潮汐、時充ちて約束を

第56話 潮汐act.6―another,side story「陽はまた昇る」
潮騒のきらめきが、カトラリーに照りかえす。
日曜の午後、遅めのランチタイムは静かで個室の席は寛げる。
ゆったりと青い海ひろやかな窓を眺めながら、周太はフォークに口つけて微笑んだ。
「ん…おいし、」
なめらかな平目の甘みにトマトの風味が合う。
かすかな佳酒の香に上質な味が醸される、きっとシェフの手腕が良い。
付け合せの緑も綺麗で盛付の勉強になる、味と見た目と両方を楽しみながら周太は婚約者に笑いかけた。
「英二、おばあさまと菫さんと話せて楽しかった…お父さん達のことも聴かせてくれて、嬉しかったよ?ありがとう、」
「よかった。祖母たちも喜んでたよ、周太のこと可愛いってさ。また会いに行こうな、」
楽しげに笑いかけてくれる恋人は、優雅にナイフとフォークを使っている。
そんな様子は似合っていて綺麗、そう見惚れながらも改めて育ちの違いを想ってしまう。
…このお店すごく佳いみたいだけど…英二、常連なんだね
白い調度品と磨き抜かれたオークの床、美しい器たちと上質な食事。
さわやかな海辺の雰囲気やさしい空間は、さりげなく置かれたアンティークにも高級店と解かる。
それもプライベートな個室を当然のよう案内された、この席は青い海のロケーションも良い。
こういう場所に英二は来馴れている、そんな様子に数日前の新宿の風景が思い出された。
―…なんか宮田って、良い店が似合いそうだから?そういうとこ連れて行きそうだなって思って
飲み会の席で内山に言われた言葉は、その通りだと思う。
こういう英二がノンキャリアの警察官として、山岳救助隊員を務め山に生きている。
いま銀器を操っていく美しい白皙の手、この掌を血と泥に塗れさせ遭難救助の前線に英二は立つ。
それが今、こうした場所で向かい合っていると不思議になってしまう。そして誇らしい。
…こういう場所より英二は、尊厳と命を護る世界を選んで、最高峰の夢を見つけて…そういうところがすき
与えられた安全と贅沢より、求める情熱と夢のため危険にも駈けだしていく。
そういう真直ぐな情熱は眩しくて、憧れに見惚れて恋は募り、愛しさは深くなる。
英二が立つ危険は不安で怖い、それでも誇らしい想いに見つめて、いつも信じて帰りを待っている。
…いつも誇らしい、でも…この不安をもうじき英二にも味あわせてしまう…ごめんね
そっと溜息に見つめる恋人の手には、クライマーウォッチが時を刻む。
この腕時計は英二の時計と交換に贈ったもの、あのときの祈りは今も変わらない。
もうじき「あの扉」の向こうに行く、そう告げられた今日だから尚更に祈り見つめている。
どうか、最高峰でも自分のこと、少し思い出して?
あなたの夢の場所で、自分のことを少しでも想ってもらえたら、幸せだから。
もうじき自分は自由を奪われる場所へ行く、その道へ進むことを今はもう心定めている。
この定めに後悔はしない、けれど恋する自由だけは抱き続けたままで、その場所でも生きていたい。
この自由を与えてくれるのは、あなたの笑顔だけ。あなたが最高峰で笑っていることが、自分にも自由の夢を見せてくれる。
…だから英二、笑っていて?ずっと、いつまでも夢に笑って輝いて…最高峰へと、山へと光一に攫われていて?
そっと祈る想いに幼馴染の俤が微笑む。
あの笑顔にも会いに行きたいな?そんな考え想いながら周太は最愛の人へ笑いかけた。
「お祖母さんと似てるんだって、俺…きれいな人だったって言うから、なんか申し訳なかったよ?」
似ている人がきれいと言われたら、烏滸がましくて申し訳なくなる。
本当はがっかりさせていなかったかな?そんな心配と羞んだ向かいから、さらり綺麗な低い声が笑ってくれた。
「周太と似ていたら、きれいだろな?周太は誰より、一番に綺麗だよ、」
…個室でよかった、
ほっと心に呟いてしまう、人目が無いことに安堵する。
こんな美青年が口説く相手がこんな自分では、見た人には「がっかり」だろうから。
こんなふうに言われたら気恥ずかしい、けれど嬉しくて羞みながら周太は微笑んだ。
「ありがと…あとね、やっぱり湯原博士が、お祖父さんだったよ?…お祖母さんは教え子で、すてきな恋愛結婚だったって教えてくれて」
「お祖父さんとお祖母さん、学者だったんだな。周太に似合ってる、そういうの、」
穏やかな笑顔で見つめて、ナイフとフォークを英二は置いた。
周太も同じに食べ終えてナプキンで少し口許をぬぐうと、静かに現われたギャルソンが皿を下げてくれた。
タイミングをきちんと計った給仕は店の格を想わせて、幼い日に父と母と楽しんだ記憶に微笑んだ。
「お父さん、偶に行くビストロのシェフとフランス語でお喋りしてたんだ…お祖父さんとお祖母さんに教わってたから話せたのかな、」
「きっとそうだな。そのシェフ、フランスの人なんだ?今でもある店?」
運ばれてきた次の皿をはさんで、綺麗な低い声が訊いてくれる。
その笑顔と芳ばしい湯気の幸せに微笑んで、周太は記憶と答えた。
「ん、今もあると思うよ?…そのシェフ、お父さんと同じくらいだから…そのひと3代目でね、お祖父さんとも行ってたみたい、」
「家族で行き続ける店って良いな、今度一緒に行こうよ、」
楽しそうに笑いかけて、長い指が銀のフォークとナイフを手に取った。
そんな仕草もごく自然に優雅で見惚れてしまう、そして言ってくれた言葉が嬉しい。
家族で行き続ける店に一緒に行きたい、その意味が素直に嬉しくて周太は綺麗に笑いかけた。
「ん、行きたいな。俺もずっと行ってないんだ…このお店、英二は良く来るの?」
「うん、お祖父さんが元々は好きだったんだ。お祖母さんとのデートコースだったんだよ、月一位でふたりは来てたらしいよ、」
綺麗な低い声が教えてくれることに、嬉しくなる。
だから顕子は葉山に住んでいるのかな?そんな優しい想いに周太は綺麗に笑いかけた。
「御仏壇お参りしたとき、写真見させてもらったけど、かっこいい人だね?…すこし英二と似てるね?」
「よくそう言われるよ。だから俺の顔、お祖母さんのストライクゾーンなんだってさ、」
可笑しそうに笑って白皙の指はグラスを持つと、端正な口に含んだ。
金色ゆれるノンアルコールのワインに海の陽きらめく、綺麗で、また見惚れながら周太は微笑んだ。
「おばあさま、すごく素敵なひとだね?…お父さんの小さい頃のこと教えてくれて、謝ってくれたの。ずっと音信不通だったって。
お父さん亡くなったこと、知らなくてごめんなさいって。何も出来なくてごめんねって言ってくれて…嬉しかったよ、本当に優しい人だね?」
抱きしめて涙ひとすじ見せてくれた、あの真摯な眼差しが嬉しかった。
そして、あの眼差しに見つめた懐旧と愛惜に「所縁」が、朧げでも確かに感じられたころが嬉しい。
何も知らずにいても廻り会えて、名乗り合えなくても所縁を見つめ合えた、それが嬉しかった。
この喜びに微笑んだ周太を父と似た目は見つめて、穏やかに微笑んだ。
「そっか、お祖母さん、そんなふうに話してくれたんだ?」
「ん、」
頷いて笑いかけながら、周太は婚約者の目を見つめた。
その目は穏やかに優しくて、深い想いが温かく見守ってくれている。
その深みに優しい秘密の気配を見つけて、静かに確信が肚に落ちた。
…やっぱり英二は知ってるんだね…きっと真相を知ってる、でも何か理由があって言わないでくれてる
なぜ英二が言わないのか?その理由は何も解からない。
けれど、あの聡明な老婦人も沈黙を守っているのなら、ふたり共通する誠実な理由がある。
父と似た目を持つふたり、どちらの目も周太を真直ぐ見つめてくれる、だから信じられる。
いつか時がくれば話してくれる?そう信頼を見つめながら周太は、青紫の瞳やさしいナニーのことを口にした。
「菫さん、俺の英語は、お父さんとそっくりって教えてくれて…英二とお姉さんと、お父さんの英語は菫さんが先生なんでしょう?」
「そうだよ、姉ちゃんは菫さんの影響で英文学科に行ったんだ。父さんが外資系に行ったのも、その辺あるみたいだよ」
きれいにフォークを運びながら教えてくれる、その話題が嬉しくなる。
こんなふうに家族の事を教えてもらえる、それが温かくて周太は微笑んだ。
「そうなんだ?…それでね、お父さん、英二のお父さんと一度だけ会ったことあるんだって…今日のケーキも一緒に食べたんだって、」
「オレンジのガトーショコラ?あれ旨いよな、でも父さん何も言ってなかったけど、」
すこしだけ考えるよう切長い目が細められる。
けれどすぐ微笑んだ眼差しに、周太は素直に笑いかけた。
「ん、そうなの…たぶん忘れちゃってるって、おばあさま達も言ってて…まだ7歳と9歳の時だから、って、」
「父さん、9歳か?それくらい小さいと忘れても仕方ないかもな。ごめんな、周太」
「ううん、謝らないで?…でも、ありがとう、」
「可愛い、周太。このあと浜に降りような、貝殻のとこ連れてくよ?」
きれいな笑顔を見せてくれながら、楽しげな会話で食事してくれる。
ふたり囲んだ美しい皿は、芳ばしい魚の匂いと甘い野菜の香が優しい。このひと時の幸せを周太は大切に見つめた。

波打際、潮ひく跡に耀きこぼれる。
洗われて濡れる浜辺の砂は、瑞々しい陽光ふくんで照りかえす。
潮騒が曳いていく、そして顕われた小さな貝殻たちに周太は微笑んだ。
「見て、桜貝、」
声、はずんで砂に指を伸ばす。
そっと拾いあげた指先には、薄紅の花と似た姿が空に透けた。
この時期に拾えるなんて?嬉しくて微笑んだとき、ふわり抱きあげられた。
「ほら、周太。裾が降りてる、」
綺麗な笑顔ほころんで、すこし波から離れた場所に立たせくれる。
見上げた笑顔は端正な華やぎまばゆくて、海の太陽に透ける髪は金色に輝く。
ほんとうに「美青年」な婚約者に見惚れながらも想ってしまう、この隣が自分だなんて見た人には「がっかり」されそう?
けれど大好きな人に構ってもらえることが嬉しくて、それでも気恥ずかしいまま周太は微笑んだ。
「…ありがとう、捲ったつもりだったんだけど、」
「俺がやってあげるよ、」
笑いかけながら片膝ついて、黒藍の裾を捲りあげてくれる。
サンダル履きの素足が風に晒されて心地いい、このサンダルも英二がさっき買ってくれた。
優しいキャメルブラウンのサンダルは足に添い履きやすい、嬉しくて、けれど切なさにそっと溜息こぼれた。
…プレゼント嬉しいな、でも…次はいつ履けるんだろう?
また海に一緒に来られる日は、いつ来るのだろう?
もう既に告げられた現実に緊張と心軋んで、ひとつ呼吸する。
呼気に潮風ゆるりと吹いて唇に潮がふれる、ほっと息吐きながら周太は薄紅の貝殻を見た。
…ん、好きな桜貝が拾えて嬉しいな?
桜貝は1月が拾えるシーズンだから、今日は無理かなと思っていた。
だから今日は幸運だな?嬉しくて微笑んだ足元から長身が立ち上がり、優しい婚約者は笑いかけてくれた。
「周太、袖も捲った方がいいな?濡れたら困るから、」
「ん、ありがとう…いろいろ、ごめんね?」
微笑んで見上げた先、切長い目が笑いかけてくれる。
父よりも睫あざやかに華やかな目、綺麗で見惚れながら周太は笑いかけた。
「桜貝、今日は無理かなって思ってたんだ…冬に拾える貝だから、」
「貝殻にも季節があるんだ?」
綺麗な低い声で話しながら袖を捲ってくれる。
きれいに折りあげて貰って、お礼を言おうと笑いかけた顎に長い指が掛けられた。
「周太、」
名前を呼ばれて見上げた、その唇に唇が重ねられる。
ほろ苦く甘い香が温かい、ふれる吐息に熱が昇って幸せが浸しだす。
けれど人もいる外では恥ずかしい、切長い目に瞳覗きこまれて周太は睫を伏せた。
「…こんなとこでだめです…はずかしいですひとがいるのに?」
「キス、デザートの味だったよ。周太、さっきの店は気に入ってくれた?」
嬉しそうな笑顔ほころんで、優しく訊いてくれる。
こんな笑顔されたら嬉しくて、けれど恥ずかしくて俯いたまま微笑んだ。
「ん、はい…おいしかったです」
「気に入ってくれたなら良かった、また連れて行ってあげるな、」
笑いかけて長い指が掌くるんでくれる。
言ってくれる言葉が嬉しくて、けれど切なくなってしまう。
また海に来れる時間があるのか解らない、それでも「いつか」を信じて周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう…何かのお祝いとか、そういう時に行きたいな、」
英二は周太と同じ警察官で公務員だから、堅実に家計は考えた方が良い。
なにより良いお店だから、特別な時だけと決めた方が楽しくなる。そんな考えに英二は綺麗に笑いかけてくれた。
「じゃあ、9月の終わりは行かないとな?」
「ん?…どうして?」
何げなく訊いて見上げた先、端正な貌が「がっかり」した。
それでも微笑んで、けれど少し素っ気ないトーンで英二は言った。
「忘れちゃったんだ、周太?なら良いよ、」
微笑んでくれている、けれど寂しげな貌と口調に気付かされる。
9月の終わり、あの日を英二も大切にしてくれている?
そう気がついて周太は隣の長身へと腕を伸ばした。
「英二、ごめんなさい、」
ひろやかな肩に腕を回して背伸びする。
抱きついた胸からカーディガン透かして熱ふれる、愛しいひとの体温が幸せで微笑んだ体が抱きしめられた。
「俺こそ、ごめんな」
綺麗な低い声が謝ってくれる、その声に哀しいトーンが見えてしまう。
この哀しみは「秘密」だろうか?そう見つめながら周太は微笑んだ。
「9月30日のこと、忘れていたわけじゃないよ?…」
あの日を、忘れられる訳がないのに?
あの日の寂しさも哀しみも、あの夜の傷みも喜びも、すべて忘れられる訳がない。
初めてこの腕に抱きしめられた、あの瞬間の想いをどうしたら忘れられると言うの?
…忘れられる訳がない、生まれ変わっても忘れないかもしれない…あの夜のこと
あの日あの夜、あの瞬間。
初めて恋愛を知った、この心が忘れない。
初めて抱きしめられ肌で想い交した、この体が覚えている。
あの瞬間まで自分は何も知らなかった、恋愛が自分に有ることすら知らなくて、その全てをあの日に教えられた。
「英二がそう想ってくれてたのが解からなくて…ごめんね、ありがとう、」
このひとが教えてくれた、あの日に全て。
それを同じよう特別な日だと思ってくれている、その喜びだけ見つめた先、幸せな笑顔がほころんだ。
「憶えていてくれたんだ、」
切長い目は嬉しそうに笑って見つめてくれる。
その笑顔に恋慕が切り裂かれて痛い、今朝もう告げられた現実に心軋みあげる。
…8月に異動して、次はきっと10月…だから9月30日はもう
9月30日はもう、あの扉の向こうに自分はいる。
新木場の術科センター射撃場にある分厚い扉、あの向う側へ行くだろう。
だから約束が出来ない、あの日をふたり一緒に見つめる事は、きっと難しい。
それでも忘れるわけがない、ずっと憶えている、ずっと想い続けている、あの扉を潜っても想いは変わらない。
どこにいても、なにがあっても、この愛しい記憶は欠片も失わない、大切な人を、大切な想いを自分は忘れたくない。
…もう14年前のようには記憶を捨てない、約束を忘れない…辛くても哀しくても、絶対に護ってみせる
14年前、自分は大切な約束も記憶も、笑顔まで眠らせた。
父を喪った現実に心壊して、唯ひとつの事だけ見つめて他を捨てたまま生きてきた。
そのために自分はどれだけ周りを哀しませてきたのか、自分自身も傷つけてきたのか?
…お母さんごめんなさい、ごめんなさい光一、お父さんごめんね…大切なこと13年も忘れてごめんね
忘却は罪、そんな言葉を前に小説で見た。
その罪を自分は背負っている、この後悔と懺悔は尽きることは無い。
母を光一を哀しませた、この哀しみを無駄にしない為にも自分は二度と忘れない。その想いのまま周太は綺麗に笑いかけた。
「ん、憶えてるよ?きっと、ずっと憶えてる…なにがあっても忘れないよ、」
告げた想いに今、心は明るく穏やかに澄んでいる。
心には勇気ひとつ抱いている、泣かない涙を微笑に変えて生きる決意をした、この想いが温かい。
この目の前の人を護るためにも泣かない、この想いに佇んだ周太の瞳を切長い目は真直ぐ見つめた。
「周太、本当のことを教えて?今朝、新宿署で何かあったのか?」
ほら、言わないでも気づいてくれた。
こんなふうに心は繋がっている、だからきっと大丈夫。
この信頼を真直ぐ見つめて周太は、最愛の人へ綺麗に微笑んだ。
「俺ね、8月に異動するんだ。今朝その内示を教えてもらったの、第七機動隊の銃器レンジャーだよ、」
時充ちて、運命の時は姿を現した。
告げた向こう側、切長い目に亀裂が走っていく。
端正な唇から呼吸が消える、時の停止が婚約者を染めていく。
その哀しみに自責が深く熱くなる、けれど切長い目は瞬きひとつで綺麗に微笑んだ。
「じゃあ調布に移るんだ、奥多摩に近くなるな、」
英二も笑ってくれた、その眼差しに覚悟がみえる。
きっと何度も見つめて覚悟してきてくれた、そう解る想いが切ないまま温かい。
そして、お互いの覚悟から心繋がれていると信じられる、その喜びに周太は綺麗に笑った。
「ん、そうだね?…あ、」
笑って指を波打際へと伸ばす、その視界がゆらいで瞳を閉じる。
すこし屈みこんで、それでも繋いだ手は離さないまま瞳を披いて、ひとつの桜貝を拾いあげた。
「見て?ふたつ離れてないよ、この桜貝…こういうの、なかなか拾えないんだ、」
拾いあげた桜貝は、元のまま対の貝殻はふたつ繋がれている。
きれいな貝殻が嬉しくて微笑んだ周太に、英二は綺麗に笑いかけてくれた。
「俺たちみたいだね、周太、」
「え、…」
どういう意味?
そう見つめた眼差しに、幸せそうに英二は明るく微笑んだ。
「この桜貝、海の底からずっと離れないで、ここまで来たんだろ?俺たちも離れないで、ここまで一緒に来たよ。だから似ている、」
この掌に載った、薄紅の桜貝。
いま言葉を紡ぐ唇と似た薄紅いろ、ふたつ合さる姿も似ている。
そんな想い見上げた先で、端正な唇は強く綺麗に微笑んだ。
「周太、こんなふうに俺たち、ずっと一緒に離れないでいよう?何があっても、ずっとだ、」
この掌に載った貝殻は、もう命は無い。
それでも二枚の貝殻は繋がれたまま、波に洗われても離れず寄りそって浜辺に辿り着いた。
こんなふうに永遠に繋がれ寄添って、ずっと離れずこの美しい人と居たい。
「周太、約束だよ?俺は何があっても、君から離れない。ずっと、永遠にだ、」
きれいな低い声に告げて、そっと瞳を覗きこんでくれる。
きれいな切長い目は真直ぐに見つめて、約束を求めてくれた。
「約束して、周太?何があっても、どんなことも、全て俺には話してほしい。俺のこと、少しでも愛してくれるなら約束して、」
どうかこの約束に頷いて?
そう願ってくれる想い心へ響いて視界は紗があわくふる、その想い透かせて周太は微笑んだ。
「ん、約束する…英二、愛してる、」
見上げて笑いかけて、サンダル履きの爪先で背伸びする。
そっと唇ふれあわせて重なる唇から、ほろ苦い甘い香が温かい。
ふれるだけ、けれど幸せな温もりを記憶して、静かに離れると婚約者に笑いかけた。
「英二、来年の夏は北岳に連れて行って?…北岳草を俺も見てみたいんだ、お願い、約束して?」
北岳草、世界で唯一ケ所だけ北岳に咲く花。
この大好きな人と似ている「哲人」北岳、その懐に抱かれて悠久の時を咲いている。
あの花を見に行きたい、このひとに連れられて高峰の空を自分も見てみたい、恋人が愛する世界に自分も立ちたい。
この想い全てを来年の約束に詰め込んで、大好きな笑顔の幸せを祈って約束を結ばせて?
そんな想いに見上げた切長い目は痛みを隠して、ただ綺麗に笑いかけてくれた。
「約束するよ、周太。来年の夏は花を見に行こう、」
ほんとうは約束なんて出来ない、そう解っているけれど約束したい。
あと1カ月も経たず銃器レンジャーに異動する、そこは狙撃手のチームになる。
そこで最も優秀と認められたら、次に行く先は「あの扉」の向こうしか無いと知っている。
その場所は「死線」でしかない。けれど自分は必ず無事に帰る、その希望を隣の笑顔に見つめて周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう、英二…楽しみにしてるね、」
「楽しみにしてて、周太。必ず花を見せてあげる、約束するよ?」
見つめて、願いに微笑んだ笑顔が近づいて、薄紅の唇がキスふれた。
必ず約束を叶える、そんな祈りが潮騒に響いて、あまく温かく想いをくれる。
唇の硲に潮は香り、ほろ苦い甘さが忍び入る。この香と味に涙の気配を見てしまう。
いま自分は心に涙しても泣かない、それなら今、泣いているのは抱きしめてくれる人?
その涙をキスで拭ってあげたい、そう瞳を披いて見つめた向う、潤んでも泣かない目が見つめてくれた。
…英二も涙、こらえてくれてるね?
ほら、また同じ。こんなふうに心は繋がっている。
だから大丈夫、離れていても心までは離れない。きっと最高峰にも心だけは一緒に行ける。
そうして心だけは自由に生きられる、ただ信じて周太は大好きな瞳へ綺麗に微笑んだ。
「約束、ありがとう。英二、」
ほんとうは、泣いて甘えたら良い?
そうも思う、ワガママな本音に素直になって、泣けたら楽だろう。
けれど泣いたら後が苦しくなる、それより今一緒の瞬間を少しでも幸せにしたい、だから泣くより笑っていたい。
そんな想い見つめた婚約者は、優しい低い声で聴いてくれた。
「周太、このあと何したい?」
なんでも言ってほしい、我儘を言って?
もう泣いてもらえないのなら、せめて我儘を言って頼ってよ?
そんなふう切長い目は望んでくれながら、綺麗な低い声は続けてくれた。
「鎌倉の寺で花を見て、茶室に寄るつもりなんだけど。でも桜貝の方がいい?どこか行きたい所ある?周太がしたいこと何でも言って?」
少しでも頼ってほしい、自分を必要としていてほしい、どうか置いて行かないで?
そんな願いのまま見つめて笑いかけてくれる、その想いが嬉しいままに周太は微笑んだ。
「ここで夕焼けを見たい、それまで貝殻拾いしたいな?…それから買物して、家に帰って、一緒に夕飯作って?お願い、英二…」
今朝、新宿で思った「海の夕焼けを一緒に見たい」それを叶えて欲しい。
そして薄紅の桜貝を見つけたい、他にも綺麗な貝殻を見つけて、今日という瞬間の形見にしたい。
それから家に帰っていつものように、ふたり食事を共にして何でもない日を過ごしたい。
どれも「なんでもないこと」そんな普通の時間を今、このひとと見つめていたい。
そう見つめた先で端正な笑顔は、優しく笑ってくれた。
「どれも楽しそうだな、周太。お願い聴くよ?」
なんでもないこと、楽しそうって言ってくれた。
それが嬉しくて幸せで、周太は大好きな笑顔に笑いかけた。
「ん、ありがとう…ね、夕飯、何食べたい?…あ、見つけた、」
幸せが熱になって瞳にじませる。
顔を俯けて波打際に伸ばした指先に、薄紅の貝殻ひとつ拾いあげる。
その貝殻へと涙ひとつ零れおちる、一瞬の嗚咽は潮騒の風に抱きとめられ、ただ笑顔だけが灯された。

(to be continued)
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第56話 潮汐act.6―another,side story「陽はまた昇る」
潮騒のきらめきが、カトラリーに照りかえす。
日曜の午後、遅めのランチタイムは静かで個室の席は寛げる。
ゆったりと青い海ひろやかな窓を眺めながら、周太はフォークに口つけて微笑んだ。
「ん…おいし、」
なめらかな平目の甘みにトマトの風味が合う。
かすかな佳酒の香に上質な味が醸される、きっとシェフの手腕が良い。
付け合せの緑も綺麗で盛付の勉強になる、味と見た目と両方を楽しみながら周太は婚約者に笑いかけた。
「英二、おばあさまと菫さんと話せて楽しかった…お父さん達のことも聴かせてくれて、嬉しかったよ?ありがとう、」
「よかった。祖母たちも喜んでたよ、周太のこと可愛いってさ。また会いに行こうな、」
楽しげに笑いかけてくれる恋人は、優雅にナイフとフォークを使っている。
そんな様子は似合っていて綺麗、そう見惚れながらも改めて育ちの違いを想ってしまう。
…このお店すごく佳いみたいだけど…英二、常連なんだね
白い調度品と磨き抜かれたオークの床、美しい器たちと上質な食事。
さわやかな海辺の雰囲気やさしい空間は、さりげなく置かれたアンティークにも高級店と解かる。
それもプライベートな個室を当然のよう案内された、この席は青い海のロケーションも良い。
こういう場所に英二は来馴れている、そんな様子に数日前の新宿の風景が思い出された。
―…なんか宮田って、良い店が似合いそうだから?そういうとこ連れて行きそうだなって思って
飲み会の席で内山に言われた言葉は、その通りだと思う。
こういう英二がノンキャリアの警察官として、山岳救助隊員を務め山に生きている。
いま銀器を操っていく美しい白皙の手、この掌を血と泥に塗れさせ遭難救助の前線に英二は立つ。
それが今、こうした場所で向かい合っていると不思議になってしまう。そして誇らしい。
…こういう場所より英二は、尊厳と命を護る世界を選んで、最高峰の夢を見つけて…そういうところがすき
与えられた安全と贅沢より、求める情熱と夢のため危険にも駈けだしていく。
そういう真直ぐな情熱は眩しくて、憧れに見惚れて恋は募り、愛しさは深くなる。
英二が立つ危険は不安で怖い、それでも誇らしい想いに見つめて、いつも信じて帰りを待っている。
…いつも誇らしい、でも…この不安をもうじき英二にも味あわせてしまう…ごめんね
そっと溜息に見つめる恋人の手には、クライマーウォッチが時を刻む。
この腕時計は英二の時計と交換に贈ったもの、あのときの祈りは今も変わらない。
もうじき「あの扉」の向こうに行く、そう告げられた今日だから尚更に祈り見つめている。
どうか、最高峰でも自分のこと、少し思い出して?
あなたの夢の場所で、自分のことを少しでも想ってもらえたら、幸せだから。
もうじき自分は自由を奪われる場所へ行く、その道へ進むことを今はもう心定めている。
この定めに後悔はしない、けれど恋する自由だけは抱き続けたままで、その場所でも生きていたい。
この自由を与えてくれるのは、あなたの笑顔だけ。あなたが最高峰で笑っていることが、自分にも自由の夢を見せてくれる。
…だから英二、笑っていて?ずっと、いつまでも夢に笑って輝いて…最高峰へと、山へと光一に攫われていて?
そっと祈る想いに幼馴染の俤が微笑む。
あの笑顔にも会いに行きたいな?そんな考え想いながら周太は最愛の人へ笑いかけた。
「お祖母さんと似てるんだって、俺…きれいな人だったって言うから、なんか申し訳なかったよ?」
似ている人がきれいと言われたら、烏滸がましくて申し訳なくなる。
本当はがっかりさせていなかったかな?そんな心配と羞んだ向かいから、さらり綺麗な低い声が笑ってくれた。
「周太と似ていたら、きれいだろな?周太は誰より、一番に綺麗だよ、」
…個室でよかった、
ほっと心に呟いてしまう、人目が無いことに安堵する。
こんな美青年が口説く相手がこんな自分では、見た人には「がっかり」だろうから。
こんなふうに言われたら気恥ずかしい、けれど嬉しくて羞みながら周太は微笑んだ。
「ありがと…あとね、やっぱり湯原博士が、お祖父さんだったよ?…お祖母さんは教え子で、すてきな恋愛結婚だったって教えてくれて」
「お祖父さんとお祖母さん、学者だったんだな。周太に似合ってる、そういうの、」
穏やかな笑顔で見つめて、ナイフとフォークを英二は置いた。
周太も同じに食べ終えてナプキンで少し口許をぬぐうと、静かに現われたギャルソンが皿を下げてくれた。
タイミングをきちんと計った給仕は店の格を想わせて、幼い日に父と母と楽しんだ記憶に微笑んだ。
「お父さん、偶に行くビストロのシェフとフランス語でお喋りしてたんだ…お祖父さんとお祖母さんに教わってたから話せたのかな、」
「きっとそうだな。そのシェフ、フランスの人なんだ?今でもある店?」
運ばれてきた次の皿をはさんで、綺麗な低い声が訊いてくれる。
その笑顔と芳ばしい湯気の幸せに微笑んで、周太は記憶と答えた。
「ん、今もあると思うよ?…そのシェフ、お父さんと同じくらいだから…そのひと3代目でね、お祖父さんとも行ってたみたい、」
「家族で行き続ける店って良いな、今度一緒に行こうよ、」
楽しそうに笑いかけて、長い指が銀のフォークとナイフを手に取った。
そんな仕草もごく自然に優雅で見惚れてしまう、そして言ってくれた言葉が嬉しい。
家族で行き続ける店に一緒に行きたい、その意味が素直に嬉しくて周太は綺麗に笑いかけた。
「ん、行きたいな。俺もずっと行ってないんだ…このお店、英二は良く来るの?」
「うん、お祖父さんが元々は好きだったんだ。お祖母さんとのデートコースだったんだよ、月一位でふたりは来てたらしいよ、」
綺麗な低い声が教えてくれることに、嬉しくなる。
だから顕子は葉山に住んでいるのかな?そんな優しい想いに周太は綺麗に笑いかけた。
「御仏壇お参りしたとき、写真見させてもらったけど、かっこいい人だね?…すこし英二と似てるね?」
「よくそう言われるよ。だから俺の顔、お祖母さんのストライクゾーンなんだってさ、」
可笑しそうに笑って白皙の指はグラスを持つと、端正な口に含んだ。
金色ゆれるノンアルコールのワインに海の陽きらめく、綺麗で、また見惚れながら周太は微笑んだ。
「おばあさま、すごく素敵なひとだね?…お父さんの小さい頃のこと教えてくれて、謝ってくれたの。ずっと音信不通だったって。
お父さん亡くなったこと、知らなくてごめんなさいって。何も出来なくてごめんねって言ってくれて…嬉しかったよ、本当に優しい人だね?」
抱きしめて涙ひとすじ見せてくれた、あの真摯な眼差しが嬉しかった。
そして、あの眼差しに見つめた懐旧と愛惜に「所縁」が、朧げでも確かに感じられたころが嬉しい。
何も知らずにいても廻り会えて、名乗り合えなくても所縁を見つめ合えた、それが嬉しかった。
この喜びに微笑んだ周太を父と似た目は見つめて、穏やかに微笑んだ。
「そっか、お祖母さん、そんなふうに話してくれたんだ?」
「ん、」
頷いて笑いかけながら、周太は婚約者の目を見つめた。
その目は穏やかに優しくて、深い想いが温かく見守ってくれている。
その深みに優しい秘密の気配を見つけて、静かに確信が肚に落ちた。
…やっぱり英二は知ってるんだね…きっと真相を知ってる、でも何か理由があって言わないでくれてる
なぜ英二が言わないのか?その理由は何も解からない。
けれど、あの聡明な老婦人も沈黙を守っているのなら、ふたり共通する誠実な理由がある。
父と似た目を持つふたり、どちらの目も周太を真直ぐ見つめてくれる、だから信じられる。
いつか時がくれば話してくれる?そう信頼を見つめながら周太は、青紫の瞳やさしいナニーのことを口にした。
「菫さん、俺の英語は、お父さんとそっくりって教えてくれて…英二とお姉さんと、お父さんの英語は菫さんが先生なんでしょう?」
「そうだよ、姉ちゃんは菫さんの影響で英文学科に行ったんだ。父さんが外資系に行ったのも、その辺あるみたいだよ」
きれいにフォークを運びながら教えてくれる、その話題が嬉しくなる。
こんなふうに家族の事を教えてもらえる、それが温かくて周太は微笑んだ。
「そうなんだ?…それでね、お父さん、英二のお父さんと一度だけ会ったことあるんだって…今日のケーキも一緒に食べたんだって、」
「オレンジのガトーショコラ?あれ旨いよな、でも父さん何も言ってなかったけど、」
すこしだけ考えるよう切長い目が細められる。
けれどすぐ微笑んだ眼差しに、周太は素直に笑いかけた。
「ん、そうなの…たぶん忘れちゃってるって、おばあさま達も言ってて…まだ7歳と9歳の時だから、って、」
「父さん、9歳か?それくらい小さいと忘れても仕方ないかもな。ごめんな、周太」
「ううん、謝らないで?…でも、ありがとう、」
「可愛い、周太。このあと浜に降りような、貝殻のとこ連れてくよ?」
きれいな笑顔を見せてくれながら、楽しげな会話で食事してくれる。
ふたり囲んだ美しい皿は、芳ばしい魚の匂いと甘い野菜の香が優しい。このひと時の幸せを周太は大切に見つめた。

波打際、潮ひく跡に耀きこぼれる。
洗われて濡れる浜辺の砂は、瑞々しい陽光ふくんで照りかえす。
潮騒が曳いていく、そして顕われた小さな貝殻たちに周太は微笑んだ。
「見て、桜貝、」
声、はずんで砂に指を伸ばす。
そっと拾いあげた指先には、薄紅の花と似た姿が空に透けた。
この時期に拾えるなんて?嬉しくて微笑んだとき、ふわり抱きあげられた。
「ほら、周太。裾が降りてる、」
綺麗な笑顔ほころんで、すこし波から離れた場所に立たせくれる。
見上げた笑顔は端正な華やぎまばゆくて、海の太陽に透ける髪は金色に輝く。
ほんとうに「美青年」な婚約者に見惚れながらも想ってしまう、この隣が自分だなんて見た人には「がっかり」されそう?
けれど大好きな人に構ってもらえることが嬉しくて、それでも気恥ずかしいまま周太は微笑んだ。
「…ありがとう、捲ったつもりだったんだけど、」
「俺がやってあげるよ、」
笑いかけながら片膝ついて、黒藍の裾を捲りあげてくれる。
サンダル履きの素足が風に晒されて心地いい、このサンダルも英二がさっき買ってくれた。
優しいキャメルブラウンのサンダルは足に添い履きやすい、嬉しくて、けれど切なさにそっと溜息こぼれた。
…プレゼント嬉しいな、でも…次はいつ履けるんだろう?
また海に一緒に来られる日は、いつ来るのだろう?
もう既に告げられた現実に緊張と心軋んで、ひとつ呼吸する。
呼気に潮風ゆるりと吹いて唇に潮がふれる、ほっと息吐きながら周太は薄紅の貝殻を見た。
…ん、好きな桜貝が拾えて嬉しいな?
桜貝は1月が拾えるシーズンだから、今日は無理かなと思っていた。
だから今日は幸運だな?嬉しくて微笑んだ足元から長身が立ち上がり、優しい婚約者は笑いかけてくれた。
「周太、袖も捲った方がいいな?濡れたら困るから、」
「ん、ありがとう…いろいろ、ごめんね?」
微笑んで見上げた先、切長い目が笑いかけてくれる。
父よりも睫あざやかに華やかな目、綺麗で見惚れながら周太は笑いかけた。
「桜貝、今日は無理かなって思ってたんだ…冬に拾える貝だから、」
「貝殻にも季節があるんだ?」
綺麗な低い声で話しながら袖を捲ってくれる。
きれいに折りあげて貰って、お礼を言おうと笑いかけた顎に長い指が掛けられた。
「周太、」
名前を呼ばれて見上げた、その唇に唇が重ねられる。
ほろ苦く甘い香が温かい、ふれる吐息に熱が昇って幸せが浸しだす。
けれど人もいる外では恥ずかしい、切長い目に瞳覗きこまれて周太は睫を伏せた。
「…こんなとこでだめです…はずかしいですひとがいるのに?」
「キス、デザートの味だったよ。周太、さっきの店は気に入ってくれた?」
嬉しそうな笑顔ほころんで、優しく訊いてくれる。
こんな笑顔されたら嬉しくて、けれど恥ずかしくて俯いたまま微笑んだ。
「ん、はい…おいしかったです」
「気に入ってくれたなら良かった、また連れて行ってあげるな、」
笑いかけて長い指が掌くるんでくれる。
言ってくれる言葉が嬉しくて、けれど切なくなってしまう。
また海に来れる時間があるのか解らない、それでも「いつか」を信じて周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう…何かのお祝いとか、そういう時に行きたいな、」
英二は周太と同じ警察官で公務員だから、堅実に家計は考えた方が良い。
なにより良いお店だから、特別な時だけと決めた方が楽しくなる。そんな考えに英二は綺麗に笑いかけてくれた。
「じゃあ、9月の終わりは行かないとな?」
「ん?…どうして?」
何げなく訊いて見上げた先、端正な貌が「がっかり」した。
それでも微笑んで、けれど少し素っ気ないトーンで英二は言った。
「忘れちゃったんだ、周太?なら良いよ、」
微笑んでくれている、けれど寂しげな貌と口調に気付かされる。
9月の終わり、あの日を英二も大切にしてくれている?
そう気がついて周太は隣の長身へと腕を伸ばした。
「英二、ごめんなさい、」
ひろやかな肩に腕を回して背伸びする。
抱きついた胸からカーディガン透かして熱ふれる、愛しいひとの体温が幸せで微笑んだ体が抱きしめられた。
「俺こそ、ごめんな」
綺麗な低い声が謝ってくれる、その声に哀しいトーンが見えてしまう。
この哀しみは「秘密」だろうか?そう見つめながら周太は微笑んだ。
「9月30日のこと、忘れていたわけじゃないよ?…」
あの日を、忘れられる訳がないのに?
あの日の寂しさも哀しみも、あの夜の傷みも喜びも、すべて忘れられる訳がない。
初めてこの腕に抱きしめられた、あの瞬間の想いをどうしたら忘れられると言うの?
…忘れられる訳がない、生まれ変わっても忘れないかもしれない…あの夜のこと
あの日あの夜、あの瞬間。
初めて恋愛を知った、この心が忘れない。
初めて抱きしめられ肌で想い交した、この体が覚えている。
あの瞬間まで自分は何も知らなかった、恋愛が自分に有ることすら知らなくて、その全てをあの日に教えられた。
「英二がそう想ってくれてたのが解からなくて…ごめんね、ありがとう、」
このひとが教えてくれた、あの日に全て。
それを同じよう特別な日だと思ってくれている、その喜びだけ見つめた先、幸せな笑顔がほころんだ。
「憶えていてくれたんだ、」
切長い目は嬉しそうに笑って見つめてくれる。
その笑顔に恋慕が切り裂かれて痛い、今朝もう告げられた現実に心軋みあげる。
…8月に異動して、次はきっと10月…だから9月30日はもう
9月30日はもう、あの扉の向こうに自分はいる。
新木場の術科センター射撃場にある分厚い扉、あの向う側へ行くだろう。
だから約束が出来ない、あの日をふたり一緒に見つめる事は、きっと難しい。
それでも忘れるわけがない、ずっと憶えている、ずっと想い続けている、あの扉を潜っても想いは変わらない。
どこにいても、なにがあっても、この愛しい記憶は欠片も失わない、大切な人を、大切な想いを自分は忘れたくない。
…もう14年前のようには記憶を捨てない、約束を忘れない…辛くても哀しくても、絶対に護ってみせる
14年前、自分は大切な約束も記憶も、笑顔まで眠らせた。
父を喪った現実に心壊して、唯ひとつの事だけ見つめて他を捨てたまま生きてきた。
そのために自分はどれだけ周りを哀しませてきたのか、自分自身も傷つけてきたのか?
…お母さんごめんなさい、ごめんなさい光一、お父さんごめんね…大切なこと13年も忘れてごめんね
忘却は罪、そんな言葉を前に小説で見た。
その罪を自分は背負っている、この後悔と懺悔は尽きることは無い。
母を光一を哀しませた、この哀しみを無駄にしない為にも自分は二度と忘れない。その想いのまま周太は綺麗に笑いかけた。
「ん、憶えてるよ?きっと、ずっと憶えてる…なにがあっても忘れないよ、」
告げた想いに今、心は明るく穏やかに澄んでいる。
心には勇気ひとつ抱いている、泣かない涙を微笑に変えて生きる決意をした、この想いが温かい。
この目の前の人を護るためにも泣かない、この想いに佇んだ周太の瞳を切長い目は真直ぐ見つめた。
「周太、本当のことを教えて?今朝、新宿署で何かあったのか?」
ほら、言わないでも気づいてくれた。
こんなふうに心は繋がっている、だからきっと大丈夫。
この信頼を真直ぐ見つめて周太は、最愛の人へ綺麗に微笑んだ。
「俺ね、8月に異動するんだ。今朝その内示を教えてもらったの、第七機動隊の銃器レンジャーだよ、」
時充ちて、運命の時は姿を現した。
告げた向こう側、切長い目に亀裂が走っていく。
端正な唇から呼吸が消える、時の停止が婚約者を染めていく。
その哀しみに自責が深く熱くなる、けれど切長い目は瞬きひとつで綺麗に微笑んだ。
「じゃあ調布に移るんだ、奥多摩に近くなるな、」
英二も笑ってくれた、その眼差しに覚悟がみえる。
きっと何度も見つめて覚悟してきてくれた、そう解る想いが切ないまま温かい。
そして、お互いの覚悟から心繋がれていると信じられる、その喜びに周太は綺麗に笑った。
「ん、そうだね?…あ、」
笑って指を波打際へと伸ばす、その視界がゆらいで瞳を閉じる。
すこし屈みこんで、それでも繋いだ手は離さないまま瞳を披いて、ひとつの桜貝を拾いあげた。
「見て?ふたつ離れてないよ、この桜貝…こういうの、なかなか拾えないんだ、」
拾いあげた桜貝は、元のまま対の貝殻はふたつ繋がれている。
きれいな貝殻が嬉しくて微笑んだ周太に、英二は綺麗に笑いかけてくれた。
「俺たちみたいだね、周太、」
「え、…」
どういう意味?
そう見つめた眼差しに、幸せそうに英二は明るく微笑んだ。
「この桜貝、海の底からずっと離れないで、ここまで来たんだろ?俺たちも離れないで、ここまで一緒に来たよ。だから似ている、」
この掌に載った、薄紅の桜貝。
いま言葉を紡ぐ唇と似た薄紅いろ、ふたつ合さる姿も似ている。
そんな想い見上げた先で、端正な唇は強く綺麗に微笑んだ。
「周太、こんなふうに俺たち、ずっと一緒に離れないでいよう?何があっても、ずっとだ、」
この掌に載った貝殻は、もう命は無い。
それでも二枚の貝殻は繋がれたまま、波に洗われても離れず寄りそって浜辺に辿り着いた。
こんなふうに永遠に繋がれ寄添って、ずっと離れずこの美しい人と居たい。
「周太、約束だよ?俺は何があっても、君から離れない。ずっと、永遠にだ、」
きれいな低い声に告げて、そっと瞳を覗きこんでくれる。
きれいな切長い目は真直ぐに見つめて、約束を求めてくれた。
「約束して、周太?何があっても、どんなことも、全て俺には話してほしい。俺のこと、少しでも愛してくれるなら約束して、」
どうかこの約束に頷いて?
そう願ってくれる想い心へ響いて視界は紗があわくふる、その想い透かせて周太は微笑んだ。
「ん、約束する…英二、愛してる、」
見上げて笑いかけて、サンダル履きの爪先で背伸びする。
そっと唇ふれあわせて重なる唇から、ほろ苦い甘い香が温かい。
ふれるだけ、けれど幸せな温もりを記憶して、静かに離れると婚約者に笑いかけた。
「英二、来年の夏は北岳に連れて行って?…北岳草を俺も見てみたいんだ、お願い、約束して?」
北岳草、世界で唯一ケ所だけ北岳に咲く花。
この大好きな人と似ている「哲人」北岳、その懐に抱かれて悠久の時を咲いている。
あの花を見に行きたい、このひとに連れられて高峰の空を自分も見てみたい、恋人が愛する世界に自分も立ちたい。
この想い全てを来年の約束に詰め込んで、大好きな笑顔の幸せを祈って約束を結ばせて?
そんな想いに見上げた切長い目は痛みを隠して、ただ綺麗に笑いかけてくれた。
「約束するよ、周太。来年の夏は花を見に行こう、」
ほんとうは約束なんて出来ない、そう解っているけれど約束したい。
あと1カ月も経たず銃器レンジャーに異動する、そこは狙撃手のチームになる。
そこで最も優秀と認められたら、次に行く先は「あの扉」の向こうしか無いと知っている。
その場所は「死線」でしかない。けれど自分は必ず無事に帰る、その希望を隣の笑顔に見つめて周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう、英二…楽しみにしてるね、」
「楽しみにしてて、周太。必ず花を見せてあげる、約束するよ?」
見つめて、願いに微笑んだ笑顔が近づいて、薄紅の唇がキスふれた。
必ず約束を叶える、そんな祈りが潮騒に響いて、あまく温かく想いをくれる。
唇の硲に潮は香り、ほろ苦い甘さが忍び入る。この香と味に涙の気配を見てしまう。
いま自分は心に涙しても泣かない、それなら今、泣いているのは抱きしめてくれる人?
その涙をキスで拭ってあげたい、そう瞳を披いて見つめた向う、潤んでも泣かない目が見つめてくれた。
…英二も涙、こらえてくれてるね?
ほら、また同じ。こんなふうに心は繋がっている。
だから大丈夫、離れていても心までは離れない。きっと最高峰にも心だけは一緒に行ける。
そうして心だけは自由に生きられる、ただ信じて周太は大好きな瞳へ綺麗に微笑んだ。
「約束、ありがとう。英二、」
ほんとうは、泣いて甘えたら良い?
そうも思う、ワガママな本音に素直になって、泣けたら楽だろう。
けれど泣いたら後が苦しくなる、それより今一緒の瞬間を少しでも幸せにしたい、だから泣くより笑っていたい。
そんな想い見つめた婚約者は、優しい低い声で聴いてくれた。
「周太、このあと何したい?」
なんでも言ってほしい、我儘を言って?
もう泣いてもらえないのなら、せめて我儘を言って頼ってよ?
そんなふう切長い目は望んでくれながら、綺麗な低い声は続けてくれた。
「鎌倉の寺で花を見て、茶室に寄るつもりなんだけど。でも桜貝の方がいい?どこか行きたい所ある?周太がしたいこと何でも言って?」
少しでも頼ってほしい、自分を必要としていてほしい、どうか置いて行かないで?
そんな願いのまま見つめて笑いかけてくれる、その想いが嬉しいままに周太は微笑んだ。
「ここで夕焼けを見たい、それまで貝殻拾いしたいな?…それから買物して、家に帰って、一緒に夕飯作って?お願い、英二…」
今朝、新宿で思った「海の夕焼けを一緒に見たい」それを叶えて欲しい。
そして薄紅の桜貝を見つけたい、他にも綺麗な貝殻を見つけて、今日という瞬間の形見にしたい。
それから家に帰っていつものように、ふたり食事を共にして何でもない日を過ごしたい。
どれも「なんでもないこと」そんな普通の時間を今、このひとと見つめていたい。
そう見つめた先で端正な笑顔は、優しく笑ってくれた。
「どれも楽しそうだな、周太。お願い聴くよ?」
なんでもないこと、楽しそうって言ってくれた。
それが嬉しくて幸せで、周太は大好きな笑顔に笑いかけた。
「ん、ありがとう…ね、夕飯、何食べたい?…あ、見つけた、」
幸せが熱になって瞳にじませる。
顔を俯けて波打際に伸ばした指先に、薄紅の貝殻ひとつ拾いあげる。
その貝殻へと涙ひとつ零れおちる、一瞬の嗚咽は潮騒の風に抱きとめられ、ただ笑顔だけが灯された。

(to be continued)
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