我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
七 日
私審判の事
(一)我等人間の霊魂(れいこん)は、肉(にく)身(しん)を離れると、すぐに天主の御前(みまえ)に現れて正しい審判(しんぱん)を受けなければならぬ。
それは一度死してしかる後に審判(しんぱん)ある事、定められると、聖書に記録(かきしる)されてあるのを見ても明(あき)らかであろう。
審判者(しんぱんしゃ)は我等の心の極(ごく)秘密の考えまでも良く御存知の全知(ぜんち)の神にてまします。その時は叉、正義の時である。
神の御独子(おんひとりご)主イエズス・キリストは、我々の一(いっ)生涯(しょうがい)に、我等の慈悲(じひ)深い救い主、良き牧(ぼく)者(しゃ)、親(した)しき友であったが、審判(しんぱん)の時になると、唯(ただ)、正義なる審判者にまします。その時は最早(もはや)哀(あわ)憐(れみ)の時ではない、されば善人(ぜんにん)でさへ、かような審判を恐れている。まして罪人(つみびと)は如何(どんな)であろうか。我等は今の中にその時の判決を定めよう。
即ち其の審判の宣告に、「よし、善にして忠実なる僕(しもべ)よ、汝(なんじ)の天主の歓喜(よろこび)に入れよ」と云う有り難い御言葉(みことば)をきくか、「呪(のろ)われたる者よ、我を離れて永遠(えいえん)の火に入れよ」と云う恐るべき御言葉(みことば)をきくか、今の内に我等の行為(おこない)を以てきめよう。
(二)我等は叉、罪人(つみびと)のよりどころにして慈愛(じあい)の母なる聖マリアに厚く依(よ)り頼(たのも)う。
聖母は審判者たる天主キリストの御母であるが、同時に罪人(つみびと)たる我等には憐憫(あわれみ)
の母である。
即ち悔悛(かいしゅん)の心ある罪人(つみびと)のためには、此の上ない有力な代祷者(だいとうしゃ)になって下さる
のである。
しかし罪人(つみびと)にして悔悛(かいしゅん)の心の露(つゆ)ほどもない場合には、いかに彼が深く聖母を
尊敬し、熱心に祈るよう見えたとて何の益(えき)もない。
己(おのれ)の行いを改(あらた)めようとせぬのは、結局天主の聖母に対し本当の尊敬を献(ささ)げる
道でもなければ、また真(まこと)の祈りをする所以(ゆえん)でもないからである。
聖母は罪人(つみびと)の救(たす)霊(かり)を熱く望(のぞ)ませ給う。けれども天主の御母(おんはは)であり、天主を此
の上なく愛し給い、何事にも天主の御旨(みむね)を体(たい)し給うマリアは、天主に好(この)んで背(そむ)き、しかも改(あらた)める心のない悪逆人(あくぎゃくにん)を、天主の思(おぼ)し召(め)しに逆(さか)らってまで救うことは出来ない。
それ故(ゆえ)、罪人(つみびと)が改心(かいしん)せずこの世を去れば、聖母にもイエズスにも捨てられる
訳である。
幸い、今はまだ哀憐(あわれみ)の時である。
正義の審判(しんぱん)を告白(こくはく)の秘蹟(ひせき)の恩寵(おんちょう)によって免(のが)れることもできる。未来の審判者
の御憐れみを、真(まこと)の改心(かいしん)、祈祷(いのり)と善業(ぜんぎょう)とによって招くこともできる。
故(ゆえ)に我等がもし罪の身であるならば一刻も早く悔悛(かいしゅん)の決心をしなければならない。
○ 聖母マリアによりて、審判の日に哀憐(あわれみ)を得(え)んが為に、「めでたし」
三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
罪人(つみびと)の、より所にまします聖母マリアよ、我が世を去りて後(のち)、主イエズス・キリストの御前(みまえ)に出(い)で正義の審判(しんぱん)を受けん時、天主の御憐憫(おんあわれみ)に浴(よく)するを得(え)んため、今にしてその判決の原因なるすべての罪の赦(ゆる)され、悔悛(かいしゅん)の秘蹟(ひせき)を以て全(まった)く主に従(したが)うべき者となるべき恵(めぐみ)を我がために請(こ)い求め給え。アメン。