石塔坂の宝篋印塔(せきとうざかのほうきょういんとう)は246のそばにあります。
広報によると、宝篋印塔とは、経文を納めておく供養塔です。
恩田に住んでいた、糟屋(かすや)清印という武士が供養の目的で元亀4年(1573年)に造立したもので、中世の石造物で完全な形で現存する貴重なものです。2基が墓地の中で保存されています。坂の名前もこの塔にちなんで、石塔坂と呼ばれています。この坂は246の反対側に続いており、大きく曲がりながら下り、田奈駅前から続く県道川崎・町田線に接続しています。この道をさらに進むと神鳥前川神社があります。ちなみに1573年は信長が将軍義昭(ヨシアキ)を追放し室町幕府が滅亡と年表にはあります。
さて昨日に続き青葉区の歴史について、戦後この一帯は、昭和30年代後半の高度経済成長期を迎えるまで、その周辺は静かな農村地帯でした。
昭和41年の田園都市線の開通を機に、急激な人口増加が始まり、昭和44年には緑区が誕生しましたが、当時の青葉区域の人口は5万人程度でした。
その後も、大規模な宅地開発がすすみ、昭和61年には緑区役所北部支所が開設され、平成6年11月6日には青葉区が誕生しました。
新しく誕生した青葉区は横浜市の北西部に位置し、東は都筑区、西と北は町田市・川崎市、南は緑区に接しています。市内18区中では、面積で第2位、人口で第2位の大きな区です。
区域の約6割が区画整理によって計画的に開発されており、街路樹や公園などが数多く見られる木々に囲まれた美しい街並みが特徴となっています。一方、鶴見川上流の谷本川や恩田川沿いに広がる田園風景、寺家ふるさと村やこどもの国周辺の山林などの豊かな自然も残されています。
また、年少人口と20代後半から30代の構成比が横浜市の平均より高く、市内でも有数の若い区といえます。
ちなみに我が家の表札はまだ緑区です。
広報によると、宝篋印塔とは、経文を納めておく供養塔です。
恩田に住んでいた、糟屋(かすや)清印という武士が供養の目的で元亀4年(1573年)に造立したもので、中世の石造物で完全な形で現存する貴重なものです。2基が墓地の中で保存されています。坂の名前もこの塔にちなんで、石塔坂と呼ばれています。この坂は246の反対側に続いており、大きく曲がりながら下り、田奈駅前から続く県道川崎・町田線に接続しています。この道をさらに進むと神鳥前川神社があります。ちなみに1573年は信長が将軍義昭(ヨシアキ)を追放し室町幕府が滅亡と年表にはあります。
さて昨日に続き青葉区の歴史について、戦後この一帯は、昭和30年代後半の高度経済成長期を迎えるまで、その周辺は静かな農村地帯でした。
昭和41年の田園都市線の開通を機に、急激な人口増加が始まり、昭和44年には緑区が誕生しましたが、当時の青葉区域の人口は5万人程度でした。
その後も、大規模な宅地開発がすすみ、昭和61年には緑区役所北部支所が開設され、平成6年11月6日には青葉区が誕生しました。
新しく誕生した青葉区は横浜市の北西部に位置し、東は都筑区、西と北は町田市・川崎市、南は緑区に接しています。市内18区中では、面積で第2位、人口で第2位の大きな区です。
区域の約6割が区画整理によって計画的に開発されており、街路樹や公園などが数多く見られる木々に囲まれた美しい街並みが特徴となっています。一方、鶴見川上流の谷本川や恩田川沿いに広がる田園風景、寺家ふるさと村やこどもの国周辺の山林などの豊かな自然も残されています。
また、年少人口と20代後半から30代の構成比が横浜市の平均より高く、市内でも有数の若い区といえます。
ちなみに我が家の表札はまだ緑区です。