萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

secret talk10 七夕月act.1―dead of night

2012-10-17 23:49:48 | dead of night 陽はまた昇る
日常、逢瀬の夜を



secret talk10 七夕月act.1―dead of night

ランプの灯が穏やかな洗面室、ブルーの壁紙も温かい。
オレンジ色の明りに首筋が染まりゆく、薄紅が恋人の肌に咲く。
この色彩に今夜ふたり幸福がある、そんな兆しに見つめる黒目がちの瞳が、羞んだ。

「…おふろでせなかながしてほしい?」

風呂で背中、流してほしい?

「あ、」

かすかな感覚に掌で鼻から口許をおさえ、そっと見る。
そこに赤い鮮血が一滴だけ、洗面室のランプに輝いた。

「周太、鼻血でちゃった、」
「え、」

笑って示した掌を、驚いたよう覗きこんでくれる。
黒目がちの瞳ひとつ瞬いて、すぐティシュペーパーで顔と手を拭ってくれた。

「もう血は止まったかな?シャツに染み作らなくて良かった…おふろは後の方がいいかな?」

こんなかいがいしい事されると、余計にときめきます。

こんなの本当に夫婦みたい?
こんなの幸せで嬉しくて、英二は綺麗に笑いかけた。

「このまま風呂、入ってもいい?それで背中を流してくれたら嬉しいな、」
「はい…いいよ?」

気恥ずかしげに微笑んで、後ろに回ってくれる。
何をするのかな?そう思った肩に背伸びして手を掛け、スーツのジャケットを脱がせてくれた。

「あの…腕、抜いて?」

こんなの本当に夫婦だよね?

どうしよう、幸せすぎてまた鼻血噴くかも?
ここで鼻血だしてばかりいたら馬鹿みたい、さすがにそれは困る。
こんな幸せな困惑に笑って英二は、袖から腕を抜いた。

「ありがとう、周太、」
「スーツ、部屋に掛けておくね?…それで着替え持ってくるから、先に入ってて?」

こんな会話、幸せで嬉しい。
こんな会話はごく普通の当たり前の日常、そう誰もが言うのだろう。
けれど、こんな「日常」が、自分にとっては何より温かくて、幸せで愛おしい。

―こういう時を毎日したいな、

こんな「普通」の時が、自分たちには難しい。

男同士だということだけでも、今の日本では普通と言えない。
お互いに警察官なことだけでも危険が多い、そのなかでも「死線」と言われる部署に周太は行ってしまう。
その死線の束縛が終わっても、自分が山岳レスキューに立ち続けることは変わらない。
いま周太を縛る「50年の束縛」畸形化した連鎖が終わっても「2人の普通」は難しい。

それでも、周太は「英二の妻」であること以外は普通になれる。
けれど自分は世間一般の「普通」とは、より遠い世界に向かって生きていく。

―そのときは周太にばかり、不安な思いさせるんだな

いつか、普通の日常が周太の生活になったとき。
そのときは英二の山岳レスキューとクライマーとして立つ危険が、より生活のウェイトを占めていく。
そうしたら自分は周太に一方的な心配を懸けてしまう、そして、その心配は終わり尽きることは無い。
そう思ったときに気付かされる、結局は自分の方が周太に掛ける負担は大きくなっていく。

―だったら今、俺がいっぱい心配するのも公平かな?

そんな自覚と開き直りに笑いながら靴下を脱ぎ、それから脱いだスラックスを周太に渡した。
長い指でワイシャツのボタンを外し始める、その隣から周太がそっと扉へと踵を返した。
いま恥ずかしいから早く出よう、そんな淑やかな背中へと英二は笑いかけた。

「周太、このワイシャツも一緒に持って行ってくれる?ちょっとしか着ていないからさ、このまま明日も着るから」
「あ…はい、」

恥ずかしげに俯いて、スーツ抱え込んで待っていてくれる。
カットソーの首筋は薄紅に羞んでしまう、そんな初々しい様子に困らされそう?
このまま風呂に連れ込んだらスーツが濡れて困る、そう思って自分を押えながらワイシャツから腕を抜くと手渡した。

「はい、周太。よろしくな、」
「ん、」

赤い貌のまま頷いて受けとると、スーツ一式を抱えて廊下に出て行った。
その後ろ姿がなんだか従容と可愛くて、本当は引留めたかったけれど今は我慢する。
だってこの後に「背中流してくれる」って約束をくれた、だから「この後」の為にも今は引き下がるほうがいい。
いま我慢した分だけ早く戻ってほしいな?そんな希望と浴室に入ると体を流してから湯舟に浸かった。

「…は、」

湯にほぐれて溜息こぼれる、ちょうど良い湯加減が心地良い。
帰ってくる時間に合わせて湯を沸かしてくれた、そんな配慮に嬉しくなる。
こんな事からも、自分を待っていてくれたと解かるのが幸せになってしまう。

「こういうの良いな…」

ふっとこぼれた本音に微笑んで、両手で髪をかきあげる。
温かな湯に疲れがほどけて、今日の緊張感への考え廻らせていく。

―周太、昨夜のこと訊いてくるかな…

今のところは何も訊いて来ない、気配も見せてはいない。
それとも、昨夜の事件を周太はまだ知らない可能性も高いだろう。
所轄の署長が倒れた、そんな機密を一署員にまで知らせることは無いだろうから。

―このまま何も知らないでいてほしい、今夜はただ幸せに過ごしてほしいな

ぼんやり見上げる天井の、青い模様のタイルに願ってしまう。
ふたり過ごす夜を見つめて、明日に行く大学の実地研究に心向けていてほしい。
そういう普通の日常に今夜を過ごしたい、そう考え廻らす向こうで扉開く音がした。

かたん、

廊下の扉が閉じて、衣擦れの音かすかに聞こえる。
いま来てくれた、その気配に縁のタイル張りで頬杖ついて扉を見る。
どんな顔して入ってきてくれるかな?楽しみで見つめた向こう、扉が開いた。

「英二、」

名前を呼んで微笑んでくれる、恥ずかしげな笑顔が可愛くて嬉しい。
でも、嬉しさが予想の半分になるのは、ちょっと許してほしいと思う。

―なんで周太、服着てるんだ?

腕の素肌はランプに艶めいて、素足も伸びやかに可愛い。
けれどカットソーは着たまま、コットンパンツも履いたままでいる。
きちんと袖を捲り裾も折り上げてある、でも服を着ている事は変わらない。

―背中を流してくれるって、一緒に風呂に入るって意味じゃないんだ?

ほんとに背中を流すだけなんですね?
ほんとに一緒には入ってくれないの?

そんなこと考えながらシャワーの前、風呂椅子に座る。
その背後に小柄な恋人はしゃがみこんで、タオルに丁寧な泡を立ててくれた。

「あの、洗うね?…痛いとかあったら言ってね?」
「うん、ありがとう周太、」

鏡越しに笑いかけると、羞んだ笑顔が応えてくれる。
背中ふれる泡とタオルの感触が心地良い、力加減もちょうどよく擦っていく。
周太は家事全般が上手だけれど、こういうことも巧いんだ?
そんな感心に英二は微笑んだ。

「初めて洗ってもらうけど、巧いな、周太。気持いいよ、」
「ほんと?…よかった、」

嬉しそうに目を上げて、鏡越しに視線が合さる。
その眼差しまた羞んで背中へと視線を落とす、そうして磨き上げるとシャワーで流してくれた。
この時間をもう少し続けたくて、肩越し振向くと英二は綺麗に笑いかけた。

「周太、髪も洗ってくれる?」
「あ…ん、いいよ?」

優しい笑顔で頷いてくれる、その頬が紅潮に赤い。
湯気にあたり火照り始めた、そんな肌の艶に惹きこまれそう。
でも今そんなことしたら逃げられてしまうな?そう考えているうち髪は濡らされていく。

「目、つむっていてね、」
「うん、」

言われた通り素直に目を閉じて委ねる。
シャワーの湯音が頭から頬伝い、髪に泡が絡まりだす。
優しい指が洗ってくれる、そんな感覚に心が微笑む、こういうの良いなと素直に想う。

―俺も洗ってあげたいな?

というよりも、洗わせて頂きたい。

もう何度か英二が周太を洗ったことはある。
髪からつま先まで英二が洗い上げてベッドに連れて行く、そんな夜は嬉しい。
いつも「おふろはけっこんしてからです」と逃げてしまうことも多くて、それでも時折は言うことを聴いてくれる。
だから今夜も一緒に入ってくれる、そう期待していたのに?

―やっぱり一緒に入って「あれ」したかったな?

つい本音が残念がってしまう、本当はしたいことがあるから。
どうしたら実現できるかな?なんとか今もしたいんだけど出来ないかな?
そう考え廻らす頭上、シャワーの音が止んで穏やかな声が訊いてくれた。

「はい、おしまい…洗い足りないとかある?」

ある、君を洗い足りません。

「周太、」

笑いかけて振り向きざま抱きしめる、その腕にカットソーが濡れる。
そのまま抱え上げて浴槽に脚をおろすと、湯の中に英二は腰を下した。

「え…」

黒目がちの瞳が、湯と英二の腕のなか1つ瞬いた。
青と白の美しいタイル張りの浴槽、その中でカットソーとコットンパンツの体は湯に浸される。
しっとり濡れたカットソーに肌が透ける、それが逆に艶っぽくて惹かれてしまう。

「きれいだ、周太。水も滴る美少年だな、」

思ったままを言って、キスをする。
ふれた唇に湯が瑞々しくて、なんだか幸せで嬉しい。
嬉しくて黒目がちの瞳を覗きこむ、その瞳が困ったよう見つめて拗ねた。

「ばかっ、えいじのばかばかなにしてるのっ」

あ、やっぱり怒っちゃうんだ?

でも怒った顔も可愛くて見つめてしまう。
こんな貌も好き、そう笑いかける英二に婚約者は叱りだした。

「だ、だめでしょっふくきたままはいっちゃ!ふくいたんじゃうでしょばかっ、」
「大丈夫だよ、周太?そのカットソーもパンツも綿だから湯で洗えるよ、」

それくらい考えてやったのにな?
そう笑いかけたけれど、困り顔で拗ねたまま婚約者は叱ってくれた。

「でもだめっえいじのばか、おゆだってよごれちゃうでしょばかばかっ、」
「周太だったら平気だよ?周太は全部綺麗だから、」
「なにいってるのばかっ、そういうもんだいじゃないでしょ?」
「そういう問題だろ?周太の汗だって何だって、俺は全部舐めてるし、」
「…っ、ばかっ!えいじのばかばかなんでそんなこというのっ、へんたいちかんっ」

叱りながら浴槽から出ようとする、その肢体に濡れた服は絡みつく。
からんだ布に透ける紅潮の肌が、あわいオレンジの光に映えて艶めかしい。
湯気に濡れた髪も艶やかで、濡れた衿元しなやかな首筋に薄紅のぼらす。
こんな姿を見たら逃がせなくて、英二は後ろから抱きしめた。

「周太、言うこと聴いて?」

笑いかけ唇重ねて、湯の中でコットンパンツのボタンを外す。
抱き寄せキスのままウェストを下し、伸びやかな素肌を晒していく。
濡れた服を浴槽の縁へ置きカットソーも脱がせて、小柄な裸身を抱きしめた。

「周太、一緒に風呂入ろ?」

笑いかけた腕のなか、困ったよう見上げてくれる。
その頬から額も紅潮そまらせ、けれど唇は拗ねた口調でそっぽを向いた。

「もうはいっちゃってるでしょばか…」

ツンデレの「ツン」ですか、女王さま?

ツンデレ可愛い、こういう貌も大好き。
このあとは甘えてくれるかな?幸せな予想と英二は笑いかけた。

「周太、こんどは俺が周太を洗ってあげるね?」

どうか素直に頷いて?
これをしたいって思っていたんだから。

こんなこと普通のいわゆる「いちゃつく」ってやつだ?
こんなの馬鹿みたいかもしれない?だけど、そういうの全部を君とやってみたい。
ごく普通の日常的な幸福を、君と一緒に確かめながらいつか、自分たちの幸せに毎日を過ごせるように。





(to be continued)

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soliloquy 愛逢月act.8 Fenetre de la nuit―another,side story「陽はまた昇る」

2012-10-17 08:33:43 | soliloquy 陽はまた昇る
夜窓、ひとり佇むときも



soliloquy 愛逢月act.8 Fenetre de la nuit―another,side story「陽はまた昇る」

窓を開く、その掌から頬をそっと夜風が撫でる。

洗い髪を夜風が梳いて、冷えていく髪に時間の流れを想う。
すこし前まで隣にいた笑顔はもう、今は遠く北西へと帰って行った。
すこし前の2時間くらい昔に見た窓は、この肩にもたれる笑顔が映り温もりが頬よせていた。
今、この肩はシャツ透かす夜風に冷えていく、けれど笑顔の気配は今も温かい。

「…今日もありがとう、英二?」

そっと夜風にとける声で想い告げて、見上げる空は摩天楼に狭い。
それでも星が幾つか見える、この狭く昏い夜空にも星の明りは灯ってくれる。
この星の輝きはきっと、今、北西に向かう道にも見えているだろう。

さっきまで自分が座っていた助手席、その隣に今あのひとは独りハンドルを握る。
まだ出逢う前にも乗っていた車に今また独り、自分を座らせてくれた今日と昨日の現実を載せて帰っていく。
あの助手席に座り見つめた風景は、どれも美しくて嬉しくて、きれいで、切なかった。

隣に座ってひとつ空間に籠りながら、道を走っていく。
そんな幸せが次はいつ訪れるのだろう?そう考えてしまう想いが切なかった。
それでも「いつ」が訪れる可能性が0%ではないことが、幸せで嬉しくて、愛おしい。

昨日、サンダルを英二は買ってくれた、またいつか履いて浜を歩くだろう。
葉山の空中庭園に住む優しい老婦人たちと、一緒にお茶をする約束もある。
そこに住む猫と犬にも会いに来ると約束をした、あの優しい瞳に叶えたい。
それから大切なレストランでも、いつか記念の日に食事をする約束をした。
約束と一緒に浜で見つけた桜貝、あの美しい薄紅もいつかまた拾いに行く。

今日も、夜のばら園に英二は連れて行ってくれた、今度は昼間の花を見に行きたい。
香り高い花園には猫たちが住んでいた、可愛いけれど逞しくもある姿は愛しかった。
夜の港は静かで、波音と桟橋あるく音が少し切なくて、けれど繋がれた掌が幸せで。
そのあとに寛いだカフェの、ココアとコーヒーの香が夜の窓映る光に今、懐かしい。

「ね、英二?またあのカフェ…連れて行ってね」

そっと独り言に微笑んで窓を閉める、その首筋に熱は昇りだす。




(to be continued)

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第57話 鳴動act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-10-17 00:33:44 | 陽はまた昇るside story
過去と未来、この今に見つめて、



第57話 鳴動act.5―side story「陽はまた昇る」

車窓の夜景が明るんで、緩むスピードに蛍光灯の景色が映る。
列車は川崎駅に入線して、仕事帰りといった空気のなか英二はホームに降りた。
流れる雑踏をスーツ姿で歩いていく、その景色にふとサラリーマンになったような錯覚が起きる。
この「錯覚」に、3年前まで考えていた進路を思い出した。

―こういう道もあったな、

法学部入学の最初に決めた通り、司法試験を受け弁護士になり、父のよう外資系の企業法務に就く。
そんな道を進んでいれば今頃ごく普通に民間人で社会人だった、けれどもう忘れかけていた。
こんなふうに「忘れかけていた」からこそ「錯覚」だと認識が起きる。

―もう俺、警察官なことが普通になってるな

もう「普通」が自分のなかで入替わり、去年の春に見ていた景色は今、違う色彩に見ている。
いま周りを流れていくスーツ姿たちは市街地のビルから帰ってきた、この流れに自分も入るのだとずっと思っていた。
けれど今の自分の現実は、警察官と救助隊員の制服か登山ウェアを着て「山」に生き、今日も山から帰ってきた。
それでも周囲を流れるスーツに自分のスーツ姿も融けこんでいるだろう、それが不思議で面白い。

―人間は、一見じゃ解からないな?

そんな考え廻らせながら家路を歩いていく。
光も賑わう駅の街並みを抜け、閑静な住宅街へと景色は変わる。
街路灯に豊かな庭木の梢が影おとし、青葉の香にかすかな排気ガスが埃っぽい。
革靴のソール音を聞きながら歩く道は、もう見慣れた光景になった、この「見慣れた」が嬉しい。

もう、この道が「家路」になっている。
この道の先に大切な人が待つ「家」が自分にはある、そんなごく普通の喜びが嬉しい。
そして歩く道に想ってしまう、どこか夢でも追うように考える。

もしも、自分が普通に山ヤの警察官で、周太が普通の大学院生だったら?

いま帰ろうとしている家に絡んだ、「50年の束縛」畸形化した哀憎の連鎖。
その全てがもしも最初から無かったら、きっと周太の今頃は植物学に懸ける大学院生だった。
それが「あるべきだった現在」だと馨の日記から知ったとき、自分の心は泣いた。

―赦せない、あの男だけは

肚の熾火が燃える、その炎が昏い色彩ゆらぐのを見る。
その同時に今日、告げられた8月からの現実への思考は廻る、そして3番目の尋問を想う。
この3番目の尋問は最愛の人が執行官、誰より黙秘すべき相手で、この秘密によって護りたい人。
この黙秘への覚悟と愛情に微笑んで、英二は古い木造門の扉を開いた。

さあっ、

開いた扉の向こうから、花の夜風が頬を撫でる。
ひどく甘やかな芳香に誘われ飛石を外れる、その夜の梢に白い花はうかんだ。

「随分と甘いな…」

ひとりごとに開いた唇から、濃い芳香はあまく沁みてくる。
艶やかな緑の葉にかすかな光ゆれ、花は光り籠らすよう白い。
この花の名前は何だろう?そう見上げながら伸べた掌に、花は落ちて納まった。

「周太、喜ぶかな?」

今日は急いで帰ってきたから、何の土産も無い。
この庭の花でも婚約者は喜んでくれる?そんな期待と踵返すと英二は玄関扉の前に立った。
ワイシャツの衿元から革紐を手繰り、いつもの通りに合鍵を出して開錠する。
そっと開いた扉の向こうは静まり、けれどスリッパは置かれ食事の香は温かい。

かたん、

ちいさな音に扉を閉じて、施錠する。
靴を脱いで自分用のスリッパに履き替え、そのままリビングの扉を静かに開いた。

「…かわいい、」

どうしよう、かわいいんですけど?

ソファでクッション抱えたまま眠りこんでいる、エプロン姿に時めいてしまう。
その傍らに本が落ちている、たぶん読みながら墜落睡眠をしてしまった。
そんな様子は無垢で可愛くて仕方ない、どうしよう?

―このまま色々したら、さすがに嫌われるよな?

自分の希望に呆れて笑って、英二はソファの傍ら絨毯に座った。
その気配にも気付かず眠りこんでいる手元、拾いあげた本に英二は微笑んだ。

『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』

青い表装の分厚い、周太の宝物の本。
新宿東口交番での勤務中に出会った樹医、青木准教授に贈られた植物学の専門書。
この本に導かれて周太は、喪わされた夢に再び廻り合うことが出来た。
けれどその夢も今、現実の前に叶えられるのか解らない。

「…でも周太、絶対に叶えてあげるよ?」

そっと笑いかけ青い表紙を開く。
その見開きに書かれた詞書に、静かに英二は微笑んだ。

 ひとりの掌を救ってくれた君へ
 樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています。
 そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています。
 この本には樹木と水に廻る生命の連鎖が記されています、この一環を担うため樹医の掌は生きています。
 いまこれを記すこの掌は小さい、けれど君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります。
 この掌を君が救ってくれた、この事実にこもる真実の姿と想いを伝えたくて、この本を贈ります。
 この掌を信じてくれた君の行いと心に、心から感謝します。どうか君に誇りを持ってください。 樹医 青木真彦

「…君が掌を救った事実には、生命の一環を救った真実があります…」

唇こぼれた一節に、青梅線で見つめた自責が映りこむ。
この青木樹医の言葉は馨に聴かせたかったと前に感じた、そして今この自分自身に響く。
この自分が周太の掌を救えたら、生命の一環を救う真実に繋げられる?

「周太、君はいつか樹医になる?」

穏やかで無垢な寝顔に囁いて、その掌を長い指にくるむ。
自分より小さくて優しい掌は、今日も射撃訓練をしてから家事に勤しんだ。
庭の手入れをし、床を磨いて客間を整え、食事を作る。そんなふうに家と人のために掌は働いた。
そんなごく普通に働く優しい掌が自分には宝物で、ずっと何ものに穢されること無く護りたい。

それでもこの掌に訪れる8月は、銃を持ち続ける死線への彷徨。
それでも自分はこの掌を穢させない、そのために今日も運命の分岐を見つめてきた。
だから後悔も出来ない、光一も吉村医師も巻き込んでいくのに後悔出来ない、ただこの掌を護りたくて。
そうして今も掌に祈り願う、この優しい掌と自分の贖罪のために、心に泣きながら祈る。

どうか君の掌を救う現実が、生命の一環を救う真実になるように。

どうか君の掌が「50年の束縛」から解放され、永遠の自由に生きてほしい。
そして君が幼い日から望んだ植物学の夢、樹医として生き森を援け、生命の一環を救ってほしい。
その君の夢が、誰かの幸福の一環を救っていく真実にリンクして輝く、そう信じている。
そうしたら自分が犯していく「利用する」罪も、君の夢に清められ、救われるから。

―…命を救う事に向いている、君の手はそういう手です

さっき吉村医師が言ってくれた、長い指の手がもつ意味。
この言葉は吉村医師の言祝ぎで願い、そして英二への訓戒と絶対的信頼感を示す。
この言葉に籠めてくれた祈りを、いま長い指に包んだ掌こそ叶えられる力を持っている。

「周太、俺のためにも夢を叶えて?」

笑いかけて寝顔に唇よせて、そっと重ねてキスをする。
穏やかにオレンジの香が口うつされ、ふれる温もりに心ほどかれていく。
今日の一日に見つめていた緊張も覚悟も今、ゆっくり解かれて「帰ってきた」と心が微笑む。
ほら、自分はこの隣が居場所で帰る家、そう見つめた長い睫がゆっくり披かれた。

「おはよう、周太」

嬉しくて笑いかけ名前を呼ぶ、それを黒目がちの瞳が見つめてくれる。
まだ眠りに潤んだ眼差しが可愛い、可愛くて嬉しくてまたキスすると微笑んでくれた。

「…ん、えいじ?」
「俺だよ、周太?おはよう、」

笑いかけて額をくっつける、その額が温かい。
大好きな温もりが待っていてくれた、その幸せだけ見つめて微笑んだ英二に困ったよう周太は訊いてくれた。

「…あの、いまってなんじ?…もう朝なんだよね、」
「え?」

意外な問いかけに驚いて、少し顔を離し見つめてしまう。
その視線の先で困ったよう黒目がちの瞳は瞬いて、しょんぼり謝ってくれた。

「ごめんね、俺、寝ちゃって…待ってようって思ってたのに朝になっちゃうなんて…スーツ着てるけど英二も出掛ける時間なの?」

寝惚けている訳ですね?そして俺のスーツ姿で勘違いされているわけですね?

「ふっ、」

思わず吹き出してしまう、こんなの可愛くて。
本当にまだ子供、こんな素顔のままに日々を生きさせてあげたい。
けれどもう時は来る、その現実を今は無視して、ただ可愛い婚約者を見つめて英二は綺麗に笑った。

「周太?俺、いま帰ってきたところだよ。まだ金曜の夜9時半だよ、」
「…あ、」

驚いたよう声あげて、ひとつ瞬くと周太は英二の手元に気がついた。
さっき庭で摘んだ香ゆたかな白い花、その小枝を示して英二は微笑んだ。

「ごめんな、遅くなっちゃって。急いで帰ってきたから、なにも土産が無いんだ。それで庭で綺麗だった花、ひとつ摘ませて貰った、」
「あ、でもメールの時間より早いね?…10時って英二、書いてあった、」

嬉しそうに笑ってくれながら、白い花を見てくれる。
あまい芳香まばゆい花はルームライトに輝く、その姿に微笑んで周太は花の名を呼んだ。

「梔子、いい香…夜露で香がまた濃くなるね?きれい…ありがとう英二、」
「くちなしって言うんだ、この花。喜んでくれる?」

やさしい微笑に笑いかけて、頬にキスをする。
ふれるだけの頬にキス、それでも気恥ずかしげに頬染めながら素直に頷いてくれた。

「ん、うれしい…思ったより一緒にいる時間、長くなったから…」

そこを喜んでくれるの、幸せです。

ほら、やっぱりここに幸せはある。
いつも光一と山に登り夢を見ながら現実と戦う、それは幸せな男の夢で生き方で誇らしい。
けれど周太の隣には単純な、ごく普通の温かい幸せがいつも待っている。
この温もりに癒される瞬間は、どこまでも甘く優しくて離れられない。
この幸せごと婚約者を抱き起こし隣に座ると、英二は綺麗に笑った。

「ありがとう、周太。俺も周太と一緒にいたくて、頑張って仕事終わらせてきたんだ、」
「吉村先生のお手伝いだよね?…先生、いま忙しいのでしょう?夏山のシーズンは応急処置の講習も多い、って、」
「そうだよ、明日と明後日は先生も講習会があるからね、その資料の最終チェックをお手伝いしてきた、俺たちも使わせて貰うんだ、」

仕事の話をしながらソファを立ち上がり、一緒に洗面室に向かう。
手洗いうがいをする傍らで周太は戸棚を開いて、花活けを選んでくれる。
こんな日常の風景がまぶしい、そして思ってしまう。

毎日が、こうなったら良いのに?

こんなふうに毎日を家に帰って、待ってくれている人にキスをして、労ってもらう。
こんな普通のありふれた幸せを自分は、いつか必ずこのひとの隣で叶えたい。
そんな想いと蛇口を閉じた英二に、タオルを渡してくれながら婚約者は微笑んだ。

「あのね、ごはんも支度出来ていて、お風呂も沸いてるんだけど…ごはんとお風呂、どっちからにする?」

なにこの質問、ほんと幸せなんですけど?

ごはんとお風呂どっちから?なんて聴いてもらえるのって、男の夢だって聴いていたけれど。
ほんとうに現実に聴かれると強烈に「幸せだ」って思ってしまった、こんなの嬉しくてどうしよう?
この質問って、定形美みたいな答え方があったよね?あれを自分も言ってみちゃっていいのかな?

―言ったら嬉しすぎて、鼻血ふくかな?

そんなどうでもいい心配をして、我ながら可笑しい。
可笑しくて幸せで笑顔になって、英二は婚約者にキスをした。

「周太から、って言ったらダメ?」

ほら、言った言葉にもう君は真赤になる。きれいな薄紅に首筋染めて、頬に桜色ほころびだす。
恥ずかしくて困ってしまう、けれど嬉しくて、でも困るのに?そんな貌が梔子の香と咲いていく。
そんな貌が嬉しくて見つめた向こう、周太の羞んだ唇が披いた。

「…おふろでせなかながしてほしい?」

風呂で背中、流してほしい?

「あ、」

かすかな感覚に掌で鼻から口許をおさえ、そっと見る。
そこに赤い鮮血が一滴だけ、洗面室のランプに輝いた。



光の気配が睫を披き、眠りを醒まされる。
ひどく幸福だった夜が明ける、その現実が光になってカーテンを透かす。
まだ眠っていたい、昨夜の普通の幸福感に微睡みたい、そんな想いに懐を抱きしめる。

「…周太、」

そっと名前を呼んで額にキスをする、その唇にやわらかな黒髪ふれる。
抱きしめる素肌はなめらかに温かい、ゆるやかに力入れる腕に眠れる体は撓んで寄り添う。
うすく透明な肌に暁の光こぼれて、洗練された筋肉の隠す華奢は晒されるまま可憐がまばゆい。
少年のままに華奢な肢体、眠る貌もあどけない無垢に優しくて、かすかに甘い香も子供のよう。
こんなとき自分と同じ23歳であることが嘘のようで、稚い少年を愛している錯覚にも墜ちていく。

―ロリコンじゃなくって、ショタコンって言うんだけ?

俗っぽい単語が浮んで、笑ってしまう。
いずれにしても「少年趣味」ならノーマルとは言えない、そして自分はすっかりアブノーマルだろう。
そんな今の現実を他人がどう言おうが別に構わない、だって今、こんなに自分は幸せだから。

「…おふろでせなかながしてほしい?」

この台詞のあとは一夜、幸せだけがそこにあった。
あのまま脱いだスーツを周太は部屋に運んで丁寧に吊るしてくれた、その間に自分は風呂で寛げた。
それから本当に周太は風呂場に来てくれて、英二の背中を流してくれた。

―でも周太、服は着たままだったけどね?

カットソーの袖を捲って腕をだし、カラーパンツの裾を折りあげ素足でタイルに立ってくれた。
膝まで折った裾から伸びる素足は可愛くて、けれど、どうせなら裸が良かったのに?
そんな本音に隙を見て抱きあげて、そのまま浴槽に入ったら酷く叱られた。

「ばかっ、えいじのばかばかなにしてるのっ、」

怒った顔も可愛くて幸せだった、本気で叱られても嬉しかった。
拗ねて怒ってそっぽ向いて、それでも支度してくれた夕飯は温かかった。
英二のために用意してくれたビールに周太も口付けて、ちょっと顔顰めながらも一緒に飲んで微笑んだ。

「やっぱりビール苦いね…もう少ししたら俺も、おいしいってなれるかな?」

そう言って笑った頬は薄赤く酔って、無邪気なままに可愛かった。
こんな稚いままの恋人が、あと2週間もすれば硝煙の蒼い空気へと立っている。
その現実が今は遠い非現実でいる、このまま今は昨夜の続きを見つめて普通の幸せに笑っていたい。
もうじき非現実と現実は入れ替わる、そう解っているから今は、せめて今朝は「普通」でいさせてほしい。

「周太、普通に幸せにするからね?」

綺麗に笑いかけ恋人の唇にキスをする、ふれる温もりが優しい。
いま夜明け辰、いま起きてくれたら3時間は一緒に朝を笑える、だから起きてくれないかな?
そんなワガママと願いに接吻けて、見つめた寝顔は睫の翳をふるわせた。

「…ん、」

かすかな吐息にオレンジ香って、ゆっくり睫が披く。
暁の光けぶらす睫が披いて、黒目がちの瞳が見つめてくれる。
その瞳が幸せに微笑んで、白いリネンに身じろぎ頬よせて、やさしく腕を回し抱きついてくれた。

「おはようございます、英二…はなむこさん?」

約束の名前で、呼んでくれるんだ?

いま普通の幸せを願った自分に、幸せな約束で呼んでくれる。
これは何でもないような当たり前な幸福かもしれない、けれど今の自分にとっては泣きたい。
本当はもう心は泣いている、幸せで嬉しくて、失う事が怖くて怯えて、相反する感情の狭間に狂いかける。
このまま狂って泣き叫びたい?それでも、今もう肚は決めている。ただ普通に幸せなまま、英二は綺麗に笑った。

「おはよう、周太。俺の花嫁さん、今朝もきれいだね、」
「…はずかしいよそういうの…えいじのほうがきれいだとおもう」
「周太は綺麗だよ、俺よりずっと、」

ほら、言葉に羞んで笑ってくれる、この笑顔が愛しい。
嬉しくて抱きしめて、キスを交わすと婚約者に朝の約束を交わした。

「風呂に連れて行ってあげる、温まって着替えたら庭に出よう?昨夜の梔子、朝もきれいだろうから。それで畑の野菜取って、飯作って?」
「ん、ありがとう…茄子の味噌炒めとかする?」
「いいね、周太の旨いよな、」

話しながら起きあがって、床にひろがる夜衣を肩に羽織る。
ざっくりまとい帯を簡単に締めて、ベッドに起きた恋人も白い衣に包んだ。
白い衿元のびやかな首筋は薄紅ほころび、黒髪やわらかに寝乱れて頬かからせる。
まだ眠りの潤んだ黒目がちの瞳は優しい、いま朝のしどけない美に佇んでいる恋人に心が引っ叩かれた、

「ほんとうに綺麗だ、」

笑いかけて唇を重ねて、やわらかな唇に扇情されかかる。
すこし厚めで受けぎみの唇は、表情次第で色っぽくて艶めく夜を想わす。
今日の予定があるから存分には出来なかった、それでも昨夜の甘く融け合えた記憶に英二は微笑んだ。

「昨夜も周太、色っぽかったね?俺のこと抱くのも抱かれるのも、そんなに好き?」
「…っ、」

ほら、真赤になって、なんにも言えない。
夜はあんなに艶やかで、少年のまま艶麗に応えてくれるのに?
こんな恥ずかしがり屋の婚約者が可愛くて、貞淑な初心が愛しくて大切に抱きあげた。

「真赤だよ、周太?恥ずかしがってくれるんだね、可愛い、」
「……はずかしいよほんとに…でも…、…」

廊下を歩き階段を降りる、その腕のなかで羞んだ声がとけてしまう。
何て言ってくれたのだろう?洗面室の扉を開いて床に立たせると、黒目がちの瞳に笑いかけた。

「周太、いま何て言ってくれたの?」
「ん…」

恥ずかしそうに睫伏せ、俯き加減にくるり背中向けてしまう。
そんなに恥ずかしいことを言ってくれたのかな?何を言ったのだろう?
思いながら帯を解きかけたとき、肩越し赤い貌は振向いた。

「心も体も、英二のことぜんぶ好きだから…」

そんなこと言われたら幸せすぎますけど?

これだと朝から変になる、今日は本庁で仕事があるのに?
これでもなんとか冷静にならないと、それには冷たい水を何分間かぶったら良いだろう?
先に周太に風呂から上がってもらって、そのあと自分は納得できるまでシャワーの世話になろう。
そんな予定を素早く取り決めて、いまの幸せに英二は綺麗に笑った。

「俺も周太のこと、全部大好きだよ?たぶん俺のほうが、ずっと好きだよ、」




(to be continued)

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