自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

日本人の心に響く風情

2013年06月09日 | 廻りまわって”心の浄化”につながるかも・・・

郷愁を誘う絵 平成25年6月9日

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5月から掲載してきた”反響のあった記事シリーズ”は今日でおしまいです。

最後に 比較的 リピートの多かった、このミレーの絵について、

半年前のブログに再度登場してもらいます。

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10月29日(月曜日) 

ミレの”晩鐘” は、あまりにも有名だ。

1875年にミレが死去したき、この絵はまだ、世の中であまり、

評価されてはいなかった。

ミレが、40歳ぐらいの時に描いたこの絵に、彼は、自ら、希望価格をつけた。

2千フランだった。 

この絵は現在どのくらいの価値があるのか知らない。 

おそらく億単位だろう。

ミレの謙虚な希望価格にも フランスでの買い手はつかず、

ベルギーの男爵が、引き取った。

 

この絵の価値が評価されてきたのは、ミレーの死後14年目といわれる。 

この時、オークションにかけられ、フランス政府とアメリカ人との

競り(せり)合いになった。

結局、アメリカ人のつけた価格で落とされ、この絵はアメリカへと渡る。 

そして、皮肉なことにアメリカでの入国時の関税が高くて、支払が難しくなり、

再び、フランスに送り返されて来たという、いきさつがある。

 

 ミレーの代表作は、このほかにも、

”落穂ひろい(1857年)”、

”種まく人(1850年)”、

”晩鐘(1857~1859年)”、

”古い塀(1862年ごろ)”がある。

このうち、”種まく人” と ”古い塀” は 日本の山梨美術館に陳列されている。 

さらに、興味深いことには、”古い塀” は 山梨県が 1億8732万円で

購入したという事実だ。

日本人が、ミレーの作品を、こよなく愛してきたことは、この事実でもよくわかる。

岩波書店 の シンボルマークに、”種をまく人” が使われていることを

ご存知の方も多いと思う。

私たちが先祖より引き継いでいる農耕民族の血の中で、ミレーの描く、

土の香りと 農民たちの勤勉な生活、安寧に満ちた心の描写が、

私たちの、共感を呼んだに違いない。

 

この絵のテーマは実にシンプルで、ストレートに伝わってくる。

農夫、農婦、が静かに頭(こうべ)を垂れて、祈りを捧げている。

後ろに描かれている塔は、教会の塔だ。

アンジェラスの鐘が聞こえているに違いない。

アンジェラスの鐘とは、

カトリックの寺院が、明け方、昼、黄昏時に鳴らす鐘の音。 

今、黄昏時だ。 

仕事を一段落させ家路に向かう前のひととき、仕事を無事に終え、

今日も一日生かされていることへの 感謝の心が 静かに伝わってくる。 

 

ミレー自身、農夫の子として生まれた。 

当時のフランスの画壇の特徴は、花の絵や神話を題材にしたものが好まれた。 

女性の裸体も好まれ、ミレーは生活のためにこれらの絵を、

描いたことがあるようだが、決して芸術的に彼の名前を

高めるまでには至らなかった。  

”自分独自の絵” を志したミレーは、”農夫たちの当たり前の生活” を、

モチーフとして選んだ。

こうして描かれた ”晩鐘” の絵、地味でやや薄暗い色調のキャンバスに描かれた

二人の農夫たちは、しかし、なかなか評価されなかった。

農夫の絵を、農耕の様子を、当たり前の田園風景を、しかも、

地味な トーンで描いた絵は、誰の目にもすぐ止まるものではなかったのだろう。 

当時の、変哲のない、当たり前すぎる光景だったに違いない。

 

今、私たちの生活の中にも同様のことが言える・・・

のではないかと、ミレーの絵を観ながらそう思った。

 

当たり前の、ありきたりの情景と無感動に過ぎ去る時間。 

朝起きて、”雨だ・晴れだ”と まず、今日の天気を気にかけるだろう。 

主婦は洗濯、夫や子供は帰りの雨用具の心配、

朝日の神々しさにも気が付かず、

道端の季節の花に目をやる余裕もなく、急ぎ早に 職場や学校へ向かう。

通勤・通学電車の中では、ぐったりしながら、座っていても、

何となく下を向いて目をつぶり、前に老人が立っていても無関心。

帰宅。 もくもくと、夕食食べて、風呂に入り、ビールの一杯で癒され、

子供の寝息で ホット自分の時間に憩う。

”腰が痛い”、”ここが不調だ”、”給料が安い”、”不当な扱いをされた”、

”子供が言うことを聞かない”、”進学に頭が痛い”

などなど・・・寝付く前にもいろいろな想いが押し寄せる。

楽しみ、悲しみ、泣いたり、笑ったり、腹をたてたり、たたされたり、

イライラしたり、ホットしたり、ロマンティックになったり、

ドライに割り切ったり・・・ 

休日は、当たり前でありきたりの日常生活に、どこか刺激を得ることと、

退屈さを紛らわすことを考える。 

時には、久しぶりに懐かしい友人たちと語り合い、飲みあい、

時には、家族同士で水入らずの旅行を楽しみ、

時には、リクリエーションやスポーツで、体を動かし

時には、ぶらり、気の向くまま自然の中で過ごしたり、

こうした気晴らしと刺激で 自分をリフレッシュさせて

再び、同じテンポの 当たり前の生活に戻っていく。

ああ、人生、良きかな、楽しきかな! 

 

ミレーは、きっと、この絵を描きながら、農夫たちの、当たり前すぎる

日常の一場面に、新鮮な感動を覚えていたに違いない。

感動がなければ、絵 は生まれない。 美 がなければ、絵にはならない。 

 

去年の東北の大震災の傷跡が癒えることなく、日々を送っている方々が、

いまだに、大勢おられる。

震災の後、ただ一人、家族の中で生き残った女性が、泥の中から見つけた

家族写真をかかえて、佇んでいた姿を想いだす。

”今は、当たり前の生活、それが欲しいだけです” 

と口数少なく語った言葉に胸を打たれた。

 

人は贅沢な生き物である。 与えられてしまうとそれを失うまで、

その価値になかなか、気が付こうとしない。 

”喉元(のどもと)過ぎれば熱さ忘れる” である。

今、当たり前の生活が送れることほど、有り難いことはない

当たり前の生活とはなんなのだろうか? 

私は、今 自分が生きて与えられているものを感謝して受け止めることが

できる気持ちがあれば、それが当たり前の生活だと想う。 

何かがなければいけない、とか、幸せでないから当たり前でないというのは、

そういう条件づけをした時点で”当たり前の生活”を忘れている。

 

喉に火傷を負って、飲み物すら、喉を通らないときだけ、人は、喉の有り難さを想いだし、

癒えれば、また、食べ物の文句の一つ出てしまうのは、悲しい人間の性(さが)だ。 

 

ミレーの晩鐘の主人公は イモ畑を耕すだけの、名もない、貧しい、農夫たち。 

しかし、ミレーは、彼らの”当たり前の生活”の中の、”祈り” に、

”普遍な人間の尊い心情” を見出し感動を絵にした。

ミレーは、生存中、この絵が評価されて、大金を手に入れることができれば、

幸せだったのだろうか?

否、大金を手にできない彼だったからこそ、

謙虚な面持ちで 今与えられているわずかな、貴重な何かに、感謝できる ことを

知っていたのかもしれない。

本物の価値は、時を経て、初めて その代価を支払われるものだろう。

本物であるがゆえに、その時の世間的価値から、ずれていても、

その価値判断は、後世に譲らる。

そして、ミレーの絵は、普遍の価値を評価された。

 

天国でミレーはきっと、微笑んでいるに違いない。

この農夫の敬虔な祈りの心こそ、ミレーの心そのものであったのだろうから。

毎日の中の変哲のない光景に、価値を見出したミレーの絵心の底に、

据えられた確かな目線と感謝の心。

日常の当たり前の生活の中に

ひっそりと輝く、心の光 を しっかりと見据えたミレーは、

真の誇り高い人生を送った、先人の一人だと思う。

 

 

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