水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

10月17日

2012年10月17日 | 学年だよりなど

 学年だより「遠回り」

 いろんな報道で聞いた人も多いかもしれないが、山中伸弥教授は、もともと研究者ではなかった。
 神戸大学の医学部を経て、整形外科医として臨床の現場で働いていたのだ。


 ~ もともと整形外科の臨床医だった私が研究者に転身するきっかけの一つは、ある重症リウマチの女性患者さんを担当したことでした。全身の関節が変形し、ベッドの傍らに置かれた写真にあるかつての面影をほとんど残していないその姿に、ショックを受けたのです。
 そして、基礎研究を行えば、こういう患者さんも救える治療につながるかもしれないと考えるようになりました。現状の治療法には限界があるということも、痛いほどよくわかりました。新たな治療法を求めて研究していくことは、患者さんを実際に診療するのと同じくらい、もしくはそれ以上に患者さんを助けることになるかもしれないと考えました。こうして、臨床の世界を飛び出したわけです。(『科学者になる方法 第一線の研究者が語る』東京書籍) ~


 せっかく医者になれたのに、なぜ? 私たち一般人は考えてしまう。
 しかし、山中教授は自分が本当にやりたいことは基礎研究だと思うようになった。
 実はこの転身にはもう一つの理由があった。手術が苦手だったのだ。
 手術の手際が悪くて、普通なら30分で済む手術が二時間かかる。同僚から「ジャマ(邪魔)ナカ」よばれたこともあると言う。
 そして目の前には手術さえできない重傷の患者さんも大勢いる。
 自分の無力感を感じた山中先生は、大阪市立大学の大学院に進み、研究者としての道を目指すことにした。ただしその後も、紆余曲折はある。まっすぐ万能細胞の研究に向かってわけではないし、アメリカ留学後には、精神的においこまれる期間もあった。


 ~ 振り返ってみると、そもそも整形外科医だったのが、ノックアウトマウスを使って動脈硬化の研究をするためにアメリカに留学し、気が付いたらむこうでは癌の研究をしていましたし、癌の研究をしていたはずが日本に帰ってきたら今度は万能細胞を研究していました。自分の中では、その時々の研究結果から興味の対象がどんどん変わっていき、それに従って行動しているのですが、フラフラしているようにしか見えなかったかもしれませんね。研究結果は予測できませんし、偶然に左右されたところも大きいです。
 はたから見たら、僕の人生は、遠回りで非効率に見えるかもしれませんし、無駄なことばかりやっているように思えるかもしれません。もっと合理的な生き方が出来たんじゃないの? と思われるかもしれませんが、そうやって遠回りしたからこそ今の自分があるんじゃないかと思います。(山中伸弥・益川敏英『「大発見」の思考法』文春新書) ~

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どういうことか

2012年10月16日 | 国語のお勉強

 代ゼミの先生の小論文の本を読んでいたら、「どういうことか」という問題で求められているのは、「言い換える」「まとめる」「埋める」の三種類だと書いてあって、なるほどと思った。

 ~ ①傍線部を〈いい換える〉、②本文中の情報を〈まとめる〉、③抜けている論理を〈埋める〉
 これらを区別しないと、〈いい換える〉問題でその辺の段落をまとめてしまったり、〈埋める〉問題なのに傍線部をいい換えてしまったりするんだよね。(鈴木鋭智『小論文のオキテ55』中継出版) ~

 すべての設問がきれいに①か②か③かにきれいに分類できるわけではないけど、設問に要求されているのは何かという観点をもってもらうのに、いい説明だと思った。
 少し使わせてもらって、様子をみてみよう。「言い換える・まとめる・埋める」の三つの観点。

 傍線部が問われるのは、何らかの理由で、そこが「難しい」からだ。
 傍線部が「難しい」理由は何か。
 そこに難解な語句がある場合、それ自体は難解ではないが本文独特の意味で用いられている語の場合、抽象表現、比喩がある場合。このときは「言い換え」でいい。
 傍線部内に指示語があったり、意味段落のまとめの位置に傍線がひかれている場合には、「まとめる」を用いる。
 傍線部に論理の飛躍がある場合。出口先生はこれを「AだからZ文」とよんでいた。その飛躍している部分を「埋め」て、つながるようにしてあげる。
 ②の場合は、本文のどこをまとめればいいかを見つけることがポイントになる。
 だから、その見つけ方を教えればいい。
 ①も、たいていの場合、本文のどこかに言い換えられた表現がある。それをまず見つける。
 ③は、その論理を読み取ること自体が目標だが、でも本文のどこかに、もしくは全体に書いてある。

 基本国語は、与えられた本文のなかにほぼ答えが書いてある、特殊な科目だとも言える。

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10月14日

2012年10月14日 | 学年だよりなど

 1学年だより「iPS細胞」

 山中伸弥教授がiPS細胞をつくることに成功したというニュースに接したのは5年前である。

 ~ 人間の皮膚細胞から、さまざまな臓器や組織の細胞に成長する能力を秘めた「万能細胞」を作ることに成功したと、京都大学の山中伸弥教授(幹細胞生物学)らの研究チームが発表した。患者と遺伝情報が同じ細胞を作製でき、拒絶反応のない移植医療の実現に向け、大きな前進となる成果だ。山中教授は「数年以内に臨床応用可能」との見通しを示している。(2007/11/21読売新聞) ~

 ~ 人間の皮膚細胞からさまざまな臓器や組織に成長する能力を秘めた「人工多能性幹細胞(iPS細胞)」をつくった京都大の山中伸弥教授(幹細胞生物学)らの研究グループが、課題とされたがん遺伝子を使わずにiPS細胞をつくることに人間とマウスで成功した。このiPS細胞は、がん化しにくいことも確認。臨床応用に向け、さらに一歩踏み出した。(2007/12/1読売新聞) ~


 研究が進めばいつかノーベル賞も間違いないと当時から言われていた。
 ただ医学・生理学の分野では、臨床(実際に患者と接しての診察・治療)での成果が出ていない段階で受賞するのは難しいという。
 受賞インタビューで山中先生も言われていたが、専門家であるなら「まだ」ないだろうという感覚の人は多かったかもしれない。
 しかし、我々素人は、マスコミは当然期待する。
 われわれの身体の一部から採取した細胞が、他のあらゆる人体のパーツに変わりうるという夢のような研究だ。これほどわかりやすい発明・発見はなかなかない。
 現在、さまざまな難病に苦しむ人々が、光明を見いだす気持ちになることも想像に難くない。
 山中教授の今回の受賞は、世界中の人々の期待の大きさが後押ししたものと言えるのではないだろうか。
 報道ステーションのインタビューで、山中教授がこういう主旨のお話をされていた。
「今この分野での競争はきわめて熾烈だ。とくにアメリカの研究機関が、大変なお金を使って国をあげてのプロジェクトになっている。これからも日本が一歩でも二歩でも先んじて研究成果を出していきたい。現在iPS細胞関連の様々な特許をとれている。とくにアメリカでの特許を成立させることが大事です。」
 特許をとるのはなんのためですかと古館キャスターが尋ねる。
「特許を、日本の京都大学が取得することによって、研究が公のものにすることができるんです。特許が一企業に属することになると、その企業の営利が第一優先になる。一つ一つの技術に莫大な使用量がかかり、当然薬や治療にも高額な対価が求められることになります。少しでも多くの人が研究の恩恵を受けることができるためにも、特許をとっていかないといけないんです」
 これを「志」と言わずして何と言おう。


 明日配る学年だよりを書くのに、ネットで関連のニュースを見てて思った。山中教授に比してわが国の総理の呑気さよ。
「山中先生ほどの有名人が資金に困っていると聞きました。しっかり支援させていただきます。私の妻も先生の所に寄付してたそうです」
 素人か。ていうか「先生ほどの有名人でも」って小学生か。おそくても、数年前のiPS細胞成功の時点で、国家戦略の一つとして絵を描くのが政治家さんの役目ではないだろうか。
 首相は井上ひさし『吉里吉里人』を読んでないな。日本からの独立を宣言した吉里吉里国に、武力制圧を決めた日本国だったが、その実行を阻んだのだ、吉里吉里国にいる世界中の要人たちだった。医学の粋を集めて作られた吉里吉里国病院には、世界中の指導者たちが、治療を受けたいと訪れて入院しているのだった。その人たちが奇しくも人質になる。なるほど武力を持たなくても攻撃されない国になるこんな方法があるのかと学生時代に思ったものだ。教師になった自分は記憶にとどめているだけだが、国の中枢にいる人たちはそういうことばかりあれこれ考えてるのだと思っていた。
 現実社会に目を向けても、医療の分野で、日本が吉里吉里国になる可能性は十分にある。というかその能力をもつ数少ない国のひとつのはずだ。その気になれば一番じゃないかな。ドナルドキーン先生が日本人になられたのも、医療への期待が一番大きいとおっしゃっていた記憶がある。山中先生ぐらいにとまでは言わないが、もう少し目線の広い方が政のトップになられてもいいのではないか、人材はいないのかとしみじみ思う。

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土曜な日

2012年10月13日 | 日々のあれこれ

 文系理系決定のための学年カリキュラム説明会があった。
 まず各教科の先生方がそれぞれの説明を5分づつ話すのだが、内容の説明から入り、いつしか今の勉強姿勢ではこの先不安だという話になる。
 カリキュラム説明というよりお説教の会になってしまったのではないかと感じてる子もいるように思えたので、最後の出番では、そうさせてる君たちがわるいんじゃあ! 的に話をさせてもらった。
 どちらを選ぶにしても、今の勉強姿勢ではだめなことはわかってるよね。
 文系か理系か、どちらかに丸をつけて提出すること自体が大事なんじゃない。
 そうやって選ぶことで、これからどうやって勉強していくか、残りの高校生活をどう過ごしていくか、ひいてはどんな大学に行って何を学ぶのかを自覚するために選ぶんだよ。
 まず自分の好きな方を選ぼう、興味のある分野を選ぼうという考え方があって、それは一面真理ではある。
 自分が好きなことというのは、一つの要素に過ぎない。
 これから幸せになるために、いい人生送るために大学に行くんでしょ。
 そのためには、自分という資源をどう効果的に用いるかを優先的に考えないといけない。
 自分の好きなことという一つの要素だけを大切にする愚をおかさず、自分がどういう分野に向いていそうなのか、どういう人間ぽいのかを客観的に考えてみよう。
 好きかきらいかより、適性があるかどうかの方が、実は大事なのです。
 あと、就職のことまで考えて選ぼうとする人もいるけど、それは非現実的だ。
 たとえば理系の方が就職がよさそうだからと理系の大学に行ったとする。でもそこで学んだ勉強をいかせる仕事につける人は実際にはほんの一握りだというのも現実だ。
 さらにぶっちゃけると、いま川東でやってる程度の数学が大変だと感じてるのなら、理系は向いてない可能性がきわめて高いのも事実だ。
 とにかく、教室全体がもう少し知的な空間になるように、みんなでがんばっていこう。

 ノーベル賞の山中先生も、最初は外科のお医者さんだったけど、あんまり向いてなくて、研究の方にうつり、それであそこまでになったのです。そんな高いレベルでも向き不向きはある … という話も入れようかと思ってて抜けてしまった。

 ほんとは超進学高のように、三年になってから文理を分けたり、もしくはそういう分け方をせずに三年になってからの選択科目で対応できるようになるのが理想かもしれない。
 でも、本校の生徒さんのニーズ、学力、入試の現状を考えると、これでも時間が足りない。
 中高一貫の生徒さんもライバルなのに、部活もやって勉強もやろうとしている。
 なんと欲張りな学校なのだろう。

 久しぶりに部活のない土曜で気持ち的に余裕があったので、みかみさんで味噌ラーメンをいただき、髪を切ってきた。古典の試験はめどがついたので、現代文をさくさくっとあげてソロモン入りしたい。

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残念

2012年10月12日 | 日々のあれこれ

 村上春樹氏のノーベル文学賞は今年もお預けだったが、村上氏が何を語られるかは興味があるので、はやく受賞してほしい。
 自分の中では、今年のノーベル文学賞を『ソロモンの偽証』(なかなか読めない)の宮部みゆき氏に、ノーベル文学新人賞を『ふがいない僕は空を見た』『晴天の迷いクジラ』の窪美澄氏に贈呈したい。
 映画部門では、「桐島、部活やめるってよ」に作品賞を、「かぞくのくに」の安藤サクラさんにノーベル主演女優賞を、「鍵泥棒のメソッド」に脚本賞を贈呈する。新人女優賞は橋本愛さんが圧倒的に支持された。
 吉田沙保里選手に国民栄誉賞が贈られるそうだが、あのカレリンを抜いたということだから、前田日明より強いということになる。今年のノーベル格闘技賞は決まりではないだろうか。
 あと、南古谷駅前「ラーメンみかみ」さんには、ノーベル辛味噌ラーメン賞が贈られる運びとなるだろう。
 営業的に言わせていただくと、今年の本校にはノーベル文武両道賞にノミネートされる資格あるんじゃないかな。

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ソロモンな日々2

2012年10月11日 | 学年だよりなど

  ちょっとだけ読んだ。
 体育館に設置された学校法廷。判事が、弁護人が、そして検事の藤野涼子が入廷する。
 いよいよ裁判がはじまる。
 「あんたたち中学生の分際で何やってんのよ!」と傍聴席からやじがとぶ。
 証人席に立った生徒指導の先生が、生徒を小馬鹿にしたような対応を続ける。
 そんな大人の態度にはいっこうにかまわず審理をすすめていく中学生たち。
 たぶん、こんな中学生がいるわけないとか、リアルじゃないとか感じる人はいると思う。
 中学生がこんな論理的に、こんなに冷静に、物事を語っていくことはできないのではないかと。
 アマゾンのレビュー見てたらやはりそういうのはあった。
 でもね、いるんだよなあ。
 前に、コンクールの役員で小学校の部を担当したことがある。
 審査結果発表の前に各団体の代表がステージわきにあつまってくる。 
 しっかりした顔で落ち着いている子もいれば、場慣れしてなくて、どうふるまったらいいかわからない子もいる。
 ある女の子が(小学校高学年の女子って、ほんとに大人だ)、ちょっと遅れてきた他の学校の代表に声をかける。 その子はみるからにおどおどしていた。「ここに並べばいいんだよ」一呼吸おいて「緊張するね」と笑顔で声をかけている。立派なお子さんだなあと感心した。
 そういう気遣いのできる子がいるのだ。
 その昔、担任の先生が出張で丸々一日自習という日があった。小学校六年生のときだ。
 せっかくだからクラスの問題点を話し合って六年二組の憲法をみんなでつくろうと提案して話し合った記憶が突然わいてきたが、当然中心となったのは、当時は早熟聡明であったみずもち少年である。
 中学生でも、たとえば全国大会に出てくるようなバンドのメンバーで、部長さんクラスの立場の人なら、藤野さんぐらいしっかりしてる子は絶対にいる。
 中学生でも、きちっと考えてきちっと話せる子はいるのだ。
 大人でも、だめな人はだめ。
 こんな中学生はいないだろと言ってしまう心の貧しい人には、この小説は楽しめないだろう。

コメント (3)
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ソロモンな日々

2012年10月10日 | 日々のあれこれ

 十数兆円の復興予算が、われわれの血税が、復興とは何の関係もない方面でどんどん使われている。
 「被災地の真の復興のために日本全体の経済再生が大事」というような文言が、基本方針に盛り込まれているためだそうだ。
 たしかに、日本全体が幸せになることで、日本中の景気がよくなることで、巡り巡って被災地にもなんらかのよい影響がもたらされることは間違いないだろう。
 ならば、福島の除染よりも、沖縄の国道整備とか、反捕鯨団体対策費とかの方がたまたま優先されていたとしても理屈は成立するのかもしれない。
 お役人てかしこいね。ちょっとした言葉をうまく盛り込むことで、広い範囲で、様々なことに財源を使えるようになっている。
 法律の条文に直接書いてないことでさえ、解釈の仕方でいろいろ読み替えて運用してきたのが我が国だ。
 言葉で書いてあるなら、理屈はどうにでもなる。
 日本の官僚たちの国語能力は、われわれ国語教師が育ててあげた結果、かくもエクセレントなものになっている。
 ただ国語教師たちは、言語能力は育ててあげたけれど、その力を何のために用いるべきかを判断する能力は育てられなかった。
 でも、それは国語科のせいではないな。だいたい学校の先生レベルの言うことに左右されるような生徒さんは、国の予算を決められる立場にまではならないだろう。
 この予算の運用の仕方を見ると、以前の「未履修問題」など問題のかけらにもならないようなものに思えてくる。
 少なくともわれわれは、自分たちの権益最優先ではなかった。
 筋論にしたって、東京都の私学協会会長さんだけがおっしゃっていたが、私立高校の裁量の範囲でできる「未履修」だったと思う。そう思っている人はいたと思うけど、それを口に出していえるのは、お上との力関係では都の私立だけだったのも現実だ。
 あれ以来、とにかくすぐに謝ろうと言った本校校長に、しばらく対応に追われてて学校説明会の日に供された登利平の鳥弁さえのどを通らずに「水持さん半分食べて」と言った校長に、なんとか元気になってもらいたいと思い、「見てろよ、うまくやってる県立高校め」と思いながら、そのあとバリバリ働いてるつもりだし、誰も言わないけど、うちの先生方はけっこうベースにその時の気持ちはあると思う。ずうっと後になってから実はうちも未履修でしたとか手を上げたようないくつかの私立には負ける気しないし。
 あれっ? なんか、ちょっと思いの丈を吐露するみたいになってしまった。
 それよりもソロモンだ。
 早くソロモン出ろ!と願うここ数日、ほかの小説を読む気がしなかった。
 『ソロモンの偽証第3部』が今日発売になるはずなので、西部地区高校音楽祭の打ち合わせに行きますと言って学校を早めにでて、ブックファーストによってみたが、まだ並んでいなかい。
 打ち合わせが終わり、いったん学校にもどり練習を終えて電話してみたら入荷しましたと言うではないか。
 くぅ~っ。少し早く行きすぎた。明日から、試験問題づくりとソロモンのせめぎ合いがはじまってしまう。

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10月9日

2012年10月09日 | 学年だよりなど

 1学年だより「ナルナル詐欺3」

 ~ よく、人には無限の可能性があるといわれている。
 だが、そんな「きれいごと」にだまされてはいけない。
 人の可能性は有限だ。育った環境でその人の将来の九割は決まる。まれにトンビが鷹を生む例もあるが、それはごく一握りの奇跡である。
 政治家の子供の多くは政治家になっているし、芸能人の多くの子供は芸能人になっている。芸術家の子供も芸術家を目指すケースが多いし、自営業の子供は自分でも起業している。小さいころからそのような環境で育てられてきたので、自然とその職業の素地が出来上がっているのだ。
 だから「今の自分は本当の自分じゃない」「俺は本気を出せばこんなもんじゃない」と思っている人は、自分の親をよく見るといい。
  … 誤解されては困るが、私は可能性をすべて否定しているわけではない。
 可能性を開花させる場を間違えるな、といいたいのだ。わかるだろうか。
 自分に才能がない世界でいくら頑張っても花は開かない。バラが育つのに適した場所があるように、苔が育つのにもふさわしい場所がある。その場所を早い段階で見つけたほうがムダな努力をしないですむ。(成毛眞『このムダな努力をやめなさい』三笠書房) ~


 成毛氏の指摘はきわめて現実的だ。おそらく人生の真実を相当言い当てているだろう。
 人は、自分の意志に関係なく、特定の環境の中に生まれてくる。
 たまたま、自分の生まれた家にゴルフのクラブがあった、ピアノがあった、スケート靴があった、パソコンがあった、将棋盤があった、というようなこともあり、たまたまそれに触れて自分の才能を一気に開花する人がいる。
 でも、そんな人はほんのひとにぎりであるという現実も我々は知っている。
 では、自分の才能を開花させる場をどう見つければいいのか。
 それはやはり日々の暮らしのなかで、目の前のことを精一杯やっていくこと、自分がいるその場所でできることを精一杯やり続けていくことにつきる。
 しつこいけど確認しておくと、じっと自分を見つめ続けるのは一番よくない。
 日々の暮らしを淡々と過ごしていく中で、どうしても気になる、気がついたらのめり込んでいた、それをやらずにいられない、というようなことができたとする。
 みんなが今やっている部活で、そういう状態になっている人はけっこういるかもしれない。
 それは、自分のやりたいことである可能性は高い。
 じゃあ、いっそ学校をやめてその道に専念すべきだろうか。
 作家の中谷彰宏氏が、「小説家になりたい夢をあきらめきれない、いっそ仕事をやめて自分をおいこんで小説に専念すべきでしょうか」という若者の質問にこう答えていた。
 「まず仕事をしなさい。目の前の仕事に打ち込みなさい。仕事をやめても、今のあなたには書く内容がない。仕事をばりばりやって人生経験を積んでいけば書くことがわいてくる」

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サラダ記念日

2012年10月08日 | 日々のあれこれ

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 いつかS先生と秋吉で呑んだ折、この歌の話題になった。年次研修で受けた講義に珍しくおもしろいのがあって、「サラダ記念日」の解釈を微に入り細に入り行う講義だったという。
 なぜ7月6日か、なぜサラダなのか、サラダをほめてるけどメインはなんだったのか、そもそも朝食か夕食か、するとこの二人の関係は … 。
 そういう内容を掘り下げていき、一種の歌から広がる世界を鑑賞できたと述べてらして、なるほどそういう話なら聞いてみたいと思っていろいろ考えた。
 この歌を載せている教科書もたしかあったはずだけど、試験ではどんな問題作るのだろう。

 この歌から読み取ることのできる作者と「君」の描写を説明したものとして最も適当なものを選べ。

 ア メインのグラタンの出来が今ひとつだったことは「君」の表情から気づいたものの、なんとかいいところを見つけて褒めようとしてくれる「君」の優しさを感じとった作者には、今日が生涯忘れられない日になることが予想され、あたたかい喜びにつつまれている。
 イ 知り合って一週間で「君」のアパートにお泊まりするとまでは思っていなかったものの、ここで家庭的なところを見せる機会だといきごみ朝食に手作りのドレッシングをつくったところ、見事に狙いがはまったことに内心ほくそ笑む作者と、純真な「君」の姿を読み取ることができる。
 ウ 「君」がこの世を去って一年が経ち、はじめて「君」を家に呼んでサラダをふるまった夜がまさか最後になるとは思ってもいなかったと愕然とする。ツナグへの依頼が叶って明日会えることになったが、彼に会う前に自分の気持ちを整理しておこうとしている。
 エ 「君」がいないと何にもできないできないわけじゃないとサラダをつくってみたものの、あまり美味しく感じることができず、ふたりでサラダを食べた頃の思い出にひたりながら、もう恋なんてしないなどという強がりを言うのはやめようと考える作者が描かれている。

  … だめだ。玄人筋から選択肢の神とよばれてるオレさまにも正解がつくれない。
 ひとつ言えるのは、かりに正解を書けたとしても、けっこう野暮な作業だということだ。
 ひょっとして、国語の授業は、一人一人の脳裏に広がる豊かなイメージを、狭く小さく限定するという性質があるのだろうか。
 いやいや、そんなことはない。イメージをふくらませるためにこそあるはずだ。

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ツナグ

2012年10月07日 | 演奏会・映画など

 小説『ツナグ』は半分くらい読んで、けっこうおもしろかった記憶があり、遠藤賢一と八千草薫のエピソードは、すぐ思い出せた。だとしたら映画の方がちょっと描写がもの足りないかな。もう少し遠藤賢一と家族との軋轢をうまく描くことができたのではないかとは思った。
 二人の女子高校生のくだりは、橋本愛さん、大野いとさんという今をときめく若い女優さんを見ていられただけで眼福なのだが、惜しむらくは橋本愛さんががんばりすぎていること。この演技がよかったという人の方がたぶん多いと思うが、個人的にはいつものクールなままがよかった。セリフもオーバーなしぐさも何もなしで的確に表現することのできる類い希な女優さんだから。
 そうか、今『ソロモンの偽証』を映画化するなら、藤野涼子役はこの子しかないのではないか。
 三つ目のエピソードは桐谷美玲さんが圧倒的に美しく、映画にではじめた頃とは見違えるようなお芝居だ。モデルさんスタートで役者になった方って、どんどん上手になるなとあらためて思う。
 たんにきれいな女性は街中にもちらほらいるし、お芝居の上手な方は小さな劇場にも山ほどいる。
 50人の前で演じる人より、1万人に観られる女優さんの方がえらいということは全くないけど、やはり人にはもってうまれた分と運とがあると言わざるを得ない。
 「大切な人が亡くなって、その人と会う」小説は山ほどある。
 他の作品とは何がちがうだろうと『ツナグ』を読みながら考えててそれきりだったが、映画を観て思ったのは、ほんとありきたりの感想だけど、死者を呼び出しているのは、会いたがっているその人自身にほかならないということだ。
 映画の後半でツナグ見習いの松坂くんが「なんか、魂を呼んでいるというより、人の想いとか記憶を集めて形にしてるような感じがする」って言ってたけど、そうなんじゃないかな。
 死んだ人が目の前に現れることはあるのだ。
 その人にとっては現れている。
 もちろん他の人には見えない。
 「では会ってください」と言われて入っていくホテルの部屋に、たしかにその人は来ているけど、かりに呼んだ以外の人がその部屋に入っても見えないはずだ。
 亡くなったあの人とあいたいという気持ちが強ければ、人はその人を目の前に作り出してしまえる。
 冥界と現世の使者「ツナグ」は、そんな気持ちをちょっと後押ししてくれるシステムだと思えば、荒唐無稽のお話だとは思えない。
 「後悔してないよ」という母親も、「道は凍ってなかったよ」という女子高生も、「あなたにあえてよかった、立ち直って前へ進んで」という恋人も、呼び出した本人がつくりだしたものと思えば、すべてつじつまが合う。
 そうやって、人は何らかの形で自分を納得させて前へ歩いて行かねばならない生き物なのだ。
 死んだ人にまで自分の背中を押させたがる生き物なのだ。
 ほんと、めんどうくさいけど、いとおしい。

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