自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

”阿吽の呼吸”の アウン とは?

2012年10月25日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

左右対称 VS 微妙なバランス感覚   10月25日(木曜日)                                                                              

   法隆寺   (法隆寺)        

 

 

阿吽の呼吸という言葉がある。

梵語(サンスクリット語)「a-hum」の音写といわれる。

ア と ウン の言葉は何を象徴しているのだろうか?

ア はどこの国でも、母音の最初の表記の音。

ウン は”アイウエオ”の母音・子音の最後にくる、ウン で、

終末を象徴する言葉といえる。 

だから、阿吽 というのは、最初から最後まで という意味合いで”

すべての全て”を意味している。 

 

法隆寺の中門に仁王様が  の口を広げ、ウン の口で口元を

結んだ姿で、二体左右に立っていらっしゃる。

この門をくぐる際、仁王像の表情から人は何かに気づかされる。 

日常生活の慌ただしさに追われる心を、門外に置いて、自らの仏性を

見つめながらご本尊に向かうということかもしれない。

仁王像の前に、五感に惑う心持ちをしばし預けて、無心になって、

本堂に向かうのだ。

 

さて、私達の息がぴったりあうことを ”阿吽の呼吸のように息があった”

と表現する。

仁王像が ”あ” と ”うん” という、聖音を発して、一つの意味合いを

完成させるように、呼吸のあった仕事は、最後まで上手く運ばれる。 

お互いの、息が合うから、”間合い” が整うのだ。

”間合い” が整えば、事がうまく運んでいきやすい。 

”間合い” とは、当たり前の生活を 順調に送るために、とても、

重要な要素であると私は思う。

 

”間合い” という言葉は、英語では timing とでも訳すのだろうが、

これにぴったり当てはまる

言葉を外国語で探すのは難しい。 

なぜなら、”間合い” こそ、日本文化の特性だからだ。

日本語で曖昧な表現の一つに、”善処します” がある。 


私自身、通訳をしたとき、この言葉は’OK’ という意味で

使われている’のか、

難しいが努力だけはしてみる’ということなのか、一瞬、

戸惑ったときがあった。


日本人同士の会話の中で、’善処します’ と 相手に神妙な顔で

言われれば、どりあえず、 その話題 は小休止だ。 

’本音と建前’ の’微妙な間合い’ を お互いにわかっているからだ。 

それ以上話しを進めては相手に逃げ場を失わせて、気まずい会話

になるということを、 阿吽の呼吸 で理解するのだ。

ところが、外国では、70%は、”善処します” と答えれば、 

"具体的に、どうするのか? いつ、それが実現するのか?

できるのか、できないのか? 

Yes or No? " と、突っ込んでこられることが多かった。


インドに長年住んでいたが、肯定・否定をはっきりさせ、かつ、

の理由づけもきちんと釈明することが、円滑なコミュニケーショ

暗黙の一つのルールだった。 

だからといっては何だが、日本に戻り 5年たった今でも、日常会話

の中での ”間合いの取り方”が、未だに下手な私だ。

 

日本文化では、この 阿吽の呼吸 は、、建築物や、芸術などにも、

生きている

例えば、タージマハールの巨大な左右対称の建築物が 彼らの究極の

美の表現であるのに対して、日本芸術では左右対称は、むしろ、野暮に

感じることがある。

左右対称より、微妙で絶妙なバランスが取れた、’間合い’ 不可欠だ。


間合い が重要であるということは、その間が均一であっては、

また、面白くないのである。

 

フランスのヴェルサイユ宮殿のような壮大な庭園も、左右対称である。 

ところが、 枯山水の庭などは、これとまったく異なる美の基準を持つ。

狭い空間の中に大自然の悠久さを表現すること、そして、石と石との、

阿吽の呼吸 で、美の完成度を高めている。 

実際の水が流れていなくても、海が有り、山はなくても、石を通して、

須弥山が見えてくる。

心の中の、肉体の感覚を超越した造形美、一つの石や岩が、宇宙普遍の

俯瞰図を 再現しているのだ。

 

音楽の”間合い”も 同様に大切である。 

お能に見られるリズム、それは鼓(つづみ)で拍子をとる。

鼓を打つ音と、奏者の′イよー’という、気合の声がタイミングをずらせて

入る。 ”よーお” と気合をかけ、”ポン” と鼓が打たれる。


そして、メロディー(笛)に合わせて、”よーお” ”ポン” の鼓の音が

軽快にリズミカルに打たれていく。独特な日本の間合いらしい、微妙な

調和感がそこにある。

日本でいうところの紫綬褒章を受賞した、デリー大学の芸術学部長であった、

デヴ・チョードリ氏が、日本で、お能の鼓みと一緒に、演奏されたことが

あった。 

デリーのご自宅で、そのヴィデオを 観せていただいた。 


”ところで、あの、太鼓(鼓)の拍子と掛け声は、どういう意味を

持つのか?” と、チョードリ氏は、私に、不思議そうに聞かれた。

特に、掛け声には、鼓と微妙にずれて発せられることで、拍子抜けした

感があったようだ。 

が、間合い をずらすことで、絶妙な調和とバランスを与える

効果を持たせるという、日本独特の ”阿吽の呼吸” 文化は、そうそう、

外国では類をみないかもしれない。

 

盛り花でも、生け花でも、左右の非対象化や高低の差で、アンバランス

の中の調和を表現する。

このような、美的センスは、世界で特有のものだと思う。

 

さて、 という言霊は、仏教(真言宗)では、大師さま(弘法大師)

インドから 持ってこられたということになっている。

」という 梵字は、万物の不生不滅の原理の意味だとされ、真言宗で、

阿字観 という瞑想修行がある。


サンスクリット語の あ字 を見つめながら ”空である実相” に

集中して、万物との一体を味わうという 瞑想である。

阿字観を鍛錬することで、集中力が増し、頭脳が覚醒するといわれる。 

頭脳の覚醒で何にめざめるというのだろうか

それは、”封印されていた、人間の本来の無限の力に目覚めるという” 

目的につきる。

  

ヒンズー教(バラモン教/仏教の前身)では、”aum" が聖音である。

中国を経て、仏教の御経がつたわって、”南無阿弥陀仏”、”南無妙法蓮華経

というお題目が唱えられるようになった。

この”南無”はもともと、梵語の"aum" の漢音の当て字である 。

な~む” と発音すると、この中に、梵語の聖音”N~aum” がきちんと

発音されているのだ。 

いずれも、a 文字から始まっている。


私が知る限りでは、この 阿(あ) の言霊はインドサンスクリット語

以外の言語においても、深い意味があった。

たとえば、キリスト教で、”amen" 、回教で”amin" 、さらに、古代神道の、

秀真文字(ほつまもじ)では、図形の丸に中心点 をいれて ”” と読み、

この ”〇に中心点をいれた、”あ”文字から、秀真文字は始まる。

 

実は、神道(大本教など)(*1)で、”〇に中心点をいれた秀真文字

のアの音”は、以下のような意味を持っている。

天地創造” ”日” ”喜びの元にある心”(き=嬉の印)”元ツ神”(天地創造神) 


円の真ん中の 点印は、万物のもっとも、空、なる実態”、

”〇は終わりなき終わり、点は、始めなき始めの象徴” ”宇宙のすべて”の

意味合いを持つ。

 

あ音に話を戻すと・・。 

人は”agyo~" と一声を出して生まれる。

ひっくり返され、背中をたたかれると、必ず、子宮内で飲んでいた

羊水が口から出て あぎゃー”と地上で初めての声をあげる。 


”あ”音が、人生、生まれて初めての、第一声である。

そして、最後の発する、ヒトの音は”うん”である。

実際、私の父の死期にたちあった際、最後、父の口から出た発生音

う~ん” という 唸り声だった。唸って唸って、こときれた。 

うん はまさに、人生最後の音だった。

 

阿吽(あうん)の呼吸 と普段、何気なく、使っているこの言葉に、

こうした想いをはせると、妙に深みと重みと深い意味合いを感じる。

 

 

 *1~岡本天明氏著’ひふみ神示”2011年2月10日太陽出版

            

 

                   

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