我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
十 日
二つの道
(一)「汝等狭(せま)き門より入れ、蓋(けだ)し滅亡(めつぼう)に至る門は広く、その道も広くして、これより入る人多し。あゝ永遠の生命に至る門狭(せま)く、その道も狭(せま)くして、これを見出す人少なきかな」と我が主イエズス・キリストはのたまうた。
これによって見ると人の歩(あゆ)む道に二つある。一つは滅亡に至る道で、他の一つは生命に至る道である。
この二筋(にすじ)の道はすべての人の前に開いている。そして、いづれの道にも始終(しじゅう)人々を招きながら立っている者がある。
一方の道は平(たい)らで道幅(みちはば)も広い。道端(みちばた)には七(なな)彩(いろ)の花が目もあやに咲き乱れている。立派(りっぱ)な大きい門に立っている者は、身に美麗(びれい)な服を着飾(きかざ)り、頭(かしら)に花の冠(かんむり)を頂き、手に快楽(かいらく)の酒の入った金の盃(さかずき)を持ち,笑(え)ましげに人を招いている。
その道ゆく人々は彼から受けた美酒(うまざけ)に舌(した)つづみをうち、四方(よも)の景色に目を楽しませつゝ、共に笑い,共に語(かた)り,共に歌(うた)いながら歩(あゆ)んでゆく、見た目にはいかにも幸福そうである。
他方(たほう)の道は凹凸(おうとつ)のある狭(せま)い道で、荊棘(いばら)に埋(うづ)もれている。ここには目を楽しますものは一つもない。
その見すぼらしい小さな門に立ってつゝましげに人を招く者は、深い平和の光こそ顔に照りそうているけれど、着物は貧(まず)しく質素(しっそ)に、冠(かんむり)は茨(いばら)を編(あ)んだもので、苦しみの杯(さかずき)を手にしている。
そうしてそのけわしい道を歩(あゆ)む人々はと見れば、茨(いばら)の冠(かんむり)を頭(かしら)に,重き十字架を肩にして手足からわ血を滴(したた)らせ、痛々(いたいた)しくよろめき進まれる御方(おんかた)を先導(せんどう)として、いづれも多少の十字架を負(お)い,苦しみあえぎながらゆく人々ばかりである。成(な)る程一目(ひとめ)見たばかりでは、この道に入ろうとする人の少ないのも、怪(あや)しむに足(た)りないようである。
(二)しかしこの第一の道が「滅亡(めつぼう)の道」なのである。その門に立って人を招くは「世間」である。彼はその道に入る者に富(とみ)と快楽(かいらく)と名誉(めいよ)とを約束する。けれどもその行く先はどうか、それは永遠の滅亡(めつぼう)に他(ほか)ならない。
しばし花の咲き乱れた美しさに目を奪われ、手にせる美酒(うまざけ)に酔(よ)い足を運(はこ)んでいたひとは、突然足許(あしもと)に口を開けている底もなき地獄の淵(ふち)に落ちこんでしまうのである。
勿論(もちろん)そうなるまでに与(あた)えられている時は,人により一様(いちよう)ではなかろう。
しかし早晩(そうばん)滅亡に落ち入る点では、この道をゆく人々、誰しも例外がない。
そしてその淵(ふち)に落ち込んだ時今まで楽しんでいた名誉(めいよ)も,快楽(かいらく)も,富(とみ)も世間の約束したものは皆、煙のように消え失せてしまうのである。
第二の道は「生命の道」である。その門に人を招かれる方は聖母マリアであり、その先(せん)達(たつ)は主イエズス・キリストである。
この道をゆくはもとより苦しいが、主は「わが荷(に)は軽し」と仰(おお)せられながら、後に続く人々に聖寵(せいちょう)により不思議の力と慰(なぐさ)めとをお与えになる。
人々はその為に苦しみを苦しみとも感ぜず、また謬(あやま)りなき天主の約束せられた、光の都、天国を望(のぞ)みつゝ、一歩一歩と歩(あゆ)んでゆく。
「苦難」の荊棘(いばら)を踏む一足(ひとあし)ごとに流れる「愛」の血が「徳」の花を咲かす。多く血を流した人は多く花を咲かす。
そして一生が終わればこれらの人々はその徳の花の数に従い、それぞれに異(こと)なった報(むく)いを受けるが、いづれも永遠の生命と喜びとに入ることができるのである。
聖母を始め、多くの聖人達はこの道をゆかれた人々であった。それでは我々はこの先どの道を選(えら)ぼうか?我々は今までいづれの道を歩いていたであろうか。
もし我等にして永遠(えいえん)の生命を望む心があり、且(か)つ、滅亡のみち、罪の道を歩いていたとしたら、直ちにはかない世間のすゝめを捨てその道を離れるよう努(つと)めなければならない。
今はまだイエズスと聖母との御招きに応ずることができる。そうでなくてそれを拒(こば)みつづけたならば、ついには永劫(えいごう)に天主に捨てられ、歯がみして後悔(こうかい)しても及ばぬ始末(しまつ)になるかも知れない。
○ 聖マリアの如く天国への道を終わりまで歩むことを得(え)んために「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
あゝ、主イエズス・キリスト、主は「汝(なんじ)、日々(ひび)己(おのれ)が十字架をとりて我に従(したが)うべし」と仰せられ,我を天国のみちへ招(まね)き給う。
我、御声(みこえ)を聞き、わが一生を主に献(ささ)げ、日々(ひび)十字架を負(お)い、謹んで主の御跡(みあと)に従い奉(たてまつ)らんと決心す。
願わくば聖母の御伝達(おとりつぎ)によりみちを踏(ふ)みあやまらざる力(ちから)を与え給わんことを。アメン。