アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖母月中の祈祷
我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
十 八 日
言葉を慎しむこと
(一)「人もし言葉によりて過(あやま)つことなくば、これ完全なる人なり」と聖ヤコボは申された。
舌を慎(つつし)まぬような人は真実(まこと)の徳があると云へない。また信心深いともいえないのである。
善徳(ぜんとく)の鑑(かがみ)である聖マリアは、それをよく御存知(ごぞんじ)であったので、幼い時からよく舌を慎まれた。三才の時よりエルザレムの聖(せい)殿(でん)に留(とど)まられ、人と交(まじ)わり給うことは稀(まれ)に,天主と語り給うことは甚だ多かった。
世間のことについて談話(はなし)しなければならぬ場合にも、マリアはいつも心を天主に献(ささ)げつつ慎み深く語られた。一日の大部分を沈黙(ちんもく)の内に過ごし、聖心(みこころ)には常に天主のことばかり考えていられた。
(二)その後,聖マリアはエルザレムの聖殿を去って世間に出られ、ナザレトの御家(おいえ)に帰られたが、そこにおいてもやはり言葉を慎まれることには変わりがなかった。
大天使ガブリエルが御告(おつ)げの為に現れた時も、聖マリアは決して他所(よそ)でつまらぬ世間話しや、他人の噂(うわさ)などをしていられた訳ではなかった。
却(かえ)って家に閉じこもって熱心に天主に祈祷(いのり)を献(ささ)げていられたのである。
聖書には聖母のことがごく僅かしか記(しる)されていない。
これは聖マリアが極めて僅かしか談(は)話(なし)をされなかった証拠(しょうこ)ではなかろうか。聖ルカも御母の事を「母はすべての事を心に納めいたりき」(ルカ 二、五一)と記(しる)している聖母は多くの人と話す者は、天主と語るのがむずかしいことをよく知っていられたのである。
一体人々が娯楽(なぐさみ)に語り合う時、どういうことが主に興味ある話題となっているか?それは自分の自慢話でなければ他人(ひと)の悪口である、讒訴(ざんそ)である、邪推(じゃすい)である、偽証(ぎしょう)である、また汚(きたな)い話しである。そしてかかるものはいずれも罪を造る種類の話しばかりではないか。
主イエズス・キリストは審判の時、無益(むえき)に時を過ごした者さえも厳しくさばかれると仰せられた。それならばまして罪の話しに時を過ごした者の受ける審判はいかにきびしいものであろうか。
我等はそれ故(ゆえ)、この点に於いても聖母マリアの立派な御手本(おてほん)に倣(なら)い、多弁(たべん)を戒(いまし)めねばならぬ。
無言は多くの貴(とうと)き考え、深き考えを生み出すもとである。
天主は常に心の落ちついている人を慰め、これに御聖寵(おんめぐみ)を豊(ゆた)かに賜(たまわ)るのである。
○ 聖母マリアによりて、言葉を慎(つつし)むべき徳を与えられんために「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
かくれたる所をも見給う天主、願わくば聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて我等言葉をつつしみ、無益(むえき)なる談話(だんわ),殊(こと)に愛徳に背(そむ)く話しを避(さ)け、空しく時を費(つい)やすことなく、己(おの)れ及び他人の霊魂(れいこん)の平安を乱さざるように御恵(おんめぐみ)を与え給え。アメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
十 八 日
言葉を慎しむこと
(一)「人もし言葉によりて過(あやま)つことなくば、これ完全なる人なり」と聖ヤコボは申された。
舌を慎(つつし)まぬような人は真実(まこと)の徳があると云へない。また信心深いともいえないのである。
善徳(ぜんとく)の鑑(かがみ)である聖マリアは、それをよく御存知(ごぞんじ)であったので、幼い時からよく舌を慎まれた。三才の時よりエルザレムの聖(せい)殿(でん)に留(とど)まられ、人と交(まじ)わり給うことは稀(まれ)に,天主と語り給うことは甚だ多かった。
世間のことについて談話(はなし)しなければならぬ場合にも、マリアはいつも心を天主に献(ささ)げつつ慎み深く語られた。一日の大部分を沈黙(ちんもく)の内に過ごし、聖心(みこころ)には常に天主のことばかり考えていられた。
(二)その後,聖マリアはエルザレムの聖殿を去って世間に出られ、ナザレトの御家(おいえ)に帰られたが、そこにおいてもやはり言葉を慎まれることには変わりがなかった。
大天使ガブリエルが御告(おつ)げの為に現れた時も、聖マリアは決して他所(よそ)でつまらぬ世間話しや、他人の噂(うわさ)などをしていられた訳ではなかった。
却(かえ)って家に閉じこもって熱心に天主に祈祷(いのり)を献(ささ)げていられたのである。
聖書には聖母のことがごく僅かしか記(しる)されていない。
これは聖マリアが極めて僅かしか談(は)話(なし)をされなかった証拠(しょうこ)ではなかろうか。聖ルカも御母の事を「母はすべての事を心に納めいたりき」(ルカ 二、五一)と記(しる)している聖母は多くの人と話す者は、天主と語るのがむずかしいことをよく知っていられたのである。
一体人々が娯楽(なぐさみ)に語り合う時、どういうことが主に興味ある話題となっているか?それは自分の自慢話でなければ他人(ひと)の悪口である、讒訴(ざんそ)である、邪推(じゃすい)である、偽証(ぎしょう)である、また汚(きたな)い話しである。そしてかかるものはいずれも罪を造る種類の話しばかりではないか。
主イエズス・キリストは審判の時、無益(むえき)に時を過ごした者さえも厳しくさばかれると仰せられた。それならばまして罪の話しに時を過ごした者の受ける審判はいかにきびしいものであろうか。
我等はそれ故(ゆえ)、この点に於いても聖母マリアの立派な御手本(おてほん)に倣(なら)い、多弁(たべん)を戒(いまし)めねばならぬ。
無言は多くの貴(とうと)き考え、深き考えを生み出すもとである。
天主は常に心の落ちついている人を慰め、これに御聖寵(おんめぐみ)を豊(ゆた)かに賜(たまわ)るのである。
○ 聖母マリアによりて、言葉を慎(つつし)むべき徳を与えられんために「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
かくれたる所をも見給う天主、願わくば聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて我等言葉をつつしみ、無益(むえき)なる談話(だんわ),殊(こと)に愛徳に背(そむ)く話しを避(さ)け、空しく時を費(つい)やすことなく、己(おの)れ及び他人の霊魂(れいこん)の平安を乱さざるように御恵(おんめぐみ)を与え給え。アメン。