朝から不愉快なできごとがあった。
玄関のチャイムが鳴ったのでインターホンで確かめずに出てしまった。(迂闊)
幼稚園児くらいの子供の手を引き2歳になるかならないかの子供を腕に抱え、傍らにベビーカーを置いた女性が家の門の前に立っていた。
嫌な予感がしたけど、何か御用でしょうか?と聞いたところ ある宗教団体(火の見櫓みたいな名前の宗教法人 笑)の名前を出して戸別訪問して布教中だと言った。
興味がないし、そちらの宗教とは相容れない理由があることを一応丁寧に告げてお帰り願った。
今日の東京はものすごく寒く、素足の足から冷えがのぼってきてぞくぞくしながら部屋にもどりがてら怒りがわいてきてしまった。
火の見櫓(仮)の布教活動はこの近辺でよく行われている。息子が小学校の時同級生だった子の母親が熱心な信者で、同じ学校の母親を集会に勧誘したりという話もあったし、その母親も含んだ女性たちが道端で戸別訪問の打ち合わせであろう話し合いをもっているのもよく見かけた。彼女は美人でセンスもよく公立小のママの中で見かけは目立つ存在だったし、話してみても感じがよくて常識的な人とは思った。今日の訪問者も自分も子供たちもきちんとした印象で、他の怪しげな宗教の勧誘の人々のように いかにも小汚い風はなかった。
ただ、子供は運動会の時ある種行事は絶対に参加しなかったし、日曜日は絶対に教会という予定ははずせなかったので、運動神経もよくとても上手だったのにもかかわらずサッカーチームなどには入らなかったらしい。
その頃からその団体に対しては、違和感があったんだけど。今日改めてその違和感の原因っていうのが自分の中ではっきりした。
はっきり意志の決まっていない子供に頑なな宗教観を植えつけてその生き方を限定方向に導いているように見えることだったのよね。
はっきり書かないけど(読んでる方はわかるだろうけど)その教義にはいざって時に生死を分かつ場面で影響することも含んでるわけだし。
昔からの宗教、新興宗教にかかわらず 絶望の淵にたった人間を救うこともあるだろう。信じるものがある人というのはある種の強さは確かに持つこともできる。
でも、それだけに絶対的な価値観をおき、他の宗教を否定し、自分たちの教義を信じるものだけが救われるといった頑なさは嫌だ。
人ってもっと柔軟であるべきではないのだろうか?
私が怒りを感じたのは、この寒い中、年端のいかない子供たちを連れまわすその行為だった。確かに穏やかないい母親そうな女性だったから、子供たちもお母さんがが好きなのに違いない。だけど将来こういった事は彼らの記憶にどういった位置づけとして残るのだろうか?(どっちみち私は独善的善人っていうの嫌いなのよね)
それに、万が一ですよ、子供をアクセサリーとして戸別訪問の道具に使ったとしたら本当にいやだ。預けられないから一緒に戸別訪問するっていうのならしょうがないけど、そうならば他の信者が 今日は寒いからあなたはいいわよ と言うべきであろう。あえて子連れといった思惑が働いてたら私から見たら許せない行為です。
彼女とさよならする前に一言 「寒いからお子さんたちに風邪をひかせないようにね」と言うべきだったなと私は今、とても後悔しているのである。
玄関のチャイムが鳴ったのでインターホンで確かめずに出てしまった。(迂闊)
幼稚園児くらいの子供の手を引き2歳になるかならないかの子供を腕に抱え、傍らにベビーカーを置いた女性が家の門の前に立っていた。
嫌な予感がしたけど、何か御用でしょうか?と聞いたところ ある宗教団体(火の見櫓みたいな名前の宗教法人 笑)の名前を出して戸別訪問して布教中だと言った。
興味がないし、そちらの宗教とは相容れない理由があることを一応丁寧に告げてお帰り願った。
今日の東京はものすごく寒く、素足の足から冷えがのぼってきてぞくぞくしながら部屋にもどりがてら怒りがわいてきてしまった。
火の見櫓(仮)の布教活動はこの近辺でよく行われている。息子が小学校の時同級生だった子の母親が熱心な信者で、同じ学校の母親を集会に勧誘したりという話もあったし、その母親も含んだ女性たちが道端で戸別訪問の打ち合わせであろう話し合いをもっているのもよく見かけた。彼女は美人でセンスもよく公立小のママの中で見かけは目立つ存在だったし、話してみても感じがよくて常識的な人とは思った。今日の訪問者も自分も子供たちもきちんとした印象で、他の怪しげな宗教の勧誘の人々のように いかにも小汚い風はなかった。
ただ、子供は運動会の時ある種行事は絶対に参加しなかったし、日曜日は絶対に教会という予定ははずせなかったので、運動神経もよくとても上手だったのにもかかわらずサッカーチームなどには入らなかったらしい。
その頃からその団体に対しては、違和感があったんだけど。今日改めてその違和感の原因っていうのが自分の中ではっきりした。
はっきり意志の決まっていない子供に頑なな宗教観を植えつけてその生き方を限定方向に導いているように見えることだったのよね。
はっきり書かないけど(読んでる方はわかるだろうけど)その教義にはいざって時に生死を分かつ場面で影響することも含んでるわけだし。
昔からの宗教、新興宗教にかかわらず 絶望の淵にたった人間を救うこともあるだろう。信じるものがある人というのはある種の強さは確かに持つこともできる。
でも、それだけに絶対的な価値観をおき、他の宗教を否定し、自分たちの教義を信じるものだけが救われるといった頑なさは嫌だ。
人ってもっと柔軟であるべきではないのだろうか?
私が怒りを感じたのは、この寒い中、年端のいかない子供たちを連れまわすその行為だった。確かに穏やかないい母親そうな女性だったから、子供たちもお母さんがが好きなのに違いない。だけど将来こういった事は彼らの記憶にどういった位置づけとして残るのだろうか?(どっちみち私は独善的善人っていうの嫌いなのよね)
それに、万が一ですよ、子供をアクセサリーとして戸別訪問の道具に使ったとしたら本当にいやだ。預けられないから一緒に戸別訪問するっていうのならしょうがないけど、そうならば他の信者が 今日は寒いからあなたはいいわよ と言うべきであろう。あえて子連れといった思惑が働いてたら私から見たら許せない行為です。
彼女とさよならする前に一言 「寒いからお子さんたちに風邪をひかせないようにね」と言うべきだったなと私は今、とても後悔しているのである。