流れる時に駈けて、
第56話 潮流act.7―side story「陽はまた昇る」
開け放たれた窓、夏の庭から風が髪をゆらす。
ゆるやかに波うたす黒髪、光おどる。
窓ふる木洩陽のなか黒目がちの瞳は見つめあい、母子は真直ぐ向合わす。
風ゆれる黒髪から白い顔は息子を見つめて、そっと薄紅の唇がつぶやいた。
「異動…」
かすかな呟きに、ゆっくり彼女の瞳が瞬く。
すこし淡い瞳に映る彼女の息子は、明るく静かに微笑んでいる。
穏やかな勇気ひとつ抱いている、その笑顔のまま純粋な瞳は見つめて言葉を続けた。
「ん、異動だよ?…俺、新宿から調布に移るの。家からすこし遠くなるけど、休みは日帰りでも帰ってくるね?…夏の草取りとかあるし、」
「…うん、そうね、」
そっと彼女の言葉が微笑んで、白い手はティーカップを抱えた。
テラスの光と風のなか、青柄の白磁にそっと唇をつけ、ゆっくり啜りこむ。
温かい花の香を廻らせ微かな吐息こぼれる、そして美幸は明るく微笑んだ。
「調布だと奥多摩に近くなるね?周、英二くんの近くになって嬉しいでしょ?」
「ん…それは嬉しい、よ?」
気恥ずかしげに笑って、ペールブルーのシャツ姿が首傾げる。
やわらかな黒髪に窓の陽光ふり艶めく、和やかな光冠が描き出されて陽に透ける。
そんな息子に見惚れるよう綺麗に笑って、白い指は輝く髪をそっと撫でた。
「周、ちゃんと帰ってくるのよ?お母さん、待ってるから。どこにいても元気で笑うのよ?お父さん、周と一緒にいるんだから、」
優しい真摯が、言葉に微笑む。
穏やかなトーンの声が告げる「ちゃんと帰ってくる」その約束に14年前の春が玉響す。
母も子も今、14年前のことは言わない。それでも良く似た瞳をほころばせて、彼女の息子は頷いた。
「はい、必ず帰ってきます。だってこの家、俺が主夫なんだから…ちゃんと帰ってきて、掃除もご飯もするからね、心配しないで、」
なにげない「日常」に約束を結ぶ。
その言葉の想いが温かで、ゆるやかな愛惜に浸され想いが熱い。
この想いにまた、ゆっくり覚悟と怒りと哀しみが英二の肚へと座りこむ。
そんな想いの向こう側、愛しい息子の髪からそっと手を離すと、朗らかな黒目がちの瞳は微笑んだ。
「そうよ、ちゃんと帰ってきて主夫してね?お母さん、管理職になっちゃったから忙しくて、家事も手抜きだからね、周が家事してね?」
「ん、するよ?少なくっても月に一回は帰ってこられると思うから、仕事をとっておいてね、」
ふる木洩陽のなか向き合う母子を、光の梯子が照らしだす。
その光のなか黒目がちの瞳の奥に、密やかな愛惜の涙を英二は見つめた。
―どうして、
心つぶやく想いに、静かな怒りが滲みだす。
こんなに美しい母子、それなのに何故、こんな哀しい約束をしないといけない?
あのとき、あの50年前の日に事件が起きなかったら、この約束はただ幸福だけに微笑めた。
あんな事件さえ起きなければ、あの男さえいなければ、こんなことにはならなかったのに?
―赦せない、あの男だけは
赦せない、追詰めてやりたい、跪かせ壊してやればいい。
この母子の所縁を悲哀に堕とし、死すら利用して、今また母子に手を伸ばそうとする。
そんな手の男は多分、自分とよく似ている。それを祖母の聴取から自分は見つめていた。
もう九十を超えているはず、けれどおそらく生きている、その永い執着ごと壊してやればいい。
法律を学び、けれど敢えて法曹家ではなく警察官を選んだ男。
キャリアとノンキャリアの違いはある、けれど周囲を惹きこみ伸上る手練は同じ。
それでも大きく違うのは「大義名分」という公的正義の盾持つ是と非だろう。
国家、社会、組織。
どれもが男にとって重要な要素だろう、集団における役割は男の誇りだろう。
そのために全てを懸ける男も沢山いる、そうしたストイックさは気高く美しいと賛美もされる。
その意味で「あの男」は美しい正義だ、けれど自分のストイックさは求める方向性が全く違う。
この落差に自分は「悪」だと言われ得る、それすら嬉しい自覚が可笑しくて英二は穏やかに微笑んだ。
―あんたは正義の味方だろうな、でも俺は、悪役な自分で幸せだよ、
そっと心に哂って英二は窓の向こうを見た。
開かれた大きな窓、透かす木洩陽、その先に古びても美しい東屋が見える。
あの場所に遺された50年前の血痕に由来する鍵は、おそらく家の「奈落」に隠されて今もある。
それを自分が掴んでおきたい、その計画に微笑んでティーカップを置くと美幸が笑いかけた。
「英二くんの車、素敵ね。似合うわ、」
楽しげに黒目がちの瞳は笑ってくれる。
けれどきっと今、この瞳には愛惜が深く泣いて、それでも運命に微笑む闘いが温かい。
ほら、こんなふうに彼女は温かく勁い、その高潔に心軋ませながら英二は綺麗に微笑んだ。
「昨日の朝、実家に帰って持って来たんです。それで両親と姉と、すこし話してきました、」
「皆さんお元気?お姉さんはこの間、メールをいただいたけど、」
穏やかな笑顔の声に、隣で婚約者も微笑んでいる。
優しい手はティーポットを持つとカップを香で充たす、その手に見惚れながら英二は口を開いた。
「昨日の朝、母にありがとうって言われました。お母さんに母の日の花を贈ったでしょう?あのとき母にも宅配で贈ったんです。
その花を母は自分で手入れしていたと姉に聴かされました。いつも家政婦さんに任せている、そういう母なんです。だから驚きました、」
昨日の朝、実家で見てきた母の変化。
それへの自分の想いを大切なふたりに聴いてほしい、この想い素直に英二は微笑んだ。
「子供の時、俺は崖から落ちたことがあります。避暑に行った時で、怪我は擦り傷と打ち身だけで大したことはありませんでした。
俺は泥と血にまみれて泣きながら帰りました、でも母は何もしませんでした。手当ても洗濯も全部、姉が俺の面倒を見てくれました。
そしていつもどおりに俺が綺麗になってから、母は笑いかけて抱いて、おやつをくれました。でも、愛情はくれないのだと気付きました」
遠い幼い日の記憶、けれど痛みは今も鮮やかに疼く。
心に裂傷を見つめながら英二は、愛する二人を前に寛いで話した。
「俺は一度も母から叱られたことはありません。可愛がるか無視するか、そのどちらかで本気で向き合ってもらった事が無かったんです。
母が自分の手を動かすのは趣味のため、自分のためだけです。俺の身の回りを色々やってくれてたのも、人形を可愛がるのと同じ愛玩です。
母が家事をするのも良い妻で母である体裁のためです、それを完璧にしたくて家政婦まで雇っています。全て母の為で家族の為ではありません」
いつも美しく整えられた実家の空間。
一見は居心地良くて、けれど冷たいと自分は感じてしまう。
あの上辺の美しさが嫌いで帰りたくなかった、その想いを素直に英二は言葉に変えた。
「冷たい母と家です、俺にとっては。そういう母に姉は向き合って支えてくれます、でも俺は逃げて夜遊びするようになりました。
だけどそれすら、本当は母にとって都合が良かったんです。俺が何人もの相手と遊んで本気で恋愛しなければ、誰かに奪われることもないから。
俺を私立の学校に行かせたのも、気に入りの人形を手離さないためです。だから、俺が父や祖父と同じ大学に行こうとした時も潰されました。
俺が何をしたいのかは関係ない、ただ理想の息子として傍にいればいい。そういう母から逃げたくて俺は、全寮制の警視庁に入ったんです、」
これが自分の、志望動機の1つ。
母親から逃げる目的で男が進路を決める、こんなことは屈辱だろう。
こんな告白は恥ずかしい、それでも大切な「家族」には知ってほしい、そんな我儘に英二は微笑んだ。
「美しい母親、いつもそう言われます。けれどあれは仮面だと俺は知っています、俺も同じように要領のいい仮面で生きていたから。
そんな自分を変えたくて、ありのまま正直に生きたくて、俺は警察官になりました。それでも母は何も気付かず俺を人形扱いしていました。
でも、卒業式の翌朝、俺が周太のことを話した時に母はショックで泣きました。あれが俺にとって、初めて母の素顔を見たときだったんです、」
語る言葉に、隣の瞳が潤みだす。
いま語っている自分と母の歪な関係を、心から哀しんでくれる。それが嬉しいまま英二は微笑んだ。
「泣いて罵る母の貌は哀しかったです、見たくなかったと思いました、でも、初めて素顔を見られて嬉しいと思ったのも俺の本音です。
ずっと、美しい笑顔か冷たい無視か、どちらかの貌しか見たことが無かったんです。だから感情を出して向き合ってくれたのが嬉しくて。
これで良いって思っていました、そして二度と母には会えない、家には帰らないと決めました。それなのに母は3月、奥多摩まで来ました、」
いま隣から見つめてくれる、婚約者の純粋で温かい、凛と真直ぐな瞳。
どこまでも優しい黒目がちの瞳、この眼差しに母も変わり始めている。
その感謝を見つめて英二は言葉を続けた。
「奥多摩で母は周太の頬を叩きました、そして周太と、止めに入った光一に母は怒りました。そのことに俺は本当は驚いたんです。
あの母が感情を顕わした、それが不思議で驚きました。そして、面会に来たとき母は周太に『ありがとう』と言われたと教えてくれました。
僕の幸せを生んでくれて、ありがとう。そう周太に言われたことが母は嬉しかったんです、それから母は変わり始めたと姉に言われました。
そして母は俺のことも認め始めました、今の俺は母の理想とは正反対です、それでも母は俺を見て、良い顔になったと昨日も言ってくれました、」
春の雪の3月、遭難事故の翌日に見た母の変化、そして昨日に見た母の貌。
すこしずつ変化していく母、それへの率直な想いを英二は告げた。
「だから俺、母から『ありがとう』って言われたの、昨日が初めてだったんです。不思議で変な感じで、そして嬉しかったです。
いま母が変れるのは、周太が母を受けとめてくれたお蔭です。そして俺が母へ花を贈ろうと気付けたのは、お母さんがいるお蔭です。
だから俺は今日、お母さんに感謝の花を贈りたかったんです。お母さんが周太を生んでくれたから、今の俺があります。そして母もです、」
周太の母、美幸。彼女に生命を与えられ、守られ育まれて、今の周太がいる。
そんな彼女の存在が「母に花を贈る」喜びを自分にも気付かせてくれた、その感謝を英二は言葉に変えた。
「俺が周太と一緒にいることを、お母さんは許してくれました。そして俺のことも受け留めて、いつも話を聴いて励ましてくれます。
そうやって俺はお母さんから教わったんです、母親と息子はどうやって向き合うのか、お互いの幸せを大切に出来るのか気付けました。
だから俺は、母に花を贈ることも出来たんです。きっと俺は、お母さんに逢えなかったら一生、ずっと母を憎んだまま終っていました、」
きっと美幸に逢えなかったら、自分は「母」という存在を歪な怪物だと想い続けた。
その哀しい曲解を穏やかに解いてくれた女性、この掛替えのない愛する人へと英二は綺麗に笑いかけた。
「3月に父がこの家に来た時、お母さんは俺のこと『息子』って呼んでくれたでしょう?あのとき本当に嬉しかったんです。
あの時から俺には、母の事も受けとめる余裕が生まれ始めました。それで昨日も母と少し向合えたんです。だから感謝の花束なんです、」
この想いを美幸に今日、伝えたかった。
そして周太にも聴いてほしかった、周太に母親の事を安心してほしかった。
もうじき周太は「異動」する、そして実家に帰ることすら難しくなっていく。
そのことは母子にとって、互いに唯一の寄る辺から離される不安と哀しみが大きい。
だから周太が異動を告げるなら、それと同時に自分も母子へと「傍にいる」と伝えたかった。
まだ入籍はしていない、血縁の事実を告げることも今は出来ず、この家に絡まる真実を語ることすら出来ない。
それでも自分は家族として周太と美幸を護る、この想いを今日ここで伝えたかった。
―どうか俺を頼って甘えて下さい、それが俺の幸せだから
この想いを受けとってほしい、どうか自分に頼って甘えて「家族」になってほしい。
そんな願いに見つめる黒目がちの瞳は、幸せそうに笑ってくれた。
「うれしいわ、そう言ってくれるの。ありがとう、私こそ英二くんに感謝してるわ。こんなイケメンに息子になってもらえて幸せよ、」
快活な黒目がちの瞳は笑いかけ、青磁の花瓶に咲くブーケに微笑んだ。
テラスに続く仏間の座卓、そこに置かれた瑞々しい花々から英二に視線を戻し、明るい穏やかな声は言ってくれた。
「でもね?こういう周なのは、きっと主人のお蔭よ。だから主人に感謝するべきね、花束をこの部屋に活けたの正解だわ、」
ほら、彼女はいつもこう。
こんなふうに息子と夫への愛を惜しみなく示して見せる。
こんな彼女だから眩しくて、だから父の想いが自分にも解ってしまう気がして、今日は傷む。
―父さん、でも解ってほしいよ、母さんのこと
心つぶやく想いに微笑んで、英二は木洩陽に目を細めた。
その隣には穏やかな静謐が今も微笑んでくれる、この温もりが安らいでいく。
何を言うわけでもなく、ただ隣に座って今は紅茶をカップに注いでいる。そんな何でもない仕草すら優しい。
「はい、英二…熱いから気を付けてね?」
花香る湯気のティーカップを渡してくれる笑顔が優しい。
その黒目がちの瞳には、あわい涙の光が温かく煌めいていた。
早めの夕食を温かな手料理で楽しんだ後、英二は車に鞄を積んだ。
運転席に乗り込み、エンジンキーを回す。けれどブレーキは掛けたままに窓を開けた。
その向こう、よく似た黒目がちの瞳は見つめ合い、穏やかなトーンで話している。
「冷凍庫いつもみたいに、おかずは2段目と3段目だからね?…ごはんも7膳分、1段目に入れてあるから、」
「ありがとう、周。アイスクリームも入ってたの見たわ、」
「ん、バニラとチョコとあるから…あと冷蔵庫に夏蜜柑のまだあるから、アイスに添えてね?あと、お布団も夏用の干したから」
なにげない母子の会話は、息子が主夫をしてきたと解る。
初任科教養の時から周太はずっと、休暇は実家に帰るようにしていた。それは家事をする為だと今は知っている。
もちろん母親の美幸も家事は巧い、いつも掃除の行き届いた家は清々しい空気に充ちて、庭も花々が美しい。
けれど庭なら剪定や土づくり、家なら窓ふきなど手が懸ることは周太が全部している。
食事の支度も何日分か周太はまとめて置いていく、それは母が残業などで疲れたときに困らない為だと解る。
こんなふうに周太は濃やかに家事を行って、母と家を心から大切にしてきた。それは子供のころから変わっていない。
―こういうとこ大好きだな、愛してるよ、周太?
こういう優しさは周太の純粋に深い懐の愛情。
それを育んだ馨と美幸の愛情は、どんなに温かく優しく美しいだろう?
そう想う心へとまた、哀しみと怒りが深い瞳を披いて英二を見つめてくる。
―どうして、
どうして、なぜ、あの男が生きている?
この美しい母子を愛した馨は死んだ、それなのに何故、あの男は生きている?
あの男が「法治国家」の正義を掲げて微笑む、それが傲慢だと思う自分が間違いなのか?
―間違っていても構わない、俺は護りたいものを護る
そんな想い微笑んで黒いカットソーの胸元にふれる、その指先に鍵の輪郭が温かい。
この合鍵の持主が抱いた祈りを叶える為に自分はいる、これが自分の遵守すべきこと。
それが「正義」と反するものだとしても、知ったことではない。
「お待たせ、英二…ありがとう、」
穏やかな声がふりむいて、微笑んで助手席にと回りこんでくれる。
声に目だけで答えた英二へと、快活な黒目がちの瞳は綺麗に笑いかけてくれた。
「英二くん、来週末は留守番お願いね?光一くんにもよろしく伝えて、」
来週末2日間、本庁での山岳講習会で光一は講師を務める。
その宿泊に家を遣わせてもらう名目で光一は泊まる、その本当の目的は母子には言えない。
これは自分とパートナーだけが知っていれば良い、この生涯抱える「秘密」へと英二は綺麗に微笑んだ。
「はい、国村まで泊めて済みません、ホテル代浮くんで助かります、」
「ここは英二くんの家だもの、遠慮はいらないわ。好きに使ってね、ただし後片付けもよろしくね、」
明るく笑ってくれる何げない言葉、けれど少しの驚きに鼓動ひとつ叩く。
たしかに「後片付け」は重要だ?笑って英二はサイドブレーキを外した。
「あいつ、家事が得意なんで大丈夫だと思います。お母さんも社員旅行、楽しんできてくださいね、」
「ええ、楽しませてもらうわ。社員旅行なんて二十年以上ぶりだもの、」
黒目がちの瞳は楽しげに微笑んで、そっと運転席の窓から離れた。
その視線が助手席へと向けられて、周太の掌は窓を開くと少しだけ顔を出した。
「お母さん、戸締りとか気を付けて。なんかあったらすぐ、連絡してね」
「ありがとう、周もね、」
窓からの会話に母子は笑って、掌を振りあう。
濃藍のジーンズくるんだ脚を動かし、ゆっくりアクセルを踏みこみ動き出す。
ゆるやかに車は緑豊かな駐車場を出る、その通りにまで美幸は見送ってくれた。
「おかあさん、」
ひと声、助手席から呼びかけて笑って、角を曲がる。
見えなくなって、静かに窓が閉じられていく。その横貌は静かに微笑んでいた。
もう心を定めている凪がまばゆい、凛と美しい端正が助手席に座っている。
純粋なまま少年のような周太、けれど強靭な誇りが静かに佇んでいる。
―まぶしいよ、君は
そっと心に恋慕が微笑んで、想いが募る。
この気持ちのままに今からの時間を幸せにしたい、ハンドルを捌きながら英二は綺麗に笑いかけた。
「周太、夜のドライブデートだね?行きたい所とかある?」
22時、新宿署寮の入口に車が止まる。
摩天楼の光の谷間、助手席から綺麗な笑顔が見つめてくれた。
「英二、またね?…金曜日、夕飯なにが食べたいか決ったら教えてね?」
「ありがとう、周太、」
暗い車内、そっと唇よせてキスをする。
直ぐに離れて見つめた貌は、薄闇にも薄紅かがやいた。
「こんなとこできすしたらまっかになっちゃうでしょ?さ、さっきもしたのに」
「いつでもどこでも、周太にキスしていたいよ。それに、さっきって横浜の話だろ?」
恥ずかしがる貌に怒られても、嬉しくて混ぜっ返したくなる。
そんな英二に困ったよう黒目がちの瞳は見つめ、それでも微笑んで周太はシートベルトを外した。
「もうえいじのばか…場所とかわきまえないとだめです、」
たしなめながら鞄を抱えて、助手席の扉が開く。
そのまま降りて扉は閉じられる、そして笑顔を見せてくれると婚約者は階段を昇りだした。
ペールブルーのシャツの背中を見つめて少し窓を開く、そこから音が響きだす。
かん、かん、かん、か…
階段を上がる革靴のソール、あの靴も自分が贈ったもの。
その靴音が消えていくのを聴いて、扉が開いて閉じる音が鳴る。
そうして訪れた静寂に、ブレーキを外すと英二は車を走らせた。
―周太、周太…どうして周太がこんなことになる?…周太…嫌だ
リフレインする名前と想いに、まばゆい街が視界に流れる。
この流れに逆らってしまいたい、そんな想いに英二はコインパーキングに停まった。
―ゆるせない、
想い、また目を覚ます。
そのまま運転席の扉を開いて施錠する、踵を返す。
ゆっくり歩いて横断歩道を渡り、光の街を歩きだす。
―ゆるせない、絶対に嫌だ…赦さない
静かに繰り返す想いが脚を動かし、摩天楼の狭間を歩いていく。
ビル風がブラックジャケット翻しはためく、黒い風が体を吹きぬける。
歩きながらジャケットのポケットに左手を入れ、摩天楼の谷間の翳、左手だけ感染防止グローブを嵌める。
止まらず歩く暗がり、風に髪が乱され顔にかかる、表情が沈鬱にそまると自分で解かる。
―赦さない、あの男に関わる者は
踏みこんだ足元、扉が開かれる。
この扉を潜るのは3度目、けれど夜は初めて訪れる。
そんな初めてに哂ってロビーを横切る、その視界の端映るものに嘲笑がこみあげる。
やっぱりそうしているんだ?そんな予想通りが可笑しくて哂わされる、あんまりにも安易すぎる。
そんな感想と一緒に目当ての自販機の前に立ち、左手で硬貨を入れ指を伸ばし、ダークブラウンの缶が墜ちる。
がたん、
静かなホールが共鳴して、いつもの席に腰おろす。
ベンチに缶を置き、見つめながら左手をポケットに入れ、グローブを外す。
すぐに終えて、缶を取り上げるとプルリングを引いて、温かい香へと唇つける。
ほろ苦い甘い香が口づけて、午後の幸せで切ない時間の愛しさが喉を降りて行く。
―周太、今、同じ場所に俺はいるんだよ
心に呼びかけて、そっと微笑が口許を温める。
けれど微かな足音に、微笑は嘲笑へと氷変した。
ほら、思った通りにやってきた。
だって監視カメラの位置がすこし変わっている。
あのカメラは多分、誰かさんのパソコンに連動しているのだろうな?
そんな予想に缶の唇あとを指で拭い、右掌に缶を提げ立ち上がると踵返して歩き出した。
かつん、かつん、かつん
いつもの自分よりゆっくりな、跫が響きだす。その向こうで足音は止まる。
風に乱れたままの前髪透かす、その向こうに仕立ての良いスーツが映る。
その貌は今、どんな色に染まって自分を見ているのだろう?
「こんな時間に、どうされました?」
仕立ての良いスーツから、声が掛けられる。
そんな呼びかけ、まるで路上の尋問か事情聴取の始めみたいだ?
そんな感想と笑って俯き加減のまま、間合いを保って男の前を通り過ぎていく。
かつん、かつん…
「待ちなさい、」
通り過ぎかけた肩へと手が伸ばされる、瞬間、気配に体が反応する。
伸ばされた手を躱した間合い、振り向きざま右掌を翻した。
「うわっ、」
声と、ココアの香が新宿署ロビーに響く。
ほろ苦く甘い香から呆然とした顔が竦む、予想外だと顔に見える。
立ち竦んだスーツを染めていく暗色は古い血痕と似て、銃痕の手帳を染めていた色彩に重なっていく。
おまえたちに相応しい色だ?そんな感想と缶を右手に提げたまま、英二は低く哂った。
「…古い血液みたいですね、その染み…すぐ洗えば間に合いますよ?」
低い声で告げ、踵返すと外に出た。
ビルの影へと歩を進め入りこみ、闇にブラックジャケットは融けこんでいく。
濃藍の脚、黒い革靴、黒いカットソー、暗色の服は摩天楼の陰翳へ沈んで跫も消える。
影澱む静謐を歩いていく背後、遠く、乱れた足音を聞きながら音もなく路地を抜けていく。
この街は昔から夜に遊んだ場所。
しつこい男や女を振りほどくには、細い路地の道は便利で楽だった。
この街はどこにもコンクリートの巨樹が並び迷路が作られている、それは山の道とも似ている。
―ほら、おまえたちに俺は捕まえられない
心哂って路地を抜け、光の街へとまた戻る。
横断歩道を渡ってコインパーキングに入り、機械に硬貨を払って出庫した。
片手運転しながら携帯電話にイヤホンを繋ぐ、視線は前方のまま片手で操作してコールが鳴る。
「おつかれさん、周太、送ったとこ?」
コール3で透明な声が笑ってくれる。
明るい声に心も明るまされて、英二は微笑んだ。
「そんなとこ、」
「ふうん?ソンナ答え方ってことは、帰ったら事情聴取だね、」
お見通しなんだな?そんな呼吸がこのパートナーは楽しくなる。
その明るさに感謝しながら英二は、明日の予定を告げた。
「光一、明日の自主トレは俺、どうしても行きたい所があるんだ、」
「奥多摩交番だね、アポ取っておくよ、」
さらっと答えて笑ってくれる、そのトーンに心ほどかれた。
言わないでも解ってくれた、そんなアンザイレンパートナーが嬉しくて英二は綺麗に笑った。
「ありがとう、光一も一緒に行くつもりなんだ?」
この「一緒に行く」は奥多摩交番だけじゃない。
その意味へとアンザイレンパートナーは、からり笑ってくれた。
「当然だね、でなきゃお互いブレーキ無しで困るだろ?」
「うん、困るな。一緒に行こう、光一。ちょっと不自由な思いさせるけど、ごめんな」
きっと今まで通りの自由は難しくなるな?
そう思って謝ったけれど、不屈の山っ子は底抜けに明るい声で笑った。
「俺に不自由なんて言葉は無いね、どこでも一緒だよ?」
やっぱりそうなんだ?
こんな自由なところが憧れる、そして惹かれる。
この想いに連携して共に駈けていくならば、きっと不可能も可能になる。
そんな信頼と自信に英二は綺麗に笑いかけた。
「そうだな、俺も不自由なんて言葉、どっかに忘れることにするよ、」
不自由、自由ではないということ。
この言葉から遠くに自分たちは生きられる、この体と能力を生かすなら。
そして大切な全てを守ることも出来る、信じるままに努力を怠らなけらば。
この自信に自分は春、槍ヶ岳の北鎌尾根も挑んで山っ子の誇りを護らせた。
あの蒼穹の点を光一が超える、それは15年間ずっと「不自由」だった光一の恐怖。
それも自分は何とか超えさえて、今、光一は山ヤと男の誇りに自由を笑ってくれている。
あの瞬間に光一が掴んだ自由の下に今、光一は自分と危険に駈けることも選んでアンザイレンを繋いだ。
槍ヶ岳、北鎌尾根の積雪期。
あの危険な場所で自分は不可能が可能に変る、自由への瞬間を見た。
だから自分は信じている、必ず「50年の連鎖」すらも自分は壊せる、そして願いは叶えられる。
―周太、君に必ず自由を贈るよ?
どうかこの願い、叶え。
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第56話 潮流act.7―side story「陽はまた昇る」
開け放たれた窓、夏の庭から風が髪をゆらす。
ゆるやかに波うたす黒髪、光おどる。
窓ふる木洩陽のなか黒目がちの瞳は見つめあい、母子は真直ぐ向合わす。
風ゆれる黒髪から白い顔は息子を見つめて、そっと薄紅の唇がつぶやいた。
「異動…」
かすかな呟きに、ゆっくり彼女の瞳が瞬く。
すこし淡い瞳に映る彼女の息子は、明るく静かに微笑んでいる。
穏やかな勇気ひとつ抱いている、その笑顔のまま純粋な瞳は見つめて言葉を続けた。
「ん、異動だよ?…俺、新宿から調布に移るの。家からすこし遠くなるけど、休みは日帰りでも帰ってくるね?…夏の草取りとかあるし、」
「…うん、そうね、」
そっと彼女の言葉が微笑んで、白い手はティーカップを抱えた。
テラスの光と風のなか、青柄の白磁にそっと唇をつけ、ゆっくり啜りこむ。
温かい花の香を廻らせ微かな吐息こぼれる、そして美幸は明るく微笑んだ。
「調布だと奥多摩に近くなるね?周、英二くんの近くになって嬉しいでしょ?」
「ん…それは嬉しい、よ?」
気恥ずかしげに笑って、ペールブルーのシャツ姿が首傾げる。
やわらかな黒髪に窓の陽光ふり艶めく、和やかな光冠が描き出されて陽に透ける。
そんな息子に見惚れるよう綺麗に笑って、白い指は輝く髪をそっと撫でた。
「周、ちゃんと帰ってくるのよ?お母さん、待ってるから。どこにいても元気で笑うのよ?お父さん、周と一緒にいるんだから、」
優しい真摯が、言葉に微笑む。
穏やかなトーンの声が告げる「ちゃんと帰ってくる」その約束に14年前の春が玉響す。
母も子も今、14年前のことは言わない。それでも良く似た瞳をほころばせて、彼女の息子は頷いた。
「はい、必ず帰ってきます。だってこの家、俺が主夫なんだから…ちゃんと帰ってきて、掃除もご飯もするからね、心配しないで、」
なにげない「日常」に約束を結ぶ。
その言葉の想いが温かで、ゆるやかな愛惜に浸され想いが熱い。
この想いにまた、ゆっくり覚悟と怒りと哀しみが英二の肚へと座りこむ。
そんな想いの向こう側、愛しい息子の髪からそっと手を離すと、朗らかな黒目がちの瞳は微笑んだ。
「そうよ、ちゃんと帰ってきて主夫してね?お母さん、管理職になっちゃったから忙しくて、家事も手抜きだからね、周が家事してね?」
「ん、するよ?少なくっても月に一回は帰ってこられると思うから、仕事をとっておいてね、」
ふる木洩陽のなか向き合う母子を、光の梯子が照らしだす。
その光のなか黒目がちの瞳の奥に、密やかな愛惜の涙を英二は見つめた。
―どうして、
心つぶやく想いに、静かな怒りが滲みだす。
こんなに美しい母子、それなのに何故、こんな哀しい約束をしないといけない?
あのとき、あの50年前の日に事件が起きなかったら、この約束はただ幸福だけに微笑めた。
あんな事件さえ起きなければ、あの男さえいなければ、こんなことにはならなかったのに?
―赦せない、あの男だけは
赦せない、追詰めてやりたい、跪かせ壊してやればいい。
この母子の所縁を悲哀に堕とし、死すら利用して、今また母子に手を伸ばそうとする。
そんな手の男は多分、自分とよく似ている。それを祖母の聴取から自分は見つめていた。
もう九十を超えているはず、けれどおそらく生きている、その永い執着ごと壊してやればいい。
法律を学び、けれど敢えて法曹家ではなく警察官を選んだ男。
キャリアとノンキャリアの違いはある、けれど周囲を惹きこみ伸上る手練は同じ。
それでも大きく違うのは「大義名分」という公的正義の盾持つ是と非だろう。
国家、社会、組織。
どれもが男にとって重要な要素だろう、集団における役割は男の誇りだろう。
そのために全てを懸ける男も沢山いる、そうしたストイックさは気高く美しいと賛美もされる。
その意味で「あの男」は美しい正義だ、けれど自分のストイックさは求める方向性が全く違う。
この落差に自分は「悪」だと言われ得る、それすら嬉しい自覚が可笑しくて英二は穏やかに微笑んだ。
―あんたは正義の味方だろうな、でも俺は、悪役な自分で幸せだよ、
そっと心に哂って英二は窓の向こうを見た。
開かれた大きな窓、透かす木洩陽、その先に古びても美しい東屋が見える。
あの場所に遺された50年前の血痕に由来する鍵は、おそらく家の「奈落」に隠されて今もある。
それを自分が掴んでおきたい、その計画に微笑んでティーカップを置くと美幸が笑いかけた。
「英二くんの車、素敵ね。似合うわ、」
楽しげに黒目がちの瞳は笑ってくれる。
けれどきっと今、この瞳には愛惜が深く泣いて、それでも運命に微笑む闘いが温かい。
ほら、こんなふうに彼女は温かく勁い、その高潔に心軋ませながら英二は綺麗に微笑んだ。
「昨日の朝、実家に帰って持って来たんです。それで両親と姉と、すこし話してきました、」
「皆さんお元気?お姉さんはこの間、メールをいただいたけど、」
穏やかな笑顔の声に、隣で婚約者も微笑んでいる。
優しい手はティーポットを持つとカップを香で充たす、その手に見惚れながら英二は口を開いた。
「昨日の朝、母にありがとうって言われました。お母さんに母の日の花を贈ったでしょう?あのとき母にも宅配で贈ったんです。
その花を母は自分で手入れしていたと姉に聴かされました。いつも家政婦さんに任せている、そういう母なんです。だから驚きました、」
昨日の朝、実家で見てきた母の変化。
それへの自分の想いを大切なふたりに聴いてほしい、この想い素直に英二は微笑んだ。
「子供の時、俺は崖から落ちたことがあります。避暑に行った時で、怪我は擦り傷と打ち身だけで大したことはありませんでした。
俺は泥と血にまみれて泣きながら帰りました、でも母は何もしませんでした。手当ても洗濯も全部、姉が俺の面倒を見てくれました。
そしていつもどおりに俺が綺麗になってから、母は笑いかけて抱いて、おやつをくれました。でも、愛情はくれないのだと気付きました」
遠い幼い日の記憶、けれど痛みは今も鮮やかに疼く。
心に裂傷を見つめながら英二は、愛する二人を前に寛いで話した。
「俺は一度も母から叱られたことはありません。可愛がるか無視するか、そのどちらかで本気で向き合ってもらった事が無かったんです。
母が自分の手を動かすのは趣味のため、自分のためだけです。俺の身の回りを色々やってくれてたのも、人形を可愛がるのと同じ愛玩です。
母が家事をするのも良い妻で母である体裁のためです、それを完璧にしたくて家政婦まで雇っています。全て母の為で家族の為ではありません」
いつも美しく整えられた実家の空間。
一見は居心地良くて、けれど冷たいと自分は感じてしまう。
あの上辺の美しさが嫌いで帰りたくなかった、その想いを素直に英二は言葉に変えた。
「冷たい母と家です、俺にとっては。そういう母に姉は向き合って支えてくれます、でも俺は逃げて夜遊びするようになりました。
だけどそれすら、本当は母にとって都合が良かったんです。俺が何人もの相手と遊んで本気で恋愛しなければ、誰かに奪われることもないから。
俺を私立の学校に行かせたのも、気に入りの人形を手離さないためです。だから、俺が父や祖父と同じ大学に行こうとした時も潰されました。
俺が何をしたいのかは関係ない、ただ理想の息子として傍にいればいい。そういう母から逃げたくて俺は、全寮制の警視庁に入ったんです、」
これが自分の、志望動機の1つ。
母親から逃げる目的で男が進路を決める、こんなことは屈辱だろう。
こんな告白は恥ずかしい、それでも大切な「家族」には知ってほしい、そんな我儘に英二は微笑んだ。
「美しい母親、いつもそう言われます。けれどあれは仮面だと俺は知っています、俺も同じように要領のいい仮面で生きていたから。
そんな自分を変えたくて、ありのまま正直に生きたくて、俺は警察官になりました。それでも母は何も気付かず俺を人形扱いしていました。
でも、卒業式の翌朝、俺が周太のことを話した時に母はショックで泣きました。あれが俺にとって、初めて母の素顔を見たときだったんです、」
語る言葉に、隣の瞳が潤みだす。
いま語っている自分と母の歪な関係を、心から哀しんでくれる。それが嬉しいまま英二は微笑んだ。
「泣いて罵る母の貌は哀しかったです、見たくなかったと思いました、でも、初めて素顔を見られて嬉しいと思ったのも俺の本音です。
ずっと、美しい笑顔か冷たい無視か、どちらかの貌しか見たことが無かったんです。だから感情を出して向き合ってくれたのが嬉しくて。
これで良いって思っていました、そして二度と母には会えない、家には帰らないと決めました。それなのに母は3月、奥多摩まで来ました、」
いま隣から見つめてくれる、婚約者の純粋で温かい、凛と真直ぐな瞳。
どこまでも優しい黒目がちの瞳、この眼差しに母も変わり始めている。
その感謝を見つめて英二は言葉を続けた。
「奥多摩で母は周太の頬を叩きました、そして周太と、止めに入った光一に母は怒りました。そのことに俺は本当は驚いたんです。
あの母が感情を顕わした、それが不思議で驚きました。そして、面会に来たとき母は周太に『ありがとう』と言われたと教えてくれました。
僕の幸せを生んでくれて、ありがとう。そう周太に言われたことが母は嬉しかったんです、それから母は変わり始めたと姉に言われました。
そして母は俺のことも認め始めました、今の俺は母の理想とは正反対です、それでも母は俺を見て、良い顔になったと昨日も言ってくれました、」
春の雪の3月、遭難事故の翌日に見た母の変化、そして昨日に見た母の貌。
すこしずつ変化していく母、それへの率直な想いを英二は告げた。
「だから俺、母から『ありがとう』って言われたの、昨日が初めてだったんです。不思議で変な感じで、そして嬉しかったです。
いま母が変れるのは、周太が母を受けとめてくれたお蔭です。そして俺が母へ花を贈ろうと気付けたのは、お母さんがいるお蔭です。
だから俺は今日、お母さんに感謝の花を贈りたかったんです。お母さんが周太を生んでくれたから、今の俺があります。そして母もです、」
周太の母、美幸。彼女に生命を与えられ、守られ育まれて、今の周太がいる。
そんな彼女の存在が「母に花を贈る」喜びを自分にも気付かせてくれた、その感謝を英二は言葉に変えた。
「俺が周太と一緒にいることを、お母さんは許してくれました。そして俺のことも受け留めて、いつも話を聴いて励ましてくれます。
そうやって俺はお母さんから教わったんです、母親と息子はどうやって向き合うのか、お互いの幸せを大切に出来るのか気付けました。
だから俺は、母に花を贈ることも出来たんです。きっと俺は、お母さんに逢えなかったら一生、ずっと母を憎んだまま終っていました、」
きっと美幸に逢えなかったら、自分は「母」という存在を歪な怪物だと想い続けた。
その哀しい曲解を穏やかに解いてくれた女性、この掛替えのない愛する人へと英二は綺麗に笑いかけた。
「3月に父がこの家に来た時、お母さんは俺のこと『息子』って呼んでくれたでしょう?あのとき本当に嬉しかったんです。
あの時から俺には、母の事も受けとめる余裕が生まれ始めました。それで昨日も母と少し向合えたんです。だから感謝の花束なんです、」
この想いを美幸に今日、伝えたかった。
そして周太にも聴いてほしかった、周太に母親の事を安心してほしかった。
もうじき周太は「異動」する、そして実家に帰ることすら難しくなっていく。
そのことは母子にとって、互いに唯一の寄る辺から離される不安と哀しみが大きい。
だから周太が異動を告げるなら、それと同時に自分も母子へと「傍にいる」と伝えたかった。
まだ入籍はしていない、血縁の事実を告げることも今は出来ず、この家に絡まる真実を語ることすら出来ない。
それでも自分は家族として周太と美幸を護る、この想いを今日ここで伝えたかった。
―どうか俺を頼って甘えて下さい、それが俺の幸せだから
この想いを受けとってほしい、どうか自分に頼って甘えて「家族」になってほしい。
そんな願いに見つめる黒目がちの瞳は、幸せそうに笑ってくれた。
「うれしいわ、そう言ってくれるの。ありがとう、私こそ英二くんに感謝してるわ。こんなイケメンに息子になってもらえて幸せよ、」
快活な黒目がちの瞳は笑いかけ、青磁の花瓶に咲くブーケに微笑んだ。
テラスに続く仏間の座卓、そこに置かれた瑞々しい花々から英二に視線を戻し、明るい穏やかな声は言ってくれた。
「でもね?こういう周なのは、きっと主人のお蔭よ。だから主人に感謝するべきね、花束をこの部屋に活けたの正解だわ、」
ほら、彼女はいつもこう。
こんなふうに息子と夫への愛を惜しみなく示して見せる。
こんな彼女だから眩しくて、だから父の想いが自分にも解ってしまう気がして、今日は傷む。
―父さん、でも解ってほしいよ、母さんのこと
心つぶやく想いに微笑んで、英二は木洩陽に目を細めた。
その隣には穏やかな静謐が今も微笑んでくれる、この温もりが安らいでいく。
何を言うわけでもなく、ただ隣に座って今は紅茶をカップに注いでいる。そんな何でもない仕草すら優しい。
「はい、英二…熱いから気を付けてね?」
花香る湯気のティーカップを渡してくれる笑顔が優しい。
その黒目がちの瞳には、あわい涙の光が温かく煌めいていた。
早めの夕食を温かな手料理で楽しんだ後、英二は車に鞄を積んだ。
運転席に乗り込み、エンジンキーを回す。けれどブレーキは掛けたままに窓を開けた。
その向こう、よく似た黒目がちの瞳は見つめ合い、穏やかなトーンで話している。
「冷凍庫いつもみたいに、おかずは2段目と3段目だからね?…ごはんも7膳分、1段目に入れてあるから、」
「ありがとう、周。アイスクリームも入ってたの見たわ、」
「ん、バニラとチョコとあるから…あと冷蔵庫に夏蜜柑のまだあるから、アイスに添えてね?あと、お布団も夏用の干したから」
なにげない母子の会話は、息子が主夫をしてきたと解る。
初任科教養の時から周太はずっと、休暇は実家に帰るようにしていた。それは家事をする為だと今は知っている。
もちろん母親の美幸も家事は巧い、いつも掃除の行き届いた家は清々しい空気に充ちて、庭も花々が美しい。
けれど庭なら剪定や土づくり、家なら窓ふきなど手が懸ることは周太が全部している。
食事の支度も何日分か周太はまとめて置いていく、それは母が残業などで疲れたときに困らない為だと解る。
こんなふうに周太は濃やかに家事を行って、母と家を心から大切にしてきた。それは子供のころから変わっていない。
―こういうとこ大好きだな、愛してるよ、周太?
こういう優しさは周太の純粋に深い懐の愛情。
それを育んだ馨と美幸の愛情は、どんなに温かく優しく美しいだろう?
そう想う心へとまた、哀しみと怒りが深い瞳を披いて英二を見つめてくる。
―どうして、
どうして、なぜ、あの男が生きている?
この美しい母子を愛した馨は死んだ、それなのに何故、あの男は生きている?
あの男が「法治国家」の正義を掲げて微笑む、それが傲慢だと思う自分が間違いなのか?
―間違っていても構わない、俺は護りたいものを護る
そんな想い微笑んで黒いカットソーの胸元にふれる、その指先に鍵の輪郭が温かい。
この合鍵の持主が抱いた祈りを叶える為に自分はいる、これが自分の遵守すべきこと。
それが「正義」と反するものだとしても、知ったことではない。
「お待たせ、英二…ありがとう、」
穏やかな声がふりむいて、微笑んで助手席にと回りこんでくれる。
声に目だけで答えた英二へと、快活な黒目がちの瞳は綺麗に笑いかけてくれた。
「英二くん、来週末は留守番お願いね?光一くんにもよろしく伝えて、」
来週末2日間、本庁での山岳講習会で光一は講師を務める。
その宿泊に家を遣わせてもらう名目で光一は泊まる、その本当の目的は母子には言えない。
これは自分とパートナーだけが知っていれば良い、この生涯抱える「秘密」へと英二は綺麗に微笑んだ。
「はい、国村まで泊めて済みません、ホテル代浮くんで助かります、」
「ここは英二くんの家だもの、遠慮はいらないわ。好きに使ってね、ただし後片付けもよろしくね、」
明るく笑ってくれる何げない言葉、けれど少しの驚きに鼓動ひとつ叩く。
たしかに「後片付け」は重要だ?笑って英二はサイドブレーキを外した。
「あいつ、家事が得意なんで大丈夫だと思います。お母さんも社員旅行、楽しんできてくださいね、」
「ええ、楽しませてもらうわ。社員旅行なんて二十年以上ぶりだもの、」
黒目がちの瞳は楽しげに微笑んで、そっと運転席の窓から離れた。
その視線が助手席へと向けられて、周太の掌は窓を開くと少しだけ顔を出した。
「お母さん、戸締りとか気を付けて。なんかあったらすぐ、連絡してね」
「ありがとう、周もね、」
窓からの会話に母子は笑って、掌を振りあう。
濃藍のジーンズくるんだ脚を動かし、ゆっくりアクセルを踏みこみ動き出す。
ゆるやかに車は緑豊かな駐車場を出る、その通りにまで美幸は見送ってくれた。
「おかあさん、」
ひと声、助手席から呼びかけて笑って、角を曲がる。
見えなくなって、静かに窓が閉じられていく。その横貌は静かに微笑んでいた。
もう心を定めている凪がまばゆい、凛と美しい端正が助手席に座っている。
純粋なまま少年のような周太、けれど強靭な誇りが静かに佇んでいる。
―まぶしいよ、君は
そっと心に恋慕が微笑んで、想いが募る。
この気持ちのままに今からの時間を幸せにしたい、ハンドルを捌きながら英二は綺麗に笑いかけた。
「周太、夜のドライブデートだね?行きたい所とかある?」
22時、新宿署寮の入口に車が止まる。
摩天楼の光の谷間、助手席から綺麗な笑顔が見つめてくれた。
「英二、またね?…金曜日、夕飯なにが食べたいか決ったら教えてね?」
「ありがとう、周太、」
暗い車内、そっと唇よせてキスをする。
直ぐに離れて見つめた貌は、薄闇にも薄紅かがやいた。
「こんなとこできすしたらまっかになっちゃうでしょ?さ、さっきもしたのに」
「いつでもどこでも、周太にキスしていたいよ。それに、さっきって横浜の話だろ?」
恥ずかしがる貌に怒られても、嬉しくて混ぜっ返したくなる。
そんな英二に困ったよう黒目がちの瞳は見つめ、それでも微笑んで周太はシートベルトを外した。
「もうえいじのばか…場所とかわきまえないとだめです、」
たしなめながら鞄を抱えて、助手席の扉が開く。
そのまま降りて扉は閉じられる、そして笑顔を見せてくれると婚約者は階段を昇りだした。
ペールブルーのシャツの背中を見つめて少し窓を開く、そこから音が響きだす。
かん、かん、かん、か…
階段を上がる革靴のソール、あの靴も自分が贈ったもの。
その靴音が消えていくのを聴いて、扉が開いて閉じる音が鳴る。
そうして訪れた静寂に、ブレーキを外すと英二は車を走らせた。
―周太、周太…どうして周太がこんなことになる?…周太…嫌だ
リフレインする名前と想いに、まばゆい街が視界に流れる。
この流れに逆らってしまいたい、そんな想いに英二はコインパーキングに停まった。
―ゆるせない、
想い、また目を覚ます。
そのまま運転席の扉を開いて施錠する、踵を返す。
ゆっくり歩いて横断歩道を渡り、光の街を歩きだす。
―ゆるせない、絶対に嫌だ…赦さない
静かに繰り返す想いが脚を動かし、摩天楼の狭間を歩いていく。
ビル風がブラックジャケット翻しはためく、黒い風が体を吹きぬける。
歩きながらジャケットのポケットに左手を入れ、摩天楼の谷間の翳、左手だけ感染防止グローブを嵌める。
止まらず歩く暗がり、風に髪が乱され顔にかかる、表情が沈鬱にそまると自分で解かる。
―赦さない、あの男に関わる者は
踏みこんだ足元、扉が開かれる。
この扉を潜るのは3度目、けれど夜は初めて訪れる。
そんな初めてに哂ってロビーを横切る、その視界の端映るものに嘲笑がこみあげる。
やっぱりそうしているんだ?そんな予想通りが可笑しくて哂わされる、あんまりにも安易すぎる。
そんな感想と一緒に目当ての自販機の前に立ち、左手で硬貨を入れ指を伸ばし、ダークブラウンの缶が墜ちる。
がたん、
静かなホールが共鳴して、いつもの席に腰おろす。
ベンチに缶を置き、見つめながら左手をポケットに入れ、グローブを外す。
すぐに終えて、缶を取り上げるとプルリングを引いて、温かい香へと唇つける。
ほろ苦い甘い香が口づけて、午後の幸せで切ない時間の愛しさが喉を降りて行く。
―周太、今、同じ場所に俺はいるんだよ
心に呼びかけて、そっと微笑が口許を温める。
けれど微かな足音に、微笑は嘲笑へと氷変した。
ほら、思った通りにやってきた。
だって監視カメラの位置がすこし変わっている。
あのカメラは多分、誰かさんのパソコンに連動しているのだろうな?
そんな予想に缶の唇あとを指で拭い、右掌に缶を提げ立ち上がると踵返して歩き出した。
かつん、かつん、かつん
いつもの自分よりゆっくりな、跫が響きだす。その向こうで足音は止まる。
風に乱れたままの前髪透かす、その向こうに仕立ての良いスーツが映る。
その貌は今、どんな色に染まって自分を見ているのだろう?
「こんな時間に、どうされました?」
仕立ての良いスーツから、声が掛けられる。
そんな呼びかけ、まるで路上の尋問か事情聴取の始めみたいだ?
そんな感想と笑って俯き加減のまま、間合いを保って男の前を通り過ぎていく。
かつん、かつん…
「待ちなさい、」
通り過ぎかけた肩へと手が伸ばされる、瞬間、気配に体が反応する。
伸ばされた手を躱した間合い、振り向きざま右掌を翻した。
「うわっ、」
声と、ココアの香が新宿署ロビーに響く。
ほろ苦く甘い香から呆然とした顔が竦む、予想外だと顔に見える。
立ち竦んだスーツを染めていく暗色は古い血痕と似て、銃痕の手帳を染めていた色彩に重なっていく。
おまえたちに相応しい色だ?そんな感想と缶を右手に提げたまま、英二は低く哂った。
「…古い血液みたいですね、その染み…すぐ洗えば間に合いますよ?」
低い声で告げ、踵返すと外に出た。
ビルの影へと歩を進め入りこみ、闇にブラックジャケットは融けこんでいく。
濃藍の脚、黒い革靴、黒いカットソー、暗色の服は摩天楼の陰翳へ沈んで跫も消える。
影澱む静謐を歩いていく背後、遠く、乱れた足音を聞きながら音もなく路地を抜けていく。
この街は昔から夜に遊んだ場所。
しつこい男や女を振りほどくには、細い路地の道は便利で楽だった。
この街はどこにもコンクリートの巨樹が並び迷路が作られている、それは山の道とも似ている。
―ほら、おまえたちに俺は捕まえられない
心哂って路地を抜け、光の街へとまた戻る。
横断歩道を渡ってコインパーキングに入り、機械に硬貨を払って出庫した。
片手運転しながら携帯電話にイヤホンを繋ぐ、視線は前方のまま片手で操作してコールが鳴る。
「おつかれさん、周太、送ったとこ?」
コール3で透明な声が笑ってくれる。
明るい声に心も明るまされて、英二は微笑んだ。
「そんなとこ、」
「ふうん?ソンナ答え方ってことは、帰ったら事情聴取だね、」
お見通しなんだな?そんな呼吸がこのパートナーは楽しくなる。
その明るさに感謝しながら英二は、明日の予定を告げた。
「光一、明日の自主トレは俺、どうしても行きたい所があるんだ、」
「奥多摩交番だね、アポ取っておくよ、」
さらっと答えて笑ってくれる、そのトーンに心ほどかれた。
言わないでも解ってくれた、そんなアンザイレンパートナーが嬉しくて英二は綺麗に笑った。
「ありがとう、光一も一緒に行くつもりなんだ?」
この「一緒に行く」は奥多摩交番だけじゃない。
その意味へとアンザイレンパートナーは、からり笑ってくれた。
「当然だね、でなきゃお互いブレーキ無しで困るだろ?」
「うん、困るな。一緒に行こう、光一。ちょっと不自由な思いさせるけど、ごめんな」
きっと今まで通りの自由は難しくなるな?
そう思って謝ったけれど、不屈の山っ子は底抜けに明るい声で笑った。
「俺に不自由なんて言葉は無いね、どこでも一緒だよ?」
やっぱりそうなんだ?
こんな自由なところが憧れる、そして惹かれる。
この想いに連携して共に駈けていくならば、きっと不可能も可能になる。
そんな信頼と自信に英二は綺麗に笑いかけた。
「そうだな、俺も不自由なんて言葉、どっかに忘れることにするよ、」
不自由、自由ではないということ。
この言葉から遠くに自分たちは生きられる、この体と能力を生かすなら。
そして大切な全てを守ることも出来る、信じるままに努力を怠らなけらば。
この自信に自分は春、槍ヶ岳の北鎌尾根も挑んで山っ子の誇りを護らせた。
あの蒼穹の点を光一が超える、それは15年間ずっと「不自由」だった光一の恐怖。
それも自分は何とか超えさえて、今、光一は山ヤと男の誇りに自由を笑ってくれている。
あの瞬間に光一が掴んだ自由の下に今、光一は自分と危険に駈けることも選んでアンザイレンを繋いだ。
槍ヶ岳、北鎌尾根の積雪期。
あの危険な場所で自分は不可能が可能に変る、自由への瞬間を見た。
だから自分は信じている、必ず「50年の連鎖」すらも自分は壊せる、そして願いは叶えられる。
―周太、君に必ず自由を贈るよ?
どうかこの願い、叶え。
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