今、この瞬間に祝福を
第57話 共鳴act.1―another,side story「陽はまた昇る」
緑が濃くなった。
明方の雷雨に洗われた梢は豊かに煌めき、芝生の一葉ごと露ふくむ。
花々も潤った花弁のびやかに空仰いで、涼やかな樹影の風にゆれている。
静かな家の庭の午後、菜園も雨に耕された土やわらかに草が取れやすい。
畑から引いた草たちを土に埋戻し、ほっと息つくと周太は野菜たちに微笑んだ。
「…ん、みんな大きくなったね?」
翡翠色のレースに似た葉がトマトは美しい。
紫紺に艶やかな茎の茄子は、花も淡い紫とシックに佇む。
蔓をからます胡瓜の花の黄色が可憐で、トマトの花とも似ている。
緑と黄色のズッキーニ、とんがり帽子のようなオクラに、赤と緑のピーマン。
ゆっくり露地で熟した実は鮮やかに瑞々しい、きれいな姿に見惚れてしまう。
…ほんとにきれい、
綺麗な実のひとつずつが嬉しい、この実りに感謝しながら周太は軍手を外した。
鋏を遣い掌に熟した実を摘んで、丁寧に竹籠へと入れては眺めてしまう。
紫、赤、橙、黄色、緑、彩り豊かな実の数々に周太は微笑んだ。
「美代さんのトマト、やっぱりかわいいね?」
感心しながら手に摘んだ、黄色い楕円のトマトが可愛らしい。
他にもオレンジ色に翡翠色と、珍しいトマトが幾つか植えてある。
こうした稀少の品種はどれも美代から譲られた種から、実生で育てた。
―美代さんって、野菜の研究もすごいのに木の事もすごいよね…頭良いんだな、
心裡に感心しながら摘みとる綺麗な実に、いちばんの友人の事を考えてしまう。
明日から1泊で大学の森林学講習でフィールドワークに行く、それが楽しみで仕方ない。
それも仲良しの友達と一緒に行ける、そういう普通の初めてが楽しくて嬉しい。
「…なんか、ゆめみたいだね?」
ひとりごと零れて、周太は微笑んだ。
こうして明るい庭で菜園の手入れをしながら、大学の講義と仲良しの友人を考える。
こんなごく普通の幸せに居ると、ほんの2時間ほど前まで自分がいた場所が遠く思えてしまう。
硝煙の臭いと蒼い煙の術科センター射場。
響く銃声の轟音、掌にかかる金属の重みと発射の衝撃。
そのどれもが遠いこの「今」を愛しく思うのは、警察官として失格かもしれない。
それでも今が幸せなことも本当で、この与えられた温かい時間に周太は素直に微笑んだ。
「ん…明日、楽しみだね?」
野菜籠と軍手を持って立ち上がると、水場へと歩いていく。
足元の芝生をスニーカーに踏む、その足元から緑の薫り立つ。
青々しい香の濃さに季節の訪い告げられる、それでも心は凪いでただ夏に微笑んだ。
…今年の夏は独りじゃないから、ね
心裡のつぶやきに幸せを想う。
確かに夏が来れば異動になって、自由な時間も減るかもしれない。
こんなふうに泊まりがけで実家に帰ることも制限されて、英二とも今まで通りに逢えなくなる。
それは寂しい、けれど去年の夏までは自分のことを想い傍にいる人は、母以外に誰も居なかった。
だから想う、たとえ逢えなくても「傍にいたい」と願ってくれる人がいることは、幸せだ。
そして今夜には逢える、そういう予定がある今が幸せで周太は微笑んだ。
「…英二、何時に帰って来られるかな?」
普通に駐在所の仕事が終わるなら、20時前だろう。
けれど山岳救助隊員の英二は救助要請があれば駈け出していく、そうなれば時間は約束できない。
そして遭難状況によっては夜間捜索にもなって、そうすれば帰ってくることは難しい。
…でも、帰りたいって想ってもらえるだけで嬉しい
帰りたい、そう約束してくれること。
それだけでも充分に嬉しくて幸せで、面映ゆい。
でも出来れば今夜は帰ってきてほしい、異動前に一緒の夜を過ごせるのは今夜が最後だから。
「…献立、どうしようかな?」
考えながら水場で野菜を洗っていく、その飛沫がときおり紺色のエプロンにかかる。
見ると泥も付いているから台所に立つ前に替えた方が良い、新しいのを着ようかな?
あと献立は何時に食べても美味しいものが良いかな?明日の夕食も支度考えないと?
そんなふう考え廻らすのも楽しくて、こういう穏やかな普通の幸せが温かい。
…いま、幸せだ
心からの想い微笑んで、周太は蛇口を止めた。
その最後の一滴に、夏の陽光きらめいて青空うつすと、丸いトマトの赤に弾けた。
窓を開くと梢から風は吹きこんでくる。
涼やかな緑ふくんだ空気が心地良い、頬ふれる風に微笑んで見上げた空は青く明るい。
これなら明日も晴れるだろうか?窓辺に佇んで携帯電話を開くとbookmarkから予報を開く。
そこに表示される神奈川西部の予報に周太は微笑んだ。
「ん…明日も明後日も、良さそうだね?」
ひとりごとに確認して、ふと不思議に思えてしまう。
このサイトはいつも英二のいる山域を見るために使ってきた、それを今、自分のために使う。
いつも通りとすこし違う「山」への想いが不思議で、なんだか面映ゆい。
「…英二も心配するのかな」
心裡が言葉にこぼれて、首傾げてしまう。
いつもは自分が英二の山行を心配して、天気予報やニュースをついチェックする。
山は街中と違って何か起きても自助、自分で自分を援けるしかない。
山は危険も隣り合わせだと、もう何度思い知ってきただろう。
…1月の富士も、3月の雪崩のときも、怖かった…
1月の冬富士で起きた雪崩のなか、英二は遭難救助に立っていた。
あのとき英二は無傷だった、けれど繋がらない電話に最悪の事態を予想して苦しんだ。
それから3月、巡回中に鋸尾根で起きた表層雪崩に英二は攫われて、沢まで滑落させられた。
「…こわかった、」
ぽつん、言葉がこぼれて記憶があふれだす。
あの日、自分は家に居た。
小糠雨ふる庭で白澄椿を見上げて、その花ひとつ舞い落ちるのを両掌に受けとめて。
どこか英二と似た高雅な白い花、それを活けて暫くしたら家の電話が鳴りだした。
そして知らされた英二の遭難事故に、自分は奥多摩へと駆け出した。
…あのとき、よく落着いて行動出来たよね、
本当は泣き崩れたいほど怖かった、知らせを聞いた瞬間から。
それでも自分は婚約者で妻なのだと、伴侶としての責務で心を立て直して。
不安を押えこむよう父に祈りながら着いた青梅駅に、光一は迎えに来てくれた。
そして辿り着いた吉村医師の病院の一室、英二は眠り続けていた。
軽度の凍傷、左足首脱臼、左半身打撲、それから額の左に裂傷と脳震盪。
怪我と疲労からの発熱に失った意識のまま、翌朝まで昏睡状態に英二は墜ちこんだ。
その看病の合間に、英二の母と初めて会った。
―…あなたのせいよ!
悲痛な怒りの声の記憶に、そっと左頬に掌ふれる。
桜貝のような爪の美しい白い手は、思い切りこの頬を叩いた。
痛くて、それ以上に心が傷んで、けれど「これで良かった」と心から嬉しかった。
ずっと彼女の怒りも痛みも受け留めたかった、だから、いつかこの頬を存分に叩かせようと思っていた。
そして「ありがとう」を、自分の大切な人をこの世に生んでくれた感謝を彼女に伝えたかった。
…よかった、英二のお母さんと会えて
卒業式の翌朝、英二は周太のことで母親に頬を叩かれた、そのとき自分も一緒に叩かれたかった。
彼女の怒りを自分自身で受け留めたかった、そして心から「ありがとう」を言いたかった
その全てが叶った春の雪の夜、この記憶と見つめる空は今、夏の青と白い雲に明るい。
「ん、明日の準備しよう、」
今は夏、この季節を迎えた想いは哀しみもある。
もうすぐ異動して、また異動して、少しずつ今の世界から遠のく瞬間は訪う。
それは雪の厳しい夜のよう辛いかもしれない、それでも超えた向こうにはきっと、豊かな季節が待っている。
父を亡くして孤独に沈んだ13年間の先が「今」であるように、この先もきっと明るい。
…明日、メールとか電話とか出来る限りしよう…心配かけたらいけないから
明日からのフィールドワークで登る丹沢山は、電波状況が限定されると聴いた。
それでも携帯電話が繋がる場所があるとWEBで読んだ、そこを通るときに送信すればいい。
あらかじめ文面とか作っておくと良いかな?そんなことを考えながら周太は、登山ザックを開いた。
まず救命救急セットをチェックする。
これは英二に選んで貰った救急法のテキストを参考に買い揃えた。
その中に今回は抗ヒスタミン剤軟膏と絆創膏、メチル系軟膏と消毒用エタノールを2本セットしてある。
ザックの外ポケットにも山ヒル忌避剤とスプレー式の消毒用エタノールを入れた、これらは丹沢に多い山ビルへの対策になる。
山ビルは代表的な吸血性の陸棲種で、日本では秋田県から沖縄県まで広く分布している。
活動期間は5月~10月頃迄となり、特に雨が降っているときや雨上がりなど湿度の高い時に活発化する。
だから今日のような明方の雨後は危険となってしまう、だから明日明後日が晴天続きの予報であることが嬉しい。
それでも装備を固めておかないと山ビルは細かなところから吸血してくる、そのための支度を確認し始めた。
「…あと、手袋と靴下、タオルと帽子も入れたよね?…レスキューシートと、細引きと…」
ひとつずつ声出し確認して、きちんと納めていく。
その最後の1つを手にとって周太は赤くなった。
「これ…明日と明後日、履くんだよね?」
女性用のニーストッキング。
これが一番防止策に良いと光一に奨められて、素直に準備した。
色は黒だけれど、女性ものというのが何となく気恥ずかしい。
けれど山ビルに噛まれてしまうことは困る、そう思うと遣わざるを得ないだろう。
山ビルに吸血された場合、大量の出血と腫れ、かゆみと化膿、まれに発熱もみられる。
回復までに通常なら1~2週間程度、長いと1ヶ月かかり、半年まで長引くケースもある。
「ヤラれないことが大事だね、編目が細かいのを着て山ビルの侵入を防ぐのが一番だよ、」
そう光一は言って、美代と周太にメールで女性用ストッキングの事を教えてくれた。
これと登山用スパッツを履けば万全、そう言われた通りに青木准教授にも美代と話してある。
だから明日の参加者の殆どが同じ装備で来るのだろう、そう思うと何だか可笑しくて周太は笑ってしまった。
「みんな男の人ばかりなのに…あ、女のひとって考えたら美代さんだけ?」
笑いかけて、ふと気がついて周太は首を傾げた。
森林学は山野に入り作業する体力勝負の面がある、その為か公開講座の聴講生も女性は少ない。
今回は学部生と聴講生の混合で10名ほどだけれど、参加者説明会に出ていた女性は美代だけだった。
…そういうの普通の女の子って気にするけど、美代さんは全然気にしてなかったな?
美代は可愛らしい風貌だけれど、内実はとてもタフだと周太は思う。
JAに勤務する傍らで実家と光一の家と両方の畑を手伝い、野菜の栽培研究も自力でしている。
4月に開かれた御嶽神社奉納の剣道大会でも中堅を務めて、ほぼ全勝で1度引分けただけらしい。
美代にはそういう堅実な凛々しさがある、そんな友人の強さが好きだなと嬉しくて、周太は微笑んだ。
「美代さんってカッコいいね?」
なんだか嬉しくて微笑んで、ザックの中身を確認していく。
水筒と携帯用押花キット、防水カバーをかけた登山図とコンパスは外ポケットに入れた。
雨具とヘッドライトは出しやすい所に入れて、替えのカットソーと下着類はパッキングしておく。
それからデジタル一眼レフのカメラを出して、バッテリーのチェックをした。
「ん…充電良いよね?さっき庭の野菜も撮ったから、美代さんに見てもらえるし」
映像チェックもして電源をOFFにすると、元通りザックへ納めておく。
全てのチェックが終わると今度は登山ジャケットのポケットをチェックし始めた。
文庫本サイズの植物図鑑とペン、手帳と行動食の飴はこちらに入れてある。
そうして全てのチェックが終わると、青い本を抱えて周太は立ちあがった。
『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』
冬2月に青木樹医から贈られた、大切な宝物の本。これを今回も新宿署の寮から持って来た。
ハードカバーの重たい本だから登山には荷物になるだろう、けれどブナ林研究について記されている。
それこそ今回のフィールドワークの目的だから、やっぱり持って行きたい。
…きっと山小屋で読んだら楽しいし、良い復習になるよね
すこし重いだろうけれど、やっぱり持って行きたい。
確かに英二や光一のようには自分は登れない、それでも体力はある方だと思う。
父の軌跡を追うため警察官になろうと決めた、あの幼い日から自分なりに努力して鍛えてある。
それに第七機動隊に異動すれば毎日のよう装備を着けたトレーニングをする、しかも自分は銃火器も携行するだろう。
そう思えば今回もトレーニングも兼ねて、重たい本を背負って登るのは良い事かもしれない。そう考えて持って来た。
…一石二鳥、って言うんだよね?
そんな諺を思い出しながら、部屋の窓を閉じた。
もう時刻は17時になる、けれど青く明るい空はもう夏だと視覚に知らす。
きれいな夕焼けになりそうな空に微笑んで、念のため周太はカーテンも閉じた。
それから屋根裏部屋に上がりカーテンを閉めると、天窓ふる明るい陽だまりの部屋で周太は微笑んだ。
「小十郎、」
頑丈できれいなロッキングチェアーに座る、テディベア。
この父から贈られた大切な宝物を、そっと撫でると周太は話しかけた。
「俺ね、明日は樹医の先生と山に行くんだよ?…昔、お父さんと一緒に新聞で読んだ、植物の魔法使いと森に行くんだ…」
幼い頃の父との会話の、微かな記憶。
あのとき父と何を話しただろう?
…すごく大切なこと話した気がするのに
もどかしい靄の向こうに、まだ言葉は眠って目覚めてくれない。
必ず切欠があれば記憶は蘇える、そう吉村医師は言ってくれた。
だから、いつかこの会話も思い出せるだろうか?
「小十郎?俺、思い出せるよね…お父さんと話したこと全部を取り戻したいんだ、」
そっと本音を語りかけ、青い本を片手にテディベアの頭を撫でる。
このクマは多忙な父の身代わりとして贈ってくれた、その為かふれる毎いつも温かい。
そして話しかけた望みを聴いてもらえる気がする、そんな気持ち微笑んで踵を返すと梯子階段を降りた。
そのまま廊下に出ると隣の扉を開く、ふわり甘く重厚な香が頬撫でて、書斎机の写真に周太は微笑んだ。
「お父さん、」
写真立ての笑顔に笑いかけて、書斎椅子に座りこむ。
青い本を机に載せて見つめた写真は、すこし寂しげでも綺麗な笑顔は幸せに優しい。
この写真は母が撮ったものだと聴いている、だからこの笑顔は母に向けた想いの結晶だろう。
いま傍らにゆれる薄紅いろの撫子も、母が父の為に活けた花。こんなふうに両親は今も想い合っている。
そんな両親が子供として嬉しい、この幸せ見つめて周太は両掌で頬杖つくと、父の笑顔に笑いかけた。
「お父さん、やっとゆっくり話せるね?…あのね、この間は俺、葉山に行ったんだよ?英二のおばあさまに会ったんだ…」
葉山に行ってから、こうして話すのは初めてになる。
あれから一週間ほど考えてきたことに、静かに周太は微笑んだ。
「ね、お父さん?英二のおばあさまと、うちのお祖母さんは親戚だよね?」
英二の祖母、顕子の涼やかな切長い目。
あの眼差しと今、見つめている父の目を重ね合わせてしまう。
明るい海の光ふる部屋で過ごした、楽しい記憶に周太は微笑んだ。
「おばあさまの目、お父さんとそっくりだったよ?…おばあさまね、お祖母さんとお父さんも似てるって教えてくれたんだ。
だから英二はお父さんと似てるんだね?…英二の目は睫が長くて華やかだけど、おばあさまの目とよく似てる、お父さんともね。
でもね、おばあさまも英二も何も教えてはくれないの…それでも、お祖父さんやお祖母さんや、お父さんの話を沢山してくれたよ?」
空中庭園に続く明るく上品な部屋。
香り高い紅茶と優しい手作り菓子、それから可愛い猫と犬。
あの楽園のような時間に見つめていた想いを、ひとつずつ周太は言葉に変えた。
「俺にね、おばあさまって呼んでねって言ってくれたんだ…それから謝ってくれたの、知らなくて、何も出来なくてごめんねって。
きっとね、お父さんとお祖父さんが亡くなった時のこと謝ってくれたんだよ?…きっと、親戚なのに何も出来ないことを謝ってた。
お父さん、どうしてイギリスに行った後は連絡するの止めちゃったの?…おばあさまのこと、お父さんも大好きだったんでしょう?」
どうして?
この謎の答えは、まだ何も解らない。
この謎の為に英二も顕子も親戚であることを黙っている、そんなふうに想う。
「お父さんもお祖父さんも連絡するの止めた理由、おばあさまと英二は知ってるんでしょう?…でも俺には何も教えてくれないの。
ね、お父さん?この理由のために親戚だってことも黙ってるんでしょう?…俺が知ったら困るから、言わないでいるのでしょう?
だってお父さんも、お祖父さんやお祖母さんのこと教えてくれなかったよね?お祖父さんが大学の先生だったことも言わなかった」
なぜ?
どうして父は祖父たちのことを一切話さなかったのだろう?
この「話さない」にも父の理由がある、そう解るけれど周太は口にした。
「でも、本当に俺は知らないままでいてもいいの?…この家のことは俺自身のことだよ、自分のことから逃げるなんて出来ないよ?」
そう、逃げることなんて出来ない。
だから自分は父の軌跡を追う道を選んだ。
あの春の夜から見てしまう父の最期の夢、その苦しみに向き合う為に今を選んだ。
父の軌跡を追う事で父の死と向き合っていく、そう決めた後に悪夢は減っていった。
だから思う、事実に目を逸らしても不安に傷つくだけ、だったら向き合って傷つく方がずっといい。
「お父さん、内緒にすることで俺のこと護ってくれようとしたんでしょう?英二もそう、おばあさまも同じだよね?
みんな俺のこと本当に大切にしてくれてるよね、でもね…きっと運命ってものが有るのなら、自分で超えないとダメだと思うんだ」
もし、運命なら逃れられない。
そう自分は知っている、あの哀しい夢にそう教えられたから。
だからこそ、この家の事実に目を逸らしたまま生きることを、肯定なんて出来ない。
この想いのまま正直な告白に、周太は父の写真へと笑いかけた。
「お父さんの亡くなる瞬間の夢をね、ずっと俺は見ていたんだ…お父さんと同じ警察官になろうって決めるまでずっと。
警察学校に入った後も見たことあるよ?…いつも夢に見た後はトイレで吐いて独りで泣いていたんだ、ずっと、去年の春まで」
繰返し幾度もリフレインする、父の最期。
響く銃声の轟音、蒼い硝煙の影と射すような火薬の臭い。
桜の花ふる夜の底、深紅に染められた父の最期の微笑と冷たい掌。
現実には見ていない父の最期、それでも現場に居たよう見えてしまう。
あの夜に新宿署の検案所で見つめた遺体の姿、家の仏間に寄添った白無垢の父。
あの哀しい映像たちが夢にも何度も現れて、いつも焦燥感と哀しみに胸は潰され、泣きながら吐いた。
胃の中のものが無くなっても嘔吐は収まらなくて、そのたび元から弱い喉が裂けて吐血した。
…いつも苦しくて痛くて、哀しかった…ずっと、
けれど、それが終わりになった時がある。
その時への想いに首筋へ熱が昇りだす、この温もりに周太は微笑んだ。
「でもね…英二が隣で一緒に寝てくれるようになってから、夢に見なくなったの…初任科教養のときの最初の時から。
英二が脱走しちゃって俺のとこ来てくれて…あの日から毎晩みたいに隣に居てくれるようになったでしょ?勉強して朝まで、ね」
気恥ずかしいけれど、これは本当のこと。
このことは不思議だと思っていて、まだ英二にも話していない。
けれど、父の夢がなぜ英二によって終わったのか、もう理由が今は解かったように思う。
「お父さん…英二が一緒に居てくれるようになって夢が終わったのって、お父さんと英二が本当に似ているからでしょ?
身代わりとかじゃなくて、同じもの持ってるんだよね?…ふたりのこと俺は大好きで、安心して甘えられるのも同じだからで、」
なんだか巧く言えない、けれど解かっている。
この想いそのままを周太は言葉に変えて、綺麗に微笑んだ。
「お父さんも英二も大好き、愛してるよ…だからね、俺、二人と同じ世界を見つめたいんだ、だから信じて一緒に背負わせて?」
ふたりとも本当に大切なひと。
ふたりとも本当に自分を護ろうと命を懸けてくれる。
だからこそ自分も護りたい、どうか自分を信じて一緒に背負わせてほしい。
「ね、俺、一緒に背負える位に強くなるから、だから信じてね?…お父さん、見守っていて?」
どうかこの我儘を訊いてほしい。
本当に自分は我儘の泣き虫で弱虫、けれど愛している。
だから強くなれるはず、ふたりが自分を愛して強く護ってくれるように、自分も出来る。
そう信じてほしい、どうか自分も信じて努力するから一緒に世界を見つめさせて?
そんな願いのままに瞳の奥に熱が昇って、静かに涙ひとすじ零れ落ちた。
「お父さん…もう、何も知らないで置いて行かれるの嫌だよ?…英二とは一緒に生きていたい、だから一緒に見つめさせて?」
静かな涙の向こう、母の活けた撫子の花翳に、父の笑顔は綺麗に見つめてくれる。
(to be continued)
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第57話 共鳴act.1―another,side story「陽はまた昇る」
緑が濃くなった。
明方の雷雨に洗われた梢は豊かに煌めき、芝生の一葉ごと露ふくむ。
花々も潤った花弁のびやかに空仰いで、涼やかな樹影の風にゆれている。
静かな家の庭の午後、菜園も雨に耕された土やわらかに草が取れやすい。
畑から引いた草たちを土に埋戻し、ほっと息つくと周太は野菜たちに微笑んだ。
「…ん、みんな大きくなったね?」
翡翠色のレースに似た葉がトマトは美しい。
紫紺に艶やかな茎の茄子は、花も淡い紫とシックに佇む。
蔓をからます胡瓜の花の黄色が可憐で、トマトの花とも似ている。
緑と黄色のズッキーニ、とんがり帽子のようなオクラに、赤と緑のピーマン。
ゆっくり露地で熟した実は鮮やかに瑞々しい、きれいな姿に見惚れてしまう。
…ほんとにきれい、
綺麗な実のひとつずつが嬉しい、この実りに感謝しながら周太は軍手を外した。
鋏を遣い掌に熟した実を摘んで、丁寧に竹籠へと入れては眺めてしまう。
紫、赤、橙、黄色、緑、彩り豊かな実の数々に周太は微笑んだ。
「美代さんのトマト、やっぱりかわいいね?」
感心しながら手に摘んだ、黄色い楕円のトマトが可愛らしい。
他にもオレンジ色に翡翠色と、珍しいトマトが幾つか植えてある。
こうした稀少の品種はどれも美代から譲られた種から、実生で育てた。
―美代さんって、野菜の研究もすごいのに木の事もすごいよね…頭良いんだな、
心裡に感心しながら摘みとる綺麗な実に、いちばんの友人の事を考えてしまう。
明日から1泊で大学の森林学講習でフィールドワークに行く、それが楽しみで仕方ない。
それも仲良しの友達と一緒に行ける、そういう普通の初めてが楽しくて嬉しい。
「…なんか、ゆめみたいだね?」
ひとりごと零れて、周太は微笑んだ。
こうして明るい庭で菜園の手入れをしながら、大学の講義と仲良しの友人を考える。
こんなごく普通の幸せに居ると、ほんの2時間ほど前まで自分がいた場所が遠く思えてしまう。
硝煙の臭いと蒼い煙の術科センター射場。
響く銃声の轟音、掌にかかる金属の重みと発射の衝撃。
そのどれもが遠いこの「今」を愛しく思うのは、警察官として失格かもしれない。
それでも今が幸せなことも本当で、この与えられた温かい時間に周太は素直に微笑んだ。
「ん…明日、楽しみだね?」
野菜籠と軍手を持って立ち上がると、水場へと歩いていく。
足元の芝生をスニーカーに踏む、その足元から緑の薫り立つ。
青々しい香の濃さに季節の訪い告げられる、それでも心は凪いでただ夏に微笑んだ。
…今年の夏は独りじゃないから、ね
心裡のつぶやきに幸せを想う。
確かに夏が来れば異動になって、自由な時間も減るかもしれない。
こんなふうに泊まりがけで実家に帰ることも制限されて、英二とも今まで通りに逢えなくなる。
それは寂しい、けれど去年の夏までは自分のことを想い傍にいる人は、母以外に誰も居なかった。
だから想う、たとえ逢えなくても「傍にいたい」と願ってくれる人がいることは、幸せだ。
そして今夜には逢える、そういう予定がある今が幸せで周太は微笑んだ。
「…英二、何時に帰って来られるかな?」
普通に駐在所の仕事が終わるなら、20時前だろう。
けれど山岳救助隊員の英二は救助要請があれば駈け出していく、そうなれば時間は約束できない。
そして遭難状況によっては夜間捜索にもなって、そうすれば帰ってくることは難しい。
…でも、帰りたいって想ってもらえるだけで嬉しい
帰りたい、そう約束してくれること。
それだけでも充分に嬉しくて幸せで、面映ゆい。
でも出来れば今夜は帰ってきてほしい、異動前に一緒の夜を過ごせるのは今夜が最後だから。
「…献立、どうしようかな?」
考えながら水場で野菜を洗っていく、その飛沫がときおり紺色のエプロンにかかる。
見ると泥も付いているから台所に立つ前に替えた方が良い、新しいのを着ようかな?
あと献立は何時に食べても美味しいものが良いかな?明日の夕食も支度考えないと?
そんなふう考え廻らすのも楽しくて、こういう穏やかな普通の幸せが温かい。
…いま、幸せだ
心からの想い微笑んで、周太は蛇口を止めた。
その最後の一滴に、夏の陽光きらめいて青空うつすと、丸いトマトの赤に弾けた。
窓を開くと梢から風は吹きこんでくる。
涼やかな緑ふくんだ空気が心地良い、頬ふれる風に微笑んで見上げた空は青く明るい。
これなら明日も晴れるだろうか?窓辺に佇んで携帯電話を開くとbookmarkから予報を開く。
そこに表示される神奈川西部の予報に周太は微笑んだ。
「ん…明日も明後日も、良さそうだね?」
ひとりごとに確認して、ふと不思議に思えてしまう。
このサイトはいつも英二のいる山域を見るために使ってきた、それを今、自分のために使う。
いつも通りとすこし違う「山」への想いが不思議で、なんだか面映ゆい。
「…英二も心配するのかな」
心裡が言葉にこぼれて、首傾げてしまう。
いつもは自分が英二の山行を心配して、天気予報やニュースをついチェックする。
山は街中と違って何か起きても自助、自分で自分を援けるしかない。
山は危険も隣り合わせだと、もう何度思い知ってきただろう。
…1月の富士も、3月の雪崩のときも、怖かった…
1月の冬富士で起きた雪崩のなか、英二は遭難救助に立っていた。
あのとき英二は無傷だった、けれど繋がらない電話に最悪の事態を予想して苦しんだ。
それから3月、巡回中に鋸尾根で起きた表層雪崩に英二は攫われて、沢まで滑落させられた。
「…こわかった、」
ぽつん、言葉がこぼれて記憶があふれだす。
あの日、自分は家に居た。
小糠雨ふる庭で白澄椿を見上げて、その花ひとつ舞い落ちるのを両掌に受けとめて。
どこか英二と似た高雅な白い花、それを活けて暫くしたら家の電話が鳴りだした。
そして知らされた英二の遭難事故に、自分は奥多摩へと駆け出した。
…あのとき、よく落着いて行動出来たよね、
本当は泣き崩れたいほど怖かった、知らせを聞いた瞬間から。
それでも自分は婚約者で妻なのだと、伴侶としての責務で心を立て直して。
不安を押えこむよう父に祈りながら着いた青梅駅に、光一は迎えに来てくれた。
そして辿り着いた吉村医師の病院の一室、英二は眠り続けていた。
軽度の凍傷、左足首脱臼、左半身打撲、それから額の左に裂傷と脳震盪。
怪我と疲労からの発熱に失った意識のまま、翌朝まで昏睡状態に英二は墜ちこんだ。
その看病の合間に、英二の母と初めて会った。
―…あなたのせいよ!
悲痛な怒りの声の記憶に、そっと左頬に掌ふれる。
桜貝のような爪の美しい白い手は、思い切りこの頬を叩いた。
痛くて、それ以上に心が傷んで、けれど「これで良かった」と心から嬉しかった。
ずっと彼女の怒りも痛みも受け留めたかった、だから、いつかこの頬を存分に叩かせようと思っていた。
そして「ありがとう」を、自分の大切な人をこの世に生んでくれた感謝を彼女に伝えたかった。
…よかった、英二のお母さんと会えて
卒業式の翌朝、英二は周太のことで母親に頬を叩かれた、そのとき自分も一緒に叩かれたかった。
彼女の怒りを自分自身で受け留めたかった、そして心から「ありがとう」を言いたかった
その全てが叶った春の雪の夜、この記憶と見つめる空は今、夏の青と白い雲に明るい。
「ん、明日の準備しよう、」
今は夏、この季節を迎えた想いは哀しみもある。
もうすぐ異動して、また異動して、少しずつ今の世界から遠のく瞬間は訪う。
それは雪の厳しい夜のよう辛いかもしれない、それでも超えた向こうにはきっと、豊かな季節が待っている。
父を亡くして孤独に沈んだ13年間の先が「今」であるように、この先もきっと明るい。
…明日、メールとか電話とか出来る限りしよう…心配かけたらいけないから
明日からのフィールドワークで登る丹沢山は、電波状況が限定されると聴いた。
それでも携帯電話が繋がる場所があるとWEBで読んだ、そこを通るときに送信すればいい。
あらかじめ文面とか作っておくと良いかな?そんなことを考えながら周太は、登山ザックを開いた。
まず救命救急セットをチェックする。
これは英二に選んで貰った救急法のテキストを参考に買い揃えた。
その中に今回は抗ヒスタミン剤軟膏と絆創膏、メチル系軟膏と消毒用エタノールを2本セットしてある。
ザックの外ポケットにも山ヒル忌避剤とスプレー式の消毒用エタノールを入れた、これらは丹沢に多い山ビルへの対策になる。
山ビルは代表的な吸血性の陸棲種で、日本では秋田県から沖縄県まで広く分布している。
活動期間は5月~10月頃迄となり、特に雨が降っているときや雨上がりなど湿度の高い時に活発化する。
だから今日のような明方の雨後は危険となってしまう、だから明日明後日が晴天続きの予報であることが嬉しい。
それでも装備を固めておかないと山ビルは細かなところから吸血してくる、そのための支度を確認し始めた。
「…あと、手袋と靴下、タオルと帽子も入れたよね?…レスキューシートと、細引きと…」
ひとつずつ声出し確認して、きちんと納めていく。
その最後の1つを手にとって周太は赤くなった。
「これ…明日と明後日、履くんだよね?」
女性用のニーストッキング。
これが一番防止策に良いと光一に奨められて、素直に準備した。
色は黒だけれど、女性ものというのが何となく気恥ずかしい。
けれど山ビルに噛まれてしまうことは困る、そう思うと遣わざるを得ないだろう。
山ビルに吸血された場合、大量の出血と腫れ、かゆみと化膿、まれに発熱もみられる。
回復までに通常なら1~2週間程度、長いと1ヶ月かかり、半年まで長引くケースもある。
「ヤラれないことが大事だね、編目が細かいのを着て山ビルの侵入を防ぐのが一番だよ、」
そう光一は言って、美代と周太にメールで女性用ストッキングの事を教えてくれた。
これと登山用スパッツを履けば万全、そう言われた通りに青木准教授にも美代と話してある。
だから明日の参加者の殆どが同じ装備で来るのだろう、そう思うと何だか可笑しくて周太は笑ってしまった。
「みんな男の人ばかりなのに…あ、女のひとって考えたら美代さんだけ?」
笑いかけて、ふと気がついて周太は首を傾げた。
森林学は山野に入り作業する体力勝負の面がある、その為か公開講座の聴講生も女性は少ない。
今回は学部生と聴講生の混合で10名ほどだけれど、参加者説明会に出ていた女性は美代だけだった。
…そういうの普通の女の子って気にするけど、美代さんは全然気にしてなかったな?
美代は可愛らしい風貌だけれど、内実はとてもタフだと周太は思う。
JAに勤務する傍らで実家と光一の家と両方の畑を手伝い、野菜の栽培研究も自力でしている。
4月に開かれた御嶽神社奉納の剣道大会でも中堅を務めて、ほぼ全勝で1度引分けただけらしい。
美代にはそういう堅実な凛々しさがある、そんな友人の強さが好きだなと嬉しくて、周太は微笑んだ。
「美代さんってカッコいいね?」
なんだか嬉しくて微笑んで、ザックの中身を確認していく。
水筒と携帯用押花キット、防水カバーをかけた登山図とコンパスは外ポケットに入れた。
雨具とヘッドライトは出しやすい所に入れて、替えのカットソーと下着類はパッキングしておく。
それからデジタル一眼レフのカメラを出して、バッテリーのチェックをした。
「ん…充電良いよね?さっき庭の野菜も撮ったから、美代さんに見てもらえるし」
映像チェックもして電源をOFFにすると、元通りザックへ納めておく。
全てのチェックが終わると今度は登山ジャケットのポケットをチェックし始めた。
文庫本サイズの植物図鑑とペン、手帳と行動食の飴はこちらに入れてある。
そうして全てのチェックが終わると、青い本を抱えて周太は立ちあがった。
『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』
冬2月に青木樹医から贈られた、大切な宝物の本。これを今回も新宿署の寮から持って来た。
ハードカバーの重たい本だから登山には荷物になるだろう、けれどブナ林研究について記されている。
それこそ今回のフィールドワークの目的だから、やっぱり持って行きたい。
…きっと山小屋で読んだら楽しいし、良い復習になるよね
すこし重いだろうけれど、やっぱり持って行きたい。
確かに英二や光一のようには自分は登れない、それでも体力はある方だと思う。
父の軌跡を追うため警察官になろうと決めた、あの幼い日から自分なりに努力して鍛えてある。
それに第七機動隊に異動すれば毎日のよう装備を着けたトレーニングをする、しかも自分は銃火器も携行するだろう。
そう思えば今回もトレーニングも兼ねて、重たい本を背負って登るのは良い事かもしれない。そう考えて持って来た。
…一石二鳥、って言うんだよね?
そんな諺を思い出しながら、部屋の窓を閉じた。
もう時刻は17時になる、けれど青く明るい空はもう夏だと視覚に知らす。
きれいな夕焼けになりそうな空に微笑んで、念のため周太はカーテンも閉じた。
それから屋根裏部屋に上がりカーテンを閉めると、天窓ふる明るい陽だまりの部屋で周太は微笑んだ。
「小十郎、」
頑丈できれいなロッキングチェアーに座る、テディベア。
この父から贈られた大切な宝物を、そっと撫でると周太は話しかけた。
「俺ね、明日は樹医の先生と山に行くんだよ?…昔、お父さんと一緒に新聞で読んだ、植物の魔法使いと森に行くんだ…」
幼い頃の父との会話の、微かな記憶。
あのとき父と何を話しただろう?
…すごく大切なこと話した気がするのに
もどかしい靄の向こうに、まだ言葉は眠って目覚めてくれない。
必ず切欠があれば記憶は蘇える、そう吉村医師は言ってくれた。
だから、いつかこの会話も思い出せるだろうか?
「小十郎?俺、思い出せるよね…お父さんと話したこと全部を取り戻したいんだ、」
そっと本音を語りかけ、青い本を片手にテディベアの頭を撫でる。
このクマは多忙な父の身代わりとして贈ってくれた、その為かふれる毎いつも温かい。
そして話しかけた望みを聴いてもらえる気がする、そんな気持ち微笑んで踵を返すと梯子階段を降りた。
そのまま廊下に出ると隣の扉を開く、ふわり甘く重厚な香が頬撫でて、書斎机の写真に周太は微笑んだ。
「お父さん、」
写真立ての笑顔に笑いかけて、書斎椅子に座りこむ。
青い本を机に載せて見つめた写真は、すこし寂しげでも綺麗な笑顔は幸せに優しい。
この写真は母が撮ったものだと聴いている、だからこの笑顔は母に向けた想いの結晶だろう。
いま傍らにゆれる薄紅いろの撫子も、母が父の為に活けた花。こんなふうに両親は今も想い合っている。
そんな両親が子供として嬉しい、この幸せ見つめて周太は両掌で頬杖つくと、父の笑顔に笑いかけた。
「お父さん、やっとゆっくり話せるね?…あのね、この間は俺、葉山に行ったんだよ?英二のおばあさまに会ったんだ…」
葉山に行ってから、こうして話すのは初めてになる。
あれから一週間ほど考えてきたことに、静かに周太は微笑んだ。
「ね、お父さん?英二のおばあさまと、うちのお祖母さんは親戚だよね?」
英二の祖母、顕子の涼やかな切長い目。
あの眼差しと今、見つめている父の目を重ね合わせてしまう。
明るい海の光ふる部屋で過ごした、楽しい記憶に周太は微笑んだ。
「おばあさまの目、お父さんとそっくりだったよ?…おばあさまね、お祖母さんとお父さんも似てるって教えてくれたんだ。
だから英二はお父さんと似てるんだね?…英二の目は睫が長くて華やかだけど、おばあさまの目とよく似てる、お父さんともね。
でもね、おばあさまも英二も何も教えてはくれないの…それでも、お祖父さんやお祖母さんや、お父さんの話を沢山してくれたよ?」
空中庭園に続く明るく上品な部屋。
香り高い紅茶と優しい手作り菓子、それから可愛い猫と犬。
あの楽園のような時間に見つめていた想いを、ひとつずつ周太は言葉に変えた。
「俺にね、おばあさまって呼んでねって言ってくれたんだ…それから謝ってくれたの、知らなくて、何も出来なくてごめんねって。
きっとね、お父さんとお祖父さんが亡くなった時のこと謝ってくれたんだよ?…きっと、親戚なのに何も出来ないことを謝ってた。
お父さん、どうしてイギリスに行った後は連絡するの止めちゃったの?…おばあさまのこと、お父さんも大好きだったんでしょう?」
どうして?
この謎の答えは、まだ何も解らない。
この謎の為に英二も顕子も親戚であることを黙っている、そんなふうに想う。
「お父さんもお祖父さんも連絡するの止めた理由、おばあさまと英二は知ってるんでしょう?…でも俺には何も教えてくれないの。
ね、お父さん?この理由のために親戚だってことも黙ってるんでしょう?…俺が知ったら困るから、言わないでいるのでしょう?
だってお父さんも、お祖父さんやお祖母さんのこと教えてくれなかったよね?お祖父さんが大学の先生だったことも言わなかった」
なぜ?
どうして父は祖父たちのことを一切話さなかったのだろう?
この「話さない」にも父の理由がある、そう解るけれど周太は口にした。
「でも、本当に俺は知らないままでいてもいいの?…この家のことは俺自身のことだよ、自分のことから逃げるなんて出来ないよ?」
そう、逃げることなんて出来ない。
だから自分は父の軌跡を追う道を選んだ。
あの春の夜から見てしまう父の最期の夢、その苦しみに向き合う為に今を選んだ。
父の軌跡を追う事で父の死と向き合っていく、そう決めた後に悪夢は減っていった。
だから思う、事実に目を逸らしても不安に傷つくだけ、だったら向き合って傷つく方がずっといい。
「お父さん、内緒にすることで俺のこと護ってくれようとしたんでしょう?英二もそう、おばあさまも同じだよね?
みんな俺のこと本当に大切にしてくれてるよね、でもね…きっと運命ってものが有るのなら、自分で超えないとダメだと思うんだ」
もし、運命なら逃れられない。
そう自分は知っている、あの哀しい夢にそう教えられたから。
だからこそ、この家の事実に目を逸らしたまま生きることを、肯定なんて出来ない。
この想いのまま正直な告白に、周太は父の写真へと笑いかけた。
「お父さんの亡くなる瞬間の夢をね、ずっと俺は見ていたんだ…お父さんと同じ警察官になろうって決めるまでずっと。
警察学校に入った後も見たことあるよ?…いつも夢に見た後はトイレで吐いて独りで泣いていたんだ、ずっと、去年の春まで」
繰返し幾度もリフレインする、父の最期。
響く銃声の轟音、蒼い硝煙の影と射すような火薬の臭い。
桜の花ふる夜の底、深紅に染められた父の最期の微笑と冷たい掌。
現実には見ていない父の最期、それでも現場に居たよう見えてしまう。
あの夜に新宿署の検案所で見つめた遺体の姿、家の仏間に寄添った白無垢の父。
あの哀しい映像たちが夢にも何度も現れて、いつも焦燥感と哀しみに胸は潰され、泣きながら吐いた。
胃の中のものが無くなっても嘔吐は収まらなくて、そのたび元から弱い喉が裂けて吐血した。
…いつも苦しくて痛くて、哀しかった…ずっと、
けれど、それが終わりになった時がある。
その時への想いに首筋へ熱が昇りだす、この温もりに周太は微笑んだ。
「でもね…英二が隣で一緒に寝てくれるようになってから、夢に見なくなったの…初任科教養のときの最初の時から。
英二が脱走しちゃって俺のとこ来てくれて…あの日から毎晩みたいに隣に居てくれるようになったでしょ?勉強して朝まで、ね」
気恥ずかしいけれど、これは本当のこと。
このことは不思議だと思っていて、まだ英二にも話していない。
けれど、父の夢がなぜ英二によって終わったのか、もう理由が今は解かったように思う。
「お父さん…英二が一緒に居てくれるようになって夢が終わったのって、お父さんと英二が本当に似ているからでしょ?
身代わりとかじゃなくて、同じもの持ってるんだよね?…ふたりのこと俺は大好きで、安心して甘えられるのも同じだからで、」
なんだか巧く言えない、けれど解かっている。
この想いそのままを周太は言葉に変えて、綺麗に微笑んだ。
「お父さんも英二も大好き、愛してるよ…だからね、俺、二人と同じ世界を見つめたいんだ、だから信じて一緒に背負わせて?」
ふたりとも本当に大切なひと。
ふたりとも本当に自分を護ろうと命を懸けてくれる。
だからこそ自分も護りたい、どうか自分を信じて一緒に背負わせてほしい。
「ね、俺、一緒に背負える位に強くなるから、だから信じてね?…お父さん、見守っていて?」
どうかこの我儘を訊いてほしい。
本当に自分は我儘の泣き虫で弱虫、けれど愛している。
だから強くなれるはず、ふたりが自分を愛して強く護ってくれるように、自分も出来る。
そう信じてほしい、どうか自分も信じて努力するから一緒に世界を見つめさせて?
そんな願いのままに瞳の奥に熱が昇って、静かに涙ひとすじ零れ落ちた。
「お父さん…もう、何も知らないで置いて行かれるの嫌だよ?…英二とは一緒に生きていたい、だから一緒に見つめさせて?」
静かな涙の向こう、母の活けた撫子の花翳に、父の笑顔は綺麗に見つめてくれる。
(to be continued)
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