我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
十 一 日
信徳
(一)マリアは信(しん)徳(とく)に就いて最も立派な手本を示された。聖イレネオの云われた如く、エワがその不信仰に依(よ)ってかけた損害を皆、償(つぐ)のわれた。
聖マリアは大天使ガブリエルの御告(おんつ)げを固く信じて、御子キリストがベトレヘムの貧しい洞穴(ほらあな)に御誕生なされた時も、叉,其の後ヘロデ王の怒りを免(まぬが)れる為に、エジプトに逃れられた時も、この幼子(おさなご)が天地万物(ばんぶつ)の造(づく)り主にまします事を確信して居られた。
御子キリストの十字架上の御死去にあづかった時、弟子等の信仰は無くなったけれど、聖マリアは、イエズス・キリストが天主の御独子(おんひとりご)でまします事を一刻(いっこく)もうたがわれなかった。
聖母は十字架の傍(かたわ)らに立っていられた時こそ、一番立派にその信仰を現されたのである。故(ゆえ)に聖母を信者の母と唱(とな)えるのは尤(もっと)もな事である。
我等は何とかして厚い信仰を持たなければならぬ。
信仰が無ければ、天主の聖(み)旨(むね)にかなわない。しかし信仰は天主の御恵(おんめぐ)みであるから、信仰の強められん事を熱心に天主に願わなければならない。
(二)聖アルフオンゾは「我等信者は聖マリアのように殊に行為(おこない)によって信仰を厚くしなければならぬ」といわれた。
義人(ぎじん)は信仰によって活(い)く、とは聖書の言葉であるが、即ち信仰の教える通りなんでも事を行うという意味である。
たとえば信仰はこの世の総(すべ)ての物は、はかないと教えているから、これらの物に溺(おぼ)れないようにせねばならぬ。
叉、信仰は,天主が唯(ただ)、謙遜(けんそん)の人、心の清き人にその御恵(おんめぐ)みを与えると教えているから、出来るだけこの二つの徳を積(つ)もう。
遂に信仰は艱難(かんなん)の時、叉、誘惑(ゆうわく)の時に、唯(ただ)、天主のみ彼等を助け給うと教えるから、万事を天主の御摂理(みせつり)にまかせよう。
かくの如く信仰の教えに従(したが)い、悪を避(さ)け善を行うと、遂(つい)に我等の目的地なる天国に達する事が出来るに相違(そうい)ない。
○ 聖マリアに依りて厚き信仰を与えられんが為「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
あゝ、聖母よ,汝(なんじ)は常に信仰によりて生(い)き、万事(ばんじ)、主の御旨(みむね)にかなうよう努(つと)め給えり。
我も御手本(みてほん)にならいて、洗礼(せんれい)の時に賜(たまわ)りし超(ちょう)自然の生命(せいめい)を益々(ますます)強め、信仰生活を以て多くの功(いさを)を積(づ)み得(え)るよう、我の為に祈り給え。アメン。