傲慢を捨て、始まる内なる旅 平成25年6月25日
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著者はしがきから
わたしは1894年に極東を訪れた11人の調査団の一員であった。
3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。
大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるのを実際に
見るために、大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許して
くれた。
前回の内容の中で、エミール師が隊員たちを先に送り出して、
5日もかかるほどの目的地で、”自分は あなたたちをお待ち
してよう”~と約束したことをお話しした。
そして、半信半疑な団員達の前に、時間と空間を超越かのよう
にして、目的地に着くことができるということを 実際
エミール大師は自ら示した。
つまり、約束通り、隊員たちが到着するのを出迎えたという
場面があった。
エミール師とともに、一人の隊員が、後出発のメンバーとして、
その村に残り、エミール師の言葉の真偽を観察するために師と
ともに 前の宿所にとどまっていた。
彼はその(エミール師観察)任務を終えて、主軸の隊員たちに
寄宿所に数日かけて追いついた。
“前記の村に残してあった隊員も一緒になった。彼の報告によると、
エミール師が 私たちとの約束を履行する予定の日の午後4時ごろ
まで、彼は師と話していたが、4時になると、これから 約束を
実行しようと言ったかと思うと、師の身体が動かなくなり、やがて、
寝椅子の上に まるで寝たような恰好で休息した。
夜の7時ごろまでそういう状態が続き、7時ごろには次第に姿が
かすんできて、しまいに消えてしまった~というのである。
ちょうどその時刻に師は私たちの宿所に姿を現したのである“(58)
と 観測隊の一員であった著者は書いている。
こうして、全員そろった段階で一行は大師を含めて 沈黙の廟
と呼ばれる場所へ行く。
そこに到着するとエミール師は次のように語った。
“これは、沈黙の廟‘ 力の場’ と呼ばれています。
沈黙は力である。私たちが心の中にある 沈黙の場に達した
とき、私たちは力の場~そこではすべての一つの力である~
すなわち、神に達するのです。
集中された力は、神である。黙せよ、しかして、自らの神なる
ことを知れ’とある通りです。
散乱した力は騒音となり、集中した力は沈黙’となります。
沈黙の中において、神につながるのです。神と一つになるのです。
私たちは、集中によって、すべての力と一つになるのです。
これは人間が神より受け継いだ遺産であります。
‘我と神とは一つである’神の力と一つになるとは、ただ、
一つの道があるだけです。
それは 神と意識的につながることです。
それは、我の外で為しうるものではない。
なぜなら、神は我が内から 現れるものであるからです。
‘種はその聖なる宮に居ます。全地よ、主の御前に沈黙せよ’です。
我が外より 我が内なる しじま に向かったとき、
我は神との意識的な融合を望み得るのです。
神は 人間に活用されるためにあるのであり、人間は
常に神を活用するようになることを、いつかは悟るときが
来るでしょう。
その時、人間が 神の力と 一つであることを悟るであり
ましょう。
また、その時初めて、人間というものが本当に良く理解
されるでしょう。
そして、これまで、実相を欺き、くらましてきたものや
虚栄を人は、放下するようになるでしょう。
自我 というものがどんなに 無智で小さいものであるかが
分るでしょう。
その時 初めて真理を深く学ぶ心構えが できたことになる
のです。
増上慢の者には学ぶことができず、謙譲な者のみが 真理を
学びとることがわかるでしょう。
そのような人の足は堅固な砦にたち、もはや躓くことも無く、
心定まりて平安となるでありましょう。
始めのうちは、神が唯一の力であり、実質であり、智慧で
あることがわかると混乱をきたすかもわからない。
しかし、神の本質を悟り、神を活発に表現するようになれば、
人間は 常時 神の力を使用するようになるのです。
食事をしても、駆け足をしても、息をしても、さらにはまた
生涯をかけての大仕事をするにしても、その他、常時、意識して、
神の力に触れていることを知るでしょう。
人間は今日までのところ、これまでしていたよりも、もっと、
偉大なる神の愛を成し得ることを 学び取っていない。
それは 神の力の偉大さを知らず、神の力は、人間が使用する
ためにあるということを知らないからです。
神は、私たちが大声で空しき、繰り言(refrain)を言った
ところで、また、くどくどと多く語ったからとて、私たちに
聞き給うことはない。
私どもは、我が内なるキリスト(*1)、我が内なるつながり
を通して、神を求めなければならないのです。
内なる父が霊と真理とにおいて、求められる時、神は神
(*2)に対して、真摯に魂の扉を開くものの叫びを聞き給うのです。
父なる神と密かにつながるものこそ、すべての望みを成就する
力が、身内を貫流するのを感じるでしょう。
その魂の扉を神に向けて 自分の魂の奥殿に父なる神を求め
他に迷うことなく そこに住み続けるものに、神は公に報いた
まうのです。”
*1)で大師はイエスキリストの言葉や言行を、例に挙げて、
隊員達に説明を続ける。
彼らは アメリカ人たちであり、宗教に壁はないものの、
その背景から、彼らの一番理解しやすい、母国語(英語)で、
彼らが、信仰する、キリストの言葉を例にとって、説明したの
だろう。
ここではキリストを ”わが内なる繋がり(神との)”
という意味合いで大師は、使っている。
言い換えれば、師の ここで、言うところの、キリストは、
肉体としての キリスト個人意識ではなく、”大我の意識” や
真我とのつながりの絆の意識を、内在する”キリスト意識”
と呼んでいる。
*2)で” 神が神に” とあるが、前者の神は 我々が普通に神
として、あがめる対象を射しているのだろう。
後者の神は、わが内なる、神、この 肉体の中に 心の中に宿り
給う 内なる神 を指している。
われわれの本質が 神 と等しきものである ということを、
大師はここで強調している。
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参考)
ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻
S54年6月5日第五版
ベアード・T・スポールディング著 仲里誠吉訳 霞が関書房
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