■「愛のあしあと/Les Bien-Aimes」(2011年・フランス=イギリス=チェコ)
監督=クリストフ・オノレ
主演=カトリーヌ・ドヌーブ キアラ・マストロヤンニ リュディヴィーヌ・サニエ
WOWOWの番組「W座からの招待」が、日本未公開作を地方のミニシアターで無料上映する企画「旅するW座」。わが街北九州で開催されたので金曜日の夜、行ってきた。単館系のヨーロッパ映画が北九州の映画館にかかるのは少ないので貴重な機会。おフランス映画好きな僕としては見逃せない。
ひとくちに言ってしまえば、主人公マドレーヌとその娘ヴェラの親子二代に渡る愛と性をめぐる物語。映画はフランス・ギャル?あたりのポップスとともに軽やかに始まる。靴屋の店員をしていた主人公マドレーヌ(リュディヴィーヌ・サニエ)はこっそり売春のアルバイトを始める。彼女が壁にもたれて立っている素敵な構図。それはジャン・リュック・ゴダールの「女と男のいる舗道」を思わせる。髪型もアンナ・カリーナを思わせるじゃない。やがて彼女は客として知り合ったチェコ出身の医師ヤミロフと愛し合うようになる。結婚して一時はプラハに住んだが、ソ連軍の介入、夫の浮気から子供を連れてパリに戻ってくることになる。マドレーヌはその後再婚したが、ヤミロフとの関係は続いた。再び一緒に暮らすことを口にするヤミロフに、彼女は再び体を重ねてしまう。しかし残される二人。ここまでの前半は、奔放なマドレーヌの印象から軽い映画の印象を受けたが最後はやや重い幕切れで前半が終わる。
後半はキャストが変わり、美しく成長した娘ヴェラ(キアラ・マストロヤンニ)と母親(カトリーヌ・ドヌーヴ)。ヴェラが旅行先のロンドンのクラブで踊る場面から始まる。彼女はそこでドラムを演奏していた男性(ポール・シュナイダー)に心惹かれる。彼の家で楽しく過ごした後、彼にゲイだと告げられ、ショックを受ける。しかしお互い近づきたい気持ちは変わらず、ヴェラはつきあっていた彼氏のいる前で彼と抱き合う。その後も彼を忘れられないヴェラ。一方で母マドレーヌとヤミロフとの関係は、年をとった今でも続いていた。突然家に押しかけて現在の夫にマドレーヌと別れろと迫ったり、マドレーヌとパリで密会をしたり。ところがヤミロフはふとした事故が原因で亡くなってしまう。そして、ヴェラはゲイの彼の子供を産みたいと告白するが・・・。
貞操観念という感覚がないの?と思えるくらいのマドレーヌの行動。この映画が日本未公開なのもわかる気がする。アジア人的な貞操観念からすれば「ありえねー」とも思えるのだけれど、"浮気癖"という言葉が、マドレーヌが二人の男性に抱いていた気持ちを表現できているとは思えない。かつて見た「倦怠」というフランス映画で二人の男性の間で揺れるヒロインが、あっけらかんと言い放った一言が頭をよぎった。それは「感じのいい人だから寝ただけ。二人とも仲良くなればいいのに。」・・・マドレーヌはこそこそ元夫と会っていた訳で「倦怠」のヒロインみたいな尻軽ではない。遠慮もあれば罪悪感だってあっただろう。でも二人との関係を保っていきたいという気持ちだけは共通のもの。一方、娘ヴェラはゲイの男性の子供を宿したい。映画のクライマックス、3人の男女が交わる性愛シーン。同様な3人が登場する青春映画「スリーサム」を思い出す(ララ・フリン・ボイルがきれいだった)。ヴェラはその直後に致死量のクスリを服用して死んでしまう。その行動についての説明はなにも語られない。前半の軽いタッチから、落差の大きな結末。僕ら観客はエンドクレジットが流れる暗闇に、「どうして」という気持ちを抱えたまま放り出される。その喪失感に浸りながら、その人の気持ちなんて誰にもわからない。これも愛のひとつのかたちなのだ、とそのまま受け止めるだけ。
ところどころミュージカル仕立てとなる演出が出てくるが、これは工夫だなと思った。「恋するシャンソン」の例もあるけれど、あれは既製曲の歌詞を台詞としてあてはめた面白さだった。本作では登場人物それぞれの心情を歌詞にのせて表現している。台詞では過剰な感情表現になったり、逆に台詞なしで観客に想像させ行間を読ませたりするのとは違って、観ている側には伝わりやすい(セザール賞では音楽賞にノミネートされている)。この歌があるから、登場人物たちの心情や考え方を銀幕のこちら側で受け止めてあげられたのだと思うのだ。決して楽しい映画ではないけれど、"愛することのどうしようもなさ"を感じることができる2時間。
愛することは甘いチョコレートの味わい。だけど、その裏側にはビターな味が隠れている。そのビターを感じさせてくれるのは、人間を見つめるフランス映画の懐の深さなんだろう。