自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

正月のスピリチュアル的即興の和歌

2021年01月01日 | 協会ホームページ

あけまして おめでとうございます   2021年 1月1日

********************************************

新しき年の第一日目に、次々と心にわいてきた5・7・5・7・7・の言葉。

これは歌? 

目標は黙っているべきか、否か? ところが、よく読んでみると、

これは今年の目標の枠よりはみ出て、そもそも、この自然治癒力

セラピー協会を立ちあげた当初からの、スピリチュアルな指針でも

あったのだと気がつきました

 

① コロナ禍は 夢幻(ゆめまぼろし)よ  おのが(己が)内  

常に光は 満ち溢れるゆえ

② 神は人 人は神なり ほつまみち 今年も探らん 奥深くまで

③ 一人来て 一人で去るも その間は  一人で生きれぬ人の  

さが(業)かな

④ 執着を 捨てんと凝視! わが心内  それぞ執着! 天の喝(かつ)

 

少し言葉を付け足させてくださいね。

①のコロナ禍では、今も緊張が続いた状態が続いています。

私の知人も何人か外国人ですが、持病を持っていたため、若くして

コロナで命を奪われた人がいます。 

それなのに、この歌のように、コロナは、夢だとか、幻だとか書けば、

不快な思いをされるのは当然でしょう。 

コロナ禍だけでなく、災害事故など、人生の不幸と見える事象は、

しかし、魂の世界からみたら、夢と同じではないかというのが

この歌の真意です。

コロナで亡くなる人、交通事故など、不慮の事故で亡くなる方、が、先人
は言います :それらは、自ら、この世に生まれる前に予定して起きたこと。
肉体は灰と化しても、そこに居た、魂は、その人らしさを持ったまま、あの世
に移行していくのだ・・・”と。
私はそれを信じています。

芭蕉の読んだ、”夏草や つわもの(兵)どもが 夢の跡” や秀吉公

の辞世の歌の中の言葉のように、”夢のまた夢” と死の床から、人生

を振り返ってつぶやいた、”夢”のことであります。

 誰もが、嬉しく神々しく感じる元旦の御来光を感嘆できるのは、私たち自身が

光り輝く魂の実相を、知っているからだと思うのです。

 ②そう思うと、2番目の歌は 秀真伝え(ほつまつたえ)の中に出てくる 

”神は人、人は神なり”の言葉に続きます。

私たちは本当の奥底で繋がっている対象は 親神様なのです。 

神様はどの神様でもかまいません。

ただし、善なる創造主として 私たちの身体を一瞬ごとに生かして

くれる機能を司る力のことです。

キリスト教でもイスラム教でも、あるいは、神様の存在しない仏教が

説く、”中道”の”無我”の”空”の点でも、その心髄は、この”生かす神様”

です。

それらの神聖で誰もが手を合わせたくなる”存在”、こそ、人の本質だと、

”秀真伝え”では説きます。

そのような神様がたも、多元化して、人の姿を取って、この地球に

顕現して、プロデュース・演出をして、いろいろな人間模様を演じている

のかもしれません。

ヒンズー教では、神様の”リーラ”と”この世の展開”を呼びますが、

リーラとは、”神様の自作自演の劇”という意味です。

だから、人が死ぬという形で、人生劇のどん帳が下がると、そこには、

敵も味方もなく、愛憎劇のプロットは消えて、皆、役者として、

”お疲れ様”を掛け合う世界に自分がいることに気が付くといいます

この世の、”不幸”は見えているようで本当は、劇中劇で、本来は、真に、

存在するものではない、というのが、ヴェーダ思想にあります。

 ③ 死ぬときは一人、なにもモノは持っていけないし、生まれた時の

ように無一物の姿です。

でも、この世に生きている以上、一人では生きていられません。

誰かとのかかわりあいがあるから、生活ができていけます。 

コメの一粒も自分では作れないし、清浄な水の一滴でさえ、

自分一人ではどのようにして確保したらよいかわからない。 

だから、一人で生きれない以上、今、接している人たちを大切に、繫がりに

感謝して、生活していくことが大切だということを最近、痛感しています。

 が、なかなか、思うとおりに行かないこともあります。 

その原因がどうやら、執着らしい。そこで次の歌がでてきました。

 ④ 執着を棄てるためには自分の心の何かを是正しなければ、と、

瞑想にふけっていると、”オイ、コラ、本末転倒だぞ、それでは、余計 

執着しておるぞ。”と 心の奥底から響く声があり、喝を入れられたのです。 

”無い心”、この場合は”執着心”ですが、それが”何か何か?”と、

模索していても、始まらないというわけです。

つまり”無いもの”を握りしめて、いかにも在るように感じている

”錯覚”であり、それに固執することが、執着の始まりだというのです。

 ”無いものは無い”のに、執着するまいと思うほど、どうも、執着して

しまうのです。 

これは私にとってはとても難しいところです。 

無い、それも無い、これも無い、心も無い、執着も無い、無い、・・と

放していくということが大切、わかりました;

それならばと、今度は、”離す”ことに、力をいれれば、これが又、

執着の元になる~という。 

ウ~ン、本当に、難しいです。

でも、今がどうやら、本当の執着を離す、どうも、その時らしいのです。

 

以上

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 医学の異次元の進化への期待  | トップ | 若返りの極意 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

協会ホームページ」カテゴリの最新記事