祖国、約束の海に
第56話 潮汐act.4―another,side story「陽はまた昇る」
青空に深紅の花は咲き誇る。
白い雲と青空を仰がす梢、やわらかな朱赤ゆらいで陽光ひるがえす。
深い緑の葉も濃やかに輝いて、海辺の風光きらめく木洩陽ふらせてくれる。
大らかに広げる枝に深紅と緑は繁り、艶やかな樹肌を潮風吹かせて百日紅は佇んでいた。
「きれい…」
深紅の翳に微笑み零れてしまう、見事な花木に嬉しくなる。
潮風ゆれる陽光の影絵が頬に額にふりそそぐ、その膝元を優しい毛並がすり寄った。
「あ…海、ごめんね?」
笑いかけた視界にキャメルブラウンの毛並が光きらめく。
かがみこみ撫でる顎はやわらかで、嬉しげに黒い瞳をが見つめてくれる。
こんな可愛い犬と毎日一緒に居られたら良いな?そう素直な想い微笑んだ周太に、アルトヴォイスが笑いかけてくれた。
「見事な花でしょう?あざやかな深紅で、朱色に近いでしょうか?」
「はい…きれいな色ですね、房になってて…ワーズワスのみたい、」
想ったまま素直に言って、周太は笑いかけた。
言葉に菫は微笑んで、楽しそうに尋ねてくれた。
「Wordsworth、どの詩ですか?」
「たしか『The Thorn』っていう題です、And cups,the darlings of the eye… So deep is their vermilion dye…ってありますよね」
And cups,the darlings of the eye 見るも愛らしい房の花
So deep is their vermilion dye 目に鮮やかな花々の朱いろ
懐かしい詩の一節。
小さい頃に父が読み聞かせてくれて、それから自分でも読んだ。
あれは茨の花についての詩、けれど頭上の百日紅は鮮やかに赤い「房の花」にふさわしい。
「その一節、この花とピッタリですね?What lovely tints are tehre.Ofolive-green and scarlet breight、」
アルトヴォイスが楽しげに微笑んで、続けてくれる。
同じ詩をこの不思議なナニーも知っていた、嬉しくて微笑んだ周太に彼女は笑いかけてくれた。
「この道にはね、Wordsworthのような花がたくさんあります。ここは花の道なのです、」
「花の道…すてきですね、」
優しいアルトの声に笑いかけ、キャメルの犬とまた歩き出す。
明るい青空のした、木蔭を縫うよう歩いていく道は潮風が涼を贈ってくれる。
その道沿いに並んでいく家々の、やさしい花の姿に周太は笑いかけた。
「菫さん。あの紫陽花、瑠璃色が素敵ですね?」
「あの色は私も好きです。家の庭にも植えたいのですが、苗と出会っていなくて」
花の話と歩いていく道、緑に花に陽光きらめき咲き誇る。
朱鷺色の撫子、露草の青、薄紅やさしい立葵。鶏頭の赤と黄色に、白粉花の赤紫。
純白の梔子は芳香ゆれて、柘榴の朱色は青空映える。デュランタの紫に潮風ゆれて、朝顔は蔓のびやかに清々しい。
優しい花たちの輝く道、キャメルの犬と歩く周太に青紫の瞳が微笑んだ。
「海は周太さんが大好きみたいですね?ほら、浜辺へと誘っています。自分が一番好きな場所を、教えたいのでしょうね」
アルトの声にキャメルの犬は、嬉しそうに周太を見上げてくれる。
つぶらな黒い瞳が可愛くて、嬉しくて周太は笑いかけた。
「そうなの?海…俺に、好きな場所を教えてくれるの?」
「くん、」
優しく鼻を鳴らして、浜と周太を見比べてくれる。
そんな様子に銀髪の老婦人は、楽しげに提案してくれた。
「海のリクエストに応えて、寄り道しましょうか?」
「はい、」
素直に頷いて周太は、青いリードを引くと犬と菫が示す方へ歩き出した。
うれしげに振られるキャメルの尻尾、その向こうから潮騒の響き近づいていく。
夏の花咲く道から木洩陽を抜けて、太陽ふりそそぐ通りにでる、ふわり、潮風が頬撫でて漣まばゆい。
光と風に瞳細めてしまう、その隣からアルトヴォイスは楽しげに笑ってくれた。
「あの草地です、あそこから海を眺めるのが気持ちいいんですよ、」
「あ…昼顔が咲いていますね、」
まるいラッパの花が海の草地にゆれている。
浜辺を這う緑と薄桃のコントラストが綺麗で、波の青に映え美しい。
砂の中あざやかな緑はオアシスのよう?そんな感想に微笑んで、潮騒やさしい草地のなかへ連れ立った。
「この岩に腰掛けるのが、おきまりなのよ、」
黒岩を白い指に示し勧めてくれる、素直に腰を下すと菫も傍らの岩に腰掛けた。
吹きぬける潮風に前髪ゆれる、あまく濃い香のむこう瞳は青色に充たされた。
「…きれい、」
ため息に微笑んだ視界には、遥かな遠くから様々な青色がうちよせる。
白藍、翡翠、縹、紺碧、瑠璃色、美しい名前のブルーたちが豊かに広がらす。
その色彩に、大切な人の浴衣を思い出して首筋が熱くなりだした。
…鰹縞の浴衣、すごく似合ってた、ね?
先月に母が誂えてくれた、英二の夏衣。
白皙の肌に映える青のグラデーションが美しかった、あの姿を思い出してしまう。
ほら、こんなふうに自分はすぐ、大好きな俤探して見つめている。そんな想い微笑んで周太は勇気ひとつと菫に尋ねた。
「あの、菫さんは英二の婚約者が僕で…男が相手なことは、嫌じゃないんですか?」
言葉に、青紫の瞳が見つめてくれる。
潮風に銀髪ゆらせながら、優しいアルトヴォイスは微笑んだ。
「昔、イギリスでゲイは罪に問われました。けれど私は罪と思いません、心から結ばれ幸福な姿は、周りも幸せにするのですから、」
…心から結ばれ幸福な姿は、周りも幸せに…
そっと心に言葉を反芻して、青紫の瞳を見つめる。
この言葉の温もりが優しくて嬉しくて、素直に周太は笑いかけた。
「ありがとうございます…今の日本でも、男同士だと差別もあります。だから、そう言って頂くのうれしいです、」
「よかった、そう言われたら私も嬉しいですよ?」
楽しげにアルトヴォイスが応えてくれる。
その声に嬉しい気持ち微笑んで、周太はキャメルの背中を撫でながら口を開いた。
「英二を幸せにしたいです、僕も、」
「大丈夫、きっと出来るわ。周太さんは Flidais ですから、」
朗らかに笑ってくれる、その笑顔が温かい。
青紫の瞳をした不思議なナニー、そんな彼女はどうして英二の祖母の許へ来たのだろう?
そんな疑問に50年遡らす時を想いながら、周太は尋ねた。
「あの…菫さんは、どうして宮田のお家に来たのですか?」
問いかけに、青紫の瞳が穏やかに微笑んだ。
そして秘密の魔法を明かすよう、静かなアルトが答えてくれた。
「母を、探すために来たのです、」
やわらかな声に、潮騒の音が重なった。
青紫の瞳が笑いかけてくれる、その瞳へと海の色が映りこむ。
遠く近く引きよせる波のさざめきに、時の記憶が呼ばれるよう声は綴りだした。
「さっきお話ししたように、私の父はイギリス人です。父は外交官として日本に来て、母と出会い、恋に墜ちて結婚しました。
そして生まれたのが私です、でも戦争が起きて父は帰国することになりました。けれど、母は一緒にはイギリスに行けなかったのです」
銀髪が縁どる面長の顔が温かく微笑んでくれる。
けれど聡明な白い額の寂しさは隠せないまま、穏やかなアルトは潮騒のなか続けてくれた。
「あの戦争は、イギリスと日本は敵対しましたね?だから母は残ると決めたのです、そして父は私だけを連れて国に帰りました。
もう今は白髪になっていますが、私の髪は茶色だったのです。それに、この目の色でしょう?この姿で日本にいることは危険でした。
敵の国の子供であること、それが私の日本での立場だからです。それはイギリスでも同じでした、だから母のことは秘密になりました」
第二次世界大戦、もう70年以上前の哀しい現実。
それを生きてきた人が隣にいる、想い佇んだ周太に菫は訊いてくれた。
「イギリスの貴族制度について、周太さんはご存知ですか?」
「少しなら…世襲貴族と一代貴族があるんですよね?世襲も、爵位を継承した人以外は平民だと聞きました、」
小さい頃に父から聴いたことが、言葉になって出てくれる。
これを聴いたのは『円卓の騎士』を一緒に読んだ時だった?そんな記憶と首傾げた周太に、優しい声は話してくれた。
「その世襲貴族なのです、父の家は。でも次男だった父は外交官になりました、これは貴族の息子には多い職業の1つなのです。
父は学生時代に『源氏物語』を読んで日本を好きになってね、それで外交官になって日本に来ました。休暇はあちこちに行ってね、
富士山にも登ったそうです。そして大和撫子に恋をしました、父は心から日本を愛したのです。だから帰国後も私に言ってくれました、」
遠く近くよせる潮騒に、アルトヴォイスは流麗な日本語で語る。
その青紫の瞳に陽光きらめいて、誇らしい笑顔が綺麗にほころんだ。
「おまえの血に流れる日本を誇りに思いなさい、たとえ今は敵の国と言われても、自分に与えられた日本の心と命を恥じてはいけない。
母が日本人だとは誰にも言ってはいけない、けれど、私のもう1つの祖国と母を愛する誇りを、どんな時も絶対に否定してはいけない。
そう言って父は母への想いと、私の誇りを護ってくれました。だから私は戦争の間も、この国も母も大切に想い続けていられたのです」
父と母の祖国が敵対すること。
それは自分の心身を2つに裂かれる想いだろう、その哀しみに瞳へ熱が生まれだす。
ゆっくり瞬いて涙を納めて、周太は誇らかな青紫の瞳へ微笑んだ。
「菫さんのお父さん、とても素敵な方ですね、」
「でしょう?」
明るい青紫の瞳が周太に笑ってくれる。
ゆるやかな海風に銀髪ゆらせながら、菫は口を開いた。
「noble obligationというものがイギリスの貴族にはあります。『高貴な義務』と言って、社会の責任を担う誇りのことです。
この責務のために伯父は従軍して亡くなりました、そして父が爵位継承者になったのです。それでも父は母を諦めなかったの。
戦争が終わると父は母を迎えに行きました、けれど、母の実家は町ごと空襲で燃えてしまって…もう、行方が解からなかったのです」
かすかな溜息が潮風に流れて、菫は海を見た。
空と海を映す瞳のいろが深くなる、長い睫ひとつ瞬いて視線を戻すと、彼女は続けてくれた。
「祖父が亡くなって爵位を継承した父は、noble obligationの為に再婚しました。同じような家柄の出身で、優しいひとでした。
弟たちが生まれても、彼女は私に良くしてくれたのよ。けれど私は母に会いたくて、日本に行く方法を考えるようになりました。
日本に行っても出来る仕事は何だろう?そう考えて思いついたのが、私の面倒を見てくれた governess のようになることでした、」
“governess” ガヴァネス
イギリス上流階級の家庭教師、昔は良家の娘の唯一の仕事だった。そう父が教えてくれた。
菫のようなアッパークラスの女性が仕事を持つことは当時、職業選択の自由が少なかったろう。
それでも自分の道を見出して菫は日本に戻ってきた、その想いは美しく切なくて、逞しい。そう見つめる先で菫は微笑んだ。
「戦争が終わるまで私は屋敷の中でgovernessに育てられました、彼女はnannyも兼ねて私の面倒を全て見てくれたのよ。
父の再婚後は弟達の面倒も見て、その後は lady's companionとして家に居てくれました。彼女のように3役を務めるプロを目指そう、
そう思って、Norland College で勉強してイギリスの家庭で1年経験を積んでから、父の伝手で日本の家庭を紹介して頂いたのです、」
戦争が終わるまで、屋敷のなかで。
この言葉に当時、菫が置かれた「英国と日本の混血」の立場が見えてしまう。
彼女の外見は青紫の目、白い肌、周太より少し高い身長に細身で、英国の血を想わせる。
けれど華奢な骨格と顔立ちはオリエンタルで日本に馴染む、それが懸念になって父は娘を隠したのだろう。
…きっと哀しかったよね菫さん、でも、明るいんだ…すてきだね?
きっと哀しい想いもしたはず、それでも青紫の瞳は明るい。
そして気付かされる、なぜ彼女が英二と周太の関係を差別的に見ないでくれるのか?その理由が解かる。
こういう人は自分は好きだ、そんな想いと見つめた老婦人は、優しい笑顔で教えてくれた。
「それで宮田のお家に私は来たのです、nannyをしながら顕子さんのご主人にも助けてもらって、母を探し続けました、」
「…お母さんに、会えたんですか?」
そっと訊いた隣、青紫の瞳は綺麗に笑った。
「はい、会えました。母は再婚していて弟と妹がいたのです。日本で十年間を探して、一年間を一緒に暮らすことが出来ました、」
いま、一年間と時間を区切った。
その時限にまた瞳へ熱が昇りだす、その向こうからアルトヴォイスは優しく微笑んだ。
「再会したとき、もう母は余命宣告をされていました。会いに行った私を母は喜んで、私と暮らしたいと望んでくれたんです。
もう残り少ない時間しかないからワガママを言わせてほしい、そう言ってくれて。私は1年間お暇を戴いて母と暮らしました、
その一年間を過ごしたのが、この葉山の海でした。母の希望で海の見える家を探してね、大学生だった妹も一緒に3人で暮らしたの」
語る言葉に潮騒が響いて、遠くの海へとひいていく。
海が見える家と言った菫の母の想いが、もう自分は解かっているかもしれない?そんな想いに穏かな声はもの語りした。
「毎日を母と散歩して、一緒に食事して、何でもない日を一緒に笑って。一緒に写真も撮ったわ、ちいさな喧嘩もしてね、幸せでした。
会えなかった二十数年分を一緒に見つめて、ゆっくり時間が流れてね。母娘三人、静かな普通の、何でもない毎日で四季を一巡りしたわ、」
優しい声の語る想い出は温かで、切ない。
限られた時間の宣告、そのなか見つめる「何でもない日」が、どんなに幸せで哀しくて、愛しいか?
それを自分は初任総合の2ヶ月間に見つめてきた、だから菫たち母娘の想いが解かってしまう。
そして菫の父のことが想われる、ちいさな呼吸に涙のみこんで周太はそっと訊いてみた。
「…お父さんは、お母さんに逢えたんですか?」
「ええ、逢えたわ、」
うれしそうに青紫の瞳が笑ってくれる。
本当に嬉しそうで切ない笑顔は、秘密の物語のよう周太にそっと教えてくれた。
「イギリスから葉山まで父は逢いに来たの。母を散歩に連れ出して、いつもの浜辺に父を呼びだしてね、ふたりにはサプライズよ?
離れて二十年以上が過ぎていたわ、でも、ふたりはお互いがすぐ解かったのよ?顔を見た瞬間に、お互いすぐに歩み寄って行って。
父は母を抱き寄せたわ、本当に幸せそうに見つめて『私の大和撫子』って笑ってキスしたの。母は真赤な頬をして、幸せに笑ったわ」
微笑んだ青紫の瞳が海へと向けられる。
ゆっくり長い睫は瞬いて、アルトヴォイスは幸せに微笑んだ。
「ふたりは本当に幸せそうに笑い合ってね、見ている私が幸せでした。諦めないで良かった、日本に来て良かった、そう思ったわ。
再会の後、ふたり逢うことは出来ませんでした。けれど父は母に花を贈り続けたの。母が亡くなってからも、父が亡くなる日までずっと。
普通、イギリスのGentlemanなら、こんなふうには感情を露わにしません。けれど父は精一杯の愛情表現を母にしてくれて、嬉しかったわ、」
微笑んだ言葉も海を見つめる眼差しも、静かな明るさに温かい。
この温もりに唇が開かれて、さっき思ったことを周太は口にした。
「菫さん?お母さんが海の見える家に住みたかったのは…海の向こうに好きな人がいるから、でしょう?」
「そうですよ、やっぱり周太さんは解かるんですね?」
嬉しそうにアルトヴォイスが笑ってくれる。
海を映した瞳は周太を見、そして綺麗に微笑んだ。
「父も母も再婚していました、それでも愛し合う二人だったの。それを背徳と言う人もいるわ、でも、私を幸せにしてくれました。
再会は3時間で、離れた歳月には短すぎるわ。それでも幸福な時間が与えられた事は、ふたりの恋への祝福だと私は信じています。
だから私は両親を、ふたつの祖国を愛せます。ふたりを引裂いた戦争は憎んでも、私を幸せにした恋を生んだ2つの国とも愛しいです、」
“心から結ばれ幸福な姿は、周りも幸せにするのですから”
さっき菫が周太に贈ってくれた言葉の意味が、今、瞳の底を温める。
あの言葉は、青紫の瞳が見つめた願いと希望、両親への深い愛と祈りが温かい。
このひとを自分は好き、そう見つめた想いの真中で、高貴な老婦人は朗らかな哀惜に微笑んだ。
「母の遺灰の一部は、父の棺で眠っています。この海で再会したとき父が、母にそう願ったのです。その約束は私が叶えました。
母の遺灰を入れた小さなガラス瓶を、父の掌に持たせてあげたんです。このことは誰も知りません、私の子供達にも言っていないの、」
告げて、微笑んだ青紫の瞳から光がこぼれた。
白い頬を伝い潮風にさらわれて、涙は海へと散っていく。
長い睫ゆっくり瞬いて、ふたつの祖国に愛される人は綺麗に微笑んだ。
「本当はね、イギリスではこんなふうに感情を露にしたり、初対面から自分のことを話すことは、あまり良くないって考えなの。
でも周太さんに話してしまったわ、ずっと内緒にしていたことまで話して、目の前で涙までこぼして。お行儀悪くてごめんなさいね、」
潮風に銀髪ゆらいで、瞳を陽光に煌めかす。
その笑顔は明るく穏やかで、温かい。その温もりへと周太は率直に笑いかけた。
「菫さんは日本人でもあるでしょう?…日本の人はね、打ち明け話で仲良くなるのが上手です。だからこれで良いんです、」
「そう?…そうね、私は日本人だわ、」
そっとアルトヴォイスが呟くようこぼれた。
その声に青紫の瞳に陽光きらめいて、菫は綺麗に微笑んだ。
「日本の国籍は戦争で失ったの、でも、私の半分はこの国の心と命ね?…もう、日本で生きた時間の方が長いし、夫も日本人よ」
青紫の瞳が微笑んで見つめてくれる。
見つめる瞳の奥深く、ふり積った涙の気配がそっと心を響かす。
その気配に笑いかけて、周太は立ち上がるとブルーのストライプシャツの肩にそっと腕を回した。
「急にすみません、でも父と母はいつもこうしてくれるんです。こうすると楽になれて…僕、こうして英二とも仲良くなれたんです、」
こんなことしたら失礼だろうか?
文化の違いに心配もすこしある、けれど、この優しい人の涙を受けとめたい。
そんな願いにふれた温もりは、ふわり菫の花香らせて優しい掌を背中に回してくれた。
「ありがとう、周太さん。きっと、私とも仲良くなれますね?…ありがとう」
アルトヴォイスは微笑んで、青紫の瞳から涙はあふれだした。
きらきら海の光に雫は頬つたう、周太はポケットからハンカチを出して、そっと拭った。
その掌に青紫の瞳は微笑んで、優しい声は楽しそうに言ってくれた。
「私はね“Letitia Violet”が親からもらった名前なのよ、“菫”は父が付けた愛称なのです、」
どちらも素敵な名前だな?
そう思った心に記憶がまた1つ蘇えって、そのままを周太は素直に口にした。
「リティシア…ローマ神話の喜びの女神さまですね。ご両親の約束を叶えた菫さんは、おふたりにとって本当にLetitiaですね」
告げた言葉に青紫の瞳が笑って、涙が消えていく。
その脚元にキャメルの犬は静かに寄添って、つぶらな瞳が2人を見つめてくれた。
海をテーマにした関する創作文学ブログトーナメント
【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』The Thorn】
(to be continued)
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第56話 潮汐act.4―another,side story「陽はまた昇る」
青空に深紅の花は咲き誇る。
白い雲と青空を仰がす梢、やわらかな朱赤ゆらいで陽光ひるがえす。
深い緑の葉も濃やかに輝いて、海辺の風光きらめく木洩陽ふらせてくれる。
大らかに広げる枝に深紅と緑は繁り、艶やかな樹肌を潮風吹かせて百日紅は佇んでいた。
「きれい…」
深紅の翳に微笑み零れてしまう、見事な花木に嬉しくなる。
潮風ゆれる陽光の影絵が頬に額にふりそそぐ、その膝元を優しい毛並がすり寄った。
「あ…海、ごめんね?」
笑いかけた視界にキャメルブラウンの毛並が光きらめく。
かがみこみ撫でる顎はやわらかで、嬉しげに黒い瞳をが見つめてくれる。
こんな可愛い犬と毎日一緒に居られたら良いな?そう素直な想い微笑んだ周太に、アルトヴォイスが笑いかけてくれた。
「見事な花でしょう?あざやかな深紅で、朱色に近いでしょうか?」
「はい…きれいな色ですね、房になってて…ワーズワスのみたい、」
想ったまま素直に言って、周太は笑いかけた。
言葉に菫は微笑んで、楽しそうに尋ねてくれた。
「Wordsworth、どの詩ですか?」
「たしか『The Thorn』っていう題です、And cups,the darlings of the eye… So deep is their vermilion dye…ってありますよね」
And cups,the darlings of the eye 見るも愛らしい房の花
So deep is their vermilion dye 目に鮮やかな花々の朱いろ
懐かしい詩の一節。
小さい頃に父が読み聞かせてくれて、それから自分でも読んだ。
あれは茨の花についての詩、けれど頭上の百日紅は鮮やかに赤い「房の花」にふさわしい。
「その一節、この花とピッタリですね?What lovely tints are tehre.Ofolive-green and scarlet breight、」
アルトヴォイスが楽しげに微笑んで、続けてくれる。
同じ詩をこの不思議なナニーも知っていた、嬉しくて微笑んだ周太に彼女は笑いかけてくれた。
「この道にはね、Wordsworthのような花がたくさんあります。ここは花の道なのです、」
「花の道…すてきですね、」
優しいアルトの声に笑いかけ、キャメルの犬とまた歩き出す。
明るい青空のした、木蔭を縫うよう歩いていく道は潮風が涼を贈ってくれる。
その道沿いに並んでいく家々の、やさしい花の姿に周太は笑いかけた。
「菫さん。あの紫陽花、瑠璃色が素敵ですね?」
「あの色は私も好きです。家の庭にも植えたいのですが、苗と出会っていなくて」
花の話と歩いていく道、緑に花に陽光きらめき咲き誇る。
朱鷺色の撫子、露草の青、薄紅やさしい立葵。鶏頭の赤と黄色に、白粉花の赤紫。
純白の梔子は芳香ゆれて、柘榴の朱色は青空映える。デュランタの紫に潮風ゆれて、朝顔は蔓のびやかに清々しい。
優しい花たちの輝く道、キャメルの犬と歩く周太に青紫の瞳が微笑んだ。
「海は周太さんが大好きみたいですね?ほら、浜辺へと誘っています。自分が一番好きな場所を、教えたいのでしょうね」
アルトの声にキャメルの犬は、嬉しそうに周太を見上げてくれる。
つぶらな黒い瞳が可愛くて、嬉しくて周太は笑いかけた。
「そうなの?海…俺に、好きな場所を教えてくれるの?」
「くん、」
優しく鼻を鳴らして、浜と周太を見比べてくれる。
そんな様子に銀髪の老婦人は、楽しげに提案してくれた。
「海のリクエストに応えて、寄り道しましょうか?」
「はい、」
素直に頷いて周太は、青いリードを引くと犬と菫が示す方へ歩き出した。
うれしげに振られるキャメルの尻尾、その向こうから潮騒の響き近づいていく。
夏の花咲く道から木洩陽を抜けて、太陽ふりそそぐ通りにでる、ふわり、潮風が頬撫でて漣まばゆい。
光と風に瞳細めてしまう、その隣からアルトヴォイスは楽しげに笑ってくれた。
「あの草地です、あそこから海を眺めるのが気持ちいいんですよ、」
「あ…昼顔が咲いていますね、」
まるいラッパの花が海の草地にゆれている。
浜辺を這う緑と薄桃のコントラストが綺麗で、波の青に映え美しい。
砂の中あざやかな緑はオアシスのよう?そんな感想に微笑んで、潮騒やさしい草地のなかへ連れ立った。
「この岩に腰掛けるのが、おきまりなのよ、」
黒岩を白い指に示し勧めてくれる、素直に腰を下すと菫も傍らの岩に腰掛けた。
吹きぬける潮風に前髪ゆれる、あまく濃い香のむこう瞳は青色に充たされた。
「…きれい、」
ため息に微笑んだ視界には、遥かな遠くから様々な青色がうちよせる。
白藍、翡翠、縹、紺碧、瑠璃色、美しい名前のブルーたちが豊かに広がらす。
その色彩に、大切な人の浴衣を思い出して首筋が熱くなりだした。
…鰹縞の浴衣、すごく似合ってた、ね?
先月に母が誂えてくれた、英二の夏衣。
白皙の肌に映える青のグラデーションが美しかった、あの姿を思い出してしまう。
ほら、こんなふうに自分はすぐ、大好きな俤探して見つめている。そんな想い微笑んで周太は勇気ひとつと菫に尋ねた。
「あの、菫さんは英二の婚約者が僕で…男が相手なことは、嫌じゃないんですか?」
言葉に、青紫の瞳が見つめてくれる。
潮風に銀髪ゆらせながら、優しいアルトヴォイスは微笑んだ。
「昔、イギリスでゲイは罪に問われました。けれど私は罪と思いません、心から結ばれ幸福な姿は、周りも幸せにするのですから、」
…心から結ばれ幸福な姿は、周りも幸せに…
そっと心に言葉を反芻して、青紫の瞳を見つめる。
この言葉の温もりが優しくて嬉しくて、素直に周太は笑いかけた。
「ありがとうございます…今の日本でも、男同士だと差別もあります。だから、そう言って頂くのうれしいです、」
「よかった、そう言われたら私も嬉しいですよ?」
楽しげにアルトヴォイスが応えてくれる。
その声に嬉しい気持ち微笑んで、周太はキャメルの背中を撫でながら口を開いた。
「英二を幸せにしたいです、僕も、」
「大丈夫、きっと出来るわ。周太さんは Flidais ですから、」
朗らかに笑ってくれる、その笑顔が温かい。
青紫の瞳をした不思議なナニー、そんな彼女はどうして英二の祖母の許へ来たのだろう?
そんな疑問に50年遡らす時を想いながら、周太は尋ねた。
「あの…菫さんは、どうして宮田のお家に来たのですか?」
問いかけに、青紫の瞳が穏やかに微笑んだ。
そして秘密の魔法を明かすよう、静かなアルトが答えてくれた。
「母を、探すために来たのです、」
やわらかな声に、潮騒の音が重なった。
青紫の瞳が笑いかけてくれる、その瞳へと海の色が映りこむ。
遠く近く引きよせる波のさざめきに、時の記憶が呼ばれるよう声は綴りだした。
「さっきお話ししたように、私の父はイギリス人です。父は外交官として日本に来て、母と出会い、恋に墜ちて結婚しました。
そして生まれたのが私です、でも戦争が起きて父は帰国することになりました。けれど、母は一緒にはイギリスに行けなかったのです」
銀髪が縁どる面長の顔が温かく微笑んでくれる。
けれど聡明な白い額の寂しさは隠せないまま、穏やかなアルトは潮騒のなか続けてくれた。
「あの戦争は、イギリスと日本は敵対しましたね?だから母は残ると決めたのです、そして父は私だけを連れて国に帰りました。
もう今は白髪になっていますが、私の髪は茶色だったのです。それに、この目の色でしょう?この姿で日本にいることは危険でした。
敵の国の子供であること、それが私の日本での立場だからです。それはイギリスでも同じでした、だから母のことは秘密になりました」
第二次世界大戦、もう70年以上前の哀しい現実。
それを生きてきた人が隣にいる、想い佇んだ周太に菫は訊いてくれた。
「イギリスの貴族制度について、周太さんはご存知ですか?」
「少しなら…世襲貴族と一代貴族があるんですよね?世襲も、爵位を継承した人以外は平民だと聞きました、」
小さい頃に父から聴いたことが、言葉になって出てくれる。
これを聴いたのは『円卓の騎士』を一緒に読んだ時だった?そんな記憶と首傾げた周太に、優しい声は話してくれた。
「その世襲貴族なのです、父の家は。でも次男だった父は外交官になりました、これは貴族の息子には多い職業の1つなのです。
父は学生時代に『源氏物語』を読んで日本を好きになってね、それで外交官になって日本に来ました。休暇はあちこちに行ってね、
富士山にも登ったそうです。そして大和撫子に恋をしました、父は心から日本を愛したのです。だから帰国後も私に言ってくれました、」
遠く近くよせる潮騒に、アルトヴォイスは流麗な日本語で語る。
その青紫の瞳に陽光きらめいて、誇らしい笑顔が綺麗にほころんだ。
「おまえの血に流れる日本を誇りに思いなさい、たとえ今は敵の国と言われても、自分に与えられた日本の心と命を恥じてはいけない。
母が日本人だとは誰にも言ってはいけない、けれど、私のもう1つの祖国と母を愛する誇りを、どんな時も絶対に否定してはいけない。
そう言って父は母への想いと、私の誇りを護ってくれました。だから私は戦争の間も、この国も母も大切に想い続けていられたのです」
父と母の祖国が敵対すること。
それは自分の心身を2つに裂かれる想いだろう、その哀しみに瞳へ熱が生まれだす。
ゆっくり瞬いて涙を納めて、周太は誇らかな青紫の瞳へ微笑んだ。
「菫さんのお父さん、とても素敵な方ですね、」
「でしょう?」
明るい青紫の瞳が周太に笑ってくれる。
ゆるやかな海風に銀髪ゆらせながら、菫は口を開いた。
「noble obligationというものがイギリスの貴族にはあります。『高貴な義務』と言って、社会の責任を担う誇りのことです。
この責務のために伯父は従軍して亡くなりました、そして父が爵位継承者になったのです。それでも父は母を諦めなかったの。
戦争が終わると父は母を迎えに行きました、けれど、母の実家は町ごと空襲で燃えてしまって…もう、行方が解からなかったのです」
かすかな溜息が潮風に流れて、菫は海を見た。
空と海を映す瞳のいろが深くなる、長い睫ひとつ瞬いて視線を戻すと、彼女は続けてくれた。
「祖父が亡くなって爵位を継承した父は、noble obligationの為に再婚しました。同じような家柄の出身で、優しいひとでした。
弟たちが生まれても、彼女は私に良くしてくれたのよ。けれど私は母に会いたくて、日本に行く方法を考えるようになりました。
日本に行っても出来る仕事は何だろう?そう考えて思いついたのが、私の面倒を見てくれた governess のようになることでした、」
“governess” ガヴァネス
イギリス上流階級の家庭教師、昔は良家の娘の唯一の仕事だった。そう父が教えてくれた。
菫のようなアッパークラスの女性が仕事を持つことは当時、職業選択の自由が少なかったろう。
それでも自分の道を見出して菫は日本に戻ってきた、その想いは美しく切なくて、逞しい。そう見つめる先で菫は微笑んだ。
「戦争が終わるまで私は屋敷の中でgovernessに育てられました、彼女はnannyも兼ねて私の面倒を全て見てくれたのよ。
父の再婚後は弟達の面倒も見て、その後は lady's companionとして家に居てくれました。彼女のように3役を務めるプロを目指そう、
そう思って、Norland College で勉強してイギリスの家庭で1年経験を積んでから、父の伝手で日本の家庭を紹介して頂いたのです、」
戦争が終わるまで、屋敷のなかで。
この言葉に当時、菫が置かれた「英国と日本の混血」の立場が見えてしまう。
彼女の外見は青紫の目、白い肌、周太より少し高い身長に細身で、英国の血を想わせる。
けれど華奢な骨格と顔立ちはオリエンタルで日本に馴染む、それが懸念になって父は娘を隠したのだろう。
…きっと哀しかったよね菫さん、でも、明るいんだ…すてきだね?
きっと哀しい想いもしたはず、それでも青紫の瞳は明るい。
そして気付かされる、なぜ彼女が英二と周太の関係を差別的に見ないでくれるのか?その理由が解かる。
こういう人は自分は好きだ、そんな想いと見つめた老婦人は、優しい笑顔で教えてくれた。
「それで宮田のお家に私は来たのです、nannyをしながら顕子さんのご主人にも助けてもらって、母を探し続けました、」
「…お母さんに、会えたんですか?」
そっと訊いた隣、青紫の瞳は綺麗に笑った。
「はい、会えました。母は再婚していて弟と妹がいたのです。日本で十年間を探して、一年間を一緒に暮らすことが出来ました、」
いま、一年間と時間を区切った。
その時限にまた瞳へ熱が昇りだす、その向こうからアルトヴォイスは優しく微笑んだ。
「再会したとき、もう母は余命宣告をされていました。会いに行った私を母は喜んで、私と暮らしたいと望んでくれたんです。
もう残り少ない時間しかないからワガママを言わせてほしい、そう言ってくれて。私は1年間お暇を戴いて母と暮らしました、
その一年間を過ごしたのが、この葉山の海でした。母の希望で海の見える家を探してね、大学生だった妹も一緒に3人で暮らしたの」
語る言葉に潮騒が響いて、遠くの海へとひいていく。
海が見える家と言った菫の母の想いが、もう自分は解かっているかもしれない?そんな想いに穏かな声はもの語りした。
「毎日を母と散歩して、一緒に食事して、何でもない日を一緒に笑って。一緒に写真も撮ったわ、ちいさな喧嘩もしてね、幸せでした。
会えなかった二十数年分を一緒に見つめて、ゆっくり時間が流れてね。母娘三人、静かな普通の、何でもない毎日で四季を一巡りしたわ、」
優しい声の語る想い出は温かで、切ない。
限られた時間の宣告、そのなか見つめる「何でもない日」が、どんなに幸せで哀しくて、愛しいか?
それを自分は初任総合の2ヶ月間に見つめてきた、だから菫たち母娘の想いが解かってしまう。
そして菫の父のことが想われる、ちいさな呼吸に涙のみこんで周太はそっと訊いてみた。
「…お父さんは、お母さんに逢えたんですか?」
「ええ、逢えたわ、」
うれしそうに青紫の瞳が笑ってくれる。
本当に嬉しそうで切ない笑顔は、秘密の物語のよう周太にそっと教えてくれた。
「イギリスから葉山まで父は逢いに来たの。母を散歩に連れ出して、いつもの浜辺に父を呼びだしてね、ふたりにはサプライズよ?
離れて二十年以上が過ぎていたわ、でも、ふたりはお互いがすぐ解かったのよ?顔を見た瞬間に、お互いすぐに歩み寄って行って。
父は母を抱き寄せたわ、本当に幸せそうに見つめて『私の大和撫子』って笑ってキスしたの。母は真赤な頬をして、幸せに笑ったわ」
微笑んだ青紫の瞳が海へと向けられる。
ゆっくり長い睫は瞬いて、アルトヴォイスは幸せに微笑んだ。
「ふたりは本当に幸せそうに笑い合ってね、見ている私が幸せでした。諦めないで良かった、日本に来て良かった、そう思ったわ。
再会の後、ふたり逢うことは出来ませんでした。けれど父は母に花を贈り続けたの。母が亡くなってからも、父が亡くなる日までずっと。
普通、イギリスのGentlemanなら、こんなふうには感情を露わにしません。けれど父は精一杯の愛情表現を母にしてくれて、嬉しかったわ、」
微笑んだ言葉も海を見つめる眼差しも、静かな明るさに温かい。
この温もりに唇が開かれて、さっき思ったことを周太は口にした。
「菫さん?お母さんが海の見える家に住みたかったのは…海の向こうに好きな人がいるから、でしょう?」
「そうですよ、やっぱり周太さんは解かるんですね?」
嬉しそうにアルトヴォイスが笑ってくれる。
海を映した瞳は周太を見、そして綺麗に微笑んだ。
「父も母も再婚していました、それでも愛し合う二人だったの。それを背徳と言う人もいるわ、でも、私を幸せにしてくれました。
再会は3時間で、離れた歳月には短すぎるわ。それでも幸福な時間が与えられた事は、ふたりの恋への祝福だと私は信じています。
だから私は両親を、ふたつの祖国を愛せます。ふたりを引裂いた戦争は憎んでも、私を幸せにした恋を生んだ2つの国とも愛しいです、」
“心から結ばれ幸福な姿は、周りも幸せにするのですから”
さっき菫が周太に贈ってくれた言葉の意味が、今、瞳の底を温める。
あの言葉は、青紫の瞳が見つめた願いと希望、両親への深い愛と祈りが温かい。
このひとを自分は好き、そう見つめた想いの真中で、高貴な老婦人は朗らかな哀惜に微笑んだ。
「母の遺灰の一部は、父の棺で眠っています。この海で再会したとき父が、母にそう願ったのです。その約束は私が叶えました。
母の遺灰を入れた小さなガラス瓶を、父の掌に持たせてあげたんです。このことは誰も知りません、私の子供達にも言っていないの、」
告げて、微笑んだ青紫の瞳から光がこぼれた。
白い頬を伝い潮風にさらわれて、涙は海へと散っていく。
長い睫ゆっくり瞬いて、ふたつの祖国に愛される人は綺麗に微笑んだ。
「本当はね、イギリスではこんなふうに感情を露にしたり、初対面から自分のことを話すことは、あまり良くないって考えなの。
でも周太さんに話してしまったわ、ずっと内緒にしていたことまで話して、目の前で涙までこぼして。お行儀悪くてごめんなさいね、」
潮風に銀髪ゆらいで、瞳を陽光に煌めかす。
その笑顔は明るく穏やかで、温かい。その温もりへと周太は率直に笑いかけた。
「菫さんは日本人でもあるでしょう?…日本の人はね、打ち明け話で仲良くなるのが上手です。だからこれで良いんです、」
「そう?…そうね、私は日本人だわ、」
そっとアルトヴォイスが呟くようこぼれた。
その声に青紫の瞳に陽光きらめいて、菫は綺麗に微笑んだ。
「日本の国籍は戦争で失ったの、でも、私の半分はこの国の心と命ね?…もう、日本で生きた時間の方が長いし、夫も日本人よ」
青紫の瞳が微笑んで見つめてくれる。
見つめる瞳の奥深く、ふり積った涙の気配がそっと心を響かす。
その気配に笑いかけて、周太は立ち上がるとブルーのストライプシャツの肩にそっと腕を回した。
「急にすみません、でも父と母はいつもこうしてくれるんです。こうすると楽になれて…僕、こうして英二とも仲良くなれたんです、」
こんなことしたら失礼だろうか?
文化の違いに心配もすこしある、けれど、この優しい人の涙を受けとめたい。
そんな願いにふれた温もりは、ふわり菫の花香らせて優しい掌を背中に回してくれた。
「ありがとう、周太さん。きっと、私とも仲良くなれますね?…ありがとう」
アルトヴォイスは微笑んで、青紫の瞳から涙はあふれだした。
きらきら海の光に雫は頬つたう、周太はポケットからハンカチを出して、そっと拭った。
その掌に青紫の瞳は微笑んで、優しい声は楽しそうに言ってくれた。
「私はね“Letitia Violet”が親からもらった名前なのよ、“菫”は父が付けた愛称なのです、」
どちらも素敵な名前だな?
そう思った心に記憶がまた1つ蘇えって、そのままを周太は素直に口にした。
「リティシア…ローマ神話の喜びの女神さまですね。ご両親の約束を叶えた菫さんは、おふたりにとって本当にLetitiaですね」
告げた言葉に青紫の瞳が笑って、涙が消えていく。
その脚元にキャメルの犬は静かに寄添って、つぶらな瞳が2人を見つめてくれた。
海をテーマにした関する創作文学ブログトーナメント
【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』The Thorn】
(to be continued)
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