GW四日目。1年のリズム練習、自由曲のカットを模索する合奏など。1年生もだいぶ部活になれただろうか。
まだまだ返事が小さかったり、自分から率先してやってる風はないが、歌の声も少しきこえるようになった。
コンクールメンバーとしても活躍してもらわねばならないので、今後成長のスピードアップのために手を変え品を変えやっていかねば。
連休中の宿題もきっちりやりなさい、最低限の両立ができないとだめでしょ、と語ってる以上、自分も勉強せねばならない。
と思って、少し予習した。GW前に、慶應の経済に受かりたいと相談に来た子がいたので、サヤカちゃんほどじゃないけど、相当やらなきゃなと話してた。とりあえず、小論文の過去問を十年分並べてみたが、どこから手をつけていいのやら。
6月に久しぶりに研究授業をするが、何をやろうか。「舞姫」にチャレンジしてみようかなとふと思い、とりあえず教科書をコピーし、過去にまとめたものを探したが、予習ファイルがみつからない。
とりあえず本文読みながら、しっかしこの豊太郎ってしょうがねえな、典型的なエリートお坊ちゃんだなと相変わらずの感想を抱いてしまったが、でもなぜこれが名作とされているのか、ダメ男だなあとみんな思ってるはずなのに、ほおっておけないのはなぜなのか、そのへんを解明したい気持ちもわいてきた。
授業の予習ファイルは見当たらないが、なんか結びつくかなと思うような、昔書いた文章が出てきたりした。
主人公と世間
「人間には努力が大切だ」
「家族を大切にしなければならない」
「自尊心にとらわれてはいけない」
「まず人間性を磨くことが大事だ」
高校2年生に「山月記」(中島敦)の主題を問うてみると、このように答える生徒が多い。
「山月記」には、妻子を顧みず己の詩業に執着し、その詩業が世間から評価されないことに苦しみ、発狂して虎になってしまう男の姿が描かれている。
たしかに、己の姿を猛獣に変えてしまうほどの自尊心の強さを読み取らせようという読解は行う。
しかし、そういう生き方はよくない、そのために家族を不幸にしてはいけない、などというメッセージを読み取らせようとしたことはない。
しかし、生徒たちは先のように読み取ろうとする。
そのように読み取るべきものだと無意識に思っているように見えるのだ。
石原千秋氏は言う。
~ 「思ったことを正直に言ってごらん」 私たちは教室で何度こういう甘い誘いかけを受けたことだろう。いや、何度こういう危険な罠を仕掛けられたことだろう。だが、間違っても「本当に思ったこと」など言ってはいけないのだ。 … (略) …
そう教室にはたった一つのことしか言ってはいけないのだ。道徳的に正しいことだけを。 (『大学受験のための小説講義』ちくま新書) ~
私たちは、教科書に掲載されている作品に対して、「いい作品」「すぐれた作品」という印象を抱いている。
児童・生徒に「読ませるべき作品」が目の前にあると思いこんでいるので、作品から何かを「学ばせたい」と考える教師性が顔を出す。
その結果、文学作品を読解するのではなく、文学作品から何かを学ばせようとし、道徳的なメッセージを求めてしまうのだ。
児童・生徒には、教師のもつ無意識の道徳性が隠れたカリキュラムとしてはたらくことになる。
だから「少年の日の思い出」から「ウソをついてはいけない」を、「走れメロス」から「信じることの大切さ」を読み取ればそれでいいと思ってしまうのだ。
それは文学ではなく道徳の授業である。
高校の教材を見ればわかるように、文学作品には、「道徳」とはほど遠い主人公たちの姿が描かれる。
・飢え死にしないために老婆の着物を強奪する男の話。(「羅生門」)
・好きな女性を手に入れるために友人をだしぬき自殺させる男の話。(「こころ」)
・留学先で異国の娘を孕ませ捨てて帰ってくる男の話。(「舞姫」)
作品を読んで、自らの生き方のお手本にしようなどと思われては困る主人公ばかりである。
小中学校の教材には、この反道徳性が鮮明に表れることはないのだろうが、文学の本質はこちらである。
文学と道徳とは反対の極に位置するのだ。
しかしそれは、たとえば近代小説の出自を考えてみれば、ある意味当然とも言える。
我々が生きる近代社会は、私たちを一市民、一個人と位置づける。
近代人は「私は他人とは違う」という意識を持って生きるようになる。
他人とはちがう何者かになれるとみんなが思い、自分の欲望はかなえられるという幻想をみんながもっている。
しかし、現実はどうだろうか。ほとんどの人間が、平凡な毎日を過ごさざるを得ない。
「何者かでありたい自分」と「何者でもない自分」の違いを私たちは思い悩む。
近代小説は、この悩みをもちながら生きている近代人を描いている。
いま「近代」と書いたが、実は日本に「近代社会」は存在しない。
世の中のいろんな組織やシステムは近代的なものになっているが、その内部にはたらくのは村社会の原理である。
日本人の行動を規制するのは「近代的市民社会」ではなく「世間」なのである。
一市民、一個人として当然の権利と思われる事柄でも、「世間が許さない」という理由で実行できないことも多い。 そして文学作品は「世間」のしがらみの中で葛藤する主人公を描きだす。
そのように描かれた主人公の苦悩を読みながら、私たちは「自分にはこの苦しみが理解できる」「自分にだけは主人公の気持ちがわかる」と感じるのだ。
近代小説の基底には、
「 主人公 ←→ 社会・世間 」
という構造がある。
文学作品を分析する際には、基本的にこのことを念頭におくべきである。
・主人公は、道徳的な存在ではない。
・主人公は「反世間・反社会」的存在である。
主人公は基本的に「世間」と反対側にいることを前提にしたうえで、その他の登場人物が世間側にいるのか、主人公側にいるのかを明らかにしていく。
構造読みで得られる分析とはまた別種の構造が明らかになっていくはずだ。
たとえば「故郷」の主人公「わたし」は、世間を生きる「閏土」や「揚おばさん」とは対比関係にある。
あまりにも世間知らずであるがゆえに、幼なじみに「だんな様」と呼ばれてショックを受けたりもする。
客観的に見ればたんに世間知らずの坊っちゃんである「わたし」なのだが、つい私たちは「主人公の心の痛みを考えてみよう」と問うてしまう。
「わたし」の勝手な思いこみで美化されている「故郷」であるが、現実の娑婆を生きる故郷の人々と接することで、彼の気持ちが変化してゆく。
「故郷」は、「故郷←→世間」という「わたし」の意識が「故郷=世間」に変化する物語、ということができる。
「走れメロス」では、主人公の「メロス」と「王」が対比関係にある。
では「人々」はどうか。暴虐の王、それを受け入れている人民、あわさって一つの世間を構成しているのだ。
「王」と「人々」は一見対比関係にあるようだが、「主人公」から見ると世間側つまり反主人公側である。
すると、「走れメロス」は、メロスがたった独りで世間に立ち向かおうとした物語、と読むことができる。
「少年の日の思い出」では、世間側にいる今の「わたし」が、まだ反世間にいた幼年時代の「わたし」を回想する。反世間的な自分にあこがれを持ちつつ世間を生きている「わたし」の感傷的な回想話である。
「オツベルと象」は、オツベルが主人公ではない。あまりにも純粋で無垢であることにおいて反世間的な「象」が主人公なのである。 (「読み研通信」81号)