所縁、時は止まることなく
第56話 潮流act.6―side story「陽はまた昇る」
ほろ苦く甘い香が家を充たす頃、周太の母は帰ってきた。
花束を抱え、藍染めの浴衣姿で迎えた英二に、快活な黒目がちの瞳は微笑んだ。
「ただいま、英二くん。浴衣、よく似合ってるわ、」
「良いものをありがとうございました、」
素直に笑って鞄を受けとり、抱えた花を彼女に手渡した。
あわいクリーム色に白とグリーンの花々に微笑んで、美幸は訊いてくれた。
「いつもありがとう、今日は何のお花なの?」
「感謝の花束ですよ、」
シンプルに答えて英二は綺麗に笑った。
この「感謝」の理由は、周太と彼女が一緒にいる席で話したい。
そう思ってまだ周太に話していないけれど、今日は周太も彼女に話すことがあるだろう。
―異動のこと、お父さんたちのこと、話すんだろうけど
鞄を持って2階へ上がりながら、婚約者の話すことに考えが廻る。
昨日、英二の祖母と会って周太は家族たちの話を聴いた。そのとき祖母には血縁について伏せて貰ってある。
今はまだ、周太に親戚は誰もいないことにしておく方が良い、そう判断してのことだった。
けれど周太は気づいたかもしれない、そんな気がする瞬間がある。
―気付くのも当然かもしれない、周太だったら
密やかに考えながら主寝室の前で立ち止まると、鞄を周太の母に手渡した。
黒目がちの瞳は微笑んで、真直ぐ英二の目を見つめ彼女は訊いてくれた。
「昨日はありがとう、あの子からメールをもらったわ。それが今、英二くんが物言いたげなこと?」
やっぱり彼女には解るんだな?
まだ言わなくても察してもらえる、それが嬉しくて、けれど今は話せない事も多い。
その秘密たちを想いながら英二は綺麗に笑いかけた。
「はい、いろいろ聴いてほしい事があります。お茶しながら聴いてもらえますか?」
「もちろんよ、すぐ行くわ、」
穏やかに笑って彼女は部屋の扉を開いた。
明るい午後の光に黒髪ゆれて、閉じられた扉の向こうに消えた後姿へと、小さく英二はため息を吐いた。
―父さん、
ぽつり、心つぶやいた呼称に俤が映りだす。
踵返して階段を降りながら、昨日の朝に見た眼差しの意味を想いかけて軽く頭を振った。
こんなことは今は考えたくない、けれど向き合う瞬間は来る?考え迷いながら英二は台所の扉を開いた。
ふわりチョコレートとオレンジの香が頬を撫でる、温かな空気の向こう穏やかな声が微笑んだ。
「英二、お出迎えありがとう…お母さん、花も浴衣も喜んだでしょ?」
あまい香と優しい黒目がちの瞳と声に迎えられて、ほっと心が解かれる。
この瞳を哀しませたくはない、その為にも父と母とも話す時間を作る方が良いのかもしれない。
そう小さく覚悟しながら長い腕伸ばして、愛しいままに紺色のエプロン姿を抱きしめた。
「うん、喜んでくれたよ?花買うの、周太も一緒に行ってくれたから、」
抱きしめた懐から、ふわり、温かく甘い香が昇って幸せになる。
嬉しくて甘い香の髪に頬よせてしまう、この幸せな優しい香まとった恋人は微笑んだ。
「あの花屋さんもいいでしょう?…新宿のほどはお洒落じゃないけど、好きなんだ。ご夫婦が優しくて」
「いい店だったな、ずっと夫婦で寄りそってやってる感じで、」
昼の前、買物に出た街で案内してくれた小さな花屋。
木造の店舗は年ふりた温もりに充ち、きちんと磨かれた床や調度品が慎ましやかに美しかった。
笑顔の老夫婦がこしらえるブーケも清楚に温かい、あんなふうに笑顔でふたり寄りそって生きられたら?
この祈りのまま自分の婚約者を抱きしめて、英二は幸せだけ見つめ綺麗に笑いかけた。
「周太、手伝えることある?」
尋ねながらキスした額に、薄紅いろが染まりだす。
ほら、また羞んで赤くなる初々しい恋人が可愛い。
「ありがとう、あとはお点法のあとだから…あの、いまきすとか赤くなっちゃうから、ね?」
困ったよう黒目がちの瞳は見つめて、けれど幸せに微笑んでくれる。
こんな貌が嬉しくて見ていたくて困らされる、困るまま英二は唇をキスに重ねた。
「…ぁ、」
ちいさな声こぼれて、けれど唇は受けとめてくれる。
ふれるだけの優しいキスはすぐ離れて、それでも恋人の頬は赤くなっていた。
昨夜のことがあっても初々しい貞淑は変わらない、そんな婚約者が嬉しくて英二は綺麗に笑った。
「相変わらず恥ずかしがりだね、周太は。昨夜は4回も俺にして、あんなに大胆で色っぽかったのにな?どっちも大好きだよ、」
昨夜の君は大胆で最高だったのに?
そう笑いかけた目の前、額まで真赤になって黒目がちの瞳が拗ねた。
「ばか、おかあさんいるときにばか、えいじのばかこんなこというなんてもうしない」
「そんなこと言わないで?周太だけなんだから止めないでよ、周太、」
名前を呼んでキスをする、そのキスもすこし厚い唇は受けて留めてくれた。
そっと離れて見つめた瞳は羞んでも優しい、けれど唇は素っ気なく拗ねた。
「えいじのえっちへんたい、だからうちやまにもよばれるんだよねきっと」
「え?」
内山に呼ばれるって、今言ったよね?
どういう意味だろう?不思議で英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
「周太、俺が内山に呼ばれるってどういうこと?」
「そのままの意味です、」
ぽん、と放るよう答えると小柄な肩はするり腕から抜けだした。
そのままステンドグラスの扉を開いて、エプロン姿の背中は軽やかなスリッパの音と行ってしまった。
「内山が、俺を?」
ひとりごとに首傾げこんで、英二は廊下に出た。
水屋へと入って茶器の支度を整え、茶道口から仏間に入る。
本座に座り風炉を前に点法の準備を終えて、畳に閉じたままの炉縁を見た瞬間に声が出た。
「…あ、光一か、」
やっぱり内山ってそういうこと?
ついこの間、飲み会の席で光一は「テスト」の為に内山を色仕掛けでからかった。
普通なら男同士、色っぽい冗談で済む話だろう。けれど内山には刺激が強すぎた?
そう思うと、推測は正解を引き当てるかもしれない、このテスト結果を得た事は幸運だ。
―でも光一、ちょっと遣り過ぎたかもしれないな?
ちょっと困った事になるかもしれない?
飲み会の席でも内山を観察していたけれど、そんな気配は確かにあった。
あの「バージンメアリー」光一は英二にとっても刺激的だった、だから内山の気持ちはよく解かる。
けれど、生真面目に人生の主幹道路を歩いてきたような内山にとって、あまりに青天の霹靂だろう。
―悩むだろうな、当然…それは俺が呼ばれるだろうな
自分も自覚した時、悩んだ。
こんな自分でも悩むのだから、内山からしたらさぞ苦悩するだろう。
けれど周太が「内山が英二を呼ぶ」と予想するなんて意外すぎる、誰かに何かを言われたのだろうか?
この人物には心当たりが大いにある、あの飲み会の席でも光一に焚きつけて一緒に面白がっていたから。
―昨日の朝、俺と逢う前に言われたんだろうな、周太…じゃあ昨夜あたりは、って事か
予想と眺める炉縁に、来週末の「実行」を見つめて英二は微笑んだ。
来週は周太も美幸も家を留守にする、その留守番を英二は光一とする予定でいる。
その前に本庁での山岳講習会で光一は講師を務める、それの助手を英二もすると決まった。
この「本庁」と「炉」の実行を考え廻らすうち、仏間の扉が開いて笑い声と一緒に母子は入ってきた。
「見て、英二?こんな感じに活けたよ…どうかな?」
さっき美幸に贈った花束を、周太は活けてきてくれた。
青磁の爽やかな花瓶に、白からクリーム色の花々とグリーンが清楚に映える。
いつもながら優しい端正な活け方が美しい、綺麗な花と婚約者に英二は微笑んだ。
「きれいだな、ありがとう、」
花も人も、本当に綺麗だ。
そう素直に見つめて英二は、気軽な茶を点てはじめた。
ここにいるのは自分の家族、まだ籍を入れていなくても心は繋がっている、そして血縁も。
この所縁を告げあうことはまだ出来ない、これから始まる現実に「所縁」は隠されたままであることが護るから。
そして現実へと心が軋む、それでも手は型どおり捌かれ、瑠璃紺のガラスに薄茶は点てられていく。
―海みたいな器だ
透ける瑠璃紺に、昨日の海を見る。
あの海で周太は英二との所縁を、朧にも気がついただろう。海を眺めるテラスで、周太は祖母の目をずっと見つめていたから。
―お祖母さんの目、お父さんとそっくりなんだ
昨日、周太の視線で初めて気付かされた。
自分と祖母の目は似ているけれど、祖母の方が睫が涼しい分だけ馨と似ている。
あの目に周太は気がついていた、祖母を見つめる黒目がちの瞳は懐かしげで、心から慕うよう微笑んでいた。
だから解ってしまう、そして婚約者の深い想いと勇気が今、瑠璃紺のガラス椀に見つめてしまう。
昨日あの海で周太は、いったい幾つの勇気を見つめていたのだろう?
―…今日のお茶、葉山の海にしたらどうかな?
さっき笑って言ってくれた言葉に、純粋な祈りが温かい。
青と白のティーカップから花の香がたち昇る。
口をつけると昨日、潮騒と香った紅茶と同じに優しい。
テラスの窓ふる木洩陽は明るくて、海を眺めた木蔭のカウチを懐かしませる。
甘い香と記憶を楽しみながら見つめる先、恋人の掌はオレンジ豊かなガトーショコラを切り分けた。
「お母さん、これね?お父さんが小さい頃に食べたのと、同じレシピで作ったんだ…昨日、教わってきたの」
嬉しそうに微笑んで、周太は母親にケーキを手渡した。
受取ながら快活な黒目がちの瞳は微笑んで、楽しげに推理を口にした。
「昨日ってことは、英二くんのお祖母さまね?お父さんとお知り合いってことかしら、」
「ん、当たり…」
優しい黒目がちの瞳は幸せに微笑んで、英二の前にもケーキを置いてくれる。
フォークにとり口に入れると、ふわりチョコレートとオレンジの香があまくとろけていく。
昨日も食べた味と似て、それより優しい口当たりに幸せなまま英二は綺麗に微笑んだ。
「旨いよ、周太。菫さんのより俺、周太のが好きだ、」
「ほんと?…ありがとう、」
嬉しそうに羞んだ笑顔が咲いて、心ときめかす。
こんな笑顔を毎日ずっと見ていられたら好いのに?そう思う隣で周太もフォークを取った。
その向かいで周太の母も菓子を口にして、幸せそうに微笑んだ。
「うん、美味しい。この味、お父さんが作ってくれたのと似てるね?これを教えてくれたのが、菫さんって方なの?」
「ん、そう…菫さんはね、宮田のお家のナニーなんだ。おばあさまと葉山で一緒に暮らしてるの、」
ティーカップを手にしながら黒目がちの瞳は幸せそうに笑っている。
きっと昨日の楽しい時間を想っているのだろう、そう見つめた隣で周太は口を開いた。
「おばあさまはね、お父さんのお母さんを知ってたの…それで、お父さんも小さい頃に一度だけ宮田のお家に行ったらしいよ?
そのとき菫さんにレシピを貰ったんだって、お父さん…そのあとすぐお祖父さんと一緒にイギリスに言ってね、4年間向こうで暮らしたの。
お父さんは7歳でね、お祖父さんはフランス文学の研究をしていて、オックスフォード大学に研究員として招かれて、それで行ったんだ」
ほろ苦く甘い香と木洩陽のなか、穏やかな声が物語る。
開かれた窓から緑の香が清々しい、涼やかな風ゆれる黒髪やさしくて見惚れてしまう。
ほんとうに可愛いな?そう見つめる横顔は、菓子を口にしていく母親を前に綺麗な笑顔で続けた。
「お祖父さんは東大で先生をしていてね、お祖母さんは教え子だったんだ。とても素敵な恋愛結婚だったって教えてくれたよ?
お祖母さんは頭が良くて勉強家で、植物と本と、料理が好きな綺麗なひとだったって…でも、イギリスに行く前に亡くなったんだ。
それで英二のおばあさまとうちは音信不通になって、お父さんが亡くなったことも知らなかったんだ…そのこと謝ってくれたんだよ?」
ひとつ息吐き、そっとティーカップに口付ける。
ひとくち啜りこんで息を吐き、また口を開いて周太は綺麗に微笑んだ。
「何も知らなくて、何も出来なくてごめんなさい。そう言って俺に謝ってくれてね…嬉しかったよ、優しい気持ちが嬉しかった、」
笑顔の息子を美幸は見つめ、幸せな笑顔がほころびだす。
ゆっくり黒目がちの瞳ひとつ瞬いて、彼女は穏やかに微笑んだ。
「よかった。嬉しいね、周?お母さんもすごく嬉しいな、」
「ん、よかった、」
明るい笑顔ほころばせ、チョコレート菓子を周太は口に運んだ。
ほろ苦く爽やかな香に微笑む息子へと、やわらかな笑顔に美幸は質問をした。
「お祖母さん、東大生だったのね。周と一緒だわ、性格や好みも似ているみたいだし、周と似ているんじゃない?」
「ん、…英二のおばあさまにもそういわれたの…」
答えて気恥ずかしげに微笑んだ、その首筋に薄紅がのぼりだす。
きれいな色に海と桜貝を見つめてしまう、見惚れる隣は羞みながら、それでも母親に正直に言った。
「お祖母さんのこと、頭がよくって、きれいって言ってね…俺のことも同じように褒めてくれるから、なんか申し訳なかったよ?」
「あら、申し訳なくなんかないわ?本当のことじゃない、英二くんのおばあさんは良く解ってるのよ、素敵な方ね、」
朗らかに笑って彼女もケーキを口にする。
母子、笑顔に向き合いながら菓子を楽しむ姿は温かで、きれいで見惚れる。
こういう2人の姿が自分は好きだ、まぶしい想いに見つめる向うで婚約者は口を開いた。
「ん、素敵な人だよ?おばあさまも菫さんも、猫の雪も、犬の海も、みんな素敵なんだ…テラスの庭も海も、本当に綺麗で大好き。
それでね、お母さんと美代さんも今度、連れてきてねって言ってくれたんだ。みんなでティーパーティーしましょうって誘ってくれたよ?
このお茶ね、おばあさまも好きなんだって。だから同じ好み同士で楽しめるね、って言ってね、アドレスとか交換してくれたんだ、」
黒目がちの瞳を嬉しそうに微笑ませ、穏やかな声が笑っている。
その母も楽しげに笑って息子へと尋ねた。
「美代ちゃんも一緒だなんて素敵ね、行きたいな?美代ちゃんの予定も聴かないとね、周のほうはどう?」
質問に、穏やかな瞳がひとつ瞬く。
その瞳にまばゆい勇気を見つめて、英二の心が竦むよう軋んだ。
―話すんだね、周太?異動のこと、お母さんに
心に映される予測へと、瞳の底ゆらいで熱くなる。
それでも瞬きに納めこんで見つめた隣は、綺麗な笑顔で母親に事実を告げた。
「ん、8月に俺ね、異動するんだ。だから8月の後だと予定、まだ解からないんだ、」
言葉に、明朗な黒目がちの瞳が止まる。
ゆるやかな風ふく夏の午後、涼やかな温もりのテラスの時間。
優しい風に黒髪ゆれて、黒目がちの瞳は見つめ合う穏やかな寛ぎの時。
けれど、この母子にある現実は、逃れられない50年の束縛との戦いに繋がっている。
そして今、この現実に向き合うため23歳の少年は、誇らかな優しい勇気に口を開く。
「お母さん、俺、第七機動隊の銃器対策レンジャーに行くよ。お父さんも昔、居たところなんだ、」
穏やかな声が、母に現実の扉を開いた。
(to be continued)
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第56話 潮流act.6―side story「陽はまた昇る」
ほろ苦く甘い香が家を充たす頃、周太の母は帰ってきた。
花束を抱え、藍染めの浴衣姿で迎えた英二に、快活な黒目がちの瞳は微笑んだ。
「ただいま、英二くん。浴衣、よく似合ってるわ、」
「良いものをありがとうございました、」
素直に笑って鞄を受けとり、抱えた花を彼女に手渡した。
あわいクリーム色に白とグリーンの花々に微笑んで、美幸は訊いてくれた。
「いつもありがとう、今日は何のお花なの?」
「感謝の花束ですよ、」
シンプルに答えて英二は綺麗に笑った。
この「感謝」の理由は、周太と彼女が一緒にいる席で話したい。
そう思ってまだ周太に話していないけれど、今日は周太も彼女に話すことがあるだろう。
―異動のこと、お父さんたちのこと、話すんだろうけど
鞄を持って2階へ上がりながら、婚約者の話すことに考えが廻る。
昨日、英二の祖母と会って周太は家族たちの話を聴いた。そのとき祖母には血縁について伏せて貰ってある。
今はまだ、周太に親戚は誰もいないことにしておく方が良い、そう判断してのことだった。
けれど周太は気づいたかもしれない、そんな気がする瞬間がある。
―気付くのも当然かもしれない、周太だったら
密やかに考えながら主寝室の前で立ち止まると、鞄を周太の母に手渡した。
黒目がちの瞳は微笑んで、真直ぐ英二の目を見つめ彼女は訊いてくれた。
「昨日はありがとう、あの子からメールをもらったわ。それが今、英二くんが物言いたげなこと?」
やっぱり彼女には解るんだな?
まだ言わなくても察してもらえる、それが嬉しくて、けれど今は話せない事も多い。
その秘密たちを想いながら英二は綺麗に笑いかけた。
「はい、いろいろ聴いてほしい事があります。お茶しながら聴いてもらえますか?」
「もちろんよ、すぐ行くわ、」
穏やかに笑って彼女は部屋の扉を開いた。
明るい午後の光に黒髪ゆれて、閉じられた扉の向こうに消えた後姿へと、小さく英二はため息を吐いた。
―父さん、
ぽつり、心つぶやいた呼称に俤が映りだす。
踵返して階段を降りながら、昨日の朝に見た眼差しの意味を想いかけて軽く頭を振った。
こんなことは今は考えたくない、けれど向き合う瞬間は来る?考え迷いながら英二は台所の扉を開いた。
ふわりチョコレートとオレンジの香が頬を撫でる、温かな空気の向こう穏やかな声が微笑んだ。
「英二、お出迎えありがとう…お母さん、花も浴衣も喜んだでしょ?」
あまい香と優しい黒目がちの瞳と声に迎えられて、ほっと心が解かれる。
この瞳を哀しませたくはない、その為にも父と母とも話す時間を作る方が良いのかもしれない。
そう小さく覚悟しながら長い腕伸ばして、愛しいままに紺色のエプロン姿を抱きしめた。
「うん、喜んでくれたよ?花買うの、周太も一緒に行ってくれたから、」
抱きしめた懐から、ふわり、温かく甘い香が昇って幸せになる。
嬉しくて甘い香の髪に頬よせてしまう、この幸せな優しい香まとった恋人は微笑んだ。
「あの花屋さんもいいでしょう?…新宿のほどはお洒落じゃないけど、好きなんだ。ご夫婦が優しくて」
「いい店だったな、ずっと夫婦で寄りそってやってる感じで、」
昼の前、買物に出た街で案内してくれた小さな花屋。
木造の店舗は年ふりた温もりに充ち、きちんと磨かれた床や調度品が慎ましやかに美しかった。
笑顔の老夫婦がこしらえるブーケも清楚に温かい、あんなふうに笑顔でふたり寄りそって生きられたら?
この祈りのまま自分の婚約者を抱きしめて、英二は幸せだけ見つめ綺麗に笑いかけた。
「周太、手伝えることある?」
尋ねながらキスした額に、薄紅いろが染まりだす。
ほら、また羞んで赤くなる初々しい恋人が可愛い。
「ありがとう、あとはお点法のあとだから…あの、いまきすとか赤くなっちゃうから、ね?」
困ったよう黒目がちの瞳は見つめて、けれど幸せに微笑んでくれる。
こんな貌が嬉しくて見ていたくて困らされる、困るまま英二は唇をキスに重ねた。
「…ぁ、」
ちいさな声こぼれて、けれど唇は受けとめてくれる。
ふれるだけの優しいキスはすぐ離れて、それでも恋人の頬は赤くなっていた。
昨夜のことがあっても初々しい貞淑は変わらない、そんな婚約者が嬉しくて英二は綺麗に笑った。
「相変わらず恥ずかしがりだね、周太は。昨夜は4回も俺にして、あんなに大胆で色っぽかったのにな?どっちも大好きだよ、」
昨夜の君は大胆で最高だったのに?
そう笑いかけた目の前、額まで真赤になって黒目がちの瞳が拗ねた。
「ばか、おかあさんいるときにばか、えいじのばかこんなこというなんてもうしない」
「そんなこと言わないで?周太だけなんだから止めないでよ、周太、」
名前を呼んでキスをする、そのキスもすこし厚い唇は受けて留めてくれた。
そっと離れて見つめた瞳は羞んでも優しい、けれど唇は素っ気なく拗ねた。
「えいじのえっちへんたい、だからうちやまにもよばれるんだよねきっと」
「え?」
内山に呼ばれるって、今言ったよね?
どういう意味だろう?不思議で英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
「周太、俺が内山に呼ばれるってどういうこと?」
「そのままの意味です、」
ぽん、と放るよう答えると小柄な肩はするり腕から抜けだした。
そのままステンドグラスの扉を開いて、エプロン姿の背中は軽やかなスリッパの音と行ってしまった。
「内山が、俺を?」
ひとりごとに首傾げこんで、英二は廊下に出た。
水屋へと入って茶器の支度を整え、茶道口から仏間に入る。
本座に座り風炉を前に点法の準備を終えて、畳に閉じたままの炉縁を見た瞬間に声が出た。
「…あ、光一か、」
やっぱり内山ってそういうこと?
ついこの間、飲み会の席で光一は「テスト」の為に内山を色仕掛けでからかった。
普通なら男同士、色っぽい冗談で済む話だろう。けれど内山には刺激が強すぎた?
そう思うと、推測は正解を引き当てるかもしれない、このテスト結果を得た事は幸運だ。
―でも光一、ちょっと遣り過ぎたかもしれないな?
ちょっと困った事になるかもしれない?
飲み会の席でも内山を観察していたけれど、そんな気配は確かにあった。
あの「バージンメアリー」光一は英二にとっても刺激的だった、だから内山の気持ちはよく解かる。
けれど、生真面目に人生の主幹道路を歩いてきたような内山にとって、あまりに青天の霹靂だろう。
―悩むだろうな、当然…それは俺が呼ばれるだろうな
自分も自覚した時、悩んだ。
こんな自分でも悩むのだから、内山からしたらさぞ苦悩するだろう。
けれど周太が「内山が英二を呼ぶ」と予想するなんて意外すぎる、誰かに何かを言われたのだろうか?
この人物には心当たりが大いにある、あの飲み会の席でも光一に焚きつけて一緒に面白がっていたから。
―昨日の朝、俺と逢う前に言われたんだろうな、周太…じゃあ昨夜あたりは、って事か
予想と眺める炉縁に、来週末の「実行」を見つめて英二は微笑んだ。
来週は周太も美幸も家を留守にする、その留守番を英二は光一とする予定でいる。
その前に本庁での山岳講習会で光一は講師を務める、それの助手を英二もすると決まった。
この「本庁」と「炉」の実行を考え廻らすうち、仏間の扉が開いて笑い声と一緒に母子は入ってきた。
「見て、英二?こんな感じに活けたよ…どうかな?」
さっき美幸に贈った花束を、周太は活けてきてくれた。
青磁の爽やかな花瓶に、白からクリーム色の花々とグリーンが清楚に映える。
いつもながら優しい端正な活け方が美しい、綺麗な花と婚約者に英二は微笑んだ。
「きれいだな、ありがとう、」
花も人も、本当に綺麗だ。
そう素直に見つめて英二は、気軽な茶を点てはじめた。
ここにいるのは自分の家族、まだ籍を入れていなくても心は繋がっている、そして血縁も。
この所縁を告げあうことはまだ出来ない、これから始まる現実に「所縁」は隠されたままであることが護るから。
そして現実へと心が軋む、それでも手は型どおり捌かれ、瑠璃紺のガラスに薄茶は点てられていく。
―海みたいな器だ
透ける瑠璃紺に、昨日の海を見る。
あの海で周太は英二との所縁を、朧にも気がついただろう。海を眺めるテラスで、周太は祖母の目をずっと見つめていたから。
―お祖母さんの目、お父さんとそっくりなんだ
昨日、周太の視線で初めて気付かされた。
自分と祖母の目は似ているけれど、祖母の方が睫が涼しい分だけ馨と似ている。
あの目に周太は気がついていた、祖母を見つめる黒目がちの瞳は懐かしげで、心から慕うよう微笑んでいた。
だから解ってしまう、そして婚約者の深い想いと勇気が今、瑠璃紺のガラス椀に見つめてしまう。
昨日あの海で周太は、いったい幾つの勇気を見つめていたのだろう?
―…今日のお茶、葉山の海にしたらどうかな?
さっき笑って言ってくれた言葉に、純粋な祈りが温かい。
青と白のティーカップから花の香がたち昇る。
口をつけると昨日、潮騒と香った紅茶と同じに優しい。
テラスの窓ふる木洩陽は明るくて、海を眺めた木蔭のカウチを懐かしませる。
甘い香と記憶を楽しみながら見つめる先、恋人の掌はオレンジ豊かなガトーショコラを切り分けた。
「お母さん、これね?お父さんが小さい頃に食べたのと、同じレシピで作ったんだ…昨日、教わってきたの」
嬉しそうに微笑んで、周太は母親にケーキを手渡した。
受取ながら快活な黒目がちの瞳は微笑んで、楽しげに推理を口にした。
「昨日ってことは、英二くんのお祖母さまね?お父さんとお知り合いってことかしら、」
「ん、当たり…」
優しい黒目がちの瞳は幸せに微笑んで、英二の前にもケーキを置いてくれる。
フォークにとり口に入れると、ふわりチョコレートとオレンジの香があまくとろけていく。
昨日も食べた味と似て、それより優しい口当たりに幸せなまま英二は綺麗に微笑んだ。
「旨いよ、周太。菫さんのより俺、周太のが好きだ、」
「ほんと?…ありがとう、」
嬉しそうに羞んだ笑顔が咲いて、心ときめかす。
こんな笑顔を毎日ずっと見ていられたら好いのに?そう思う隣で周太もフォークを取った。
その向かいで周太の母も菓子を口にして、幸せそうに微笑んだ。
「うん、美味しい。この味、お父さんが作ってくれたのと似てるね?これを教えてくれたのが、菫さんって方なの?」
「ん、そう…菫さんはね、宮田のお家のナニーなんだ。おばあさまと葉山で一緒に暮らしてるの、」
ティーカップを手にしながら黒目がちの瞳は幸せそうに笑っている。
きっと昨日の楽しい時間を想っているのだろう、そう見つめた隣で周太は口を開いた。
「おばあさまはね、お父さんのお母さんを知ってたの…それで、お父さんも小さい頃に一度だけ宮田のお家に行ったらしいよ?
そのとき菫さんにレシピを貰ったんだって、お父さん…そのあとすぐお祖父さんと一緒にイギリスに言ってね、4年間向こうで暮らしたの。
お父さんは7歳でね、お祖父さんはフランス文学の研究をしていて、オックスフォード大学に研究員として招かれて、それで行ったんだ」
ほろ苦く甘い香と木洩陽のなか、穏やかな声が物語る。
開かれた窓から緑の香が清々しい、涼やかな風ゆれる黒髪やさしくて見惚れてしまう。
ほんとうに可愛いな?そう見つめる横顔は、菓子を口にしていく母親を前に綺麗な笑顔で続けた。
「お祖父さんは東大で先生をしていてね、お祖母さんは教え子だったんだ。とても素敵な恋愛結婚だったって教えてくれたよ?
お祖母さんは頭が良くて勉強家で、植物と本と、料理が好きな綺麗なひとだったって…でも、イギリスに行く前に亡くなったんだ。
それで英二のおばあさまとうちは音信不通になって、お父さんが亡くなったことも知らなかったんだ…そのこと謝ってくれたんだよ?」
ひとつ息吐き、そっとティーカップに口付ける。
ひとくち啜りこんで息を吐き、また口を開いて周太は綺麗に微笑んだ。
「何も知らなくて、何も出来なくてごめんなさい。そう言って俺に謝ってくれてね…嬉しかったよ、優しい気持ちが嬉しかった、」
笑顔の息子を美幸は見つめ、幸せな笑顔がほころびだす。
ゆっくり黒目がちの瞳ひとつ瞬いて、彼女は穏やかに微笑んだ。
「よかった。嬉しいね、周?お母さんもすごく嬉しいな、」
「ん、よかった、」
明るい笑顔ほころばせ、チョコレート菓子を周太は口に運んだ。
ほろ苦く爽やかな香に微笑む息子へと、やわらかな笑顔に美幸は質問をした。
「お祖母さん、東大生だったのね。周と一緒だわ、性格や好みも似ているみたいだし、周と似ているんじゃない?」
「ん、…英二のおばあさまにもそういわれたの…」
答えて気恥ずかしげに微笑んだ、その首筋に薄紅がのぼりだす。
きれいな色に海と桜貝を見つめてしまう、見惚れる隣は羞みながら、それでも母親に正直に言った。
「お祖母さんのこと、頭がよくって、きれいって言ってね…俺のことも同じように褒めてくれるから、なんか申し訳なかったよ?」
「あら、申し訳なくなんかないわ?本当のことじゃない、英二くんのおばあさんは良く解ってるのよ、素敵な方ね、」
朗らかに笑って彼女もケーキを口にする。
母子、笑顔に向き合いながら菓子を楽しむ姿は温かで、きれいで見惚れる。
こういう2人の姿が自分は好きだ、まぶしい想いに見つめる向うで婚約者は口を開いた。
「ん、素敵な人だよ?おばあさまも菫さんも、猫の雪も、犬の海も、みんな素敵なんだ…テラスの庭も海も、本当に綺麗で大好き。
それでね、お母さんと美代さんも今度、連れてきてねって言ってくれたんだ。みんなでティーパーティーしましょうって誘ってくれたよ?
このお茶ね、おばあさまも好きなんだって。だから同じ好み同士で楽しめるね、って言ってね、アドレスとか交換してくれたんだ、」
黒目がちの瞳を嬉しそうに微笑ませ、穏やかな声が笑っている。
その母も楽しげに笑って息子へと尋ねた。
「美代ちゃんも一緒だなんて素敵ね、行きたいな?美代ちゃんの予定も聴かないとね、周のほうはどう?」
質問に、穏やかな瞳がひとつ瞬く。
その瞳にまばゆい勇気を見つめて、英二の心が竦むよう軋んだ。
―話すんだね、周太?異動のこと、お母さんに
心に映される予測へと、瞳の底ゆらいで熱くなる。
それでも瞬きに納めこんで見つめた隣は、綺麗な笑顔で母親に事実を告げた。
「ん、8月に俺ね、異動するんだ。だから8月の後だと予定、まだ解からないんだ、」
言葉に、明朗な黒目がちの瞳が止まる。
ゆるやかな風ふく夏の午後、涼やかな温もりのテラスの時間。
優しい風に黒髪ゆれて、黒目がちの瞳は見つめ合う穏やかな寛ぎの時。
けれど、この母子にある現実は、逃れられない50年の束縛との戦いに繋がっている。
そして今、この現実に向き合うため23歳の少年は、誇らかな優しい勇気に口を開く。
「お母さん、俺、第七機動隊の銃器対策レンジャーに行くよ。お父さんも昔、居たところなんだ、」
穏やかな声が、母に現実の扉を開いた。
(to be continued)
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