Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:己を捨つること

2013年06月20日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十  五  日
己を捨つること

(一) イエズスは「人もし我あとにつきて来たらんと欲(ほっ)せば、己(おのれ)を捨てよ」
(マテオ一六、二四)と仰せられた
しかしこの己(おのれ)を捨(す)てることは非常にむづかしい。あらゆる犠牲(ぎせい)の業(わざ)に励(はげ)んでいる人でも、なかなか自己(じこ)を離れ自己(じこ)を捨てることはできないのである。
善業(ぜんぎょう)を行(おこな)うてさえも、とかく其の中に ― 精神的にではあろうが ― 自己の楽しみを求めやすい。
 まして世間の人が博愛(はくあい)や慈善(じぜん)についていう場合、それが、人に愛されたい為の博愛(はくあい)であったり、人から恵(めぐ)んでもらいたいための慈善(じぜん)であったりすることがよくある。
 共産主義などに共鳴(きょうめい)する人々の中にも、自分の物を人につかわせる方の財産共有は考えずに、他人の物を自分がつかう方の財産共有だけを考えている、虫のいゝ人が随分(ずいぶん)あるようである。
 とにかく人間には多少ともこの、自分の利益を主として考える心がある。これを小供の時には我(わ)が儘(まま)といゝ、大人になってからは利己(りこ)主義(しゅぎ)という。世の醜(みにく)い争闘(そうとう)や恐ろしい犯罪の動機なども、煎(せん)じつめれば殆ど皆、之に帰(き)することができる。
 もし今の有様に反して、すべての人が己の為ばかりを謀(はか)らず、よく他(ひと)の言葉を容(い)れ、他(ひと)を第一にたてるようになったとしたらどうであろう。
 その時は真実(しんじつ)四海(しかい)兄弟となり、人、皆むつみ合い、何物をも私(わたくし)せず、地上はさながら楽園と化するであろう。
しかし悲しい哉(かな)、犠牲的精神に欠乏(けつぼう)せる現代では、かゝる調和(ちょうわ)の世界を望(のぞ)むどころではない。本当に兄弟的な、友愛的な精神で事業をやっている人々さえ、まことに暁(あかつき)の空の星のように少ないのである。

(二) 教会の初代には、信者相互(そうご)の愛も非常に厚かった。多く持てる者は己(おのれ)の
財産を売って、その金を目下の者や貧乏人(びんぼうじん)に分けた。それで信者の中に貧乏で困っている人はなかったという。彼等は自分の安楽を忘れて兄弟の幸福をのみ考えたのであった。
 聖母マリアも、そういう人々の間(あいだ)に、母として立ち交(ま)じっていられた。
しかし彼女の己を犠牲として他の為をはかる心は、他のいかなる者にも勝(まさ)っていられたのである。
 聖母は聖女エリザベトを見舞わせられ、その為に働かれた。また童貞(どうてい)生活を
固(かた)く決心し、子を設(もう)けることを望(のぞ)まれなかったのに、人々の救(たす)霊(かり)のためには母となることをも承認(しょうにん)せられた。
そして世の罪の願いのためには、最愛の御子さえ、十字架上に献(ささ)げたまい、その惨(むごたら)しい御苦しみに、御自分の心も利(き)き剱(つるぎ)もて貫(つらぬ)かれるようなのを、ジッと堪(た)えて御子の血潮(ちしお)に合わせ、聖(おん)父(ちち)への献(ささ)げ物とし給うた。
 これいずれも、己(おのれ)の為を求めず、ただひたすら人の幸福を考えられたからではないか。
ドイツの聖女(せいじょ)エリザベトが、あの汚(きたな)らしいライ病患者(かんじゃ)を看病(かんびょう)され、その上接吻(せっぷん)までされたのも、同じく己(おのれ)を捨て他を愛する精神の発露(はつろ)であった。
イエズス・キリストの仰せられた「己(おのれ)の欲(ほっ)せざる所は人にもなさず己(おのれ)の欲(ほっ)する所は人にも施(ほどこ)せ」という聖(み)言(ことば)を守る人は、いよいよ自己(じこ)を離れるのである。
 人は自己を離れるだけそれだけ、天主に近づく。そして死する迄よく己(おのれ)と闘(たたか)い、己に克(か)とうと努(つと)めた人は、天国に入って天主から永福(えいふく)の月桂冠(かんむり)を授(さず)けられるのである。
われら、よくこれを考え、克己(こっき)犠牲(ぎせい)の心を養(やしな)うように励(はげ)もうではないか。
 
 ○ 聖母の御伝達(おとりつぎ)により、自己(おのれ)を捨てる御聖寵(おんめぐみ)を受けんがため、「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主イエズス・キリスト我等は原罪(げんざい)の結果、肉の慾(よく)、目の慾、生活の埃(ほこり)等を以て汚(けが)されし者なれば、願わくば、この汚(けが)れたる自己(おのれ)を厭(いと)い離れ現世(このよ)に於(お)いては主に近づき、来世(らいせ)に於(お)いては主に結ばれて、永遠に清き喜びの内(うち)に主を讃美(さんび)し奉(たてまつ)るを得(え)る御恵(おんめぐみ)を聖母の御伝達(おとりつぎ)によりて与え給え。アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:従順の徳

2013年06月19日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十  四  日
従順の徳

(一)従順(じゅうじゅん)は、他のすべての犠牲(ぎせい)よりも、一番天主の御気に召すものであるさればイエズス・キリストはこの徳を特別に踏(ふ)み行われた。
聖パウロいわく「キリストは自(みずか)らへりくだりて、死し、しかも十字架の死に至るまで従(したが)える者となり給えり」と。
 聖マリアもこの徳をよく守られた。即ち喜んでローマの皇帝の命令に従い、戸籍(こせき)調べのために聖ヨゼフと共に遠いベトレヘムに行かれた。叉、天主の御命令(ごめいれい)と知るや直(ただ)ちに従(したが)い、夜中に起きて遠いエジプトにまで逃れ給うた。
決して不平らしい言葉を洩(も)らさず、万事(ばんじ)を天主の聖(み)旨(むね)にまかせられたのである。かくの如く我等も我(わ)が儘(まま)を押さえ、天主の御命令(ごめいれい)に従(したが)わなければならない、なぜなればイエズス・キリストの聖(み)言(ことば)に「人もし我(わが)跡(あと)につきて来たらんと欲(ほっ)せば、己(おのれ)を捨(す)て我に従(したが)うべし」とあるからである。

(二)聖マリアは、天主を愛するために、始終(しじゅう)従順(じゅうじゅん)の徳を守られた。かようの従順(じゅうじゅん)こそ本当に価値(ねうち)のあるものである。
天主の聖(み)旨(むね)に従(したが)うのは聖マリアの一生の誉(ほま)れであり喜びであった。
天主の思(おぼ)し召しに従(したが)わんが為にマリアはカルワリヨ山に於(お)いて、遂(つい)に最(もっと)も愛した御子キリストをさへ献(ささ)げられた。之は聖マリアの完全な従順(じゅうじゅん)の一番立派(りっぱ)な  証拠(しょうこ)である。
我等も聖母マリアの立派(りっぱ)な御手本に習わなければならぬ。なぜならば、従順(じゅうじゅん)がなければ本当の徳もない、徳がなければ天国に入る事も出来ないからである。 
 之について聖ボナビェンツラは「従順(じゅうじゅん)は我を天国に運(はこ)ぶ船の如し。 叉、天国を開く鍵(かぎ)の如し」と申された。
叉、聖テレジアも「悪魔はすべての徳の絶頂(ぜっちょう)に達(たっ)する近道が、従順(じゅうじゅん)の外(ほか)にはないと云う事をよく知っているから、どうかして多くの人にこの徳を守らせないように始終(しじゅう)誘(いざな)うのである」と申された。

○ 聖マリアにより、従順(じゅうじゅん)の徳を与えられん為に「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

天地に於けるすべての権能(けんのう)を与えられし、主イエズス・キリスト主は万物(ばんぶつ)を支配(しはい)し給うにかかわらず、世の権利者(けんりしゃ)に服従(ふくじゅう)し給えり。
我等にも主の如くに甘(あま)んじて、主の代理者たるすべての長上(ちょうじょう)に従(したが)うの恵(めぐみ)を与えられん事を、聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて願い奉る。アメン。

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:謙遜の徳

2013年06月18日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十  三  日
謙遜の徳

(一) 聖母マリアは幼い時から、あらゆる徳に秀(ひい)でてをられたが、中でも最も
優(すぐ)れ給うた徳は謙遜(けんそん)である。聖マリアはキリストの御母(おんはは)たる高き位(ぐらい)にあげられても、唯(ただ),主の婢(つかひめ)と申された。
 謙遜(けんそん)は聖ベルナルドも云われた如く総(すべ)ての徳の土台である。なぜならば謙遜(けんそん)がなければ他の徳をつむ事が出来ないばかりでなく、謙遜(けんそん)を失えば、他の徳もすぐに崩(くず)れてしまうからである。
 叉、天主は謙遜(けんそん)の人にのみ其の御恵(おんめぐみ)をお与えになる。聖アウグスチノの言葉に「イエズス・キリストは我等に新しい世界を造(つく)る事や、叉、奇跡(きせき)を行う事、即ち死んだ人を生かしたり、病人を直したりする事は命ぜられなかった。
唯(ただ)「我に謙遜(けんそん)を学(まな)べ」と仰せられた。いろいろな徳を積(つ)む積(つ)もりであるならば、先ず謙遜(けんそん)から始めなければならない」とある。
イエズスとマリアとの通(とお)られた天国の道を選ぶならば、キリストの「我に学べ,我は柔和(にゅうわ)にして謙遜(けんそん)なる者なり」という御奨(おすす)めにしたがい、殊(こと)に謙遜(けんそん)に身を処(しょ)すべきである。
傲慢(ごうまん)はすべての罪の泉(いずみ)である如く、謙遜(けんそん)は実にすべての徳の基(もとい)、多くの聖寵(せいちょう)の源(みなもと)である。

(二)マリアの謙遜(けんそん)の御徳(おんとく)がいかに麗(うるわ)しいものであったかを考えてみよ。
大天使ガブリエルが現れて「めでたし聖寵(せいちょう)充満(みちみ)てる者」と讃(たた)えし時、マリアは「我は主の婢(はしため)なり」と答えられた。
叉、エリザベトがマリアに向かって「我、何より我が主の御母の来臨(らいりん)をかたじけなうしたるぞ?」と云った時、マリアは「我が魂(たましい)、主を崇(あが)め奉(たてまつ)る。
そは其の召使いの卑(いや)しきを、顧(かえり)み給いたればなり」と仰せられた。
マリアはイエズス・キリストが威儀(いぎ)堂々とエルザレムに入られた時には、おいでにならなかった。
けれども、御子(おんこ)がカルワリヨ山に上られ、十字架にかゝられ給うた時には十字架の下(もと)に立って、謙遜(けんそん)の模範(もはん)を示された。
汚(けが)れなき童貞(どうてい)聖母マリアでさえ、かほどまで謙遜(けんそん)にましますを見たならば罪に充満(みちみ)てる我等はどうして傲(おご)り高ぶる事ができようか。

○ 聖マリアによりて真実(しんじつ)の謙遜(けんそん)を求めんが為「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

天地万物(ばんぶつ)を司(つかさど)り給う主よ、主は我等人間を一切(いっさい)の罪より救わんが為に、御自(おんみずか)ら、謙遜(へりくだ)り、最も貧(まず)しき人と交(まじ)わる事をもこばみ給わずして我等に謙遜(けんそん)の模範(もはん)を示し給えり。
願わくば聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて我等の心より、傲慢(ごうまん)を除(のぞ)きさり、主の為め喜びて人に従(したが)う者となるの勇気を与え給え。アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:誘惑

2013年06月17日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン


十  二  日
誘惑

(一)聖霊は「人間が天主に仕えようと思う時、色々の誘惑(いざない)があるであろう」と仰せられた。
 誘(いざな)いの原因は世間、肉慾(にくよく)、或は悪魔(あくま)である。死ぬ時までそれは免(のが)れる事が出来ない。けれども誘惑(いざない)は、大いなる利益になる。
たとへばそれは謙遜(けんそん)と天主に対する信頼、その外(ほか)あらゆる徳を積(つ)ませ、殊に聖寵(せいちょう)と功(いさを)とを増すのである。故(ゆえ)にラフアエルという天使は、トビァに向かって「汝は天主の聖(み)旨(むね)にかなっているものであるから、色々の誘惑(いざない)によって、試(こころ)みられたのである」と云った。
 その通り誘惑(いざない)は、天主に愛せられている聖人の、しるしである。主イエズス・キリストさえも誘(いざな)われ給うた。
 天主は我等人間に教訓(きょうくん)を与える為に、悪魔の誘惑(いざない)を許されたのである。
叉,主は祈りを教え給うたとき「我等を試(こころ)みに引き給わざれ」という言葉をも仰せられたから、我々もいざないをうけた場合,聖パウロの云われたように、天主は真実(しんじつ)にてましませば、汝(なんじ)等(ら)の力(ちから)以上に試みらるゝ事を許し給わず、かえって試(こころ)みと共に勝つべき方法をも賜(たま)うべしという確(かた)い信念を以て、聖(おん)父(ちち)のお助けを願わなければならない。

〔二〕誘惑(いざない)の時には、次のような点に注意するがよい。熱心にこれを守るならば、いつも勝つことができるであろう。
 
(第一)自ら一つの誘(いざな)いをも起こしてはならぬ。叉、誘(いざな)いが起きると、すぐそれを押さえなければならぬ。

(第二)天主に信頼しながら、たゝかえ。なぜならば如何に誘(いざな)いに悩(なや)まされようとも、天主の力(ちから)に依(よ)って勝つことができるからである。

(第三)弟子等の如く忍耐を以て戦え。なぜならば、イエズス・キリストは彼等に向かって「汝等我が艱難(かんなん)の中にいて絶(た)えず我にともないし者なれば」と仰せられた。

(第四)遂に祈りを以て,闘(たたか)わなければならぬ。殊に聖母マリアに祈るは非常な助けとなる。
聖マリアは悪魔(あくま)なる蛇(へび)の頭(かしら)を踏(ぶ)み砕(くだ)かれたばかりでなく、「キリスト信者の助け」と云われ給う。
故(ゆえ)に天主の御母(おんはは)聖マリア罪人(つみびと)なる我等のために、今この誘(いざな)いの時、この艱難(かんなん)の時にも叉、臨終(りんじゅう)の最も危うき時にも祈り給えと始終(しじゅう)願え。

○ 聖マリアに依(よ)りて,総(すべ)ての誘惑(いざない)に勝つ為に「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主イエズス・キリスト主は我に誘惑(いざない)に勝つべき事を教えんが為に、御自(おんみずか)ら三度までも、悪魔に誘(いざな)わるゝをも、こばみ給わざりき。願わくは我も種々(しゅじゅ)なる誘(いざな)いの時に当たりて、主を眼前(めのまえ)に仰(あお)ぎ奉(たてまつ)り、主の聖寵(せいちょう)によりて勝利を獲(え)せしめられん事を、聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてこい願い奉る。アメン。

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:信徳

2013年06月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十  一  日
信徳

(一)マリアは信(しん)徳(とく)に就いて最も立派な手本を示された。聖イレネオの云われた如く、エワがその不信仰に依(よ)ってかけた損害を皆、償(つぐ)のわれた。
 聖マリアは大天使ガブリエルの御告(おんつ)げを固く信じて、御子キリストがベトレヘムの貧しい洞穴(ほらあな)に御誕生なされた時も、叉,其の後ヘロデ王の怒りを免(まぬが)れる為に、エジプトに逃れられた時も、この幼子(おさなご)が天地万物(ばんぶつ)の造(づく)り主にまします事を確信して居られた。
御子キリストの十字架上の御死去にあづかった時、弟子等の信仰は無くなったけれど、聖マリアは、イエズス・キリストが天主の御独子(おんひとりご)でまします事を一刻(いっこく)もうたがわれなかった。
聖母は十字架の傍(かたわ)らに立っていられた時こそ、一番立派にその信仰を現されたのである。故(ゆえ)に聖母を信者の母と唱(とな)えるのは尤(もっと)もな事である。
 我等は何とかして厚い信仰を持たなければならぬ。
信仰が無ければ、天主の聖(み)旨(むね)にかなわない。しかし信仰は天主の御恵(おんめぐ)みであるから、信仰の強められん事を熱心に天主に願わなければならない。

(二)聖アルフオンゾは「我等信者は聖マリアのように殊に行為(おこない)によって信仰を厚くしなければならぬ」といわれた。
 義人(ぎじん)は信仰によって活(い)く、とは聖書の言葉であるが、即ち信仰の教える通りなんでも事を行うという意味である。
 たとえば信仰はこの世の総(すべ)ての物は、はかないと教えているから、これらの物に溺(おぼ)れないようにせねばならぬ。
 叉、信仰は,天主が唯(ただ)、謙遜(けんそん)の人、心の清き人にその御恵(おんめぐ)みを与えると教えているから、出来るだけこの二つの徳を積(つ)もう。
遂に信仰は艱難(かんなん)の時、叉、誘惑(ゆうわく)の時に、唯(ただ)、天主のみ彼等を助け給うと教えるから、万事を天主の御摂理(みせつり)にまかせよう。
 かくの如く信仰の教えに従(したが)い、悪を避(さ)け善を行うと、遂(つい)に我等の目的地なる天国に達する事が出来るに相違(そうい)ない。

 ○ 聖マリアに依りて厚き信仰を与えられんが為「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

あゝ、聖母よ,汝(なんじ)は常に信仰によりて生(い)き、万事(ばんじ)、主の御旨(みむね)にかなうよう努(つと)め給えり。
我も御手本(みてほん)にならいて、洗礼(せんれい)の時に賜(たまわ)りし超(ちょう)自然の生命(せいめい)を益々(ますます)強め、信仰生活を以て多くの功(いさを)を積(づ)み得(え)るよう、我の為に祈り給え。アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:二つの道

2013年06月15日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十     日
二つの道

(一)「汝等狭(せま)き門より入れ、蓋(けだ)し滅亡(めつぼう)に至る門は広く、その道も広くして、これより入る人多し。あゝ永遠の生命に至る門狭(せま)く、その道も狭(せま)くして、これを見出す人少なきかな」と我が主イエズス・キリストはのたまうた。
 これによって見ると人の歩(あゆ)む道に二つある。一つは滅亡に至る道で、他の一つは生命に至る道である。
 この二筋(にすじ)の道はすべての人の前に開いている。そして、いづれの道にも始終(しじゅう)人々を招きながら立っている者がある。
 一方の道は平(たい)らで道幅(みちはば)も広い。道端(みちばた)には七(なな)彩(いろ)の花が目もあやに咲き乱れている。立派(りっぱ)な大きい門に立っている者は、身に美麗(びれい)な服を着飾(きかざ)り、頭(かしら)に花の冠(かんむり)を頂き、手に快楽(かいらく)の酒の入った金の盃(さかずき)を持ち,笑(え)ましげに人を招いている。
その道ゆく人々は彼から受けた美酒(うまざけ)に舌(した)つづみをうち、四方(よも)の景色に目を楽しませつゝ、共に笑い,共に語(かた)り,共に歌(うた)いながら歩(あゆ)んでゆく、見た目にはいかにも幸福そうである。
 他方(たほう)の道は凹凸(おうとつ)のある狭(せま)い道で、荊棘(いばら)に埋(うづ)もれている。ここには目を楽しますものは一つもない。
 その見すぼらしい小さな門に立ってつゝましげに人を招く者は、深い平和の光こそ顔に照りそうているけれど、着物は貧(まず)しく質素(しっそ)に、冠(かんむり)は茨(いばら)を編(あ)んだもので、苦しみの杯(さかずき)を手にしている。
そうしてそのけわしい道を歩(あゆ)む人々はと見れば、茨(いばら)の冠(かんむり)を頭(かしら)に,重き十字架を肩にして手足からわ血を滴(したた)らせ、痛々(いたいた)しくよろめき進まれる御方(おんかた)を先導(せんどう)として、いづれも多少の十字架を負(お)い,苦しみあえぎながらゆく人々ばかりである。成(な)る程一目(ひとめ)見たばかりでは、この道に入ろうとする人の少ないのも、怪(あや)しむに足(た)りないようである。

(二)しかしこの第一の道が「滅亡(めつぼう)の道」なのである。その門に立って人を招くは「世間」である。彼はその道に入る者に富(とみ)と快楽(かいらく)と名誉(めいよ)とを約束する。けれどもその行く先はどうか、それは永遠の滅亡(めつぼう)に他(ほか)ならない。
 しばし花の咲き乱れた美しさに目を奪われ、手にせる美酒(うまざけ)に酔(よ)い足を運(はこ)んでいたひとは、突然足許(あしもと)に口を開けている底もなき地獄の淵(ふち)に落ちこんでしまうのである。
勿論(もちろん)そうなるまでに与(あた)えられている時は,人により一様(いちよう)ではなかろう。
しかし早晩(そうばん)滅亡に落ち入る点では、この道をゆく人々、誰しも例外がない。
そしてその淵(ふち)に落ち込んだ時今まで楽しんでいた名誉(めいよ)も,快楽(かいらく)も,富(とみ)も世間の約束したものは皆、煙のように消え失せてしまうのである。
 第二の道は「生命の道」である。その門に人を招かれる方は聖母マリアであり、その先(せん)達(たつ)は主イエズス・キリストである。
 この道をゆくはもとより苦しいが、主は「わが荷(に)は軽し」と仰(おお)せられながら、後に続く人々に聖寵(せいちょう)により不思議の力と慰(なぐさ)めとをお与えになる。
 人々はその為に苦しみを苦しみとも感ぜず、また謬(あやま)りなき天主の約束せられた、光の都、天国を望(のぞ)みつゝ、一歩一歩と歩(あゆ)んでゆく。
「苦難」の荊棘(いばら)を踏む一足(ひとあし)ごとに流れる「愛」の血が「徳」の花を咲かす。多く血を流した人は多く花を咲かす。
 そして一生が終わればこれらの人々はその徳の花の数に従い、それぞれに異(こと)なった報(むく)いを受けるが、いづれも永遠の生命と喜びとに入ることができるのである。
 聖母を始め、多くの聖人達はこの道をゆかれた人々であった。それでは我々はこの先どの道を選(えら)ぼうか?我々は今までいづれの道を歩いていたであろうか。 
もし我等にして永遠(えいえん)の生命を望む心があり、且(か)つ、滅亡のみち、罪の道を歩いていたとしたら、直ちにはかない世間のすゝめを捨てその道を離れるよう努(つと)めなければならない。
今はまだイエズスと聖母との御招きに応ずることができる。そうでなくてそれを拒(こば)みつづけたならば、ついには永劫(えいごう)に天主に捨てられ、歯がみして後悔(こうかい)しても及ばぬ始末(しまつ)になるかも知れない。

○ 聖マリアの如く天国への道を終わりまで歩むことを得(え)んために「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

あゝ、主イエズス・キリスト、主は「汝(なんじ)、日々(ひび)己(おのれ)が十字架をとりて我に従(したが)うべし」と仰せられ,我を天国のみちへ招(まね)き給う。
 我、御声(みこえ)を聞き、わが一生を主に献(ささ)げ、日々(ひび)十字架を負(お)い、謹んで主の御跡(みあと)に従い奉(たてまつ)らんと決心す。
 願わくば聖母の御伝達(おとりつぎ)によりみちを踏(ふ)みあやまらざる力(ちから)を与え給わんことを。アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:地獄

2013年06月14日 | カトリック・ニュースなど
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

九    日
地獄

(一) 地獄とは何であるか。地獄とは罪人(つみびと)が天主より捨てられて、終りなく苦
しみを受ける所である。
地獄の恐るべき火は霊魂(れいこん)を焼き、叉、世の終りになると肉(にく)身(しん)をも焼く。 叉、そこにはあらゆる苦しみがある。
 即ち永遠の渇(かわ)き、永遠(えいえん)の叫びと噛(は)がみ、その外(ほか)、五官(ごかん)、耳,目、口、咽喉(のど)の苦しみがある。しかして少しの慰(なぐさ)めもなく、少しの休息(やすみ)もない。
その上、良心の恐ろしいとがめがある。地獄におとされたる者は、これ我が過失(あやまち)なり、我が過失(あやまち)なり、我がいと大いなる過失(あやまち)なりと、始終(しじゅう)々々(しじゅう)くりかえしているばかりである。

(二)地獄の最も恐ろしい苦しみは、其の終りない事である。地獄の門は再び開く事がない。
 即ち地獄にある時計はもはや過ぎゆく時を知らせず、その針はいつもいつも永遠を示している。地獄の中に響く声は永遠、永遠である。
 今、仮(かり)に地獄におとされた者が苦しみの余り泣きつづけ、その涙の一滴一滴が積もり積もって大海の如くになったとするならば、その間に如何に長い年月を要するであろうか。
 しかるに地獄は永遠であるから、それほど苦しんだとしてもまだ終わりにはならない。
いつまでも、いつまでも苦しまなければならない。苦しみの他はあり得ぬのである。
 この考えは最も恐ろしい事ではないか。けれども我等は失望する必要はない。
我が主イエズス・キリストは我々の罪をあがなわんがために一(いっ)滴(てき)の血も残さず流して下された。
 叉、慈悲(じひ)深い童貞(どうてい)聖マリアは我々の代祷者(だいとうしゃ)、我々の御母(おんはは)でいらせられる。
聖母マリアを尊敬(そんけい)し、叉、始終その御助力(おんたすけ)を頼むならば必ず地獄を免(まぬが)れることができよう。
 おゝ、マリアよ!今も臨終(りんじゅう)の時にも我等のために祈り給え。

○ 地獄(じごく)を免(まぬが)れん為に聖マリアに、より頼み「めでたし」三度唱(とな)えん。

 慈悲(じひ)深きイエズスよ、我を地獄に落とすものは、主に非(あら)ずしてわが犯(おか)す大罪(だいざい)
なれば、我に大罪(だいざい)を何物よりも忌(い)み嫌(きら)い、これを防(ふせ)がん為、力を尽くすの御恵(おんめぐ)みを与え給わん事を、聖母マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりてひたすら乞(こ)い願い奉る。
アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:公審判

2013年06月13日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

八     日
公審判

(一)死んでからすぐにある審判(しんぱん)は、ただ審判者(しんぱんしゃ)イエズス・キリストと霊魂(れいこん)との間に、秘(ひそ)かに行われるのである。しかしこの外に公衆の前にて行われる公審判も世の終わりにはあるのである。
 それは、現世(げんせ)において善人が度々(たびたび)悪人に、虐(しいた)げられたり、叉、悪人が多くの場合に栄えたりしたに対し公明なる賞罰(しょうばつ)がなければ正義がたゝぬからであるが、叉、イエズス・キリストがすべての人に認められ、天主の世界と、銘々(めいめい)に対する慈悲(じひ)深い御摂理(ごせつり)とを覚(さと)らしめるためである。
 いよいよ公審判の時期が近づくと、天使等は天主の御命令により、ラッパを吹き、以て総(すべ)ての人を其の地より招集(しょうしゅう)する。ついで審判主たるキリストが威勢(いせい)と光栄(こうえい)を以て、雲にのり天より現れ給うと、銘々(めいめい)の、生前(せいぜん)になした善悪(ぜんあく)の、いかにかくれたる物なりとも、総(すべ)ての人々に明らかにしられ、悪人の大いなる恥、善人(ぜんにん)の大いなる慰(なぐさ)めと歓喜(よろこび)とになるのである。  
これに依(よ)って天使等は審判主の命令により、人々を二つの組みに分け、善人(ぜんにん)をキリストの右、悪人をその左におくのであるが、親子、夫婦、兄弟、朋友、などがその善悪(ぜんあく)のために永遠に別離(べつり)すべき事を考えれば、如何(いか)に淋(さび)しき事であろうか?

(二)左におかれた悪人は審判(しんぱん)主(ぬし)のキリストは、永劫(えいごう)に変わらぬ判決を以て「呪(のろ)われた者よ,我を離れて悪魔と其の使(つかい)等(ら)の為に具(そな)えられた永遠の火に入れよ」(マテオ二五、四一)との恐ろしき宣言をうけ、地獄におとされ、その霊肉(れいにく)は苦しみの火の中に、おち入り沈んでしまうのであるが、其の後、右に立てる善人は、キリストの有り難き「来たれ、我が聖(ち)父(ち)に祝せられたる者よ、世界開闢(かいびゃく)より、汝(なんじ)等(ら)に具(そな)えられたる国に入れよ」(マテオ二五,三四)という聖(み)言(ことば)を聞き永遠の福楽に入(い)る。
この時彼等善人の喜びは如何(いか)ばかりであろうか。彼等はこの世にある間(あいだ)苦しみを忍(しの)び、恥を献(ささ)げ信仰の務(つと)めをよく果たしたにより、永遠の報(むく)いとして天国の清き楽しい生命(せいめい)に入(い)ることができたのである。
 信仰生活において悪(あく)慾(よく)とたゝかう時など,弱い心の起(おこ)る際には、世の終わりの公審判の事を考えよ。たとえ信仰の為に一生の間(あいだ)苦しまなければならないとしても之によって、地獄(じごく)の永遠の苦しみを免(まぬが)れ、天国において永遠の楽しみが得(え)られるとすれば遙(はる)かに幸(さいわ)いなことではあるまいか。
 我々は行く度(たび)も罪を犯(おか)したにより、公審判の時にキリストの左におかるべき
者であったかも知れない。
しかし哀憐(あわれみ)の母なる聖マリアはその都度(つど)我等の罪の赦(ゆる)しを天主に祈って下さった。我々はこの愛にみちた御母(おんはは)に心から感謝しなければならない。

○ 公(こう)審判(しんぱん)の時に,聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてキリストの右におかるべき者となるよう
「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主イエズス・キリスト、公(こう)審判(しんぱん)に当たりて,主は左に置かれし悪人を永遠に葬(ほうむ)り,右に置かれし善人を永遠の福(ふく)楽(らく)に召(め)し給(たま)う。
 願わくはその時に当たり我が右に置かるゝ者となり、主と聖人と共に,天国へ入るを得(え)るよう御恵(おんめぐみ)を与え給わん事を、聖母の御伝達(おんとりつぎ)により伏(ふ)して願い奉(たてまつ)る。  
アメン。

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:私審判の事

2013年06月12日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

七     日
私審判の事

(一)我等人間の霊魂(れいこん)は、肉(にく)身(しん)を離れると、すぐに天主の御前(みまえ)に現れて正しい審判(しんぱん)を受けなければならぬ。
 それは一度死してしかる後に審判(しんぱん)ある事、定められると、聖書に記録(かきしる)されてあるのを見ても明(あき)らかであろう。
 審判者(しんぱんしゃ)は我等の心の極(ごく)秘密の考えまでも良く御存知の全知(ぜんち)の神にてまします。その時は叉、正義の時である。
 神の御独子(おんひとりご)主イエズス・キリストは、我々の一(いっ)生涯(しょうがい)に、我等の慈悲(じひ)深い救い主、良き牧(ぼく)者(しゃ)、親(した)しき友であったが、審判(しんぱん)の時になると、唯(ただ)、正義なる審判者にまします。その時は最早(もはや)哀(あわ)憐(れみ)の時ではない、されば善人(ぜんにん)でさへ、かような審判を恐れている。まして罪人(つみびと)は如何(どんな)であろうか。我等は今の中にその時の判決を定めよう。
 即ち其の審判の宣告に、「よし、善にして忠実なる僕(しもべ)よ、汝(なんじ)の天主の歓喜(よろこび)に入れよ」と云う有り難い御言葉(みことば)をきくか、「呪(のろ)われたる者よ、我を離れて永遠(えいえん)の火に入れよ」と云う恐るべき御言葉(みことば)をきくか、今の内に我等の行為(おこない)を以てきめよう。

(二)我等は叉、罪人(つみびと)のよりどころにして慈愛(じあい)の母なる聖マリアに厚く依(よ)り頼(たのも)う。
聖母は審判者たる天主キリストの御母であるが、同時に罪人(つみびと)たる我等には憐憫(あわれみ)
の母である。
即ち悔悛(かいしゅん)の心ある罪人(つみびと)のためには、此の上ない有力な代祷者(だいとうしゃ)になって下さる
のである。
しかし罪人(つみびと)にして悔悛(かいしゅん)の心の露(つゆ)ほどもない場合には、いかに彼が深く聖母を
尊敬し、熱心に祈るよう見えたとて何の益(えき)もない。
 己(おのれ)の行いを改(あらた)めようとせぬのは、結局天主の聖母に対し本当の尊敬を献(ささ)げる
道でもなければ、また真(まこと)の祈りをする所以(ゆえん)でもないからである。
聖母は罪人(つみびと)の救(たす)霊(かり)を熱く望(のぞ)ませ給う。けれども天主の御母(おんはは)であり、天主を此
の上なく愛し給い、何事にも天主の御旨(みむね)を体(たい)し給うマリアは、天主に好(この)んで背(そむ)き、しかも改(あらた)める心のない悪逆人(あくぎゃくにん)を、天主の思(おぼ)し召(め)しに逆(さか)らってまで救うことは出来ない。
 それ故(ゆえ)、罪人(つみびと)が改心(かいしん)せずこの世を去れば、聖母にもイエズスにも捨てられる
訳である。
幸い、今はまだ哀憐(あわれみ)の時である。
 正義の審判(しんぱん)を告白(こくはく)の秘蹟(ひせき)の恩寵(おんちょう)によって免(のが)れることもできる。未来の審判者
の御憐れみを、真(まこと)の改心(かいしん)、祈祷(いのり)と善業(ぜんぎょう)とによって招くこともできる。
 故(ゆえ)に我等がもし罪の身であるならば一刻も早く悔悛(かいしゅん)の決心をしなければならない。
 
○ 聖母マリアによりて、審判の日に哀憐(あわれみ)を得(え)んが為に、「めでたし」
三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん
 
罪人(つみびと)の、より所にまします聖母マリアよ、我が世を去りて後(のち)、主イエズス・キリストの御前(みまえ)に出(い)で正義の審判(しんぱん)を受けん時、天主の御憐憫(おんあわれみ)に浴(よく)するを得(え)んため、今にしてその判決の原因なるすべての罪の赦(ゆる)され、悔悛(かいしゅん)の秘蹟(ひせき)を以て全(まった)く主に従(したが)うべき者となるべき恵(めぐみ)を我がために請(こ)い求め給え。アメン。



聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:我等の死

2013年06月11日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

六      日
我等の死

(一)人の死するとは何であるか?云うまでもなくそれは霊魂と肉身との相(あい)離(はな)れる事である。しかしてそれはまた今まで愛していたこの世のすべての物に離れ去る事を意味する。
「人の死するや,何一つ携(たずさ)えゆく能(あた)わず」と聖霊(せいれい)も断言(だんげん)していられるが、実際その通り我等は小さな塵(ちり)一つをもあの世に携(たずさ)えてゆくことは出来ない。
 全くの無一物(むいちぶつ)でこの世に来た如く、また全くの無一物でこの世から去ってゆかねばならぬ。永い間(あいだ)貯蓄(たくわ)えて来た多くの金銭も身の飾(かざ)りとして他人(ひと)眼(め)を驚かした美麗(びれい)な衣服も、肌身離さず愛玩(あいがん)した高価な宝石も、すべてはこの世に残してゆかねばならぬのである。
 死後肉(にく)身(しん)は墓に入り,次第に腐敗(ふはい)し塵埃(ちりほこり)となり、霊魂(れいこん)は神の御前(みまえ)に出でて一生の間になした行いの審判(しんぱん)をうける。この時いやだからと云って他の人に代理をして貰(もら)う訳にはゆかない。
 しかしてその終局はいやでも応でも天国か地獄、永遠の歓喜(よろこび)か永遠の悲歎(かなしみ)の一つに落ちつかねばならぬ。
 しかも死は各自(めいめい)の人に対し、只一度しか来ない。それに失敗したならもう永劫(えいごう)に取り返しのつく時がないのである。のみならずその死は主も警告された通り「盗人(ぬすびと)の如く」来るのであって、われらはいつ、どこで、いかなる有様において死を迎えるか、唯(たれ)一人(ひとり)知らない。知っておいでになるのはひとり御父(おんちち)天主あるのみである。それは全く思いもかけぬ時に風の如く唐突(とうとつ)にやって来て、いかに、もがき逆(さか)らう人をも、恐るべき力であの世へ奪い去ってゆくのである。
 それ故(ゆえ)われらはよく反省しなければならない。今の霊魂の状態で死ぬならば、自分は果(は)たして何れの永遠に落ちつくであろうか。
 今、突然死が襲って来たとして、安心してそれを迎え得る用意が備(そな)わっているだろうか。
もし現在の状態では死にたくないと思うならば、どうして平気でそのまゝ月日を送っているのか。
 なぜ一秒も早く痛悔(つうくわい)してその不満足な状態を去り、善(ぜん)終(しゅう)の準備をしようとせぬのであるか。
 恐らく死は今晩訪(おとず)れて来るかも知れぬではないか。

(二)聖マリアがこの世を去られる時ほど、安楽(あんらく)な臨終(りんじゅう)はなかったであろう。
死ぬ時、多くの人々の心を苦しませるものも聖(せい)なる元后(げんこう)に対しては何の力もなかった。
まづ、この世のあらゆる物に離れ去ることは聖母にとって少しも惜しくなかった。そういう物は日頃からはかない過ぎ去るものとして毫(ごう)も執着(しゅうちゃく)してをられなかったからである。
 叉マリアは良心の咎(とが)めを一向に御存知(ごぞんじ)なかった。一(いっ)生涯(しょうがい)熱心に天主に仕(つか)え、あるものは輝く美徳(びとく)ばかり、罪の汚(よご)れの更になき御身(おんみ)としてはそれも当然であったろう
 彼女はそれ故(ゆえ)、永遠の不幸に陥(おちい)る心配などは夢にも知り給わぬ所であった。
のみならず、却(かえ)って片時(かたとき)も早く御子(おんこ)キリストと共にあることを望(のぞ)んで、天主への激(はげ)しい愛に身も心も焼け切れんばかりであらせられた。
 こうゆう霊魂(れいこん)にとっては死は牢獄(ろうごく)よりの解放(かいほう)であり、懐(なつ)かしい故郷への帰還(きかん)である。
どうしてこれが喜び迎えずにおられよう。
われらも唯(ただ)一人(ひとり)安らかな臨終(りんじゅう)を望(のぞ)まぬ者はあるまい。しからば聖マリアや其の他の聖人の如く、よく死ぬ前にまずよく生(い)きなければならない、まことに死は生涯(しょうがい)の山彦(やまびこ)であるから生(せい)の一刻一刻を死の準備として有効に費(つい)やさなければならぬのである。

○ 善(ぜん)終(しゅう)に対し特に聖母の御助けを求める為「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主イエズス・キリスト、主は「汝(なんじ)等(ら)警戒せよ、汝(なんじ)等(ら)は死の日、死の時を知らざればなり」と曰(のたま)いたる如くわれらは死の一度来ることのみを知って、その日、その時、その場所を知らざる者なれば、乞(こ)い願わくは、死の以前において悔悛(かいしゅん)の秘蹟(ひせき)により清められ、霊(れい)の糧(かて)、聖体(せいたい)の秘蹟(ひせき)により強められ、終油(しゅうゆ)の秘蹟(ひせき)と聖会(せいかい)の祈りにより慰(なぐさ)められつゝ、安全に息(いき)絶(た)ゆるを得(え)せしめ給え。アメン。、



聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:大罪の結果

2013年06月10日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

五     日
大罪の結果

(一)木の実(み)によって其の木を知る事が出来る。罪の実(み)は其の罰(ばつ)である。されば罰(ばつ)によって罪の恐ろしさを覚(さと)ることができる。天の使等は最初の罪を犯(おか)した。
 彼等は傲慢(ごうまん)のため天主の主権を軽んじてこれに叛(そむ)き、ただちに永遠なる地獄(じごく)におとされた。
 聖ヤコボによってイエズス・キリストは、罪を犯(おか)したる天使の堕落(だらく)について次の如く仰せられた。「我サタンが今の如く天より堕(お)つるを見つゝありき」と。
 唯(ただ)一(ひと)つの天使等の罪は恐ろしき罰を招(まね)いた。しかるに、虫の如くいやしい我々人間は、平気で行く度(たび)も天主に叛(そむ)こうとするのであろうか?

(二)天主は悪天使の罪をきびしく罰(ばっ)せられたばかりでなく、人類の元祖(がんそ)の罪をも罰(ばっ)せられた。
 我等人類の元祖(がんそ)は天主の最上の主権(しゅけん)を蔑視(べっし)して、彼と同様の者とならんが為、極(きわ)まりなき傲慢(ごうまん)の罪を犯(おか)した。天主は人類の元祖(がんそ)の罪を如何(いか)にきびしく罰(ばっ)せられたか?
 アダムとエワは、このただ一つの罪のために楽園から追放された。元祖(がんそ)ばかりではない。
其の子孫なる我々も原罪(げんざい)の悲しむべき結果なる病気、辛苦(しんく)、艱難(かんなん)、疫病(えきびょう)、飢饉(ききん),地震、戦争等を免れぬものとなった。罪のこのおそろしい結果を考えよ、必ずその考えによって罪の憎(にく)むべきを知るであろう。
 叉、聖母マリアの天主に対する従順(じゅうじゅん)を見よ。それによって全世界にどれほど大いなる恵(めぐみ)を与えられたか、わからないのである。故(ゆえ)に聖会は聖マリアの御誕生について云っている。
「あゝ!童貞(どうてい)なる聖母よ、御身の御誕生は全世界に大いなる喜びをもたらし、御身は全世界を照らす太陽なる救い主に先だちて世に現れ給えり。
 神の呪(のろ)いを滅(ほろ)ぼし,明るき救いを得(え)させ死に打ちかち、我等に永遠の生命(いのち)を与え給うた主イエズス・キリストは御身より現れ給いしなり」と。
 聖母マリアは今天主の御側(みそば)にあって、我等の代祷者(だいとうしゃ)として善人をも悪人をも御子の慈悲(じひ)深き聖心(みこころ)に近寄らせ給う。
 聖マリアこそ、善人には死に至るまでの忍耐(にんたい)を、悪人には真(まこと)の改悛(かいしゅん)の恩寵(おんちょう)を求め給う愛の母である。

○ 聖母の御助(おんたす)けによってすべての大罪を免(まぬが)れんが為「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

あゝ天主、我は一つの大罪をもっても地獄に堕(お)つべき者なるに、そを覚(さと)りつゝ
なお屡々(しばしば)之を犯すの暴虐(ぼうぎゃく)を敢(あ)えてなしたりき。
主は憐(あわ)れみの眼(まなこ)をたれ給いて、行く度(たび)もこれを赦(ゆる)し給いしかば、我が心の
底より感謝し奉る。願わくは哀憐(あわれみ)の母なる聖母マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて、再び罪を犯(おか)さざるの聖寵(せいちょう)を与え給わん事を。アメン。




聖伝の御聖体行列の様子

2013年06月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の6月2日は御聖体の荘厳祭を祝いましたが、今から50年ほど前、フランスのヴァンデ地方での聖体行列の様子のビデオをご紹介します。





 次は2013年フランスのヴァンデ地方にあるアンジュの聖ピオ十世会の聖堂での聖体行列の写真です。


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 至聖なる聖体の秘蹟のうちに真にましまし給うイエズス・キリストは賛美せられさせ給え!

 次はフランスのバスク地方のドムザンでの聖体行列です。

[Image]

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 私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
 「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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사랑하올 형제 자매 여러분,
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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:大罪の恐ろしさ

2013年06月09日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

四     日
大罪の恐ろしさ

(一)唯(ただ)、天主のみ完全に大罪の恐ろしさを覚(さと)ることが出来るのである。なぜならば、唯(ただ)、天主のみ完全に御自分の性質を覚(さと)っていられるからである。
 人はつまらない虫のような物でありながら、傲慢(ごうまん)にも全能なる天主にさからい、彼に向かって、我は汝に従(したが)はぬと言う。
一方において、天主の広大(こうだい)無辺(むへん)なる事を考え、他方(たほう)において、人間のごくつまらない事を思えば、天主の主権(しゅけん)を軽蔑(けいべつ)して、彼に加える無礼が、如何ばかり非道(ひどう)なものであるか察するに難(かた)くない。
 尚(なお)、罪の恐ろしさを更に深く覚(さと)る為に、十字架にかゝられたイエズス・キリストを考えてみよう。天主の御独子(おんひとりご)、罪なき羔(こひつじ)なる主(しゅ)、イエズス・キリストを、最も惨酷(ざんこく)な死を遂(と)げられたイエズス・キリストを、磔柱(はりつけばしら)に付けたのは誰であるか?云うまでもなく其れは惨酷なるユデア人であった。けれども彼等は唯(ただ)、
道具であるに過ぎない。真実(ほんとう)の下手人(げしゅにん)は、我等と我等の罪である。
 聖(おん)父(ちち)、天主は如何(いか)に罪をお嫌(きら)いなさるか?罪のないイエズス・キリストが、他人の罪のために忍(しの)んだ苦しみを考えて見よ!他人の罪のためにさえ、かほどまで苦しまなければならないものであるならば、われらが自分自身の罪のための罰(ばつ)としてうけなければならぬ苦しみは如何に峻険(しゅんけん)な物であろうか?

(二)主イエズス・キリストは一般の人を地獄(じごく)より救わんがために、御血(おんち)を流し磔(はりつけ)られ給うた。
これによりて、主が如何に感ずべき愛をしめされたかを考えて見よ?天地の主は我等、僕(しもべ)のため、善よき牧者(ぼくしゃ)は迷える羊のため、愛深き聖(おん)父(ちち)は我等不幸なる子供のために命を捧げられたのである我等は再び罪を以て、イエズス・キリストに同じ苦しみをかくべきであろうか?
 聖マリアを見よ、罪も汚(よご)れもなき聖寵(せいちょう)充満(みちみ)てるマリアは、十字架の下に立って罪人なる我等のために、御子キリストを聖(おん)父(ちち)天主に犠牲(ぎせい)として捧げられた。世間の如何なる母も持ち得ないほど、熱い愛を以て愛された聖子キリストを無惨(むざん)にも失われた時に、聖母が如何ばかりの悲歎(ひたん)と苦痛とを味はわれたかわ、到底(とうてい)想像もつかない。御手(おんて)、御足(おんあし)の釘(くぎ)を打った跡(あと)は耐(た)えがたき苦痛(くつう)を以て母の心を貫(つらぬ)いた。イエズス・キリストの歎息(たんそく)はことごとく、母の心にいうべからざる悲しみを以てひびいたのである。
あゝ!聖母マリアよ、如何に多くの苦しみを我等の罪のため御身は耐え忍び給うたか!

○ 大罪の恐ろしい事をよく悟(さと)り得(え)るため「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

あゝ天主、我(われ)主(しゅ)の限りなく嫌(きら)い給う罪を以て、限りなく愛すべき聖(おん)父(ちち)に背(そむ)きしを深く悔(く)やみ奉る。
 聖子(おんこ)イエズス・キリストの流し給える御血の功徳(くどく)によりて我が罪を赦(ゆる)し給え。
聖寵(せいちょう)の助力(じょりょく)を以て今より心を改(あらた)め、ふたゝび罪を犯(おか)して聖心(みこころ)に背(そむ)くことあるまじと決心し奉(たてまつ)る。アメン。



聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:世のはかなさ

2013年06月08日 | カトリックとは
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

三      日
世のはかなさ

(一) 世の富(とみ)、名誉あらゆる快楽に、溺(おぼ)れている人々は幸福ではなく、かへって非常に不幸である。かような人は先(ま)ず世の宝や快楽(かいらく)を求める為に、どれほど心を悩(なや)ますか解(わか)らない。
 しかもそのようにして求めた宝にさへ、長く満足している事は出来ない、もし仮(かり)に全世界の宝を有(ゆう)しているとしても、叉すべての楽しみを、ほしいまゝにし得(う)るとしても、決してそれにいつまでも満足していることは出来ない。
 昔サロモン王は望(のぞ)みうるまゝにすべてのものを持って居た。しかしそれにも拘(かか)わらず彼曰(いわ)く「あゝ!皆、空虚(くうきょ)にして、風を捕(とら)うるが如し」と。
 金銀、名誉、快楽の総(すべ)ては、唯(ただ)しばらくの楽しみに過ぎぬ事が十分にわかるならば皆,嫌(いや)になる。
 世の楽しみ世の宝はやがて影のように消えてしまうものである。死後、我等の魂はどうなるであろうか?そう考えるならばどうして、我等はこの、はかない世間に仕(つか)える事が出来よう?世間の賤(いや)しい報(むく)いを得(え)るために、天主も,天国も終わりなき幸福も皆、捨て去るような愚(おろ)かなことは到底(とうてい)出来なくなるに相違(そうい)あるまい。

(二)しかし我等は欺(あざむ)かれやすいものである。世の名誉も快楽も財宝も、最も美しい姿を見せて我等に臨(のぞ)む。
 しかし死というものが来てその仮面(かめん)をとり去ってしまうと、始めてその真実(しんじつ)の姿が現れるのである。
 此の時、世のすべてのはかない事がハッキリ悟(さと)られ、金銭は塵埃(ちりほこり)の如く、名誉は煙の如しという事がわかる。
 それであるから世の快楽に溺(おぼ)れて居た人の心は、臨終(りんじゅう)の時に如何(いかん)に苦しく感じるであろうか?スペイン国の王フリイッポ三世は臨終(りんじゅう)の時に「あゝもし自分が今までどこかの修道院で、天主に仕(つか)えていたとしたならば、今いかなる喜びの心を以て、天主の御前(みまえ)に出る事が出来ようか」と申された。
 実に世間の人は生きている時も死ぬ時も幸福ではなく、かへって非常に不幸なのである。
聖マリアを考えて見よ!天主の謙遜(けんそん)なる婢(つかひめ)は、世の名誉と其の快楽を避(さ)け、一(いっ)生涯(しょうがい)、天主に仕えられた故(ゆえ)、此の世を去られるに当たっては大いなる喜びに満(み)たされ給うた。
 我等も其の御手本に習(なら)い、いつかは、世を去るべき事を熟考(じゅっこう)しよう!
此の世では天主に仕(つか)え奉る事の外(ほか)、総(すべ)て果敢(はか)なくつまらないものであることを、心に深く味わってみよう。
 そうして其の黙想(もくそう)の結果としてこれから自分は如何(いか)にすべきか、しっかりした決心をたてなければならない。

○ 世の果敢(はか)ない事を避(さ)ける恵(めぐみ)を受けんが為め「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

あゝ主イエズス・キリスト、我は世にありても、世の者に非(あら)ずして、主のものなることをよく弁(わきま)えつゝも、屡々(しばしば)世の欲(よく)に心をひかれ主に背(そむ)きたれば、請(こ)い願わくば我をして益々世のはかなさを覚(さと)らしめ、世を離れて専(もっぱ)ら主をのみ愛し、主にのみ仕(つか)え、主を得(え)ん為に総(すべ)てを捧げる御恵(おんめぐ)みを与え給え。アメン。



聖母の汚れなき御心への奉献と御聖体の祝日の報告

2013年06月08日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今朝、マニラにある、勝利の聖母の教会(Our Lady of Victories Church) では、徹夜の聖体礼拝の後、歌ミサを捧げ、フィリピンの全ての司教、司祭、カトリック信徒と一致して、フィリピンを聖母の汚れなき御心に奉献しました。天主様に感謝!
 皆は跪き、司祭が代表で奉献の祈りを唱え、それが終えると聖母への聖歌を歌いました。教会の鐘が鳴り響き、中にはうれしくて泣きむせぶ方々もいました。大変幸せな時を過ごしました。
 日本でも、日本中の司教、司祭、信徒らが一致して、日本の聖母の汚れなき御心に対する奉献を更新する日が早く来ますように! 

 ところで、6月2日は私たちもフィリピンで御聖体の荘厳祭を祝いました。写真を紹介します。


聖体行列

聖体降福式


 御聖体の祝日には、聖務日課の朝課で次の賛歌を歌います。日本語訳を作ってみました。

SACRIS solemniis
iuncta sint gaudia,
et ex praecordiis
sonent praeconia;
recedant vetera,
nova sint omnia,
corda, voces, et opera.

聖なる祭に
喜び合わせよ。
心の底から
喜びの歌を。
旧約は去りし
全ては新に
心も声も行いも。


Noctis recolitur
cena novissima,
qua Christus creditur
agnum et azyma
dedisse fratribus,
iuxta legitima
priscis indulta patribus.

あの夜になせり
最後の晩餐、
わが主は弟子らに
先祖らの受けた
法(のり)に従いて
与え給うたり
子羊と種なしパンを。

Post agnum typicum,
expletis epulis,
Corpus Dominicum
datum discipulis,
sic totum omnibus,
quod totum singulis,
eius fatemur manibus.

前兆(しるし)の子羊
食されたりしが
成就せり旧約。
主はおん体を
み弟子らに与え
全てが皆へと
一人一人へに手渡さる。


Dedit fragilibus
corporis ferculum,
dedit et tristibus
sanguinis poculum,
dicens: Accipite
quod trado vasculum;
omnes ex eo bibite.

か弱い者らに
御体を糧と、
悲しむ者らに
御血の飲み物を
与え給えしぞ。
杯を受けよ、
皆、これ飲め、と命じつつ。

Sic sacrificium
istud instituit,
cuius officium
committi voluit
solis presbyteris,
quibus sic congruit,
ut sumant, et dent ceteris.

かく定めたりし
このいけにえをば
司祭らのみにぞ
主は委ねたりし。
彼らは食して、
他の者たちにも
与えるのを望み給うた。

Panis angelicus
fit panis hominum;
dat panis caelicus
figuris terminum;
O res mirabilis:
manducat Dominum
pauper, servus et humilis.

天使らのパンは
人のパンとなり、
天上のパンは、
前表を終えた。
感嘆すべきよ、
貧しき卑しい
しもべが主を食するとは!


Te, trina Deitas
unaque, poscimus:
sic nos tu visita,
sicut te colimus;
per tuas semitas
duc nos quo tendimus,
ad lucem quam inhabitas.

三位なる天主、
唯一の天主、
御身を崇める
われらに来たりて
御身の小道を
導き給えよ、
御身の光の御国へ。



天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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