我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
六 日
我等の死
(一)人の死するとは何であるか?云うまでもなくそれは霊魂と肉身との相(あい)離(はな)れる事である。しかしてそれはまた今まで愛していたこの世のすべての物に離れ去る事を意味する。
「人の死するや,何一つ携(たずさ)えゆく能(あた)わず」と聖霊(せいれい)も断言(だんげん)していられるが、実際その通り我等は小さな塵(ちり)一つをもあの世に携(たずさ)えてゆくことは出来ない。
全くの無一物(むいちぶつ)でこの世に来た如く、また全くの無一物でこの世から去ってゆかねばならぬ。永い間(あいだ)貯蓄(たくわ)えて来た多くの金銭も身の飾(かざ)りとして他人(ひと)眼(め)を驚かした美麗(びれい)な衣服も、肌身離さず愛玩(あいがん)した高価な宝石も、すべてはこの世に残してゆかねばならぬのである。
死後肉(にく)身(しん)は墓に入り,次第に腐敗(ふはい)し塵埃(ちりほこり)となり、霊魂(れいこん)は神の御前(みまえ)に出でて一生の間になした行いの審判(しんぱん)をうける。この時いやだからと云って他の人に代理をして貰(もら)う訳にはゆかない。
しかしてその終局はいやでも応でも天国か地獄、永遠の歓喜(よろこび)か永遠の悲歎(かなしみ)の一つに落ちつかねばならぬ。
しかも死は各自(めいめい)の人に対し、只一度しか来ない。それに失敗したならもう永劫(えいごう)に取り返しのつく時がないのである。のみならずその死は主も警告された通り「盗人(ぬすびと)の如く」来るのであって、われらはいつ、どこで、いかなる有様において死を迎えるか、唯(たれ)一人(ひとり)知らない。知っておいでになるのはひとり御父(おんちち)天主あるのみである。それは全く思いもかけぬ時に風の如く唐突(とうとつ)にやって来て、いかに、もがき逆(さか)らう人をも、恐るべき力であの世へ奪い去ってゆくのである。
それ故(ゆえ)われらはよく反省しなければならない。今の霊魂の状態で死ぬならば、自分は果(は)たして何れの永遠に落ちつくであろうか。
今、突然死が襲って来たとして、安心してそれを迎え得る用意が備(そな)わっているだろうか。
もし現在の状態では死にたくないと思うならば、どうして平気でそのまゝ月日を送っているのか。
なぜ一秒も早く痛悔(つうくわい)してその不満足な状態を去り、善(ぜん)終(しゅう)の準備をしようとせぬのであるか。
恐らく死は今晩訪(おとず)れて来るかも知れぬではないか。
(二)聖マリアがこの世を去られる時ほど、安楽(あんらく)な臨終(りんじゅう)はなかったであろう。
死ぬ時、多くの人々の心を苦しませるものも聖(せい)なる元后(げんこう)に対しては何の力もなかった。
まづ、この世のあらゆる物に離れ去ることは聖母にとって少しも惜しくなかった。そういう物は日頃からはかない過ぎ去るものとして毫(ごう)も執着(しゅうちゃく)してをられなかったからである。
叉マリアは良心の咎(とが)めを一向に御存知(ごぞんじ)なかった。一(いっ)生涯(しょうがい)熱心に天主に仕(つか)え、あるものは輝く美徳(びとく)ばかり、罪の汚(よご)れの更になき御身(おんみ)としてはそれも当然であったろう
彼女はそれ故(ゆえ)、永遠の不幸に陥(おちい)る心配などは夢にも知り給わぬ所であった。
のみならず、却(かえ)って片時(かたとき)も早く御子(おんこ)キリストと共にあることを望(のぞ)んで、天主への激(はげ)しい愛に身も心も焼け切れんばかりであらせられた。
こうゆう霊魂(れいこん)にとっては死は牢獄(ろうごく)よりの解放(かいほう)であり、懐(なつ)かしい故郷への帰還(きかん)である。
どうしてこれが喜び迎えずにおられよう。
われらも唯(ただ)一人(ひとり)安らかな臨終(りんじゅう)を望(のぞ)まぬ者はあるまい。しからば聖マリアや其の他の聖人の如く、よく死ぬ前にまずよく生(い)きなければならない、まことに死は生涯(しょうがい)の山彦(やまびこ)であるから生(せい)の一刻一刻を死の準備として有効に費(つい)やさなければならぬのである。
○ 善(ぜん)終(しゅう)に対し特に聖母の御助けを求める為「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
主イエズス・キリスト、主は「汝(なんじ)等(ら)警戒せよ、汝(なんじ)等(ら)は死の日、死の時を知らざればなり」と曰(のたま)いたる如くわれらは死の一度来ることのみを知って、その日、その時、その場所を知らざる者なれば、乞(こ)い願わくは、死の以前において悔悛(かいしゅん)の秘蹟(ひせき)により清められ、霊(れい)の糧(かて)、聖体(せいたい)の秘蹟(ひせき)により強められ、終油(しゅうゆ)の秘蹟(ひせき)と聖会(せいかい)の祈りにより慰(なぐさ)められつゝ、安全に息(いき)絶(た)ゆるを得(え)せしめ給え。アメン。、