♩ ドシテラベナ ドシテラベナ ドシテラベナ おばあちゃん
♩ 弘前の おばあちゃん
防護服を着た役者さんたちが、スパイダースの「エレクトリックおばあちゃん」を歌い踊るところから舞台は始まる。ていうか、この歌はてっきり「弘前のおばあちゃん」が曲名だと思っていた。若い方はなんのことかわからないと思いますが。
歌い終わると、停電になった病院の場面。
「非常用電源に切り替わるまでもちこたえろ!」「誰それはどうしてる?」といった騒然とした暗闇。
大きな地震が起き、青森県の原子力施設に事故が起き、停電になっている状況であることが徐々に伝わってくる。そして、何かが爆発し、崩れ落ちていくかのような音。
「役場から避難命令が出た」と誰かが叫ぶ。
一転して、笠原きい(80歳ぐらいの設定か)の実家と思われる一室。
中央に座ったきいが電球を手にすると灯りがつき、停電で暗くなった部屋を明るくする。孫のちよが、おばあちゃん、すごい! と手をたたく。あら、と言って嫁が掃除機のコンセントをきいの身体につけると動き出し、扇風機も回り出す。
電子レンジをつけるとブレーカーが落ちるようにすべての灯りが消えるが、再びついた時には、さらにいろんな電気機器のコードが体中につながっている。
なるほど、文字通り「エレクトリックおばあちゃん」だ。
するとSFか? 一体どう展開するのか思っていると、保険のおばさんが尋ねてくる。
「おばあちゃん、すごいね、今は青森県全域の発電量をまかなっているんだよ。もし万が一のことがあったら大変だから、ハルマゲドン2000という保険に入っておこうか」と声をかける。
「だぁいじょうぶだ、わはぜったい事故はおこさねえがら」
ひょっとしてエレクトリックおばあちゃんて、原発の象徴なのか … 。
病院の場面にもどる。孫や嫁を演じていた女優さんが看護士さんになり、「あたしのことを孫って思い込んでるんだよ」「あたしは嫁だって」と会話している。
つまり、あのおばあちゃんは、入院している、認知症のきいさんなのか。
体中につながれてしまった電気のコードは、スパゲッティ症候群とも言われる、末期の延命治療状態なのか。
すると、自宅のシーンは、きいの脳内イメージなのか … 。
こうして、病院、実家の場面が入れ替わりながら芝居がすすんでいくにつれて、それぞれのシーンが何重もの意味をもって迫ってくるようになる。
どこまでが現実で、どこからが空想なのか。すべてがイメージなのか、いやすべてが近未来の現実なのか。
突飛な設定と芝居で観客をつかんでおいて、いつのまにか本質へとひきこんでいく脚本はさすがとしか言いようがない。
役場が手配したバスにみんなが乗り込んだとき、きいを連れて行こうと看護士が説得する。
~ だって、きいは、こどもじゃないもん。ここでおとなになって、ここでおよめさんにいって、ここでこどもうんで、ここでこどもそだてて、ここでとしとったんだもん。きいは、ここでしぬんだもん。 … だれもいなくなっても、ここがいい。 ~
きいばあちゃんはぼけているのかと思わせておくからこそ、その言葉に宿る純粋な思いが際立つのだろう。
原発事故で故郷を離れざるを得なくなった人たちに、「嘆いててもしょうがないのだから、新しい土地で新しい人生を歩むしかないのではないか」とわれわれは簡単に思ったりする(おれだけですか?)。
しかし、当事者にとっては、なぜかわからないのだ。その土地で生まれ育ち死んでいくことのどこが不都合なのか。
映画「家路」もそうだったが、誰が悪いとか、何を返せとか、声高に叫ばない作品だからこそ、切実に訴えてくるものがある。
畑澤先生の志の高さをしみじみと感じさせられる作品だった。