![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/b9/31c0b7be9e56163dfccd7144ff6cf221.jpg)
ひふみ神示 第17巻 第5帖より 平成25年7月17日
***************************************
以下の天明の自動書記された神示を読んでみると、
内容が、エミール大師やエディー夫人の語る真実の
認識に共通している点がある。
その部分をあえて、棒線(アンダーライン)をひいて
みたので読者の方も、そこの含蓄を、今までの
大師達のブログの話と重ね合わせて読んでいただ
ければと、思う。
全宇宙は神の外にあるのではなく、
神の中に神に抱かれて育てられているのである。
ゆえに 宇宙そのものが、神と同じ性(質)をもち、
同じ質をもち神そのものの顕れの一部である。
過去も、現在も 未来も一切が呼吸する現在の中
に存し、生前も死後の世界もまた 神の中にあり
地上人としては、地上人の中に、霊界人にありて
は、霊界人の中に存在し呼吸し生長している。
ゆえに、その全体は常に雑多なるものの集合に
よって、成っている。
部分部分が雑多なるがゆえに、全体は存在し、
力し、弥栄し、変化する。
ゆえに歓喜が生ずる。
本質的には、善と真とは 有であり、悪と偽とは
影である。
ゆえに、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。
影なるがゆえに、悪は善に、偽は真に働き得ない。
悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。
悪はすべてを自ら造り得、生み得るものと信じて
いる。善は すべてが、神から流れ来たり、自ら
は何物も、造りえぬものと信じている。
ゆえに、悪には本来の力なく、影にすぎない。
善は無限の力を受けるがゆえに、ますます弥栄
する。
生前の世界は有なるがゆえに、善であり、
死後の世界も同様である。
生前の自分の行為が 地上人たる自分に結果して
来ている。生前の行為が審判され、報いられて
いるのはあるが、それは悪因縁的には顕れない。
そこに、神の大いなる愛の顕れがあり、喜びが
ある。悪因縁が悪として、また、善因縁は善と
して、生後の地上人に現れるのではない。
なぜならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、
大歓喜の顕れなるが故である。
地上人的に制限されたる、感覚の範囲においては、
悪と感覚し、偽と感覚し得る結果をきたす場合
もあるが、それはいずれも、弥栄である。
[須田注: この行では、悪と思われるものも、
結局栄の発露の一端として、生かされていくと
いうことだろう)
これを死後の生活にうつされた場合もまた、同様
であって そこには地獄的なものはありえない。
川上で濁しても、川下では澄んでいると同様である。
要するに、生前には地ごくがなく、生後にも、
死後にもまた地獄はないのである。
しかし、天国や極楽があると、思念することは
すでに無き地獄を自ら造りだし、生みだす要因
である。
本来なきものを造りだし、一を二にわける。
だが、分けることによって、力を生み弥栄する。
地獄なきところに天国はない。
天国を思念する処に地獄を生ずるのである。
善を思念するがゆえに、悪を生み出すのである。
・・・略・・・
これらのすべては〇である。
これらのすべては、無にして有である。
人の生後、即ち地上人の生活は、
生前の生活の延長であり、また、死後の生活に、
そのままにして進みいく、立体となり、立立体と
進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪
美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階
より二の段階へ、さらに産の段階へと弥栄浄化
する。
・・・略・・・
すべてはこれ湧き出る歓喜のみの世界なることを
知らねばならない。行為は結果である。思念は原因で
ある。
殴り書きのような書体、〇やそれを変形した古代文字の
ような書体、さらに、数字のみ書き連ねてそこから
判読する 難解な天明の神示。
*出典 ”ひふみ神示” 2011年 岡本天明著
太陽出版
*******************************************
岡本天明氏について
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます