我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
十 五 日
己を捨つること
(一) イエズスは「人もし我あとにつきて来たらんと欲(ほっ)せば、己(おのれ)を捨てよ」
(マテオ一六、二四)と仰せられた
しかしこの己(おのれ)を捨(す)てることは非常にむづかしい。あらゆる犠牲(ぎせい)の業(わざ)に励(はげ)んでいる人でも、なかなか自己(じこ)を離れ自己(じこ)を捨てることはできないのである。
善業(ぜんぎょう)を行(おこな)うてさえも、とかく其の中に ― 精神的にではあろうが ― 自己の楽しみを求めやすい。
まして世間の人が博愛(はくあい)や慈善(じぜん)についていう場合、それが、人に愛されたい為の博愛(はくあい)であったり、人から恵(めぐ)んでもらいたいための慈善(じぜん)であったりすることがよくある。
共産主義などに共鳴(きょうめい)する人々の中にも、自分の物を人につかわせる方の財産共有は考えずに、他人の物を自分がつかう方の財産共有だけを考えている、虫のいゝ人が随分(ずいぶん)あるようである。
とにかく人間には多少ともこの、自分の利益を主として考える心がある。これを小供の時には我(わ)が儘(まま)といゝ、大人になってからは利己(りこ)主義(しゅぎ)という。世の醜(みにく)い争闘(そうとう)や恐ろしい犯罪の動機なども、煎(せん)じつめれば殆ど皆、之に帰(き)することができる。
もし今の有様に反して、すべての人が己の為ばかりを謀(はか)らず、よく他(ひと)の言葉を容(い)れ、他(ひと)を第一にたてるようになったとしたらどうであろう。
その時は真実(しんじつ)四海(しかい)兄弟となり、人、皆むつみ合い、何物をも私(わたくし)せず、地上はさながら楽園と化するであろう。
しかし悲しい哉(かな)、犠牲的精神に欠乏(けつぼう)せる現代では、かゝる調和(ちょうわ)の世界を望(のぞ)むどころではない。本当に兄弟的な、友愛的な精神で事業をやっている人々さえ、まことに暁(あかつき)の空の星のように少ないのである。
(二) 教会の初代には、信者相互(そうご)の愛も非常に厚かった。多く持てる者は己(おのれ)の
財産を売って、その金を目下の者や貧乏人(びんぼうじん)に分けた。それで信者の中に貧乏で困っている人はなかったという。彼等は自分の安楽を忘れて兄弟の幸福をのみ考えたのであった。
聖母マリアも、そういう人々の間(あいだ)に、母として立ち交(ま)じっていられた。
しかし彼女の己を犠牲として他の為をはかる心は、他のいかなる者にも勝(まさ)っていられたのである。
聖母は聖女エリザベトを見舞わせられ、その為に働かれた。また童貞(どうてい)生活を
固(かた)く決心し、子を設(もう)けることを望(のぞ)まれなかったのに、人々の救(たす)霊(かり)のためには母となることをも承認(しょうにん)せられた。
そして世の罪の願いのためには、最愛の御子さえ、十字架上に献(ささ)げたまい、その惨(むごたら)しい御苦しみに、御自分の心も利(き)き剱(つるぎ)もて貫(つらぬ)かれるようなのを、ジッと堪(た)えて御子の血潮(ちしお)に合わせ、聖(おん)父(ちち)への献(ささ)げ物とし給うた。
これいずれも、己(おのれ)の為を求めず、ただひたすら人の幸福を考えられたからではないか。
ドイツの聖女(せいじょ)エリザベトが、あの汚(きたな)らしいライ病患者(かんじゃ)を看病(かんびょう)され、その上接吻(せっぷん)までされたのも、同じく己(おのれ)を捨て他を愛する精神の発露(はつろ)であった。
イエズス・キリストの仰せられた「己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所は人にもなさず己(おのれ)の欲(ほっ)する所は人にも施(ほどこ)せ」という聖(み)言(ことば)を守る人は、いよいよ自己(じこ)を離れるのである。
人は自己を離れるだけそれだけ、天主に近づく。そして死する迄よく己(おのれ)と闘(たたか)い、己に克(か)とうと努(つと)めた人は、天国に入って天主から永福(えいふく)の月桂冠(かんむり)を授(さず)けられるのである。
われら、よくこれを考え、克己(こっき)犠牲(ぎせい)の心を養(やしな)うように励(はげ)もうではないか。
○ 聖母の御伝達(おとりつぎ)により、自己(おのれ)を捨てる御聖寵(おんめぐみ)を受けんがため、「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
主イエズス・キリスト我等は原罪(げんざい)の結果、肉の慾(よく)、目の慾、生活の埃(ほこり)等を以て汚(けが)されし者なれば、願わくば、この汚(けが)れたる自己(おのれ)を厭(いと)い離れ現世(このよ)に於(お)いては主に近づき、来世(らいせ)に於(お)いては主に結ばれて、永遠に清き喜びの内(うち)に主を讃美(さんび)し奉(たてまつ)るを得(え)る御恵(おんめぐみ)を聖母の御伝達(おとりつぎ)によりて与え給え。アメン。