幸せ、その傷みと願いと
第56話 潮汐act.7―another,side story「陽はまた昇る」
ゆるやかな音に香が昇る。
鍋の煮える小さな沸騰、包丁とまな板の共鳴、オーブンの火音。
芳ばしい香、甘い香、スパイスと香草の匂い、いつもどおりの音と香が台所を充たしてくれる。
なんでもない音と香、着馴れた紺色のエプロン、台所の日常に立つ自分の掌はいつものように料理する。
この場所に立って料理する、それは気がついた時から続くいつもの日常、父が亡くなる前から馴染んだ時間と掌の動き。
けれど、もうじき遠くなるのかもしれない。
異動しても、実家に帰ってくる日はあるだろう。
こうして台所に佇んで大切な人の為に料理する、その幸福な瞬間は与えられるかもしれない。
けれど、そのとき自分の掌はもう、この今とは違ってしまっているだろう。
もうじきこの掌が持つのは「銃器」相手を傷つける道具なのだから。
異動すれば、この掌は銃器を持つことが日常になっていく。それは日々の訓練も現場も変わらない。
その現実を自分は14年間ずっと想い、何度も覚悟して、無理でも努力を重ねて今この時を迎えている。
その全ては父への想い。父の真実と意志を知りたくて、父を受けとめたくて追いかけて今朝が来た。
銃器を携える掌、その運命はどちらだろう?
生命を断つために遣われているだろうか?それとも生命を救うために遣えている?
この掌が血に染まるとき、それは死の血だろうか、それとも生の血だろうか?
願わくば、この掌が血に染まる時は「救助」であってほしい、けれど解らない。
…英二のように出来るのか解からない、でも信じて頑張るだけ…でも、ほんとうは
ほんとうは、まだ心は泣き虫でいる。
この掌が生命の尊厳を護るために遣えるのか?それが解からない不安が泣きたい。
まだ開いた扉の向こうに自分の立ち位置は見えなくて、決意が護れる可能性すら解からない。
それでも信じていたい。自分も英二のように生命の尊厳を護るため、この掌を遣えると信じたい。
この先の未知が本当は怖くて、不安で、それでも信じて希望を見つめて、もう泣かずに微笑んでいたい。
この運命に立つ意味は父への想いだけではない、もうひとつの勁い想いを抱いたから今、微笑める。
…もう大丈夫、今の俺ならきっと出来る…たくさん受け取ったから大丈夫
たくさんの温もりを今日まで受けとってきた。
英二と出逢い、恋して、共に歩いた時間は温もりを贈ってくれた。
この隣に愛され、たくさんの人に会い、言葉と想いを受けとり、もう今は心から温かい。
この温もりは消えることのない燈火、どこにあっても世界を照らしてくれる。
この恋愛は枯れることのない花、いつでも世界の美しさに気付かせてくれる。
この勇気ひとつ抱いている、どこでも、いつでも自分は希望を見つめて生きられる。
もう扉は開かれ運命の瞬間は来る、そして静かな勇気は瞳を披いて、自分を見つめている。
だからきっと大丈夫、そんな想い微笑んで包丁の手を止めたとき、きれいな低い声が笑いかけた。
「周太、トマトの切り方ってこれで良い?」
声に見上げた先、幸せそうな笑顔ほころんでくれる。
この笑顔が大好き、嬉しくて微笑んだ額へと近寄せられた唇ふれた。
そっと離れて切長い目が見つめて、恋人の笑顔は嬉しそうなトーンに微笑んだ。
「今の顔すごく可愛いな?大好きだよ、周太、」
…このひとの為に自分の運命を生きたい
この想い密やかに微笑んで、ふれたキスにまた勁くなる。
この笑顔を護るために相応しい自分なのか?それを知るためにも自分は逃げない。
この恋の為に自分の全てを懸けて確かめたい、自分の義務を果たし危険から生還したなら、この隣に帰ることが出来たら。
この美しいひとの隣が自分の場所だと信じられる、こんな自分でも与えられた場所なのだと胸を張れる、だから逃げたくない。
…だからもう泣かない。この賭けを与えられたこと、喜ぶべきだから…
この想い見つめて微笑んで、すこし背伸びする。
切長い目に微笑んで瞳を閉じて、そっと唇を重ねて踵を降ろす。
ぱたん、スリッパが床を叩いて真直ぐ立つと、周太は綺麗に笑いかけた。
「トマト、きれいだね?…ありがとう、英二、」
「こっちこそだよ、周太?今のキス、すごい嬉しかった、」
幸せな笑顔ほころばせ、白皙の貌かすかに紅がさす。
あわい紅色が綺麗で見惚れてしまう、その肌に、海で見つめた桜色が心にふれた。
―…この桜貝、海の底からずっと離れないで、ここまで来たんだろ?俺たちも離れないで、ここまで一緒に来たよ
こんなふうに俺たち、ずっと一緒に離れないでいよう…約束だよ?俺は何があっても君から離れない。ずっと、永遠にだ
海で見つめた約束が、愛しい肌に映りだす。
告げてくれた約束は嬉しくて、きれいな薄紅の肌に惹かれて見つめてしまう。
見つめる頬に、ふっと深い森の香がふれて頬よせられる。その耳元で綺麗な低い声が微笑んだ。
「周太?俺のこと見つめてくれてるね、そんなに俺のこと好き?」
「ん…はい、」
訊かれて、つい素直な答えが唇こぼれた。
…あ、
恥ずかしくて首筋に熱が昇りだす。
こんなこと訊かれて答えるなんて?気恥ずかしくて困ってしまう。
けれど本音の答え、それが恥ずかしいけれど嬉しくて、素直に周太は微笑んだ。
「すき…英二、大好きだよ?」
こんなこと言うの、恥ずかしい。
けれど言える今、伝えておきたい、言っておきたい。
この瞬間が与えられる今が幸せで、幸せなまま周太は最愛の頬へとキスをした。
そっと離れて見上げた貌は、端正な笑顔を薄紅そめて明るく幸せが華やいだ。
「周太、うれしすぎて困るよ?ちょっと覚悟しておいて、」
「ん?…なにを覚悟するの?」
なんだろうな?
首傾げながら菜箸を取った周太に、楽しそうに婚約者は笑ってくれた。
「あとで教えてあげるよ?今夜の飯、どれも俺が好きなものだね。ありがとう、周太」
献立に気付いた笑顔が幸せそうで、嬉しい。
今夜は自分の手で、英二の好きなものを出来るだけ作ってあげたい。
そう朝からずっと考えてきた、もう今夜しか出来ないと覚悟して今日は帰ってきた。
…まだ今の手で、ご飯作ってあげたい…血に染まってしまう前の手で
もし尊厳の護り手として血に染まった掌なら、それなら誇らしい。
それは愛する人と同じ道に立った掌、それは勲章のよう誇らしく幸せだろう、けれど自分の任務は真逆になる。
その任務が崇高な理由でも、命絶つため遣った掌は大切な人の食事を作る資格は失う、そう本当は思っている。
だから今夜の食事は自分の手で仕度したかった、なんでもない「日常」の幸せを最愛の人に贈れるのは、今夜が最後かもしれないから。
もう今夜は二度とない、来週末も逢える予定だけれど本当は解からない、だから今夜全てを作ってあげたかった。
どうか、この味を1つだけでも憶えていて?
この掌が温もりだけである時に作った味を、あなただけは憶えていてほしい。
この掌は裁かれない罪に堕ちるかもしれない、その前に今のうちに、この掌の温度をあなたの記憶に抱いてほしい。
どうか少しでも愛してくれるなら、欠片だけでも良いから憶えていて?この祈りを恋人に見つめて周太は綺麗に微笑んだ。
「ん…朝は肉じゃが、作ってあげるね?あと玉子焼きも、」
「甘い玉子焼きが良いな、周太流のやつ。周太が作るものが俺、いちばん好きだよ、」
幸せに綺麗な低い声が微笑んで、きれいな笑顔がほころんだ。
白い衣に袖を通す、その腕がいつもより紅濃い。
その理由が気恥ずかしくて熱昇りだすまま、鏡のなか背中も紅あざやかに華やぎだす。
恥ずかしくて、薄紅の背から衣はおらせ肩を隠しこんで、衿元をあわせ裾を几帳面に整える。
白い腰を瑠璃色の兵児帯で締め上げて、周太は姿見の自分を見つめた。
…いつもより逆上せてる、よね?
湯上りの頬がいつもより赤い、瞳も潤んでしまっている。
食事の後に英二は勉強を教えてくれた、その内容が微熱になって、こんな貌になっている。
さっき教えてくれた全てが本当に恥ずかしい、けれど知らないままなら困ったことになっていた。
…知らなかったな、あんなに違うんだ…ほんとに気を付けないと、ね
きっと自分の年なら普通、知っていることなのだろう。
それなのに何も知らない自分が恥ずかしい、それ以上に教わった状況が恥ずかしすぎる。
また逆上せだす貌が気恥ずかしくてタオルを頭から被る、けれど水音は耳に届いた。
さああっ…
シャワーを使う音が、風呂場から響いてくる。
先に自分を湯から上がらせて、恋人は扉の向こうにいる。
その意味が気づけてしまう、それが面映ゆくて周太は洗面所の扉を開いた。
ぱたん、
後ろ手に扉を閉じて、ふわり涼やかな空気がふれる。
浴場の温かく湿った空気と違う、乾いて涼しい空気にほっと息を吐く。
被ったタオルで髪拭いながら台所に入り、支度しておいた水のカラフェとグラスのトレイを持った。
火の元と戸締りを確認してながら2階へ上がる、素足ふれる木目が冷やり心地よく火照りを鎮める。
足裏の冷たさ踏んで自室に着くと、スタンドランプ灯してトレイを置き、鞄から小瓶と御守袋を取出した。
「ん、きれい…」
微笑んで見つめるガラスを透かせ、薄紅の桜貝があわいランプに煌めいている。
そっと蓋を開き掌にあける、その中から、ふたつ繋がれたままの貝殻をひとつ出すとデスクに置いた。
抽斗を開いて裁縫箱を取出す、そこから真綿をだすと二枚重なる桜貝を包んで守袋へと納めた。
「英二…心は、一緒にいさせて?」
そっと呟いて、タオルの翳で頬が熱くなる。
この真綿の桜貝は英二が拾いあげ、二つ重なり繋がる姿に想いを懸けてくれた。
あの言葉の記憶と一緒に藤色の房を締め、赤い守袋をそっと握りしめてから鞄に戻した。
ガラスの小瓶を手にとり梯子階段を上がる、フロアーランプを点けて周太は古いトランクの前に座りこんだ。
「お祖父さん、このトランク持ってフランスに行ったの?…オックスフォードにも、行ったの?」
古い木製のトランクに語り掛け、真昼に聴いたばかりの祖父の物語が嬉しい。
自分の祖父母を知る人から想い出を分けてもらえた、それが幸せで温もりがこみあげる。
静かな温もり微笑んでトランクの錠を開くと、周太は綺麗な木箱を取出した。
そっと蓋を開くと微かに潮が香り、きれいな小貝たちと薄紅の貝殻がランプに煌めく。
この貝殻を拾ってくれた俤に微笑んで、ガラスの小瓶を中へ納めた。
この木箱を開いて今日を懐かしみ微笑める、そんな穏やかな日が訪れますように。
そう祈りこめて木箱を閉じ、トランクの蓋を閉じて錠をおろす。
その掌の甲へと熱い雫ひとつ落ちて、周太は微笑んだ。
「…ん、なきむし、」
微笑んで自分をたしなめ、そっと指で涙を拭った。
そのとき扉開く音がして、木の軋む音が鳴ると白い浴衣姿が屋根裏部屋に現れた。
「周太、これ見よう?」
きれいな笑顔がこちらに来て、隣に座ってくれる。
そっと肩を寄せて長い指が大ぶりの冊子を床に置く、その寛げた衿元のぞく肌が艶やかで見惚れてしまう。
きれいな薄紅の肌が気恥ずかしくて、そっと瞳伏せながらも周太は微笑んだ。
「ん…アルバム?」
深紅の布張が美しい表装の、厚いアルバム。
これに大好きな人の想い出が詰まっている?そう見つめた頬に端正な唇のキスがふれた。
「うん、実家から持って来たんだ。周太の宝箱に入れてくれる?」
キスくれた唇の言葉が温かい。
キスに羞みながら見つめた切長い目は、すこし気恥ずかしげに笑ってくれた。
「周太と出逢う前の俺も、周太にあげたいんだ。受けとってくれる?」
…そんなこと言ってくれるの?
ことん、言葉が心におちて温かい。
温もりに見つめる切長い目は懐かしい俤と似て、また確信してしまう。
この目、この言葉、今日出会った家族の記憶を持つひと、その目に見つめた俤。
…きっとそうなんだ…まだ解らないけど、でも
解からないことばかり、それでも気づいてしまう。
戸籍の書類だけでは解からない真実と所縁、隠された糸が繋ぎあっている?
そんな確信を遠望しながら、語られない想いの信頼へと周太は綺麗に笑いかけた。
「ありがとう、英二…あのね、出逢う前から…大好きだよ?」
言葉に想いを見つめて、そっと唇よせてキスをする。
ふれるだけの一瞬の口づけ、その瞬間に祈りを寄せて微笑んだ先で幸せがほころんだ。
「大好きだよ、周太。きっと俺の方が恋して、愛してるよ、」
幸せ浮かべた笑顔が近づいて唇ふれてくれる。
ほろ苦い甘い香が唇ふさいで熱い、その温もりにすこし前の時間を思い出して首筋が熱くなる。
こんなこと思い出すの恥ずかしい、面映ゆいまま微笑んで周太はアルバムを開いた。
「ん、かわいい…」
開いたページに綺麗な赤ん坊の笑顔が無邪気に咲く。
すこしずつ大きくなっていく子供の成長が写真に追える、どれも表情から全てが美しい。
けれど少しずつ寂しげになる雰囲気に、英二と母親の関係が見えて密やかに心が裂かれた。
…こんな時にもう、そうだったの?
幼い笑顔、けれど寂寥に大人びた深みが見える。
この表情に相克と悲哀がふたつ傷んで、3月に会った俤の笑顔を祈ってしまう。
どうかこの母子がいつか心から笑い合えますように、その為に自分は何が出来るだろう?そんな想いと周太は微笑んだ。
「かわいい、英二…これ、幼稚園の時?」
「そうだよ、隣は姉ちゃんな、」
きれいな低い声が微笑んで、そっと肩を寄せてくれる。
2枚の衣を透かす体温に今、触れて傍にいる幸せが温かい。この優しい時間に周太は寄添った。
「お姉さんもすごく可愛いね、双子みたい?…今は似てるけど、違うのにね?」
「うん、小さい頃は双子ってよく言われてた。俺の方が背、高かったし、」
床に敷いたマットレスの上、ふたり並んで記憶を繰っていく。
このマットレスに並んで座るのは、これで幾度めになるのだろう?
こんな時間が未来にもありますように、そんな想いが見つめる写真に言葉になった。
「小さい頃から英二、大きいんだね…きれいな子、天使みたい、」
きっと、本当に自分には天使。
自分の笑顔を取り戻してくれたのは、この隣の綺麗な笑顔。
失った記憶を呼び覚ます鍵をくれたのは、このひとの想いと約束。
そしてこの心に恋愛を与えてくれた、泣くことも幸福だと教えてくれた、唯ひとり。
「周太こそ、俺の天使だよ?」
きれいな低い声が微笑んで、そっと頬にキスをくれる。
ほら、こんなところも天使だと、確信を想ってしまうのに?
そんな想いと言われた言葉に羞みながら、大切な人へと微笑んだ。
「てんしだなんて…そんなにきれいじゃないよ?」
自分の分は弁えている、こんなこと言われたら気恥ずかしいのに?
恥ずかしくて俯きかけたとき、綺麗な笑顔は幸せにほころんだ。
「周太は誰より綺麗だよ?さっき風呂でも綺麗だった、どこも全部、周太はきれいだよ、」
こんな綺麗な笑顔でこんなこというなんて?
言われた言葉に、風呂場とその前の記憶が恥ずかしい。
あんまり恥ずかしくて居た堪れなくて、周太は浴衣の衿元を両手で押さえこんだ。
こんな恥ずかしいこと言うなんて困る、けれど想いは素直に嬉しくて、素っ気ないトーンで周太は微笑んだ。
「えっち、えいじのえっちへんたいちかん…でも、ありがとう」
拗ねたまま言って見つめた先、端正な貌は嬉しそうに笑ってくれる。
綺麗な笑顔が嬉しい、そう見惚れかけたのに綺麗な低い声は、うっとりするよう微笑んだ。
「もう一回言って、周太、」
「え?」
どういう意味だろう、どうしたのかな?
言われた意味が解らなくて見つめてしまう、そんな周太に英二は幸せそうに微笑んだ。
「周太、今夜はふたりきりだね?明日の夜まで一緒だよ、あと24時間は一緒に居られるな?」
今夜も母は出かけている。来週の社員旅行の下見だと言って、会社の保養所へ泊りに行ってしまった。
そんな母の配慮は「離れる練習」そんな親心は温かい、けれどやっぱり寂しいと思ってしまう。
もう23歳だから大人だから、そう解っていても寂しくて溜息がこぼれた。
「お母さん、今夜も行っちゃって…いっしょにアルバム、見られたらよかったのに、」
あと何回、母と一緒に過ごせるのだろう?
まだ異動のことも話せていない、明日の午後には話すことになるだろう。
その時を想うと切なくて、少しでも多く母とも時間があったらいいのにと祈ってしまう。
もうじき母からも遠くなる、それが申し訳なくて哀しくて、ため息ひとつまた零れた周太に綺麗な笑顔は言ってくれた。
「大丈夫、また一緒に見られるよ。だから今夜は俺だけ見ていてよ、周太?」
今夜は俺だけを見て?
そう言ってくれる想いが嬉しい。
言われた通りに今この与えられた夜を見つめたい、そんな想い素直に周太は頷いた。
「ん、はい…」
頷いて、頬熱くなりながら最後のページを捲る。
その最後の写真に心がノックされて、静かな微笑みが湧きあがった。
…英二、
警察学校初任科教養卒業式、あのときの正装姿がこちらを見つめている。
すこしだけ寂しげで、けれど真直ぐ見据えた切長い目に情熱と誇りが謳いだす。
この写真を撮った数時間後、この瞳が真直ぐに告白を贈ってくれて、今がある。
あの日の想いごと大切にアルバムを閉じ、抱きしめて、周太は古いトランクを開いた。
「周太、この茶封筒は何?」
肩越し覗きこんでくれる声に、気恥ずかしくなる。
恥ずかしく見つめるトランクの中には3つの茶封筒がある、その1つに首筋から熱が昇りだす。
こんなの変に思われるかな?小さな不安と恥ずかしさに恋人を見つめて、ためらいながらも周太は唇を披いた。
「この間の戸籍とね、瀬尾が描いてくれた絵と…しゃしんしゅうです、」
言って唇を結ぶと、アルバムをトランクに納めて蓋を閉じた。
そのまま部屋を横切ってロッキングチェアーから「小十郎」を抱きあげると、周太は座りこんだ。
やわらかい毛並に顔をうずめて膝ごと抱えこむ、頬ふれる優しい感触に今日出会った犬と猫を思い出す。
海も雪も可愛くて大好き、あの2匹のようには「小十郎」は動いてくれない。けれどこのテディベアは温かい。
―…素敵な宝物ね?きっとコジュウロウのように、お父さまは沢山の宝物を周太さんに贈っていますよ、いつかその全てに出会えるわ
抱きしめた温もりに、優しいアルトヴォイスの言葉が蘇える。
青紫の瞳の不思議なナニー、あのひとの言葉は深い響きと力があるよう感じてしまう。
あの言葉の通りに、いつか父の贈り物を全てきちんと、自分は受け取れるだろうか?
…贈り物に出会ったとき気づけるように、そのためにも泣いてたらダメだよね?
またひとつ勇気が目覚めて、そっと微笑みが温かい。
そんな温もり嬉しくなる肩を、長い腕が抱きしめて深い森の香に包まれた。
大好きな香に溜息こぼれる、その耳元に綺麗な低い声が愉しげに訊いてくれた。
「写真集って、俺の?」
「ほかにはもっていません」
きっぱり即答して顔をあげると、周太は婚約者を見つめた。
そんな周太を長い腕は抱きあげて、綺麗な笑顔が幸せそうに咲いてくれた。
「ありがとう、周太。そんなに俺のこと大切に想ってくれて、嬉しいよ、」
そんなふうに言われたら、こっちこそ嬉しい。
嬉しくて気恥ずかしくて、小さい声で周太は答えた。
「…はい、」
もう額まで熱が昇って、耳まで熱くなってしまう。
こんなにまた逆上せて困ったな?そう俯いているうち気がついたらベッドに座っていた。
…あ、小十郎、抱っこしてきちゃった
腕のなか優しいテディベアも困ったよう見つめてくれる。
戻しに行かないと?そう想いながら見つめた先、端正な笑顔が近寄せられ唇ふれかけた。
…英二、
心に名前を呼んで、想いが込みあげる。
このキスの意味は「約束を結ぶ時間」の始まり、ふたり交わす想いの鍵。
それが嬉しくて幸せで、けれど約束を叶えられる可能性は低い自分なのだと解っている。
こんな自分だと解っているのに約束をくれようとする英二、その想いに心裂かれるまま周太は唇を開いた。
「あの、えいじ?小十郎を戻してきていい?」
「え?」
切長い目はひとつ瞬いて、周太の腕のなかを見てくれる。
そして「小十郎」と目が合うと、楽しそうに英二は笑ってくれた。
「ごめん、一緒に抱っこしてきちゃったな?悪いな、小十郎、」
可笑しそうに笑いかけながら、周太をベッドから立たせてくれる。
もう23歳なのにクマのぬいぐるみを抱えて来てしまった、それが気恥ずかしくて、けれど幸運にも想えてしまう。
この幸運と裂かれた心をテディベアごと抱きしめて、それでも微笑んで周太は梯子階段を昇った。
ひっそりとした屋根裏部屋に、天窓から月明りが静かに降ってくる。
この今日に見つめた運命の扉、家族の記憶、隠される繋がり、それから婚約者の深い想い。
その全てが心の縁からこぼれだす、ずっと堪えていた想いが出口探して、瞳と喉から込みあげた。
「…っ、」
透明な光ふるロッキングチェアーの前、周太は抱えたテディベアに顔埋め座りこんだ。
父が手作りした椅子の前、せりあげる嗚咽と涙を父の身代わりは優しい毛並で受けとめてくれる。
さっき「泣いていたらダメ」と思ったばかり、けれどベッドでふれかけたキスの「約束」に、正直な心が泣きだした。
…ごめんなさい英二、ごめんなさい…俺なんかのためにごめんね…ごめんなさい
リフレインする想いが涙になって「小十郎」を濡らしていく。
朝の新宿から真昼の葉山、黄昏の海、夜の家、ずっと見つめてきた愛しい笑顔。
あんなに綺麗な笑顔を自分の運命に巻きこんでしまった、その自責が今日ずっと幸せな分だけ痛みだす。
あの切長い目に見つめた「所縁」が運命を呼んでしまった?ずっと探していた家族の記憶が巻き込んだ?
この自分が求めることが唯ひとりの恋人を追いこんでいく、そんな想いが尚更に哀しくて、涙、今は止まらない。
「…っぅ…、…っ、」
運命を見つめた今日だった、8月からの現実と、優しい過去の記憶たちに出会った今日だった。
その全てに寄添ってくれる英二、ほんとうに天使のように美しい英二、一緒に居てくれて嬉しくて幸せだった。
美しい海の街、優しい二人の老婦人、可愛い猫と犬、甘い菓子を焼く香と潮騒の風、美しい黄昏と綺麗な桜貝。
何もかもが美しくて優しくて幸せだった、この幸せを英二は自分にも分けてくれた、その幸せな分だけ罪悪感が痛い。
ほんとうは美しい幸せのなか生きられる英二、それなのに自分の隣を選んで危険のなかにも英二は付いて来てくれる。
それは嬉しい、それは自分にとって救いで希望、けれど大切な人を護りたい願いには、この現実が心を切裂いていく。
どうしてこんなことになったのだろう、どうして英二のようなひとが自分のために傷つくの?
…おれが警察官になったから…好きになったから…ごめんなさい英二、おばあさま…すみれさんごめんなさい
なんど謝っても、償えない。
どうしてこんなことになったのだろう?自分が恋したことは間違い?
やっぱり独りきりで生きれば良かった?そんな想いが心切り裂いて痛い、痛くて痛くて、どうして良いのか解らない。
9月30日、忘れられない夜。
あの夜に選んだ自分の選択が、この今の哀しみを呼びこんだ。
あの夜に拒めば良かった、綺麗な笑顔の告白を断って、あの部屋から逃げ出せばよかった。
そうしたら英二は立つべき場所だけに生きられた、光一と出逢い最高峰の夢だけに真直ぐなまま生きられた。
…たすけて光一、お願い…どうか英二を攫って?最高峰へ攫って輝かせて…俺から英二をひきはなして
いま抱きしめている「小十郎」と一緒に出逢った、山っ子へ祈ってしまう。
あの幼い雪の日、雪の森に出逢った、誇らかな明るい目の少年へと救いを求めて祈りたい。
もう自分は幸せを十分に受け取ったから大丈夫、だから英二に自由になってほしい、こんな自分のために傷ついてほしくない。
だから願いたい、幼い日に自分の心を救ってくれたように、どうか光一に英二を救ってほしい。
どうか最高峰の夢へと攫って、あのひとの笑顔を輝かせて?
…光一、英二をつれていって…もう俺は充分だから、おれはもういいから…おねがい
ただ祈りに涙と嗚咽をとじこめてテディベアを抱きしめている。
その背中に温もりふれて、ふわり深い森の香と長い腕に抱きしめられた。
「…っ、」
抱きしめられた体が、息を呑む。
(to be continued)
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第56話 潮汐act.7―another,side story「陽はまた昇る」
ゆるやかな音に香が昇る。
鍋の煮える小さな沸騰、包丁とまな板の共鳴、オーブンの火音。
芳ばしい香、甘い香、スパイスと香草の匂い、いつもどおりの音と香が台所を充たしてくれる。
なんでもない音と香、着馴れた紺色のエプロン、台所の日常に立つ自分の掌はいつものように料理する。
この場所に立って料理する、それは気がついた時から続くいつもの日常、父が亡くなる前から馴染んだ時間と掌の動き。
けれど、もうじき遠くなるのかもしれない。
異動しても、実家に帰ってくる日はあるだろう。
こうして台所に佇んで大切な人の為に料理する、その幸福な瞬間は与えられるかもしれない。
けれど、そのとき自分の掌はもう、この今とは違ってしまっているだろう。
もうじきこの掌が持つのは「銃器」相手を傷つける道具なのだから。
異動すれば、この掌は銃器を持つことが日常になっていく。それは日々の訓練も現場も変わらない。
その現実を自分は14年間ずっと想い、何度も覚悟して、無理でも努力を重ねて今この時を迎えている。
その全ては父への想い。父の真実と意志を知りたくて、父を受けとめたくて追いかけて今朝が来た。
銃器を携える掌、その運命はどちらだろう?
生命を断つために遣われているだろうか?それとも生命を救うために遣えている?
この掌が血に染まるとき、それは死の血だろうか、それとも生の血だろうか?
願わくば、この掌が血に染まる時は「救助」であってほしい、けれど解らない。
…英二のように出来るのか解からない、でも信じて頑張るだけ…でも、ほんとうは
ほんとうは、まだ心は泣き虫でいる。
この掌が生命の尊厳を護るために遣えるのか?それが解からない不安が泣きたい。
まだ開いた扉の向こうに自分の立ち位置は見えなくて、決意が護れる可能性すら解からない。
それでも信じていたい。自分も英二のように生命の尊厳を護るため、この掌を遣えると信じたい。
この先の未知が本当は怖くて、不安で、それでも信じて希望を見つめて、もう泣かずに微笑んでいたい。
この運命に立つ意味は父への想いだけではない、もうひとつの勁い想いを抱いたから今、微笑める。
…もう大丈夫、今の俺ならきっと出来る…たくさん受け取ったから大丈夫
たくさんの温もりを今日まで受けとってきた。
英二と出逢い、恋して、共に歩いた時間は温もりを贈ってくれた。
この隣に愛され、たくさんの人に会い、言葉と想いを受けとり、もう今は心から温かい。
この温もりは消えることのない燈火、どこにあっても世界を照らしてくれる。
この恋愛は枯れることのない花、いつでも世界の美しさに気付かせてくれる。
この勇気ひとつ抱いている、どこでも、いつでも自分は希望を見つめて生きられる。
もう扉は開かれ運命の瞬間は来る、そして静かな勇気は瞳を披いて、自分を見つめている。
だからきっと大丈夫、そんな想い微笑んで包丁の手を止めたとき、きれいな低い声が笑いかけた。
「周太、トマトの切り方ってこれで良い?」
声に見上げた先、幸せそうな笑顔ほころんでくれる。
この笑顔が大好き、嬉しくて微笑んだ額へと近寄せられた唇ふれた。
そっと離れて切長い目が見つめて、恋人の笑顔は嬉しそうなトーンに微笑んだ。
「今の顔すごく可愛いな?大好きだよ、周太、」
…このひとの為に自分の運命を生きたい
この想い密やかに微笑んで、ふれたキスにまた勁くなる。
この笑顔を護るために相応しい自分なのか?それを知るためにも自分は逃げない。
この恋の為に自分の全てを懸けて確かめたい、自分の義務を果たし危険から生還したなら、この隣に帰ることが出来たら。
この美しいひとの隣が自分の場所だと信じられる、こんな自分でも与えられた場所なのだと胸を張れる、だから逃げたくない。
…だからもう泣かない。この賭けを与えられたこと、喜ぶべきだから…
この想い見つめて微笑んで、すこし背伸びする。
切長い目に微笑んで瞳を閉じて、そっと唇を重ねて踵を降ろす。
ぱたん、スリッパが床を叩いて真直ぐ立つと、周太は綺麗に笑いかけた。
「トマト、きれいだね?…ありがとう、英二、」
「こっちこそだよ、周太?今のキス、すごい嬉しかった、」
幸せな笑顔ほころばせ、白皙の貌かすかに紅がさす。
あわい紅色が綺麗で見惚れてしまう、その肌に、海で見つめた桜色が心にふれた。
―…この桜貝、海の底からずっと離れないで、ここまで来たんだろ?俺たちも離れないで、ここまで一緒に来たよ
こんなふうに俺たち、ずっと一緒に離れないでいよう…約束だよ?俺は何があっても君から離れない。ずっと、永遠にだ
海で見つめた約束が、愛しい肌に映りだす。
告げてくれた約束は嬉しくて、きれいな薄紅の肌に惹かれて見つめてしまう。
見つめる頬に、ふっと深い森の香がふれて頬よせられる。その耳元で綺麗な低い声が微笑んだ。
「周太?俺のこと見つめてくれてるね、そんなに俺のこと好き?」
「ん…はい、」
訊かれて、つい素直な答えが唇こぼれた。
…あ、
恥ずかしくて首筋に熱が昇りだす。
こんなこと訊かれて答えるなんて?気恥ずかしくて困ってしまう。
けれど本音の答え、それが恥ずかしいけれど嬉しくて、素直に周太は微笑んだ。
「すき…英二、大好きだよ?」
こんなこと言うの、恥ずかしい。
けれど言える今、伝えておきたい、言っておきたい。
この瞬間が与えられる今が幸せで、幸せなまま周太は最愛の頬へとキスをした。
そっと離れて見上げた貌は、端正な笑顔を薄紅そめて明るく幸せが華やいだ。
「周太、うれしすぎて困るよ?ちょっと覚悟しておいて、」
「ん?…なにを覚悟するの?」
なんだろうな?
首傾げながら菜箸を取った周太に、楽しそうに婚約者は笑ってくれた。
「あとで教えてあげるよ?今夜の飯、どれも俺が好きなものだね。ありがとう、周太」
献立に気付いた笑顔が幸せそうで、嬉しい。
今夜は自分の手で、英二の好きなものを出来るだけ作ってあげたい。
そう朝からずっと考えてきた、もう今夜しか出来ないと覚悟して今日は帰ってきた。
…まだ今の手で、ご飯作ってあげたい…血に染まってしまう前の手で
もし尊厳の護り手として血に染まった掌なら、それなら誇らしい。
それは愛する人と同じ道に立った掌、それは勲章のよう誇らしく幸せだろう、けれど自分の任務は真逆になる。
その任務が崇高な理由でも、命絶つため遣った掌は大切な人の食事を作る資格は失う、そう本当は思っている。
だから今夜の食事は自分の手で仕度したかった、なんでもない「日常」の幸せを最愛の人に贈れるのは、今夜が最後かもしれないから。
もう今夜は二度とない、来週末も逢える予定だけれど本当は解からない、だから今夜全てを作ってあげたかった。
どうか、この味を1つだけでも憶えていて?
この掌が温もりだけである時に作った味を、あなただけは憶えていてほしい。
この掌は裁かれない罪に堕ちるかもしれない、その前に今のうちに、この掌の温度をあなたの記憶に抱いてほしい。
どうか少しでも愛してくれるなら、欠片だけでも良いから憶えていて?この祈りを恋人に見つめて周太は綺麗に微笑んだ。
「ん…朝は肉じゃが、作ってあげるね?あと玉子焼きも、」
「甘い玉子焼きが良いな、周太流のやつ。周太が作るものが俺、いちばん好きだよ、」
幸せに綺麗な低い声が微笑んで、きれいな笑顔がほころんだ。
白い衣に袖を通す、その腕がいつもより紅濃い。
その理由が気恥ずかしくて熱昇りだすまま、鏡のなか背中も紅あざやかに華やぎだす。
恥ずかしくて、薄紅の背から衣はおらせ肩を隠しこんで、衿元をあわせ裾を几帳面に整える。
白い腰を瑠璃色の兵児帯で締め上げて、周太は姿見の自分を見つめた。
…いつもより逆上せてる、よね?
湯上りの頬がいつもより赤い、瞳も潤んでしまっている。
食事の後に英二は勉強を教えてくれた、その内容が微熱になって、こんな貌になっている。
さっき教えてくれた全てが本当に恥ずかしい、けれど知らないままなら困ったことになっていた。
…知らなかったな、あんなに違うんだ…ほんとに気を付けないと、ね
きっと自分の年なら普通、知っていることなのだろう。
それなのに何も知らない自分が恥ずかしい、それ以上に教わった状況が恥ずかしすぎる。
また逆上せだす貌が気恥ずかしくてタオルを頭から被る、けれど水音は耳に届いた。
さああっ…
シャワーを使う音が、風呂場から響いてくる。
先に自分を湯から上がらせて、恋人は扉の向こうにいる。
その意味が気づけてしまう、それが面映ゆくて周太は洗面所の扉を開いた。
ぱたん、
後ろ手に扉を閉じて、ふわり涼やかな空気がふれる。
浴場の温かく湿った空気と違う、乾いて涼しい空気にほっと息を吐く。
被ったタオルで髪拭いながら台所に入り、支度しておいた水のカラフェとグラスのトレイを持った。
火の元と戸締りを確認してながら2階へ上がる、素足ふれる木目が冷やり心地よく火照りを鎮める。
足裏の冷たさ踏んで自室に着くと、スタンドランプ灯してトレイを置き、鞄から小瓶と御守袋を取出した。
「ん、きれい…」
微笑んで見つめるガラスを透かせ、薄紅の桜貝があわいランプに煌めいている。
そっと蓋を開き掌にあける、その中から、ふたつ繋がれたままの貝殻をひとつ出すとデスクに置いた。
抽斗を開いて裁縫箱を取出す、そこから真綿をだすと二枚重なる桜貝を包んで守袋へと納めた。
「英二…心は、一緒にいさせて?」
そっと呟いて、タオルの翳で頬が熱くなる。
この真綿の桜貝は英二が拾いあげ、二つ重なり繋がる姿に想いを懸けてくれた。
あの言葉の記憶と一緒に藤色の房を締め、赤い守袋をそっと握りしめてから鞄に戻した。
ガラスの小瓶を手にとり梯子階段を上がる、フロアーランプを点けて周太は古いトランクの前に座りこんだ。
「お祖父さん、このトランク持ってフランスに行ったの?…オックスフォードにも、行ったの?」
古い木製のトランクに語り掛け、真昼に聴いたばかりの祖父の物語が嬉しい。
自分の祖父母を知る人から想い出を分けてもらえた、それが幸せで温もりがこみあげる。
静かな温もり微笑んでトランクの錠を開くと、周太は綺麗な木箱を取出した。
そっと蓋を開くと微かに潮が香り、きれいな小貝たちと薄紅の貝殻がランプに煌めく。
この貝殻を拾ってくれた俤に微笑んで、ガラスの小瓶を中へ納めた。
この木箱を開いて今日を懐かしみ微笑める、そんな穏やかな日が訪れますように。
そう祈りこめて木箱を閉じ、トランクの蓋を閉じて錠をおろす。
その掌の甲へと熱い雫ひとつ落ちて、周太は微笑んだ。
「…ん、なきむし、」
微笑んで自分をたしなめ、そっと指で涙を拭った。
そのとき扉開く音がして、木の軋む音が鳴ると白い浴衣姿が屋根裏部屋に現れた。
「周太、これ見よう?」
きれいな笑顔がこちらに来て、隣に座ってくれる。
そっと肩を寄せて長い指が大ぶりの冊子を床に置く、その寛げた衿元のぞく肌が艶やかで見惚れてしまう。
きれいな薄紅の肌が気恥ずかしくて、そっと瞳伏せながらも周太は微笑んだ。
「ん…アルバム?」
深紅の布張が美しい表装の、厚いアルバム。
これに大好きな人の想い出が詰まっている?そう見つめた頬に端正な唇のキスがふれた。
「うん、実家から持って来たんだ。周太の宝箱に入れてくれる?」
キスくれた唇の言葉が温かい。
キスに羞みながら見つめた切長い目は、すこし気恥ずかしげに笑ってくれた。
「周太と出逢う前の俺も、周太にあげたいんだ。受けとってくれる?」
…そんなこと言ってくれるの?
ことん、言葉が心におちて温かい。
温もりに見つめる切長い目は懐かしい俤と似て、また確信してしまう。
この目、この言葉、今日出会った家族の記憶を持つひと、その目に見つめた俤。
…きっとそうなんだ…まだ解らないけど、でも
解からないことばかり、それでも気づいてしまう。
戸籍の書類だけでは解からない真実と所縁、隠された糸が繋ぎあっている?
そんな確信を遠望しながら、語られない想いの信頼へと周太は綺麗に笑いかけた。
「ありがとう、英二…あのね、出逢う前から…大好きだよ?」
言葉に想いを見つめて、そっと唇よせてキスをする。
ふれるだけの一瞬の口づけ、その瞬間に祈りを寄せて微笑んだ先で幸せがほころんだ。
「大好きだよ、周太。きっと俺の方が恋して、愛してるよ、」
幸せ浮かべた笑顔が近づいて唇ふれてくれる。
ほろ苦い甘い香が唇ふさいで熱い、その温もりにすこし前の時間を思い出して首筋が熱くなる。
こんなこと思い出すの恥ずかしい、面映ゆいまま微笑んで周太はアルバムを開いた。
「ん、かわいい…」
開いたページに綺麗な赤ん坊の笑顔が無邪気に咲く。
すこしずつ大きくなっていく子供の成長が写真に追える、どれも表情から全てが美しい。
けれど少しずつ寂しげになる雰囲気に、英二と母親の関係が見えて密やかに心が裂かれた。
…こんな時にもう、そうだったの?
幼い笑顔、けれど寂寥に大人びた深みが見える。
この表情に相克と悲哀がふたつ傷んで、3月に会った俤の笑顔を祈ってしまう。
どうかこの母子がいつか心から笑い合えますように、その為に自分は何が出来るだろう?そんな想いと周太は微笑んだ。
「かわいい、英二…これ、幼稚園の時?」
「そうだよ、隣は姉ちゃんな、」
きれいな低い声が微笑んで、そっと肩を寄せてくれる。
2枚の衣を透かす体温に今、触れて傍にいる幸せが温かい。この優しい時間に周太は寄添った。
「お姉さんもすごく可愛いね、双子みたい?…今は似てるけど、違うのにね?」
「うん、小さい頃は双子ってよく言われてた。俺の方が背、高かったし、」
床に敷いたマットレスの上、ふたり並んで記憶を繰っていく。
このマットレスに並んで座るのは、これで幾度めになるのだろう?
こんな時間が未来にもありますように、そんな想いが見つめる写真に言葉になった。
「小さい頃から英二、大きいんだね…きれいな子、天使みたい、」
きっと、本当に自分には天使。
自分の笑顔を取り戻してくれたのは、この隣の綺麗な笑顔。
失った記憶を呼び覚ます鍵をくれたのは、このひとの想いと約束。
そしてこの心に恋愛を与えてくれた、泣くことも幸福だと教えてくれた、唯ひとり。
「周太こそ、俺の天使だよ?」
きれいな低い声が微笑んで、そっと頬にキスをくれる。
ほら、こんなところも天使だと、確信を想ってしまうのに?
そんな想いと言われた言葉に羞みながら、大切な人へと微笑んだ。
「てんしだなんて…そんなにきれいじゃないよ?」
自分の分は弁えている、こんなこと言われたら気恥ずかしいのに?
恥ずかしくて俯きかけたとき、綺麗な笑顔は幸せにほころんだ。
「周太は誰より綺麗だよ?さっき風呂でも綺麗だった、どこも全部、周太はきれいだよ、」
こんな綺麗な笑顔でこんなこというなんて?
言われた言葉に、風呂場とその前の記憶が恥ずかしい。
あんまり恥ずかしくて居た堪れなくて、周太は浴衣の衿元を両手で押さえこんだ。
こんな恥ずかしいこと言うなんて困る、けれど想いは素直に嬉しくて、素っ気ないトーンで周太は微笑んだ。
「えっち、えいじのえっちへんたいちかん…でも、ありがとう」
拗ねたまま言って見つめた先、端正な貌は嬉しそうに笑ってくれる。
綺麗な笑顔が嬉しい、そう見惚れかけたのに綺麗な低い声は、うっとりするよう微笑んだ。
「もう一回言って、周太、」
「え?」
どういう意味だろう、どうしたのかな?
言われた意味が解らなくて見つめてしまう、そんな周太に英二は幸せそうに微笑んだ。
「周太、今夜はふたりきりだね?明日の夜まで一緒だよ、あと24時間は一緒に居られるな?」
今夜も母は出かけている。来週の社員旅行の下見だと言って、会社の保養所へ泊りに行ってしまった。
そんな母の配慮は「離れる練習」そんな親心は温かい、けれどやっぱり寂しいと思ってしまう。
もう23歳だから大人だから、そう解っていても寂しくて溜息がこぼれた。
「お母さん、今夜も行っちゃって…いっしょにアルバム、見られたらよかったのに、」
あと何回、母と一緒に過ごせるのだろう?
まだ異動のことも話せていない、明日の午後には話すことになるだろう。
その時を想うと切なくて、少しでも多く母とも時間があったらいいのにと祈ってしまう。
もうじき母からも遠くなる、それが申し訳なくて哀しくて、ため息ひとつまた零れた周太に綺麗な笑顔は言ってくれた。
「大丈夫、また一緒に見られるよ。だから今夜は俺だけ見ていてよ、周太?」
今夜は俺だけを見て?
そう言ってくれる想いが嬉しい。
言われた通りに今この与えられた夜を見つめたい、そんな想い素直に周太は頷いた。
「ん、はい…」
頷いて、頬熱くなりながら最後のページを捲る。
その最後の写真に心がノックされて、静かな微笑みが湧きあがった。
…英二、
警察学校初任科教養卒業式、あのときの正装姿がこちらを見つめている。
すこしだけ寂しげで、けれど真直ぐ見据えた切長い目に情熱と誇りが謳いだす。
この写真を撮った数時間後、この瞳が真直ぐに告白を贈ってくれて、今がある。
あの日の想いごと大切にアルバムを閉じ、抱きしめて、周太は古いトランクを開いた。
「周太、この茶封筒は何?」
肩越し覗きこんでくれる声に、気恥ずかしくなる。
恥ずかしく見つめるトランクの中には3つの茶封筒がある、その1つに首筋から熱が昇りだす。
こんなの変に思われるかな?小さな不安と恥ずかしさに恋人を見つめて、ためらいながらも周太は唇を披いた。
「この間の戸籍とね、瀬尾が描いてくれた絵と…しゃしんしゅうです、」
言って唇を結ぶと、アルバムをトランクに納めて蓋を閉じた。
そのまま部屋を横切ってロッキングチェアーから「小十郎」を抱きあげると、周太は座りこんだ。
やわらかい毛並に顔をうずめて膝ごと抱えこむ、頬ふれる優しい感触に今日出会った犬と猫を思い出す。
海も雪も可愛くて大好き、あの2匹のようには「小十郎」は動いてくれない。けれどこのテディベアは温かい。
―…素敵な宝物ね?きっとコジュウロウのように、お父さまは沢山の宝物を周太さんに贈っていますよ、いつかその全てに出会えるわ
抱きしめた温もりに、優しいアルトヴォイスの言葉が蘇える。
青紫の瞳の不思議なナニー、あのひとの言葉は深い響きと力があるよう感じてしまう。
あの言葉の通りに、いつか父の贈り物を全てきちんと、自分は受け取れるだろうか?
…贈り物に出会ったとき気づけるように、そのためにも泣いてたらダメだよね?
またひとつ勇気が目覚めて、そっと微笑みが温かい。
そんな温もり嬉しくなる肩を、長い腕が抱きしめて深い森の香に包まれた。
大好きな香に溜息こぼれる、その耳元に綺麗な低い声が愉しげに訊いてくれた。
「写真集って、俺の?」
「ほかにはもっていません」
きっぱり即答して顔をあげると、周太は婚約者を見つめた。
そんな周太を長い腕は抱きあげて、綺麗な笑顔が幸せそうに咲いてくれた。
「ありがとう、周太。そんなに俺のこと大切に想ってくれて、嬉しいよ、」
そんなふうに言われたら、こっちこそ嬉しい。
嬉しくて気恥ずかしくて、小さい声で周太は答えた。
「…はい、」
もう額まで熱が昇って、耳まで熱くなってしまう。
こんなにまた逆上せて困ったな?そう俯いているうち気がついたらベッドに座っていた。
…あ、小十郎、抱っこしてきちゃった
腕のなか優しいテディベアも困ったよう見つめてくれる。
戻しに行かないと?そう想いながら見つめた先、端正な笑顔が近寄せられ唇ふれかけた。
…英二、
心に名前を呼んで、想いが込みあげる。
このキスの意味は「約束を結ぶ時間」の始まり、ふたり交わす想いの鍵。
それが嬉しくて幸せで、けれど約束を叶えられる可能性は低い自分なのだと解っている。
こんな自分だと解っているのに約束をくれようとする英二、その想いに心裂かれるまま周太は唇を開いた。
「あの、えいじ?小十郎を戻してきていい?」
「え?」
切長い目はひとつ瞬いて、周太の腕のなかを見てくれる。
そして「小十郎」と目が合うと、楽しそうに英二は笑ってくれた。
「ごめん、一緒に抱っこしてきちゃったな?悪いな、小十郎、」
可笑しそうに笑いかけながら、周太をベッドから立たせてくれる。
もう23歳なのにクマのぬいぐるみを抱えて来てしまった、それが気恥ずかしくて、けれど幸運にも想えてしまう。
この幸運と裂かれた心をテディベアごと抱きしめて、それでも微笑んで周太は梯子階段を昇った。
ひっそりとした屋根裏部屋に、天窓から月明りが静かに降ってくる。
この今日に見つめた運命の扉、家族の記憶、隠される繋がり、それから婚約者の深い想い。
その全てが心の縁からこぼれだす、ずっと堪えていた想いが出口探して、瞳と喉から込みあげた。
「…っ、」
透明な光ふるロッキングチェアーの前、周太は抱えたテディベアに顔埋め座りこんだ。
父が手作りした椅子の前、せりあげる嗚咽と涙を父の身代わりは優しい毛並で受けとめてくれる。
さっき「泣いていたらダメ」と思ったばかり、けれどベッドでふれかけたキスの「約束」に、正直な心が泣きだした。
…ごめんなさい英二、ごめんなさい…俺なんかのためにごめんね…ごめんなさい
リフレインする想いが涙になって「小十郎」を濡らしていく。
朝の新宿から真昼の葉山、黄昏の海、夜の家、ずっと見つめてきた愛しい笑顔。
あんなに綺麗な笑顔を自分の運命に巻きこんでしまった、その自責が今日ずっと幸せな分だけ痛みだす。
あの切長い目に見つめた「所縁」が運命を呼んでしまった?ずっと探していた家族の記憶が巻き込んだ?
この自分が求めることが唯ひとりの恋人を追いこんでいく、そんな想いが尚更に哀しくて、涙、今は止まらない。
「…っぅ…、…っ、」
運命を見つめた今日だった、8月からの現実と、優しい過去の記憶たちに出会った今日だった。
その全てに寄添ってくれる英二、ほんとうに天使のように美しい英二、一緒に居てくれて嬉しくて幸せだった。
美しい海の街、優しい二人の老婦人、可愛い猫と犬、甘い菓子を焼く香と潮騒の風、美しい黄昏と綺麗な桜貝。
何もかもが美しくて優しくて幸せだった、この幸せを英二は自分にも分けてくれた、その幸せな分だけ罪悪感が痛い。
ほんとうは美しい幸せのなか生きられる英二、それなのに自分の隣を選んで危険のなかにも英二は付いて来てくれる。
それは嬉しい、それは自分にとって救いで希望、けれど大切な人を護りたい願いには、この現実が心を切裂いていく。
どうしてこんなことになったのだろう、どうして英二のようなひとが自分のために傷つくの?
…おれが警察官になったから…好きになったから…ごめんなさい英二、おばあさま…すみれさんごめんなさい
なんど謝っても、償えない。
どうしてこんなことになったのだろう?自分が恋したことは間違い?
やっぱり独りきりで生きれば良かった?そんな想いが心切り裂いて痛い、痛くて痛くて、どうして良いのか解らない。
9月30日、忘れられない夜。
あの夜に選んだ自分の選択が、この今の哀しみを呼びこんだ。
あの夜に拒めば良かった、綺麗な笑顔の告白を断って、あの部屋から逃げ出せばよかった。
そうしたら英二は立つべき場所だけに生きられた、光一と出逢い最高峰の夢だけに真直ぐなまま生きられた。
…たすけて光一、お願い…どうか英二を攫って?最高峰へ攫って輝かせて…俺から英二をひきはなして
いま抱きしめている「小十郎」と一緒に出逢った、山っ子へ祈ってしまう。
あの幼い雪の日、雪の森に出逢った、誇らかな明るい目の少年へと救いを求めて祈りたい。
もう自分は幸せを十分に受け取ったから大丈夫、だから英二に自由になってほしい、こんな自分のために傷ついてほしくない。
だから願いたい、幼い日に自分の心を救ってくれたように、どうか光一に英二を救ってほしい。
どうか最高峰の夢へと攫って、あのひとの笑顔を輝かせて?
…光一、英二をつれていって…もう俺は充分だから、おれはもういいから…おねがい
ただ祈りに涙と嗚咽をとじこめてテディベアを抱きしめている。
その背中に温もりふれて、ふわり深い森の香と長い腕に抱きしめられた。
「…っ、」
抱きしめられた体が、息を呑む。
(to be continued)
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