教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

銚子電気鉄道との姉妹鉄道提携について

2013年09月12日 19時43分53秒 | まち歩き

 ひたちなか海浜鉄道株式会社(茨城県ひたちなか市)と銚子電気鉄道株式会社(千葉県銚子市)は
平成25年10月27日に姉妹鉄道提携をいたします。

わたくしたちは、太平洋沿岸地域にて鉄道事業を展開する鉄道会社であり、
レトロな車両が走る沿線風景だけでなく、幾多の困難を乗り越えてきたこと、
永年にわたり沿線のみなさまをはじめ多くの方々に親しまれていることなど共通点も多くあります。

さらに本年は、ひたちなか海浜鉄道が前身である湊鉄道から数えて開業100周年、
銚子電気鉄道も前身である銚子遊覧鉄道から数えて100周年、
銚子電気鉄道となって90周年という節目を迎える事から、
これらを記念するとともに、両社の末長い友好関係を祈念し、
沿線地域の魅力向上に貢献すべく姉妹鉄道提携を調印するものであります。

私たちは、この提携を機に、相互の協力関係を深め、
みなさまに愛される鉄道会社を目指してまいります。
今後とも変わらぬご愛顧の程、お願い申し上げます。

ひたちなか海浜鉄道株式会社  銚子電気鉄道株式会社7

【調印式について】
下記の通り姉妹鉄道提携の調印式をおこないます。

日時:平成25年10月27日(日) 13時より
場所:那珂湊駅特設ステージ
   (湊線開業100周年祭会場)

トップページ > 最新情報 > 『第20回鉄道フェスティバル』出店について

平成25年10月12日(土)・13日(日)の両日、
鉄道の日運営委員会主催、「第20回鉄道フェスティバル」が
日比谷公園大噴水広場特設会場にて開催されます。

会場では鉄道各社による鉄道グッズや沿線の特産品等販売、
20回目の開催を記念した特別イベント等、内容盛りだくさんです。

ひたちなか海浜鉄道では当会場にて100周年記念乗車券および
2014湊線カレンダー等の先行販売を行います。
ぜひご来場ください。

【日時】2013年10月12日(土)~13日(日) ※雨天決行
    ※ひたちなか海浜鉄道は両日とも出店致します。
【時間】10:00~17:00
【会場】日比谷公園大噴水広場・小音楽堂及びその周辺
【主催】「鉄道の日」実行委員会
【アクセス】JR「有楽町駅」から徒歩10分
 東京メトロ日比谷線千代田線の「日比谷駅」から徒歩3分
 東京メトロ三田線の「日比谷駅」から徒歩3分
 都営三田線の「内幸町駅」から徒歩1分
 東京メトロ丸の内線「霞ヶ関駅」から徒歩5分
 東京メトロ有楽町線「桜田門駅」から徒歩11分
【入場料】無料
【お問合せ】第20回鉄道の日運営事務局
 ℡03-3444-6606

※諸状況により日程・時間・場所などが変更になる場合があります。
事前に会場・主催者までお問い合わせ下さい。

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願いが叶うパラレルワールド論

2013年09月12日 17時54分10秒 | 悩み

潜在意識で願望を達成しよう

今日は自分自身の世界の出来事は、他でもない瞑想者自身の潜在意識が創造するといった話を御一緒に考えさせて頂ければと思います。(・∀・)

宇宙が分岐するという考えをもとに、恋愛系の願望について考えてみましょう。(・∀・)

相手の好きな人(Aさんとします)

1.Aさんが貴方以外の好きな人と結ばれた世界
2.Aさんが好きな人と結ばれず、貴方との幸せな生活に落ち着く世界
3.Aさんが誰とも結婚しない世界
4.Aさんと連絡さえ取れなくなる世界

と、分岐していくので、ちゃんと全ての人の願望は達成されて行く事になるんですよね。
なので遠慮は不要です。(・∀・)
Aさんが別の人との幸せな生活を望んでいるのであれば
Aさんは、あなたの世界ではない分岐した別の宇宙で、他の人と幸せに暮らして行きます。
瞑想者は、「瞑想者自身と一緒になる世界」に残ったAさんと幸せな結末を迎えればOKといった話しになります。(・∀・)

この場合は「2」の世界に乗るのが目的なので
潜在意識の法則、願望達成の基本は「繰り返される思考は実現される。」なので
イメージを繰り返し、確り「2」の世界に乗って達成して行きたいものですよね。(・∀・)

もし「2」の世界に乗り遅れても全く問題有りません。
「1」や「3」それに「4」の世界に進んでいる途中から、Aさんと不思議な過程を経て再会を果たし
「やっぱり貴方と一緒にいたい」と「2」の様な結果が待っている世界に分岐していく事も出来ます。(・∀・)

今、貴方見ている世界は、貴方自身の思考が作り出した世界の出来事です。(・∀・)
貴方の好きな人は貴方の世界の住人で、欲しいものは貴方の為だけに準備されているものなんですよね。(・∀・*)
なので上でも話しましたが、全く遠慮や、譲る、身を引くといった必要は有りません。(・∀・)

少し視点を変えて考えてみましょう。
相手の姿を合わせ鏡に写してみましょう、無限に相手の方がいますよね?
その中から一人だけご自身の世界に引き抜いて、幸せな生活を営みましょう。(・∀・)
願望達成とはそういったものだったりします。(・∀・)

遠慮して手に入れない世界を先取り観測せずに、本心のまま願いを叶えた姿を先取り観測して満たされた人生を歩んで頂ければと思っております。(・∀・)

併せて潜在意識に刻印するイメージは、関係する全ての人が結果的に幸せになるといった約束事も忘れないで下さいね。(・∀・)
引用元vacuumfella.blog62.fc2.com

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    「爆発させる」…特別支援学校600人が避難

    2013年09月12日 17時40分03秒 | 受験・学校

    読売新聞 9月12日(木)最終更新:9月12日(木)13時25分『 12日午前8時50分頃、茨城県つくば市玉取の県立つくば特別支援学校(立原雅子校長、児童・生徒394人)で、「今日12時に、いくつかの爆発物を爆発させる」と書かれた紙が見つかり、子供たちと教職員計約600人、周辺住民18人が近くの施設に避難した。
     県警が爆発物を捜索したが見つからず、午後0時35分に避難を解除。県警は威力業務妨害容疑で捜査している。
     児童・生徒らは安全確認後、迎えに来た家族に連れられるなどして帰宅。同校は臨時休校となった。』

    茨城県つくば市玉取の県立つくば特別支援学校に、「今日12時に、いくつかの爆発物を爆発させる」と書かれた紙を貼った容疑者は、卑怯な人間です。なぜ世間を騒がせ、困る様子を傍観して喜ぶような愉快犯が今の日本で蔓延り、悪い真似をする模倣犯が事件ヲ起こすのか、病める今の日本の社会の投影では有りませんか。

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    食器洗浄機に多摩大生両足、バイトテロで個人経営閉店

    2013年09月12日 17時15分47秒 | 受験・学校
    ここから本文です
    スポーツ報知 9月12日(木)7時5分配信

     アルバイト店員や客による飲食店での悪ふざけ写真のツイッター投稿が問題視される中、都内にある個人営業のそば店までもが閉店に追い込まれる事態になっていたことが11日、分かった。また、近畿大4年の男子学生がアルバイト先の飲食店で自分の顔をキャベツで覆う写真を投稿していたことも判明。一方、早稲田大は、3年の男子学生が京都・伏見稲荷大社で全裸写真を投稿したことについて、ホームページにおわびを掲載した。
     小田急永山駅、京王永山駅(東京都多摩市)から徒歩約15分にある有名そば店の、閉ざされたシャッターの横には、閉店の知らせが貼り出されていた。』

    この頃の大学生は、常識が無さ過ぎます。食器洗浄機の中に多摩大の学生が、両足を入れるなど言語同断です。飲食業衛生管理が大切と言うことも分からないようでは大学生と言えますか。子供達がこのような大人の悪い真似をしたら困ります。大人が悪いのです。ツイッターをもっと社会や人の為になるような利用法が出来ないのかと思います。思慮分別も無く、物の大切さが分からない大学生のモラル低下のひどい現実です。

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    火遊びで友人宅のアパート焼く…中3を逮捕

    2013年09月12日 14時43分11秒 | 受験・学校

    読売新聞 9月12日(木)12時5分配信 『 火遊びでアパートを焼いたとして、警視庁は12日、東京都足立区の中学3年の男子生徒(15)を重過失失火の疑いで逮捕したと発表した。
     当時13歳だった別の男子生徒(14)についても、同様の非行事実で児童相談所に送致する方針。
     同庁幹部によると、男子生徒ら2人は1月11日夕、同区内の木造アパート1階の友人宅に上がり込み、テーブルや衣類にライターオイルを垂らし、着火するなどして遊んでいたところ、近くのゴミに燃え移って同アパート約150平方メートルのうち約60平方メートルを焼いた疑い。
     この部屋には友人を含め家人は不在だった。けが人はなかったが、4世帯が入居していた2階建てのアパートは取り壊された。男子生徒らは「火を見るのがおもしろかった。家を燃やすつもりはなかった」と供述している。』

    友人宅に勝手に上がりこみ火遊びするなどもってのほかです。テーブルや衣類にライターオイルを垂らし、着火するなどして遊んでいたら、火事になるのは常識です。小さい時からの親の火の扱い方や危なさを教えておくべきですし、躾の悪さです。今更動向言っても始まりません。親として火事を出したら世間に申し訳ないことと思うべきです。

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    台湾の馬英九総統、李登輝元総統が小泉進次郎青年局長「総理大臣」を待望、現代版「5族協和」実現を期待

    2013年09月12日 13時50分39秒 | 国際・政治

    2013年09月12日 05時22分30秒 | 政治

    ◆自民党の小泉進次郎青年局長が、「東日本大震災から2年半」「日本固有の領土・尖閣諸島国有化から1年」を機に、国会議員33人を含め地方議員ら計97人の大訪問団を率いて、台湾を訪問、総統府で馬英九総統に面会した。小泉進次郎青年局長の父・小泉純一郎首相が慶応大学経済学部同窓の小沢一郎代表に「将来、進次郎を総理大臣にして欲しい」と頼み、小沢一郎代表は「わかった」と約束したと言われているだけに、台湾政界でも、「小泉進次郎青年局長は、40歳代で総理大臣になるだろう」と嘱望されている。
     また、小泉進次郎青年局長ら訪問団は、7月に血管手術をして病み上がりの李登輝元総統が台北市内で行った「安倍晋三首相のリーダーシップ」と題する講演を清聴し、激励されたという。
    李登輝元総統は、台北高等学校を卒業後、京都帝国大学農学部農業経済学科に進学、日本敗戦により、中華民国に復帰した台湾に帰り、台湾大学農学部農業経済学科に編入学した。大の親日家として知られている。著書「台湾の主張」などで「中国7分割」による「台湾独立論」を主張している。
     小泉進次郎青年局長は、義大ライノズ対兄弟エレファンツ戦の始球式に登板し、あいさつで、東日本大震災で台湾から世界最大規模の義援金が贈られたことに感謝を表明、観客の歓声を浴びていた。
    ◆日本と台湾は4月10日、尖閣諸島の領有権問題については棚上げして、台北市で沖縄県・尖閣諸島周辺海域での漁業権を巡る漁業協定に調印し、台湾も領有権を主張している尖閣諸島周辺の日本の排他的経済水域(EEZ)の一部で台湾漁船に操業を認めた。沖縄県内の漁業関係者は、「台湾に譲歩しすぎだ」と不満が残っているけれど、基本的に良好な日本と台湾との関係に維持を優先的に考えて、利害調整に当たっている。日本の領海を侵犯し続けている北京政府とは違うのである。
     台湾には、「独立派」がいる一方で、原住民である「高山族」=「高砂族」などのなかで日本への帰属を希望する人々が多数いると言われるほど、親日派が少なくない。
     世界支配層(主要ファミリー)は、中国4分割、東北部(旧満州)に「ユダヤ国家=ネオ・マンチュリア建国、北朝鮮による朝鮮半島統一・大高句麗国建設、国連開発計画による豆満江流域のデルタ地帯開発、第2の香港建設」などを行うとともに、大日本帝国が
    満州国建国のときに掲げた理想「5族協和」を実現しようとしている。
     現代版の「5族協和」は、米国をはじめTPP加盟諸国を含めて拡大し、環太平洋版の「EU」建設を目指すことになる。馬英九総統は、台湾のTPP加盟を希望しており、日本の力添えを小泉進次郎青年局長らに求めたという。
    ◆この理想を実現する政治家としては、いまや小泉進次郎青年局長ら若手政治家の双肩にかかっている。満州国と言えば、岸信介首相が、商工省(現在の経済産業省の前身)のいわゆる「革新官僚」と言われて、満州国国務院実業部総務司長、産業部次長、総務庁次長を歴任して、計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施した。小泉進次郎青年局長の父・小泉純一郎首相らが率いてきた自民党派閥「清和会」は、朝鮮半島、台湾、フィリピン、インドネシアなどの利権を掌握していた岸信介首相から派閥を引き継いだ福田赳夫首相が創設した派閥だ。中国との関係では、いまでも基本的に「台湾派」であり、「北京派」ではない。
     小泉進次郎青年局長は、この系譜を受け継いでいる文字通り「台湾派直系」の政治家である。この意味で、「5族協和」の理想を実現する政治家として最も相応しい。台湾の馬英九総統、李登輝元総統は、このことを熟知しており、それだけに小泉進次郎青年局長を「将来の総理大臣」として期待し、目をかけているのである。
    【参考引用】毎日新聞毎日jpが9月10日午後8時46分、「小泉進次郎局長:馬総統に面会 『日台の未来へ関係構築』」という見出しをつけて、以下のように配信した。
     「【台北・鈴木玲子】自民党青年局の台湾訪問団(団長・小泉進次郎青年局長)は10日、総統府で馬英九総統に面会した。総統府などによると、馬総統は『(日台は)特別なパートナー関係を築き、経済、文化、観光などで密接につながっている』と述べ、日台関係のさらなる強化に期待感を示した。また台湾が目指している環太平洋パートナーシップ協定(TPP)などへの加盟について日本の力添えを求めた。小泉氏も、日台の未来を見据えた関係構築の必要性を強調した。また、李登輝元総統が台北市内で訪問団に『安倍晋三首相のリーダーシップ』について講演し、若手議員らを激励した。李氏が7月の血管手術後、公の場で講演するのは初めて。小泉氏は同日夜には、台北近郊で開かれたプロ野球の試合で始球式をした。小泉氏はあいさつで、東日本大震災で台湾から世界最大規模の義援金が贈られたことに感謝した。自民党青年局はほぼ毎年訪台しているが、今回は国会議員33人を含め地方議員ら計97人の大訪問団となった」

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    本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」
    東京都の猪瀬直樹知事が、「東京五輪」などに必要な巨額資金を「金融カラクリ」資金から調達しようと懸命だ

    ◆〔特別情報①〕
     東京都の猪瀬直樹知事が、「2020年夏東京五輪」を見事射止め、欣喜雀躍しているのも束の間、巨額資金の調達になりふり構わず、懸命になっている。東京都が4500億円の預金を持っているとは言っても、まだまだ足りない。そこで米国オバマ大統領を助けた日本の「金融カラクリ」資金からの調達に一段と血道を上げているという。

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    第22回 板垣英憲「情報局」勉強会のご案内
    平成25年10月12日(土)
    「どうなる2020年オリンピック景気、どう動く世界の中の日本経済」
    ~アベノミクス3本の矢、財政出動の威力と起爆力


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    【板垣英憲(いたがきえいけん)ワールド著作集】




    「『族』の研究~政・官・財を牛耳る政界実力者集団の群像」(1987年3月9日刊)

    目次
     
    第3章「族の御三家」利権争奪の全容

    農林水産族「四人のドン」とは誰か


     農水省に対する自民党派閥による支配の系譜をたどってみると、戦後の一時期、河野一郎・元農相(故人)の党人派が押さえていた。河野氏亡きあと、経済の高度成長期には、「宏池会」が牛耳ってきた。その中心人物が、鈴木善幸・前首相であった。
    引用元http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/
    きんき-じゃくやく【欣喜雀躍】
    • 欣喜雀躍 意味
      小躍りするほど大喜びをすること。▽「欣」「喜」はともに喜ぶ意。「雀躍」は雀すずめがぴょんぴょんと跳ね行くように喜ぶこと。
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    伝説の教師 橋本武さん死去

    2013年09月12日 12時34分46秒 | 受験・学校

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    価格:¥ 420(税込)
    発売日:1988-05
    Photo

    [写真]橋本武さん=2013年2月26日、金澤稔撮影(毎日新聞)


      『神戸市の私立灘中・高校で、中勘助の小説「銀の匙(さじ)」を3年間読み込むというユニークな授業を行い、「伝説の国語教師」と呼ばれた橋本武(はしもと・たけし)氏が11日午後、神戸市の病院で死去した。101歳だった。京都府出身。東京高等師範学校(現筑波大)を卒業後、1934年から50年間、灘校で国語教師を務めた。「生涯、記憶に残る授業がしたい」との思いから、戦後の墨塗り教科書を使わず、中学3年間で一冊の小説を読み上げる授業を30年以上継続した。99歳だった2011年には、27年ぶりの特別授業として灘中の教壇に立った。』 (時事通信)

    橋本武先生の中勘助の小説「銀の匙(さじ)」を3年間読み込むと言う独自の授業方法は、受験勉強中心の受験指導が定着し、試験時間内に数多くの試験問題速く解答する受験技術が重視されている今日、進学塾や進学校で行われている教授法への疑念を提起されたと思いました。

     

    「自分がやりたいことをやる」
    ということが大切。
    自分が好きなことをどんどんやりなさい。

    橋本 武さん

    明治45年7月11日生まれ 京都府宮津市出身 兵庫県神戸市在住

    橋本武先生といえば、テレビや新聞、雑誌などのメディアで何度も紹介された
    “灘校、伝説の国語教師”である。

    「小説『銀の匙』を3年間かけて読み込むという奇跡の授業を行った」

    「灘校を東大合格者数日本一に導くという偉業を成し遂げた」

    「教え子は、神奈川県知事、東大総長、最高裁事務総長、作家の遠藤周作氏など第一線で活躍する人が多数」

    「100歳で、なんとまだ教壇に立っている!」

    ……等々。橋本武という人物が語られる時には必ずこんなすごい評判がついてくる。
     今回、橋本先生は「明治の人」の取材を快く引き受けてくださったが、やはり偉大な人物ということで会う前は少し緊張していた。果たして、実際の橋本先生は神のように近寄りがたいのか、気さくで親しみやすいのか……。
     そんな緊張感をもってご自宅を訪れると、橋本先生が顔を出した。銀髪に原色の派手なシャツがオシャレでよく似合っている。玄関も部屋も積み上げられたたくさんの本とカエルグッズがお出迎え。取材が始まり、生い立ちから順に話を伺うと、驚くほどしっかりとした大きな声でお話を始められた。耳は事故の後遺症で少し遠いけれど、とても100歳とは思えないような、若くて通る声。これなら今でも教壇に立つことがあるというのも納得できる。
    そして、驚くことにその内容は「100歳まで生きた人」の過去の思い出ではなく、「まだ人生の途中を楽しんでいる人」の未来を見据えたお話だった。

    ◆少年時代から読み書きが大好き

    1912(明治45)年7月11日、橋本武氏は京都府宮津市で、履物の製造販売を営む商家の9人兄弟の長男として生まれた。「父は、履物作りの職人で仕事には非常に熱心でしたが、お酒が好きで飲みすぎると取り乱していましたね。母は農家の生まれで、女学校に行きたかったけれど両親が許してくれなかったと聞いています。勉強好きな人でしたので、私が勉強したり成績が良かったりすることをとても喜んでくれていました」

    橋本氏は子供の頃、「とにかく病気がちの弱い子」だったという。勉強は得意で、やはり好きな教科は国語。好きになったきっかけは、小学校3年生の時、受け持ちの先生が授業中に国定教科書なんてほったらかして、真田幸村、猿飛佐助といった英雄豪傑が活躍する講談本を読んでくれたことだった。
    「教科書より講談本のほうがよっぽど面白かった。ただ、聞いているだけではだんだん物足りなくなって、自分でも読みたくなる。そこで、母親に『本、買うて』とねだると、母にしてみれば講談本でも何でも子供が“本”を読んでくれるのが嬉しいものだから、すぐに買ってくれました。塙団右衛門直之なんていう名前も覚えていますよ」
    また、読むだけでなく書くことも好きだった。
    「綴り方の時間にたくさん書けば先生が褒めてくれて三重丸をくれる。それでまた喜んで書いて見せたらまた丸をくれる、といった具合でした。だから、読み書きは自然に好きになっていきましたね」

    ◆“たまたま”が重なって生かされている!

    「私は何度も奇跡的に命を救われているんですよ」
    人生で死にかけたことはなんと5回もあるそうだ。そして、いずれも奇跡的に助かっている。中でも印象的だったのは、この話だ。
    「中学3年の3学期、私は慢性腹膜炎にかかり、1学期間ずっと学校を休んでいました。痛くも苦しくもないけれど横になっていないといけない病気だったので、退屈しのぎに時々本を読んでいました。その時、家に母が読んでいた『主婦之友』があり、特集記事は「家庭療法」でした。パラパラめくってみると、腹膜炎の療法が載っている。それは、米酢に生卵を殻ごと漬けておくと、殻から細かい気泡が出てくる。殻が柔らかくなったらそれは捨てて、残りを混ぜたものを1日3回分服するというもの。それで、実際に作って飲んでいたら、なんと治ってしまったんです。ところが、同時期に近所で腹膜炎にかかった同じ年頃の女の子が2人いたが、2人とも亡くなってしまった」
    同じ病状で、同じ医者にかかり、同じ治療を受けていたのに、治ったのは橋本氏だけ。何が生死を分けたかといえば、あの家庭療法を実践したか否かの違いだけなので、おそらくあのおかげだろうと橋本氏は言う。たまたま『主婦之友』を母親が購読していて、たまたま退屈しのぎに目に入り、たまたま「家庭療法特集」が載っていたから、命が助かった。そんな“たまたま”の重なりで生かされているのだと。他にも学生時代に二度、奇跡的に命が助かったと思えることがある。一度は小学生に入ったばかりの頃の海で。もう一度は東京高等師範学校に入った頃。暴走車にあと10センチというところではね飛ばされそうになったのだ。

    ◆東京高等師範学校へ進む

    旧制中学4年の時、父親が他人の借金の保証人になってしまったことから家は破産した。「学業はあきらめて丁稚奉公に行くしかない」と思っていた時、担任の先生が「勉学をあきらめるのは惜しい」と、町の医師の家に、中学卒業まで家庭教師として住み込ませてもらえるようにと頼んでくれた。そこで橋本氏は中学校を卒業するまでの残り2年間を過ごすことになる。
    その後、東京高等師範学校に合格し、上京。苦学生のため、また家庭教師をしていたが、ある時、漢字研究の第一人者、諸橋轍次氏の補助の仕事や『大漢和辞典』の編纂の仕事を手伝うようになる。この時、「徹底的に調べること」を学んだという。これは後の『銀の匙』の授業にも少なからず影響しているのだろう。

    ◆私立灘中学校の国語教師として神戸へ赴任

    1934(昭和9)年、21歳で東京高等師範学校を卒業。その当時は教授が学生の希望に合った赴任先の学校を決めてくれるので、就職活動をする必要はなかった。橋本氏は「金沢の公立中学に口がある」と聞いていたので正式な辞令が出るのを待っていた。そうしているうちに、まわりの同級生は一人、また一人と赴任先が決まって去っていく。
    「いつまで経っても自分だけ声がかからずどうしたことかと思っていたら、4月に新学期が始まって、ようやく担当教員に呼ばれ、金沢の口はダメになったと聞かされました。そして、代わりに『私立だが、神戸の学校に行ってみないか』と言われました」
    その「私立」こそ、灘中学であった。しかし、当時、私立は公立より格下と見られていて、同級生はみんな当然のように公立の学校へ赴任している。灘校も今でこそ名門校として全国に名が知られているが、その頃はむしろ落ちこぼれも多い学校だった。とはいえ、他に選択肢もなかった橋本氏は神戸へ行くしかない。「私立でも将来性のある学校だから」とか「2、3年すれば呼び戻すから」という担当教員の言葉をとりあえず信じ、神戸へやってきた。この時の橋本氏は、自分がこれから昭和59年に退職するまでの50年間、ずっと灘の教壇に立ち続けるなど夢にも思っていなかったことだろう。
    実際に行ってみると、灘中学には最初から好感を持ったという。
    「初代校長の眞田範衛氏は東京高等師範学校のOBでしたし、私に会うなり『先生も10年勤めなければ、一人前とは言えません』とおっしゃいました。創立して間もない学校でしたが、眞田校長は『日本一の学校にしてみせる!』という熱意を持っていて、将来性を感じられる素晴らしい学校でした。そして、眞田校長は私のような新米教師に対しても一切指図をせず、教室を覗きに来ることもなく、すべてをポーンと任せてくれました」
    当時の灘中学は、一教科一教師で入学から卒業までの5年間持ち上がり制。授業の内容もすべて自分ですべて決めてよいというシステム。指図がなく自由にできる分、教師一人ひとりの責任は重かったに違いない。しかし、そんな灘中学の自由な授業や校風、眞田校長の熱意を橋本氏は気に入り、やりがいも感じていた。寒がりだったので、神戸の暖かい気候もよかったという。そして、眞田校長の信頼に応えるため、ガムシャラに授業を行った。

    ◆『銀の匙』を教科書の代わりに!

    眞田校長に言われた一人前になるための「10年」を過ぎた頃、終戦を迎えた。神戸も被災したが、灘校は無事だった。ただ、使用していた国語の教科書は、軍国主義を理由に3分の2は墨で塗りつぶされて真っ黒。
    「ぺらぺらでこんなものでは授業なんかできないと思いました。それでもなんとか生涯に渡って子供の記憶に残る授業をしたいと考えていました」

    1947(昭和22)年、GHQの指示により全国で教育制度改革が行われ、現在の6・3・3・4制に統一。男女共学の公立校が新設され、学区制も適用されるようになった。灘校も高校を新設して中高一貫教育としたが、同じく一教科一教師というやり方は変わらず、今度は中高6年間を持ち上がりで教えることになった。それを機に、橋本先生は次の新入生(中1)から教科書を使わず、中学3年間かけて1冊の文庫本を読むという授業をすることを考えていた。それはかなり思い切ったことだった。
    「その頃、たくさん本を読んでいましたが、特に中勘助の『銀の匙』に感銘し、他の作品も全て読みました。中でも『銀の匙』は、夏目漱石が「きれいな日本語」と褒めたほど、美しい文章で書かれていました。さらに、新聞連載小説だったため、長からず短すぎず、教材としては扱いやすい。各章に表題をつけられるのもいいと思い、教材に選びました。内容も中勘助の自伝的小説で子供から成長していく過程の物語ですから、生徒は自分の経験と主人公の気持ちを重ね合わせながら読み進めることができますしね」
    そして、橋本先生は一年前からこの授業を行うための準備を始めた。授業を進めるうえでのポイントをまとめた指導要綱のようなものをあらかじめ作っておいたのだ。自分でもわからない言葉の意味は、実際に作者の中勘助氏に手紙で尋ねたこともあった。そうして出来上がった「銀の匙研究ノート」を使い、1950(昭和25)年から『銀の匙』の授業を開始した。

    ◆自分で調べて見つけたことは一生の財産

    授業は、ただ文庫本を読み進めて出てくる事柄を橋本先生が教えるというものではなく、楽しみながら学べる工夫がなされていた。それは、一年かけて橋本先生が行ってきた「銀の匙研究ノート」を作る作業を、生徒にも追体験させるものだった。授業は「銀の匙研究ノート」と題したプリントを配布して書き込ませながら進めていく。生徒はわからない語句の意味を調べたり、章ごとのタイトルをつけたりする。
    自分で考え、調べ、話し合う。時には横道にそれ、駄菓子屋の話が出てくれば、実際に駄菓子を配って教室で食べ、凧揚げの場面では実際に凧を作って揚げてみたこともあったそうだ。
    「子供たちは、自分で体感し発見したことだから、自然と興味をもち、楽しみながら学んでいきました。遊びの感覚でやるから楽しい。“遊ぶ”と“学ぶ”は同じこと」
    しかし、物語は横道にそれてばかりで、ゆっくりとしか読み進められない。2週間で1ページしか進まないということもあった。それに対して橋本先生はこう生徒に諭したという。
    「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなります。自分で興味をもって調べて見つけたことは一生の財産になります」
    今でこそ「スローリーディング」と呼ばれ、認められている授業方法だが、当時、どこの学校でも実践できたかといえば、それは違った。
    「灘校という自由にやりたいようにやらせてもらえる学校だからこそできたこと」と橋本先生は言う。また、この授業を行うためには、橋本先生の苦労も並大抵ではなかった。当時はプリントを作るのもガリ版だったので、夜中2時、3時まで準備にかかることもあったという。しかし、先生の想いは生徒に伝わっていたのだろう。この変わった授業のやり方には文句が出るどころか、プリントを抱えて教室に入ってくると拍手で迎えられることもあった。生徒はみんな国語の授業が大好きになったそうだ。それから1984(昭和59)年、71歳で退職するまで、灘校では『銀の匙』の授業が続けられた。

    ◆東大合格者数日本一に!

    『銀の匙』で学んだ初代生徒たちは、6年後に15名が東大合格。その6年後、2代目は京大合格者数では日本一に。そして3代目。1968(昭和43)年に灘校はついに東大合格者数日本一という快挙を成し遂げた。
    ところが、灘校は「人間性を無視した勉強だけの学校」のように新聞などで書かれ、「ガリ勉」「詰め込み教育」とマスコミにレッテルを貼られた。それに関して、橋本先生は本当に残念そうな表情を浮かべ、「灘校ほど自由な高校はありませんでした」と話す。今こうして『銀の匙』の授業のことが広まったことにより、灘校はガリ勉だというレッテルもはがれ、自由な校風を理解されるようになった。そのことを橋本先生は心から喜んでいた。
    『銀の匙』の授業が世の中に初めて紹介されたのは、『銀の匙』の4代目であり、神奈川県知事の黒岩祐治氏が、著書『恩師の条件』の中で橋本先生の授業を取り上げたことによる。それが世間に広まり、橋本先生と授業のことを詳しく書いた書籍『奇跡の教室』の発刊にもつながった。
    さらに、その影響で「もう一度、灘の教壇に立って『銀の匙』の授業をしてみたい」という夢も叶った。2011(平成23)年6月、「土曜講座」という特別授業で、現役の灘中学生に向けて『銀の匙』の授業を行ったのだ。
    「既にメディアに取り上げられていましたので、『奇跡の授業なんて、こんなものか』と思われたら立つ瀬がないと思い、いろいろ考えて臨みました」
    そう言うと、橋本先生は授業の一部を再現してくれた。
    ●「遊ぶ」と「学ぶ」の違いは何か?
    ●“ぶ”を取って残った言葉にはどんな語句が当てはまるか?
    ●「遊」の字がもつ意味は?
    ●「ぶ動詞」を探してみよう。思い浮かんだ数が今の国語力。
    ●「あかさたなはまやらわ」を反対から言える?
    ……などなど。
    「あかさたなはまやらわ」を大きな声で反対から言い、「い」の段、「う」の段と、すべての段を逆さまから呪文のように唱えた時は驚いたが、これが本当の授業だとしたら、きっと記憶に残っただろう。それはまさしく橋本先生がずっと大切にしてきた「遊ぶ感覚で学ぶ」授業だった。

    ◆教師になってすべてがよかった!

    灘校を退職後は、頼まれて神戸の予備校の校長に。本当は断るつもりで行ったのだが、結局引き受けてしまったという。また、地域の文化教室での古典の講座も頼まれ、こちらは100歳を迎えた現在も月1回ずつ3ヶ所で教えている。「何をどんなふうにしゃべろうかと常に考えている」そうだ。
    教師の面白さについて、橋本先生はこう話す。
    「教師は人間対人間で、人と交わることに面白さがあると思います。人間は皆、いろんな能力があって、性格などもそれぞれが違い、それぞれに良いところがあります。それを見つけて接触していくのが楽しい。教師になってすべてがよかった。これ以外の人生は考えられない。教師という職につけたことがありがたいです」

    ◆源氏物語の現代語訳を完成させる

    健康の秘訣を尋ねると、「よく噛んで食べること」と即答。
    1口30回どころか、100回以上噛むという。「胃の負担が少なく、脳も刺激するのでボケない」そうだ。
    そんな橋本先生も、81歳の時には解離性大動脈瘤を発症し、命も危ないという状態に陥った。それがまた子供の頃のように「奇跡」が起きて救われる。
    「牛乳瓶2本半分もの血があふれていたのですが、破れた血管部分が突然かさぶたで覆われ、血が止まったのです。どうしてそうなったかはわからないのですが、医者も“奇跡だ”と繰り返していました」さらに、85歳の時は車にはねられ、道路にたたきつけられた。後遺症として右耳の聴力はほとんど失ってしまったが、なんと頭を7針縫っただけで済んだという。この時、教え子でもある医師に「先生の声は本当の年齢より20歳は若く聞こえますよ」と言われた。
    「それを聞いて、20年はまだ生きられると思った。それで、源氏物語の現代語訳に取り組んだのです。源氏物語は長編なので現代語訳には時間がかかります。でも、20年生きられるなら、できると思いました」
    そして本当にすぐに現代語訳に取り組み、9年かけて94歳の時に完成させた。
    「この現代語訳は灘校に寄付すると言ったら、黒岩君がお祝いの会を開いてくれました。すると一期生のOBが『このままじゃもったいないから、本にしてみよう』と言ってくれ、2010年に灘校を出版元にして『現代語訳 源氏物語』は本になったのです。源氏物語は谷崎潤一郎や与謝野晶子などいろんな人が現代語訳していますが、私は自分が紫式部になったつもりで書きました。現代の紫式部が平安時代に行って当時のことを書いたような視点で訳しています」

    ◆目標は大還暦!120歳まで生きる!

    橋本先生は趣味も多い。50歳で社交ダンスを始め、60歳からは本人いわく「宝塚に狂った」。その他、歌舞伎、人形浄瑠璃、能楽……。今はカエルグッズ集めと和綴じ本の作成を続けている。「好きなことをやって、やめたくなったらやめる」。
    90歳の時、最愛の奥様を亡くされた。それ以降、ヘルパーさんには来てもらっているが、基本的に自分の事は何でも自分でする。
    「私は台所にも立ちますよ。汚れ物を残したまま寝たことはありません」
    2011(平成23)年11月には日本版イグ・ノーベル賞を受賞。たくさんの教え子たちが駆けつけ、お祝いしてくれたことが嬉しかったようだ。
    今の目標を尋ねると、「108歳の茶寿、111歳の皇寿、そして、120歳の大還暦を迎えること」という。120歳まで生きるのは簡単ではないが、橋本先生が言うと現実になりそうな気がする。大還暦には、赤いスーツに白いバラのコサージュという装いでお祝いをすることを楽しみにしているそうだ。
     橋本先生の生き方は、昭和や平成生まれの私たちに、日々生かされているという“奇跡”と、好きなことを思い切りやる楽しさ、遊ぶ感覚で学んでいくことなどを教えてくれた。

    -最後に、橋本先生からのメッセージを。-
    「私の信条は、『高く、広く、明るく』です。
    目標を高く、視野を広く、生活は明るく暮らしていきたいと思っています。私は好きなことをがむしゃらにやってきました。皆さんも自分がいいと思うやり方を見つけて、それを迷いなくやり遂げていってほしい。自分がこうだと思うものを見つけて進めてほしい。誰かのマネをする必要もないし、逆にいいなと思えばマネをしてもいい。とにかく自分がやりたいことをやる、ということが大切。自分が好きなこと、やりたいことをどんどんやりなさい」

     

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    不適切投稿:早大生、伏見稲荷大社で全裸 大学がおわび

    2013年09月12日 11時17分18秒 | 受験・学校

    毎日新聞 2013年09月11日 18時40分(最終更新 09月11日 18時48分) 『早稲田大人間科学部は11日、同学部3年の男子学生が短文投稿サイト「ツイッター」に全裸姿の画像など不適切な投稿や書き込みをしたとして、ホームページにおわび文を掲載した 大学によると、男子学生は昨年秋以降、京都市伏見区の「伏見稲荷(いなり)大社」境内の千本鳥居で、全裸になった自分の画像を投稿したほか、海で無断でイセエビを捕獲したり、果樹園からブドウを盗んで食べたりしたことなどを写真入りで書き込んだ。不適切な行為の投稿は10件近くあったという。プロフィルには氏名や大学名も書いていた。 今月8日夜に知った大学が学生に聞き取り調査をしたところ、事実関係を認め、「フォロワー(読者)を笑わせようとした。愚かな行為だった」と反省しているという。大学広報課は「迷惑をおかけした方におわびしたうえで厳正に処分する」としている。』

    早稲田大学の人間科学部で、何を学んでいいるのでしょうか。人間科学部での学びにおける根源の問いは、「人間とは何か」の筈 です。京都市伏見区「伏見稲荷(いなり)大社」境内の千本鳥居で、全裸になった自分の画像を投稿したほか、海で無断で伊勢を捕獲したり、果樹園からブドウを盗んで食べたりしたことなどを思慮分別の有る天下の早稲田マンのすることですか。自分のした行為に対して、責任を持つべきです。体は大人でも社会的常識の無い、幼児のような頭の大学生です。自分を世間に認められたいと言う心の願望意識の現われと思いますが間違った行動です。日本は、法治国家です。なぜ大の大人がこのようなことをるのか、善・悪の判断の出来ない大学生が、大学で学ぶ資格が有りますか。早稲田大学教旨の『進取の精神や学の独立の教え』を忘れ学問研究の真理を探求しないのなら、大学生として大学で学ぶ価値はありません。短文投稿サイト「ツイッター」を社会や世の中の為に役立つように活用すべきです。

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