老兵は去る~イエスの真意 平成25年7月2日
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*著者はしがきから
わたしは、1894年に極東を訪れた11人の
調査団の一員であった。
3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤの大師たちに接触した。
大師は私たちが 偉大なる法則の働きを実証されるのを
実際に見るために、大師がたの生活の中に親しく入り込む
ことを許してくれた。
私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの生活と教え”
と題して、発表するが、そこに盛られた内容をそのまま
受け入れるか、否認するかは、読者の自由である。
著者が語る:
“この村には 平癒の廟(へいゆのびょう)というのがあった。
建立以来、この廟の中では、ただ、生命、愛、平和 という言葉
のみが口にされてきて、それがきわめて強烈な波動となって、
蓄積され、廟を通り抜けるだけで、殆ど、すべての病気が
たちどころに癒されるというのである“
という 書き出だしから、この章のお話しは始まる。
一行が、河を渡って、たどり着いた所は、病をいやすための廟
で有名だった。
この付近には、エミール大師と同様、深い悟りを開いた、
大師たちがおられるという。
それらの大師たちは、或る期間を定めて、その時期に
指導や助けを求めてくる人たちのために この村に来られるという。
“わたしどもは、およそ、200人からなる 幾つもの集団を見たが
その中の癒しを求めた人たちが、みな、事実 癒されたのをこの目
で見たのである。”(97)
と著者は記す。
調査団に対して、エミール師がこう語る。
“ここから過去における、偶像崇拝への導火線となった、暗示が
生まれています。
当時、人々は、自分たちの理想化している姿を木や石、金、銀、
真鍮 に刻み込もうとしました。
大体、偶像というものは、理念を不完全にしか描けないものです。
姿あるいは、偶像は、できた途端に 理念には到底及ばないこと
に人は気づき、やがて、偶像ではなくて、愛こそ、仰ぎ見るべき
対象であること、偶像を刻んで理念の象徴とするよりも、心底より、
表現したい、と願うものを、自分の理念とすべきことが
知らされるのです。
次には、私どもの理念を表現する人間を理想化してしまい、
それが新しい形式の偶像になってしまいます。*1
しかし、私どもは 彼が表現する理念を 私どもの理想と
すべきであって、人間としての彼を 理想化するべきでは
ないのです。
このことは、イエスのような偉大な方にしても、また然りです。
イエスは 自分が現した理念ではなく、イエスのパーソナリティー
を大衆が理想化しつつあることを気がつかれたために、大衆の
もとから、去ることを選び給うたのです。
大衆は、イエスが彼らの形而下的欲求を満たせると知ったからこそ、
王につけようとしたのであって、自分たち自身にも、また、必要と
するものをすべて 満たす力が我が内にあり、それをイエスのように、
実現すべきと悟ったからではありません。
イエスは言い給うた。
‘私は去る方が良い。 私が去らなければ、慰め手は来たらないだろう’
それは、人々がイエスのパーソナリティーに頼る限り、彼ら自身の
力を遂に知らずに終わるという意味だったのです。
人間は内をこそ、わが内奥こそ、求めるべきであるからです。
‘あなたたちに教え、あるいは告げる者があろう。
しかし、あなたたち自身で業をなすべきである。
他に頼るならば理想ではなく、偶像を建てることになるだろう“
(96~98)
調査隊は、この平癒の廟で、マントラ(言霊を持つ言葉)の
ヴァイヴレーションの強力な力を知る。
“骨化症を患っている或る男が、廟に運び込まれるやいなや、
完全に癒されたのを見たことがある。
一時間後に、完全に回復して歩いて帰ったが、その男は後で
私たち一行のために4か月も働いてくれたものである。
無くなっていた、片手の指が完全に生えた男もいるし、
手足が萎え、身体が歪になっていた少年で、瞬間的に癒され、
歩いて廟から出て行った者もいる。“(99)
癒される人たちばかりではなかったようだ。
“何の功徳にもあずからなかった人たちもいた。
そういう人たちの中には、ただの好奇心に駆られての者や、
不信の輩も交じっていた…略…“(97)
こうして、癒された人に、再発の危惧を聞いた調査隊員がいた。
答えはこうだった。
“再発することがあれば、それは、本人に本当の霊的理解が欠けて
いるから”ということだった。
この廟で、エミール師が隊員たちに一番伝えたかった言葉、それは、
“自分自身にもまた、必要とするすべてをみたす、機能(力)が
我が内にあり、それをイエスのように、表現すべきである”
ということだったのだろう。
癒しの廟で、病が癒されるのは、神癒のように見えるが、
その実、本人の心の深い所と本質が “必ずここで癒される”
という信念の波動に協調して、 顕現したからに違いない。
特別な力は、外から求めてくるのでなくて、すでに、自分の内側
にあるということ。
自分自身でそれを、“そんなことがあるはずはない”と自己限定
しているから、その力の自覚が持てず、力を発揮できないだけだと、
エミール師は力説する。
参考)
ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻
S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著
仲里誠吉訳 霞が関書房
Copyright : NPO Spontaneous Healing Therapy Japan: All Rights Reserved.
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