動く時へと、
第57話 鳴動act.9―side story「陽はまた昇る」
窓は青空を映しだす。
車窓の景色が川を越え、市街地は山嶺の街へと移っていく。
晴れた空と稜線の影を見つめる横顔に、運転席からテノールの声が笑った。
「おまえ、マジでばれなかったね?その拳銃、」
「うん、」
微笑んで英二は肩越しに後部座席を見た。
そこに置かれた自分のビジネスバッグには、晉の拳銃が入っている。
いま自分の救命救急セットのケースに眠る戦闘用銃、それの現況について英二はパートナーに教えた。
「分解してから個別カバーして救命具のケースにしまえば、医療器具に見えるだろ?これなら衛生面の問題あるからチェック少ないよ、」
自分は山岳救助隊員、応急処置を主担当し警察医の助手も務めている。
こうした立場の自分が救命救急の機材を持っていても、誰も不思議に思わないし器具カバーの入手も疑われない。
もし金属探知機で引っ掛ったとしても「医療器材」という衛生上の理由から、開けて見せろとまでは言い難いだろう。
半世紀も前に葬られた拳銃が無傷とは思っていなかった、けれど念のためカバーを準備しておいたのが役に立った。
そんな考えに昨夜は夜中の書斎で分解作業をした、おかげで幾分かの寝不足に小さく欠伸した英二に、光一は笑ってくれた。
「なるほどね?おまえ、その作業を昨夜はヤってたんだ、寝たの遅かっただろ?」
「でも3時には寝られたよ、だから大丈夫、」
答えながら笑いかけて、「大丈夫」じゃないことを英二は思いだした。
いま隣の運転席で上機嫌でいる光一、その横顔に英二は口を開いた。
「光一、あんまり内山のこと虐めないでやって?今日、ちょっと見てらんなかったよ、」
昼間の講義中、内山は真赤にさせられた。
本庁の会議室で何十人もの衆目のなか、あれでは可哀想だろうに?
そんな想いに提案したけれど、底抜けに明るい目は視線をこちらに流し、温かに笑んだ。
「アレで良いんだよ、だって可哀想だろ?彼みたいなエリートくんが、ホモになっちゃったら大変だね。いま俺で懲りた方が良い、」
内山は、光一に淡い恋愛を抱き始めている。
きっかけは今月初め、同期に光一も混ざった8人での飲み会だった。
あのとき「テスト」のために光一が色仕掛けの冗談で転がした、それの予想外の影響が「内山の恋」でいる。
―あの内山が、なあ?
本当に「あの内山が?」と思ってしまう。
信じられないけれど、今日の態度も露骨な位で痛々しいほどだった。
初任科教養のとき内山は、同期の女性警官と騒動を起こしている。だからノーマルだと思っていたのに?
この予想外の現実と、けれど逆にそれがチャンスになる可能性を考えながら、英二はパートナーに笑いかけた。
「内山がゲイになる可能性、光一も考えたんだ?」
「そりゃね?俺、そういう誘いも多いしね、」
さらっと言われた答えに、横顔を見直した。
機嫌良くカーステレオを聴きながらハンドルを捌く、その貌はいつも通り飄々と明るい。
悪戯っ子のような老成した仙人のような表情、けれど端正なエリート風の美貌を魅せる貌に英二は尋ねた。
「光一、ゲイにもモテるんだ?」
「ゲイじゃない男にも誘われるよ。俺って色っぽい美形だからさ、男でもソソられちゃうんじゃない?おまえもだろ?」
おまえもだろ?そう指摘して白い指が英二の額を小突く。
言われて素直に英二は微笑んだ。
「うん、光一にはそそられるな。でも俺、おまえの外見も好きだけど、おまえ自身はもっと好きだよ。」
「そ?ありがとね、英二、」
軽やかに応えて嬉しそうに笑う、その横顔も楽しげでいる。
フロントガラスの向こうを見つめる笑顔は明るい、けれどテノールの声は淡い哀しみに微笑んだ。
「周太、樹医になること忘れていなかったんだね、通夜の直前までは、」
さっき蒔田に聴いたばかりの、馨の通夜が始まる前の周太との会話。
9歳の周太が蒔田と交わした会話は、優しい穏やかな気性らしい言葉が温かかった。
父を亡くした直後でも周りに優しかった周太、そんな幼い少年の温もりを壊した残酷な存在がいる。
―赦せない、
静かに心へ熾火が燃える、また怒りを見つめ確認する。
けれど、その想いは隠して英二は静かに微笑んだ。
「うん、ちゃんと覚えていたんだな。お父さんの為にも樹医になろうって決めたなんて、周太らしいな、」
「だね、」
短く頷いて、ふっと黙りこむ。
この沈黙にも光一の想いが解かってしまう、その隠した涙に英二は笑いかけた。
「あのころの周太、冬に光一と会えたから自信を持てたんだよな。だから樹医になろうって決められたんだと思うよ?
お父さんの日記だと、光一に会ったすぐ後なんだ。新聞で樹医の記事を読んだ周太が、樹医になりたいって言いだしたのってさ、」
言葉に、運転席で小さなため息こぼれだす。
すこし微笑んだ横顔に英二は、自分が知った限りを話した。
「でな、夢を忘れずに叶えてほしいって言ったお父さんに、周太は約束したんだ。忘れんぼだから忘れるかもしれないけど絶対思い出すって、」
「ふっ、」
運転席で噴きだして、テノールの声が笑いだした。
朗らかな笑い声を響かせて、可笑しくて堪らない貌で光一は言ってくれた。
「忘れちゃう前提だったんだ、周太?あははっ、周太らしいかもね、でも絶対思い出すって可愛いな、」
「だろ?それで周太、本当に今、また樹医のこと考えてるだろ?お父さんとの約束は、まだ思い出せていないけどね、」
答えながら英二も一緒に笑って、車窓越し西の空を見た。
相変わらず晴れている、この天候に微笑んだ横顔にテノールの声が尋ねた。
「おまえ、後ろからも日記、また読んでみたんだ?」
「うん、」
馨の日記は最後のページだけ先に読んだ。
けれど哀しすぎて最初から順に読み始めている、でも今は方法を変えた。
このことに英二はありのまま口を開いた。
「お父さんが亡くなる前の記録を知りたいって思ったんだ、だから前からと後ろからと、同時に今は読み進めるようにしてるよ、」
もう時が迫っている、だから急ぎたい。
あの14年前の瞬間を惹き起した要因、その全てを10月を迎える前に知る方が良い。
そう考えて今の読み方にした、この意志にパートナーもすぐ理解と笑ってくれた。
「そっか、ラテン語にも慣れたんだね?だったら急いだ方が良いな、9末までにはってとこだろ、」
「うん、出来たら七機に行くまでに終わらせたいんだ。保管場所のことがあるから、」
第七機動隊に異動すれば、隊舎の寮に入ることになる。
そこにはどんな人間が出入りするか解らない、その考えに光一も頷いた。
「あいつらのお仲間いる可能性、高いもんね?そしたら元の場所に戻すんだ、」
「そのつもりだよ。あそこなら俺の鍵でしか開けないから、いちばん安全だろ?」
「だね、まあ根詰めすぎるなよ?体も大事だからね、遠征訓練もあるしさ、」
気遣ってくれる言葉が温かい、そしてもう1つの世界を示してくれる。
この明るい世界への言葉に英二は、アンザイレンパートナーに笑いかけた。
「マッターホルン、もうじきだな?8月からの予定は変わるかもしれないけど、これは登りに行けるな?」
「だよ?あーあ、異動したらソレが困るよね?ま、予定変更ナシで行けるよう俺も根回しするよ、」
第七機動隊に異動したら、今まで通りに訓練の日程が取れるのか解らない。
それでも海外の訓練は、警視庁山岳会全体のチーム構成だから予定通りに行けるだろう。
けれど国内については解からなくなる、このことは正直痛い。
でも約束はしておきたくて、英二は綺麗に笑った。
「俺も努力するよ、今度の冬も雪山に行こうな?冬富士も登りたいよ、最高峰で笑おう、光一」
「だね、この国の天辺で笑ってやりたいね?あいつらのことも、これからの事もね、」
からり笑って光一の顔が明るくなる。
いつもの底抜けに明るい目は楽しげに笑って、山のことを話しだした。
「明日は越沢で訓練したいね?白妙橋もいいな、壁をしばらくヤルよ。ホントは滝谷とか三スラ行きたいけど、時間難しいかね、」
「一日、なんとか一緒に休み取れたら行けるだろうけど、岩崎さんに悪いしな?近場で本数攻める方が良いかもな、」
「だね?タイムレースで数本、キッチリやっておこっかね、あ?」
話しながら光一が声をあげ、英二のポケットに視線をくれる。
そのとき英二の携帯電話がポケットで振動し始めた。
「ほら、メール。周太じゃない?」
「うん、ありがとな、」
笑って携帯を取出し画面を開く、そこに2通のメールが入っていた。
すぐ開封すると待っていた送信人名が表示されて、英二は微笑んだ。
「当たり、周太だ。今、新宿に戻って美代さんと別れたところだって、」
いま15時半、このあと周太は当番勤務に入ることになっている。
元から申請してあるとはいえ、少し遅れての出勤だから周太の性格では急いているだろう。
それでも忘れずにメールを送ってくれたのが嬉しい、嬉しくて笑った隣で光一も笑ってくれた。
「そっか、無事でよかったよ。さぞ楽しかったんじゃない、ふたりとも?」
「うん、そんな感じだな。夜明けのブナ林を見に行ったらしい、ふたりとも元気だな、」
「昨夜もちゃんと寝たのかね?お喋りしちゃって、起きっ放しだったんじゃ無きゃいいけどね、」
可笑しそうに笑いながら白い手でハンドルを捌いていく。
機嫌の良い横顔は愉快げでいる、英二は次のメールを開封しながら訊いてみた。
「美代さん、昨夜は疲れてなかったんだ?」
「だよ。美代ってね、ああ見えてマジでタフだからさ。4月も剣道の試合、見ただろ?デカい相手でも美代は絶対に怯まないね、」
春4月の御嶽神社奉納試合、あのとき美代は御岳の剣道会で中堅を務めた。
急に自分も参加した試合が懐かしい、可憐で強健だった剣士姿の記憶に英二は微笑んだ。
「美代さんは本当に強いな。可愛いのに強いとこ、周太と似てるから気も合うんだろうな、」
「だろ?あのふたりは似てるよ、結局のトコ楽天的でさ?ノンビリ屋の根明で強いから、その分余裕があって優しいんだよね、」
「うん、そうだな?そう言えば内山も似てるって言ってたよ、美代さんと会った後、」
初任総合の外泊日、内山は美代と周太と一緒に過ごした事がある。
周太たちの大学の講義の後に待合せて、茶を飲んだと言っていた。
だから美代も内山を知っている、そのことに思い至って英二は考え込んだ。
―美代さん、内山が光一を好きだって知ったら、どう思うかな?
幼馴染で姉代わりとして、光一をいちばん近くから見ていた美代。
彼女なら光一と内山のことへと、どんな見解を示してくれるだろう?
聡明で実直な彼女なら、こうした相談も真直ぐ受けとめてくれるだろうと思える。
いちど相談してみようかな?そんなことを考えながら何げなくメール画面を見、英二は軽く息を呑んだ。
「あ、」
内山からメールが入っている。
想定外に思わず声が出た、けれどよく考えれば予想出来ることだろう?
さっと考え廻らせた隣から、テノールの声は何気なしに訊いてきた。
「なに、変な声出して。何かあった?」
「あ、手帳のこと話してないなって思い出してさ、」
別件を口にしながら、英二は携帯電話を閉じて胸ポケットに仕舞った。
別に気にする風も無く光一は、いつも通りに微笑んだ。
「周太のオヤジさんの手帳だね、解読とか終わったんだ?」
「うん、全部じゃないけどな。でも『v.g』の照合は終わったよ、」
“v.g”
馨が遺した手帳には、このアルファベットが3月のスケジュール帳に2ヶ所綴られている。
1ヶ所は彼岸の頃、もう1ヶ所は月末近い桜の頃。この2つとも同じ日付を日記帳でも確認した。
そこに綴られているラテン語たちは“v.g”の意味を示す、それについて英二は口を開いた。
「手帳に『v.g』って書かれている日と日記帳を照合したんだ、この2つに共通する単語は『visita gravem』墓参り、って意味だ。
でも3末の方には『visitacion gravem』重たい面会って単語があったんだ。それから『expiationum』贖罪って言う単語と、もう1つ。
『Peccatum quod est non dimittuntur』赦されない罪っていう意味だ。この3つの言葉で3月末の墓参りが誰の墓か、予想付くだろ?」
墓参、そして、重たい面会、贖罪、赦されない罪。
この単語から想起される事実の裏付けを自分は探している、この予想される事実へと光一が溜息を零した。
「それ、オヤジさんが狙撃した犯人の命日だね?」
「たぶんな、他の月にも同じように2つ書いてあったよ。家族の命日とかじゃない日に、」
ありのままを答えて英二は微笑んだ。
この3月末の数日後に美幸と出逢ったのだろう、そんな馨の春は悲喜が廻っていた。
もう四半世紀ほど過去の日を思いながら、英二はアンザイレンパートナーに協力を仰いだ。
「この3つの日について新聞記事を検索したら、確かに該当する事件があるんだ。でも裏付けを取りたい、光一に頼んでも大丈夫か?」
裏付けを取る、それは直接に「担当部署」のファイルを覗くこと。
おそらく秘文書があるはず、そんな予測を察してパートナーは微笑んだ。
「もちろんだね、これから一緒に御岳駐在に出る?それとも明日のが怪しまれなくってイイかね、」
気楽に頷いて提案してくれる。
少し考えて英二は、今後の考えを話した。
「明日の方が良いな、それで俺にもハッキング教えてくれる?8月から光一は七機でいないだろ、だけどその間にも調べておきたいから、」
「なるほどね?だったら明日のが良いよね、岩崎さん留守だし。警務部の事も調べるんだろ?」
「当たり、よろしくな、」
「こっちこそね?一発で全部を覚えてもらうから、よろしくね、」
底抜けに明るい目を悪戯っ子に笑ませて、了承してくれる。
そのフロントガラスはもう一般道に降りた、見慣れた街の景色をハンドル捌きながらテノールの声は可笑しそうに笑った。
「おまえみたいな堅物くんが、ハッキングまで手出しするなんてね?蒔田さんの話聞いて余計にキレちゃったんだ、」
確かに光一が言う通り、そこまで自分がするなんて自分でも意外だ?
けれどこんな意外もなんだか楽しくて、英二は綺麗に微笑んだ。
「たしかに俺は堅物だけどさ、危険な事も大好きだよ?」
自分で言った言葉に、ふと数ヶ月前の記憶がひっかかる。
なんだろう?そう首傾げかけた脳裡へと姉の言葉が思い出された。
―…あんたみたいな危険を愛する男に、きちんと手綱つけて向き合ってくれる相手は貴重よ
しかも英二は恋愛不感症じゃない?そんな英二が、こんなに惚れ込める相手なんて、もっといないわよ?
確かに姉の言う通りだな?
そんな納得に我ながら可笑しい、あのとき姉は周太のことを言ってくれた。
けれど今、ここにもう一人の貴重な相手がいてくれる。こういう自分は幸せだろうな?
そんな自覚に微笑んだ頬を運転席から白い指に小突かれた。
「マジ、おまえってアブノーマルだよね?俺なら自分もソッチ系だからイイけどさ、周太は違うんだからソコントコ考えなね、」
「そうだな、気を付けるよ、」
答えて笑いかけた隣りの向こう、車窓の風景が減速して止まる。
そうして見慣れた駐車場に着いて、英二は助手席の扉を開いた。
「光一、巡回とか気を付けてな?俺は診察室に居るから、救助とかあったら連絡そっちでもいいよ、」
「了解、また夕飯にね、ア・ダ・ム、」
からり笑って白い手の投げキスすると、光一は御岳へと四駆を向けた。
見慣れた車体を見送って、踵返すと英二は青梅署入口を潜った。
保管に警察手帳を返却して寮に戻ると、スーツを脱いでスラックスに履き替えた。
この後すぐ診察室の手伝いに入るから、ワイシャツとネクタイはそのまま着替えない。
念のため登山ザックの中身をチェックして救助要請に備え、それから英二は救命救急ケースを開いた。
整然とセットされた器具や包帯類が並ぶ中、拳銃のパーツは各々ケースに隠され違和感なく納まっている。
拳銃の分解されたパーツと似た器具ケースを予め調べて買っておいた、それは巧く全てに填まっている。
―どうやって保管し続けるか、だな
心裡に呟いて、すこし考える。
下手な場所に置いておくのは危険、そう考えた方が良いだろう。
この拳銃の存在は自分だけの問題にとどまらない、間違えば周太どころか美幸も巻きこんでいく。
「…俺だけの問題にするには、」
ひとりごと微笑んで、ケースをそのまま閉じた。
むしろ自分が持ち歩く方が安全、そう考えた方が良いだろう。
ここも警察署独身寮である以上は何があるか解らない、それは第七機動隊に行けば尚更だろう。
ならば自分の目が届かない場所で発見されるより、自分が所持している方が幾らでも対応の仕様がある。
そう決定するとビジネスバッグに普段どおり救急法ファイルとケースを一緒に納め、ペンを胸ポケットに挿して扉を開きかけた。
「あ、メール、」
思わず呟いて、開きかけた扉を閉じる。
鞄を持ったままポケットから携帯電話を出すと、受信ボックスからメールを呼びだした。
そして開いた受信メールの内容に、困り顔で英二は微笑んだ。
From :内山由隆
subject:無題
本 文 :お疲れさま、今日は助け舟ありがとう。勉強不足を反省したよ。
近々、時間作れるか?聴いてほしいことがあるんだけど、電話だと言い難い。
忙しいのに悪いけど、頼む。
国村さんは俺のこと嫌いだろうか。
最後の一行が、一番聞きたいことなのだろうな?
そんな察しをつけながら電話を閉じると英二は廊下に出た。
足早に歩いていく、その途中に談話室で藤岡が先輩たちと愉しげに話していた。
「お、宮田。お帰り、講習会おつかれさん、」
気がついて人の好い笑顔を向けてくれる。
いつもどおり温かい気楽さに、ほっと寛いで英二は歩きながら笑いかけた。
「ただいま、藤岡。あとでコーヒー来る?」
「うん、行きたいな。国村も来るんだろ、6時半で良い?」
いつもの時間で確認してくれる、こんな習慣がなんだか嬉しい。
けれど8月になれば光一は異動し、9月には自分もここから去る。
そんな寂しさを肚の底に今は沈めこんだまま、英二は綺麗に微笑んだ。
「ああ、その時間で良いよ。そこまでには仕事、終わるから、」
「帰ってきて早々、大変だな?これから俺も道場に行くんだ、また後でな、」
からっと笑って稽古着を示して、気楽に笑ってくれる。
この明るい柔道家の友人に笑いかけて、英二は廊下を急いだ。
そうして一昨日と同じ扉の前に立ち、ノックと声をかけて開いた。
「失礼します、遅くなって申し訳ありません、」
声に、白衣姿のロマンスグレーがデスクから振向いてくれる。
机上には山ヤの医学生が綺麗な笑顔ほころばす、その写真へ心で会釈した英二に吉村医師は笑ってくれた。
「おかえりなさい、宮田くん。講習会おつかれさまでした、帰ってすぐにすみません、」
「先生こそ、おつかれさまでした。アンケートの整理、すぐまとめますね、」
鞄を置いて流しに立つと、いつものよう蛇口をひねり手の殺菌消毒を始める。
丁寧に水気を拭いながら振り返ると、サイドテーブルに吉村はマグカップを並べてくれた。
「さっき、車の音が聞えたので淹れておいたんです。まず一服してから始めましょう?」
「あ、すみません。ありがとうございます、」
温かい笑顔で勧めてくれる、その気持ちが有り難い。
素直に笑って英二はいつもの椅子をセットすると、自分の鞄から箱を取出した。
「先生、川崎の菓子です。周太から先生にって預って来ました、」
「おや、嬉しいですね。湯原くんは本当にこまやかだな、早速戴きましょうか、」
嬉しそうに受けとってくれると、きれいに包装を解いてくれる。
その器用な長い指を眺めながら、英二は困り顔で微笑んだ。
「先生、今、ひとつ相談したいことがあるんですけど、」
「君からそう言ってもらえるの、嬉しいですね。なんでしょう?」
気さくに笑って菓子を出しながら訊いてくれる。
その笑顔にほっとしながら英二は携帯電話を取出すと、さっきの受信メールを開いた。
「先生、このメールへの返信、どうしたら良いと思いますか?前に飲み会で一緒して、今日の講習会にも出席した俺の同期なんです」
開いたメールを英二は、最高の警察医で名カウンセラーへと差し出した。
すこし首傾げながら医師は受け取ると、温かい眼差しで微笑んだ。
「そうですね?まず、処方箋は無いってことを申し上げましょうか、」
可笑しそうに笑って吉村医師はメールを見、英二に笑いかけてくれる。
やっぱりこの短文でも吉村には充分、内山の状況が解かるのだろうな?
そう感心した前で医師はデスクを振り向いて、写真立ての医学生に尋ねてくれた。
「雅樹、おまえの大好きな山っ子は、随分と人気があるようだよ。どうしたら良いと思う?」
父に問われて写真のなか、美しい山ヤの医学生はどこか困ったよう笑って見えた。
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第57話 鳴動act.9―side story「陽はまた昇る」
窓は青空を映しだす。
車窓の景色が川を越え、市街地は山嶺の街へと移っていく。
晴れた空と稜線の影を見つめる横顔に、運転席からテノールの声が笑った。
「おまえ、マジでばれなかったね?その拳銃、」
「うん、」
微笑んで英二は肩越しに後部座席を見た。
そこに置かれた自分のビジネスバッグには、晉の拳銃が入っている。
いま自分の救命救急セットのケースに眠る戦闘用銃、それの現況について英二はパートナーに教えた。
「分解してから個別カバーして救命具のケースにしまえば、医療器具に見えるだろ?これなら衛生面の問題あるからチェック少ないよ、」
自分は山岳救助隊員、応急処置を主担当し警察医の助手も務めている。
こうした立場の自分が救命救急の機材を持っていても、誰も不思議に思わないし器具カバーの入手も疑われない。
もし金属探知機で引っ掛ったとしても「医療器材」という衛生上の理由から、開けて見せろとまでは言い難いだろう。
半世紀も前に葬られた拳銃が無傷とは思っていなかった、けれど念のためカバーを準備しておいたのが役に立った。
そんな考えに昨夜は夜中の書斎で分解作業をした、おかげで幾分かの寝不足に小さく欠伸した英二に、光一は笑ってくれた。
「なるほどね?おまえ、その作業を昨夜はヤってたんだ、寝たの遅かっただろ?」
「でも3時には寝られたよ、だから大丈夫、」
答えながら笑いかけて、「大丈夫」じゃないことを英二は思いだした。
いま隣の運転席で上機嫌でいる光一、その横顔に英二は口を開いた。
「光一、あんまり内山のこと虐めないでやって?今日、ちょっと見てらんなかったよ、」
昼間の講義中、内山は真赤にさせられた。
本庁の会議室で何十人もの衆目のなか、あれでは可哀想だろうに?
そんな想いに提案したけれど、底抜けに明るい目は視線をこちらに流し、温かに笑んだ。
「アレで良いんだよ、だって可哀想だろ?彼みたいなエリートくんが、ホモになっちゃったら大変だね。いま俺で懲りた方が良い、」
内山は、光一に淡い恋愛を抱き始めている。
きっかけは今月初め、同期に光一も混ざった8人での飲み会だった。
あのとき「テスト」のために光一が色仕掛けの冗談で転がした、それの予想外の影響が「内山の恋」でいる。
―あの内山が、なあ?
本当に「あの内山が?」と思ってしまう。
信じられないけれど、今日の態度も露骨な位で痛々しいほどだった。
初任科教養のとき内山は、同期の女性警官と騒動を起こしている。だからノーマルだと思っていたのに?
この予想外の現実と、けれど逆にそれがチャンスになる可能性を考えながら、英二はパートナーに笑いかけた。
「内山がゲイになる可能性、光一も考えたんだ?」
「そりゃね?俺、そういう誘いも多いしね、」
さらっと言われた答えに、横顔を見直した。
機嫌良くカーステレオを聴きながらハンドルを捌く、その貌はいつも通り飄々と明るい。
悪戯っ子のような老成した仙人のような表情、けれど端正なエリート風の美貌を魅せる貌に英二は尋ねた。
「光一、ゲイにもモテるんだ?」
「ゲイじゃない男にも誘われるよ。俺って色っぽい美形だからさ、男でもソソられちゃうんじゃない?おまえもだろ?」
おまえもだろ?そう指摘して白い指が英二の額を小突く。
言われて素直に英二は微笑んだ。
「うん、光一にはそそられるな。でも俺、おまえの外見も好きだけど、おまえ自身はもっと好きだよ。」
「そ?ありがとね、英二、」
軽やかに応えて嬉しそうに笑う、その横顔も楽しげでいる。
フロントガラスの向こうを見つめる笑顔は明るい、けれどテノールの声は淡い哀しみに微笑んだ。
「周太、樹医になること忘れていなかったんだね、通夜の直前までは、」
さっき蒔田に聴いたばかりの、馨の通夜が始まる前の周太との会話。
9歳の周太が蒔田と交わした会話は、優しい穏やかな気性らしい言葉が温かかった。
父を亡くした直後でも周りに優しかった周太、そんな幼い少年の温もりを壊した残酷な存在がいる。
―赦せない、
静かに心へ熾火が燃える、また怒りを見つめ確認する。
けれど、その想いは隠して英二は静かに微笑んだ。
「うん、ちゃんと覚えていたんだな。お父さんの為にも樹医になろうって決めたなんて、周太らしいな、」
「だね、」
短く頷いて、ふっと黙りこむ。
この沈黙にも光一の想いが解かってしまう、その隠した涙に英二は笑いかけた。
「あのころの周太、冬に光一と会えたから自信を持てたんだよな。だから樹医になろうって決められたんだと思うよ?
お父さんの日記だと、光一に会ったすぐ後なんだ。新聞で樹医の記事を読んだ周太が、樹医になりたいって言いだしたのってさ、」
言葉に、運転席で小さなため息こぼれだす。
すこし微笑んだ横顔に英二は、自分が知った限りを話した。
「でな、夢を忘れずに叶えてほしいって言ったお父さんに、周太は約束したんだ。忘れんぼだから忘れるかもしれないけど絶対思い出すって、」
「ふっ、」
運転席で噴きだして、テノールの声が笑いだした。
朗らかな笑い声を響かせて、可笑しくて堪らない貌で光一は言ってくれた。
「忘れちゃう前提だったんだ、周太?あははっ、周太らしいかもね、でも絶対思い出すって可愛いな、」
「だろ?それで周太、本当に今、また樹医のこと考えてるだろ?お父さんとの約束は、まだ思い出せていないけどね、」
答えながら英二も一緒に笑って、車窓越し西の空を見た。
相変わらず晴れている、この天候に微笑んだ横顔にテノールの声が尋ねた。
「おまえ、後ろからも日記、また読んでみたんだ?」
「うん、」
馨の日記は最後のページだけ先に読んだ。
けれど哀しすぎて最初から順に読み始めている、でも今は方法を変えた。
このことに英二はありのまま口を開いた。
「お父さんが亡くなる前の記録を知りたいって思ったんだ、だから前からと後ろからと、同時に今は読み進めるようにしてるよ、」
もう時が迫っている、だから急ぎたい。
あの14年前の瞬間を惹き起した要因、その全てを10月を迎える前に知る方が良い。
そう考えて今の読み方にした、この意志にパートナーもすぐ理解と笑ってくれた。
「そっか、ラテン語にも慣れたんだね?だったら急いだ方が良いな、9末までにはってとこだろ、」
「うん、出来たら七機に行くまでに終わらせたいんだ。保管場所のことがあるから、」
第七機動隊に異動すれば、隊舎の寮に入ることになる。
そこにはどんな人間が出入りするか解らない、その考えに光一も頷いた。
「あいつらのお仲間いる可能性、高いもんね?そしたら元の場所に戻すんだ、」
「そのつもりだよ。あそこなら俺の鍵でしか開けないから、いちばん安全だろ?」
「だね、まあ根詰めすぎるなよ?体も大事だからね、遠征訓練もあるしさ、」
気遣ってくれる言葉が温かい、そしてもう1つの世界を示してくれる。
この明るい世界への言葉に英二は、アンザイレンパートナーに笑いかけた。
「マッターホルン、もうじきだな?8月からの予定は変わるかもしれないけど、これは登りに行けるな?」
「だよ?あーあ、異動したらソレが困るよね?ま、予定変更ナシで行けるよう俺も根回しするよ、」
第七機動隊に異動したら、今まで通りに訓練の日程が取れるのか解らない。
それでも海外の訓練は、警視庁山岳会全体のチーム構成だから予定通りに行けるだろう。
けれど国内については解からなくなる、このことは正直痛い。
でも約束はしておきたくて、英二は綺麗に笑った。
「俺も努力するよ、今度の冬も雪山に行こうな?冬富士も登りたいよ、最高峰で笑おう、光一」
「だね、この国の天辺で笑ってやりたいね?あいつらのことも、これからの事もね、」
からり笑って光一の顔が明るくなる。
いつもの底抜けに明るい目は楽しげに笑って、山のことを話しだした。
「明日は越沢で訓練したいね?白妙橋もいいな、壁をしばらくヤルよ。ホントは滝谷とか三スラ行きたいけど、時間難しいかね、」
「一日、なんとか一緒に休み取れたら行けるだろうけど、岩崎さんに悪いしな?近場で本数攻める方が良いかもな、」
「だね?タイムレースで数本、キッチリやっておこっかね、あ?」
話しながら光一が声をあげ、英二のポケットに視線をくれる。
そのとき英二の携帯電話がポケットで振動し始めた。
「ほら、メール。周太じゃない?」
「うん、ありがとな、」
笑って携帯を取出し画面を開く、そこに2通のメールが入っていた。
すぐ開封すると待っていた送信人名が表示されて、英二は微笑んだ。
「当たり、周太だ。今、新宿に戻って美代さんと別れたところだって、」
いま15時半、このあと周太は当番勤務に入ることになっている。
元から申請してあるとはいえ、少し遅れての出勤だから周太の性格では急いているだろう。
それでも忘れずにメールを送ってくれたのが嬉しい、嬉しくて笑った隣で光一も笑ってくれた。
「そっか、無事でよかったよ。さぞ楽しかったんじゃない、ふたりとも?」
「うん、そんな感じだな。夜明けのブナ林を見に行ったらしい、ふたりとも元気だな、」
「昨夜もちゃんと寝たのかね?お喋りしちゃって、起きっ放しだったんじゃ無きゃいいけどね、」
可笑しそうに笑いながら白い手でハンドルを捌いていく。
機嫌の良い横顔は愉快げでいる、英二は次のメールを開封しながら訊いてみた。
「美代さん、昨夜は疲れてなかったんだ?」
「だよ。美代ってね、ああ見えてマジでタフだからさ。4月も剣道の試合、見ただろ?デカい相手でも美代は絶対に怯まないね、」
春4月の御嶽神社奉納試合、あのとき美代は御岳の剣道会で中堅を務めた。
急に自分も参加した試合が懐かしい、可憐で強健だった剣士姿の記憶に英二は微笑んだ。
「美代さんは本当に強いな。可愛いのに強いとこ、周太と似てるから気も合うんだろうな、」
「だろ?あのふたりは似てるよ、結局のトコ楽天的でさ?ノンビリ屋の根明で強いから、その分余裕があって優しいんだよね、」
「うん、そうだな?そう言えば内山も似てるって言ってたよ、美代さんと会った後、」
初任総合の外泊日、内山は美代と周太と一緒に過ごした事がある。
周太たちの大学の講義の後に待合せて、茶を飲んだと言っていた。
だから美代も内山を知っている、そのことに思い至って英二は考え込んだ。
―美代さん、内山が光一を好きだって知ったら、どう思うかな?
幼馴染で姉代わりとして、光一をいちばん近くから見ていた美代。
彼女なら光一と内山のことへと、どんな見解を示してくれるだろう?
聡明で実直な彼女なら、こうした相談も真直ぐ受けとめてくれるだろうと思える。
いちど相談してみようかな?そんなことを考えながら何げなくメール画面を見、英二は軽く息を呑んだ。
「あ、」
内山からメールが入っている。
想定外に思わず声が出た、けれどよく考えれば予想出来ることだろう?
さっと考え廻らせた隣から、テノールの声は何気なしに訊いてきた。
「なに、変な声出して。何かあった?」
「あ、手帳のこと話してないなって思い出してさ、」
別件を口にしながら、英二は携帯電話を閉じて胸ポケットに仕舞った。
別に気にする風も無く光一は、いつも通りに微笑んだ。
「周太のオヤジさんの手帳だね、解読とか終わったんだ?」
「うん、全部じゃないけどな。でも『v.g』の照合は終わったよ、」
“v.g”
馨が遺した手帳には、このアルファベットが3月のスケジュール帳に2ヶ所綴られている。
1ヶ所は彼岸の頃、もう1ヶ所は月末近い桜の頃。この2つとも同じ日付を日記帳でも確認した。
そこに綴られているラテン語たちは“v.g”の意味を示す、それについて英二は口を開いた。
「手帳に『v.g』って書かれている日と日記帳を照合したんだ、この2つに共通する単語は『visita gravem』墓参り、って意味だ。
でも3末の方には『visitacion gravem』重たい面会って単語があったんだ。それから『expiationum』贖罪って言う単語と、もう1つ。
『Peccatum quod est non dimittuntur』赦されない罪っていう意味だ。この3つの言葉で3月末の墓参りが誰の墓か、予想付くだろ?」
墓参、そして、重たい面会、贖罪、赦されない罪。
この単語から想起される事実の裏付けを自分は探している、この予想される事実へと光一が溜息を零した。
「それ、オヤジさんが狙撃した犯人の命日だね?」
「たぶんな、他の月にも同じように2つ書いてあったよ。家族の命日とかじゃない日に、」
ありのままを答えて英二は微笑んだ。
この3月末の数日後に美幸と出逢ったのだろう、そんな馨の春は悲喜が廻っていた。
もう四半世紀ほど過去の日を思いながら、英二はアンザイレンパートナーに協力を仰いだ。
「この3つの日について新聞記事を検索したら、確かに該当する事件があるんだ。でも裏付けを取りたい、光一に頼んでも大丈夫か?」
裏付けを取る、それは直接に「担当部署」のファイルを覗くこと。
おそらく秘文書があるはず、そんな予測を察してパートナーは微笑んだ。
「もちろんだね、これから一緒に御岳駐在に出る?それとも明日のが怪しまれなくってイイかね、」
気楽に頷いて提案してくれる。
少し考えて英二は、今後の考えを話した。
「明日の方が良いな、それで俺にもハッキング教えてくれる?8月から光一は七機でいないだろ、だけどその間にも調べておきたいから、」
「なるほどね?だったら明日のが良いよね、岩崎さん留守だし。警務部の事も調べるんだろ?」
「当たり、よろしくな、」
「こっちこそね?一発で全部を覚えてもらうから、よろしくね、」
底抜けに明るい目を悪戯っ子に笑ませて、了承してくれる。
そのフロントガラスはもう一般道に降りた、見慣れた街の景色をハンドル捌きながらテノールの声は可笑しそうに笑った。
「おまえみたいな堅物くんが、ハッキングまで手出しするなんてね?蒔田さんの話聞いて余計にキレちゃったんだ、」
確かに光一が言う通り、そこまで自分がするなんて自分でも意外だ?
けれどこんな意外もなんだか楽しくて、英二は綺麗に微笑んだ。
「たしかに俺は堅物だけどさ、危険な事も大好きだよ?」
自分で言った言葉に、ふと数ヶ月前の記憶がひっかかる。
なんだろう?そう首傾げかけた脳裡へと姉の言葉が思い出された。
―…あんたみたいな危険を愛する男に、きちんと手綱つけて向き合ってくれる相手は貴重よ
しかも英二は恋愛不感症じゃない?そんな英二が、こんなに惚れ込める相手なんて、もっといないわよ?
確かに姉の言う通りだな?
そんな納得に我ながら可笑しい、あのとき姉は周太のことを言ってくれた。
けれど今、ここにもう一人の貴重な相手がいてくれる。こういう自分は幸せだろうな?
そんな自覚に微笑んだ頬を運転席から白い指に小突かれた。
「マジ、おまえってアブノーマルだよね?俺なら自分もソッチ系だからイイけどさ、周太は違うんだからソコントコ考えなね、」
「そうだな、気を付けるよ、」
答えて笑いかけた隣りの向こう、車窓の風景が減速して止まる。
そうして見慣れた駐車場に着いて、英二は助手席の扉を開いた。
「光一、巡回とか気を付けてな?俺は診察室に居るから、救助とかあったら連絡そっちでもいいよ、」
「了解、また夕飯にね、ア・ダ・ム、」
からり笑って白い手の投げキスすると、光一は御岳へと四駆を向けた。
見慣れた車体を見送って、踵返すと英二は青梅署入口を潜った。
保管に警察手帳を返却して寮に戻ると、スーツを脱いでスラックスに履き替えた。
この後すぐ診察室の手伝いに入るから、ワイシャツとネクタイはそのまま着替えない。
念のため登山ザックの中身をチェックして救助要請に備え、それから英二は救命救急ケースを開いた。
整然とセットされた器具や包帯類が並ぶ中、拳銃のパーツは各々ケースに隠され違和感なく納まっている。
拳銃の分解されたパーツと似た器具ケースを予め調べて買っておいた、それは巧く全てに填まっている。
―どうやって保管し続けるか、だな
心裡に呟いて、すこし考える。
下手な場所に置いておくのは危険、そう考えた方が良いだろう。
この拳銃の存在は自分だけの問題にとどまらない、間違えば周太どころか美幸も巻きこんでいく。
「…俺だけの問題にするには、」
ひとりごと微笑んで、ケースをそのまま閉じた。
むしろ自分が持ち歩く方が安全、そう考えた方が良いだろう。
ここも警察署独身寮である以上は何があるか解らない、それは第七機動隊に行けば尚更だろう。
ならば自分の目が届かない場所で発見されるより、自分が所持している方が幾らでも対応の仕様がある。
そう決定するとビジネスバッグに普段どおり救急法ファイルとケースを一緒に納め、ペンを胸ポケットに挿して扉を開きかけた。
「あ、メール、」
思わず呟いて、開きかけた扉を閉じる。
鞄を持ったままポケットから携帯電話を出すと、受信ボックスからメールを呼びだした。
そして開いた受信メールの内容に、困り顔で英二は微笑んだ。
From :内山由隆
subject:無題
本 文 :お疲れさま、今日は助け舟ありがとう。勉強不足を反省したよ。
近々、時間作れるか?聴いてほしいことがあるんだけど、電話だと言い難い。
忙しいのに悪いけど、頼む。
国村さんは俺のこと嫌いだろうか。
最後の一行が、一番聞きたいことなのだろうな?
そんな察しをつけながら電話を閉じると英二は廊下に出た。
足早に歩いていく、その途中に談話室で藤岡が先輩たちと愉しげに話していた。
「お、宮田。お帰り、講習会おつかれさん、」
気がついて人の好い笑顔を向けてくれる。
いつもどおり温かい気楽さに、ほっと寛いで英二は歩きながら笑いかけた。
「ただいま、藤岡。あとでコーヒー来る?」
「うん、行きたいな。国村も来るんだろ、6時半で良い?」
いつもの時間で確認してくれる、こんな習慣がなんだか嬉しい。
けれど8月になれば光一は異動し、9月には自分もここから去る。
そんな寂しさを肚の底に今は沈めこんだまま、英二は綺麗に微笑んだ。
「ああ、その時間で良いよ。そこまでには仕事、終わるから、」
「帰ってきて早々、大変だな?これから俺も道場に行くんだ、また後でな、」
からっと笑って稽古着を示して、気楽に笑ってくれる。
この明るい柔道家の友人に笑いかけて、英二は廊下を急いだ。
そうして一昨日と同じ扉の前に立ち、ノックと声をかけて開いた。
「失礼します、遅くなって申し訳ありません、」
声に、白衣姿のロマンスグレーがデスクから振向いてくれる。
机上には山ヤの医学生が綺麗な笑顔ほころばす、その写真へ心で会釈した英二に吉村医師は笑ってくれた。
「おかえりなさい、宮田くん。講習会おつかれさまでした、帰ってすぐにすみません、」
「先生こそ、おつかれさまでした。アンケートの整理、すぐまとめますね、」
鞄を置いて流しに立つと、いつものよう蛇口をひねり手の殺菌消毒を始める。
丁寧に水気を拭いながら振り返ると、サイドテーブルに吉村はマグカップを並べてくれた。
「さっき、車の音が聞えたので淹れておいたんです。まず一服してから始めましょう?」
「あ、すみません。ありがとうございます、」
温かい笑顔で勧めてくれる、その気持ちが有り難い。
素直に笑って英二はいつもの椅子をセットすると、自分の鞄から箱を取出した。
「先生、川崎の菓子です。周太から先生にって預って来ました、」
「おや、嬉しいですね。湯原くんは本当にこまやかだな、早速戴きましょうか、」
嬉しそうに受けとってくれると、きれいに包装を解いてくれる。
その器用な長い指を眺めながら、英二は困り顔で微笑んだ。
「先生、今、ひとつ相談したいことがあるんですけど、」
「君からそう言ってもらえるの、嬉しいですね。なんでしょう?」
気さくに笑って菓子を出しながら訊いてくれる。
その笑顔にほっとしながら英二は携帯電話を取出すと、さっきの受信メールを開いた。
「先生、このメールへの返信、どうしたら良いと思いますか?前に飲み会で一緒して、今日の講習会にも出席した俺の同期なんです」
開いたメールを英二は、最高の警察医で名カウンセラーへと差し出した。
すこし首傾げながら医師は受け取ると、温かい眼差しで微笑んだ。
「そうですね?まず、処方箋は無いってことを申し上げましょうか、」
可笑しそうに笑って吉村医師はメールを見、英二に笑いかけてくれる。
やっぱりこの短文でも吉村には充分、内山の状況が解かるのだろうな?
そう感心した前で医師はデスクを振り向いて、写真立ての医学生に尋ねてくれた。
「雅樹、おまえの大好きな山っ子は、随分と人気があるようだよ。どうしたら良いと思う?」
父に問われて写真のなか、美しい山ヤの医学生はどこか困ったよう笑って見えた。
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