あけまして おめでとうございます 2021年 1月1日
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新しき年の第一日目に、次々と心にわいてきた5・7・5・7・7・の言葉。
これは歌?
目標は黙っているべきか、否か? ところが、よく読んでみると、
これは今年の目標の枠よりはみ出て、そもそも、この自然治癒力
セラピー協会を立ちあげた当初からの、スピリチュアルな指針でも
あったのだと気がつきました。
① コロナ禍は 夢幻(ゆめまぼろし)よ おのが(己が)内
常に光は 満ち溢れるゆえ
② 神は人 人は神なり ほつまみち 今年も探らん 奥深くまで
③ 一人来て 一人で去るも その間は 一人で生きれぬ人の
さが(業)かな
④ 執着を 捨てんと凝視! わが心内 それぞ執着! 天の喝(かつ)
少し言葉を付け足させてくださいね。
①のコロナ禍では、今も緊張が続いた状態が続いています。
私の知人も何人か外国人ですが、持病を持っていたため、若くして
コロナで命を奪われた人がいます。
それなのに、この歌のように、コロナは、夢だとか、幻だとか書けば、
不快な思いをされるのは当然でしょう。
コロナ禍だけでなく、災害事故など、人生の不幸と見える事象は、
しかし、魂の世界からみたら、夢と同じではないかというのが
この歌の真意です。
芭蕉の読んだ、”夏草や つわもの(兵)どもが 夢の跡” や秀吉公
の辞世の歌の中の言葉のように、”夢のまた夢” と死の床から、人生
を振り返ってつぶやいた、”夢”のことであります。
誰もが、嬉しく神々しく感じる元旦の御来光を感嘆できるのは、私たち自身が
②そう思うと、2番目の歌は 秀真伝え(ほつまつたえ)の中に出てくる
”神は人、人は神なり”の言葉に続きます。
私たちは本当の奥底で繋がっている対象は 親神様なのです。
神様はどの神様でもかまいません。
ただし、善なる創造主として 私たちの身体を一瞬ごとに生かして
くれる機能を司る力のことです。
キリスト教でもイスラム教でも、あるいは、神様の存在しない仏教が
説く、”中道”の”無我”の”空”の点でも、その心髄は、この”生かす神様”
それらの神聖で誰もが手を合わせたくなる”存在”、こそ、人の本質だと、
”秀真伝え”では説きます。
そのような神様がたも、多元化して、人の姿を取って、この地球に
顕現して、プロデュース・演出をして、いろいろな人間模様を演じている
ヒンズー教では、神様の”リーラ”と”この世の展開”を呼びますが、
リーラとは、”神様の自作自演の劇”という意味です。
だから、人が死ぬという形で、人生劇のどん帳が下がると、そこには、
敵も味方もなく、愛憎劇のプロットは消えて、皆、役者として、
”お疲れ様”を掛け合う世界に自分がいることに気が付くといいます。
この世の、”不幸”は見えているようで本当は、劇中劇で、本来は、真に、
存在するものではない、というのが、ヴェーダ思想にあります。
③ 死ぬときは一人、なにもモノは持っていけないし、生まれた時の
ように無一物の姿です。
でも、この世に生きている以上、一人では生きていられません。
誰かとのかかわりあいがあるから、生活ができていけます。
コメの一粒も自分では作れないし、清浄な水の一滴でさえ、
自分一人ではどのようにして確保したらよいかわからない。
だから、一人で生きれない以上、今、接している人たちを大切に、繫がりに
が、なかなか、思うとおりに行かないこともあります。
その原因がどうやら、執着らしい。そこで次の歌がでてきました。
④ 執着を棄てるためには自分の心の何かを是正しなければ、と、
瞑想にふけっていると、”オイ、コラ、本末転倒だぞ、それでは、余計
執着しておるぞ。”と 心の奥底から響く声があり、喝を入れられたのです。
”無い心”、この場合は”執着心”ですが、それが”何か何か?”と、
模索していても、始まらないというわけです。
つまり”無いもの”を握りしめて、いかにも在るように感じている
”錯覚”であり、それに固執することが、執着の始まりだというのです。
”無いものは無い”のに、執着するまいと思うほど、どうも、執着して
しまうのです。
これは私にとってはとても難しいところです。
無い、それも無い、これも無い、心も無い、執着も無い、無い、・・と
放していくということが大切、わかりました;
それならばと、今度は、”離す”ことに、力をいれれば、これが又、
執着の元になる~という。
ウ~ン、本当に、難しいです。
でも、今がどうやら、本当の執着を離す、どうも、その時らしいのです。
以上
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