学校が多いようです」という。 一方、札幌市ではずっと「学級委員」などの名称で、クラスのリーダーを各学級に男女1人ずつ置いてきたところが多いという。市教委は「勉強だけでなく、自治的活動も含めて社会的な様々なことを学ぶのだから、クラスの代表は必要です」と話す。』アサヒコム
私達の小学校時代は、担任の先生がが勉強の出来る男の子が学級委員長に女の子を副委員長に指名していたように思います。他の学級委員は児童の投票で決めていた学級もあったと思います。学級担任の考え方にもよったと思います。児童の自主性と自治意識を高める為に選挙で学級委員長、副委員長を男女一人づつ、他の学級委員も学級の児童が決めたら良いと思います。皆の参加、民主主義の原則を学ぶべきです。学級委員長の一学期毎の交代制や多選はどうするのかを児童が皆で話し合い決めたら良いと思います。学校の問題や学級の日常活動に先生の指示し通りではなく、児童の代表が、児童ともに積極的に参加し取り組む事も学校教育では必要です。皆で考え学級運営をすれば、平等主義と人権教育を損なわないのでは有りませんか。学級委員長や学級委員を決めていないのなら、児童の代表の生徒会活動も出来ないのでは有りませんか。小学校の活動や運営に児童が関わり学び、児童の考えや意見を先生方も取り入れてこそいじめやいじめのによる自殺、非行が防止出来るのでは有りませんか。生徒会や学級委員長が連携して胡そ明るい学校運営が出来のでは有りませんか。先生だけでは、日常の校務を多く仕事が増え大変です。児童にも学級活動や学校の内外のいろいろな活動を児童が分担することによって責任感や社会的意識も育つのでは有りませんか。大人になって選挙を棄権したりするような事の無い民主主義の原則を大切にする人作りも大切です。小学校の内から体験して置かないと大人になってからでは遅いのでは有りませんか。
学力テストの結果公表よりも学校の日常活動として大事なことを長年忘れてきたのでは有りませんか。運動会の徒競走で、児童の能力合わせてコース内に近道を作りゴール付近で接戦になるように調整するのは問題で,児童自身が頑張る気力をそぐことになります。運動会の競争で、順位をつけない学校も有りますが。将来人生困難ことに会っても逆境に負けずに挑戦し取り組む気力を失うことになります。努力無くして、人間の進歩、向上は有りません。100メートル競争なら皆100メートル走ることにおいて平等で、どうすれば皆より早く走れるか考え、練習し努力することから体力の向上と進歩が生まれるのでは有りませんか。努力の成果は、結果に出ると思います。人間は進歩する、人間として進化するから価値があるのです。子供達も同じ土俵で、皆と仲良く努力することを忘れてはなりません。私は、学校に競争原理を持ち込む冪ではないと思いますが。一人一人の子供達が自分の持つ能力を精一杯発揮することも重要だと思います。自分の壁や限界に挑戦する逞しい人間になって欲しいと思います。将来日本の各分野での先駆者、あらゆる困難にも立ち向かえる挑戦者なって頑張って貰わないとこれからの日本は斜陽化してしまいます。
身体障害者の皆さんもバラリンピックで、車椅子乗り一位のゴールを目指し両手を上手に動かしながら額に汗して練習に一生懸命努力されている姿を見ますと健常者の皆さんは、自分の力を精一杯発揮する事の大切さが分かると思います。身体障害者の皆さんが直向に練習に汗を流し努力されている姿から健常者の皆さんが学ぶことも今の学校教育では大事では有りませんか。医学や教育学の原点のように思います。体力テストの結果順位や子供達の体力の低下が叫ばれている今日学校教育で教育現場にこそ問題が有るように思えてなりません。以前学芸会では、学級担任が主役や他の配役を決めていましたが、担任の先生のえこひいきに左右されがちでした。「一つの劇の主役を複数の児童が途中で交代して演じ、うまくできない児童の気持ちを最優先に考えるような時期があった」と言われていますが。学級の児童皆が劇に適した主役や他の配役を決めて学級担任が監督指導すれば皆も納得するのでは有りませんか。
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