先日青葉区の歴史について勉強してきたことを少し書きましたが、私の家の近くにも歴史的なものがありますので掲載します。
一つは椎の木地蔵尊です。椎の木地蔵尊は田奈小学校の裏山にあり、石段の前の道は1333年新田義貞軍が北条氏征討の際にとおり、江戸時代も交通の要所だったと伝えられています。お堂の中にある小石を借りて、朝夕願いをこめながら、体の具合の悪い所や傷の上をさすると、なおるという言い伝えがあり、ご利益を受けた人が奉納した地蔵がたくさん置かれています。開基はわかりませんが、お堂の裏に立つ樹齢500年を超えるスダジイの古木(市の名木古木指定)が歴史を物語っています。「広報、青葉区再発見より」
参考に青葉区の歴史について広報から見ると、次のように書かれています。
青葉区は、多くの遺跡が発掘され、ほとんどが宅地化されたとはいえ、歴史の古さを物語っています。板碑(いたび)をはじめとし、中世の石造物も数多く残っていることから、独自の勢力を確保し生活していた武士の存在がうかがわれます。実際、鎌倉幕府の日記である「吾妻鏡」(あずまかがみ)の中に登場する御家人の名には、現在の地名と一致する鴨志田氏・江田氏・奈良氏などが書かれています。
奈良時代には東海道、鎌倉時代には鎌倉道、江戸時代には大山街道が通り、さまざまな文化の影響を受けました。 東海道は、今の国道246号あたりを通っていたといわれています。鎌倉道は6説あり、確定できません。また、大山街道は、東海道の脇街道として利用されただけでなく、相模地方の産物を江戸に運ぶ、輸送路でもありました。夏になると、富士登山や大山詣りの人たちでにぎわいました。荏田周辺に当時の面影を残しています。
戦後については次回に掲載します。
尚、写真は青葉のころです。
一つは椎の木地蔵尊です。椎の木地蔵尊は田奈小学校の裏山にあり、石段の前の道は1333年新田義貞軍が北条氏征討の際にとおり、江戸時代も交通の要所だったと伝えられています。お堂の中にある小石を借りて、朝夕願いをこめながら、体の具合の悪い所や傷の上をさすると、なおるという言い伝えがあり、ご利益を受けた人が奉納した地蔵がたくさん置かれています。開基はわかりませんが、お堂の裏に立つ樹齢500年を超えるスダジイの古木(市の名木古木指定)が歴史を物語っています。「広報、青葉区再発見より」
参考に青葉区の歴史について広報から見ると、次のように書かれています。
青葉区は、多くの遺跡が発掘され、ほとんどが宅地化されたとはいえ、歴史の古さを物語っています。板碑(いたび)をはじめとし、中世の石造物も数多く残っていることから、独自の勢力を確保し生活していた武士の存在がうかがわれます。実際、鎌倉幕府の日記である「吾妻鏡」(あずまかがみ)の中に登場する御家人の名には、現在の地名と一致する鴨志田氏・江田氏・奈良氏などが書かれています。
奈良時代には東海道、鎌倉時代には鎌倉道、江戸時代には大山街道が通り、さまざまな文化の影響を受けました。 東海道は、今の国道246号あたりを通っていたといわれています。鎌倉道は6説あり、確定できません。また、大山街道は、東海道の脇街道として利用されただけでなく、相模地方の産物を江戸に運ぶ、輸送路でもありました。夏になると、富士登山や大山詣りの人たちでにぎわいました。荏田周辺に当時の面影を残しています。
戦後については次回に掲載します。
尚、写真は青葉のころです。