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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

12月19日

2012年12月19日 | 学年だよりなど

 学年だより「これから」

 東日本大震災から一年と九ヶ月。被災地には未だに大量の瓦礫が残り、福島第一原発も、完全に廃炉にできるまで何十年の時間を要するかはっきりしていないどころか、一歩間違えば再び大惨事を引き起こす状態が続いている。
 経済に目を向ければ、低迷する景気に有効な手立てがないまま既に十数年が経ち、国の借金は増える一方だ。手をこまねいているうちにグローバル化はどんどん進み、今のままでは日本は国際競争を勝ち抜いていけないと述べる人も多い。
 そんな状況下にありながら、国の舵取りを託すべき方々のいかんともしがたい人材難が露呈している今、みなさんの中に、自分たちが大人になる頃には一体どうなってるんだろと思う人もいるのではないだろうか。もちろん大人も大丈夫かなと思っている。
 思ってはいるものの、具体的に何ができるかといえば、自分の持ち場で分に応じた仕事を一生懸命こなすことしかないのだ。
「日本が」とまで大きなことまで考えられなくても、せめて自分の所属する共同体が、家族が、自分自身が生き残るためにはどうすればいいかと考えて生きていくしかない。
 考えてすぐに何かやるべきことが見えてくるというものでもないが、少しでもいい人生を過ごそう、ほんの少しでも人様の役に立つ生き方ができたらいいと思いながら生きていくしかないだろう。
 人生を少しでもよいものにするために、豊かなものにするために、「知」の力は大きい。
 あまりにありきたりの話だが、やはり「学ぶ」ことが必要だ。
 大人も。当然、みなさんも。
 自分を取り巻く環境が複雑であればあるほど、たった一人丸腰で立ち向かっていこうとしても、どうにもならない。何か、武器を身につけなければ、相手にさえしてもらえない。
 人の世を生きていくための武器として、「知」ほど有効なものはなかなかないのだ。
 知を身につけるためには、まず第一に本を読む技術が要ると、佐藤優氏は述べる。


 ~ なぜ、読書術が知の技法のいちばん初めに位置づけられなくてはならないのだろうか。
 それは、人間が死を運命づけられている存在だからだ。そのために、時間が人間にとって最大の制約条件になる。少し難しい言い方をすると、人間は、制約の中で、無限の可能性と不可能性を同時に持って生きている。読者自身の人生を振り返ってみよう。いまとは違った可能性も十分あったはずだ。(佐藤優『読書の技法』東洋経済) ~


 人はどんな人生をも生きる可能性をもつ。
 しかし、実際に生きることができるのは一種類の人生だ。
 一つの人生を選択したとき、それ以外のすべての可能性は捨て去られたことになる。
 誰もがうらやむような素晴らしい成功を収めた人でも、別の道では全く成功できなかった可能性はあり、逆に別種のすばらしい幸せを手にしていた可能性も持つ。
 試練の積み重ねの人生を過ごす人も、人生のどこかで一本違った道を選んでいれば、全く違ったものになっていた可能性もある。
 人というのは、まさに無限の可能性を持ち、同時に自分が選んだたった一つの人生以外は、試してみることさえできないのだ。
 一人一人に与えられた時間の制約もある。
 努力を積み重ねた結果、やっとその成果が形になろうとした時、突如生を終えなければならないこともある。人それぞれにどれほどの時間が与えられているかは、誰もわからない。
 無限の可能性を持ちながら、理不尽とも言える制約を生きていくのが、人の一生なのだ。
 限られた時間を少しでも大切に生きるために、まして混迷する今に時代において、最低限自分を守り、自分の大切な人を守っていくためには、今の自分にできることは、しっかりと学ぶことしかないのではないだろうか。
 佐藤氏は、高校での受験勉強もきわめて大切だという。


 ~ 知識を着実に身につけ、人生を豊かにするためには、正しい道に沿って読書をすることが重要だ。 … まず正しい道、すなわちすでに確立されている伝統に則して本を読むことが重要だ。その意味で、読書術は基本的に保守的なのである。
 「受験勉強が現実の社会生活に役に立たない」という認識は間違っている。社会人が大学受験のレベルで必要とされる知識を消化できていないため、記憶に定着していないことが問題なのであって、受験勉強の内容は、いずれも社会人になってからも役に立つものだ。 ~


 受験勉強が役に立たないという考えは、「基本練習はゲームでは役に立たない」と言ってるのと同じなのかもしれない。
 何かを身につけていくそのやり方、物の見方、表現の仕方、様々なことを、学校では学ぶことができる。
 具体的な科目で考えても、英語力がそのまま有効であることは論をまたないし、たとえば数学の知識をまったくもたないままだと、ふつうに会社に入ってパソコンに向かって途方にくれる状況もあるだろう。外国の人と仕事をする際に、相手の国のことをあまりに知らないままでいられるはずがないし、日本の歴史の知識を持たずに話すのでは相手にしてもらえないかもしれない。
 これからの世の中、みんなが思っている以上に、今の勉強が直接役に立つ時代になっているように思える。
 みなさんは今いくらでも学べる状況にある。
 何回も言ってるけど、寝食の心配もせず、命の危険もなく、さあ純粋に学んでていいよと言われている16、7歳の若者が、全世界の同年代の中に何%いるだろう。
 これも、みんなが考えているより、ずいぶん少ないと思う。
 幸せな環境だと少しでも思えるなら、せいぜいそれを利用しなかったらうそだ。

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冬の歌

2012年12月17日 | 日々のあれこれ

 寒くなって、年末が近づいてくると、無性にカラオケに行きたくなってきて、もし行けたなら一曲目は「北風」か「白い恋人たち」かな、せっかくだから冬の歌でせめてみよう、続けて「メリークリスマスが言えない」「針葉樹」と入れ、古い歌しか歌えないんですねと言われかけたとこで、いきものがかり「雪やまぬ夜二人」をはさんで「雪の華」で泣かせにいってみたい、あと「冬のファンタジー」をデュエットさせていただき、「カルチェラタンの雪」でしめようか(結局古いのしか出てこない)などと妄想しながら生きていられるなんて、なんと脳天気なのだろう。でも、昨日の選挙結果をみるかぎり、自分以外の人もそうそうは頭つかってるとは思えない。ちょっと持ち歌にしたい曲があって、アマゾンで調べてみると、いろいろ入っている「TEARS」というオムニバス版があった。
 家捜しすれば半分は元のCDが出てきそうだが、これは便利と思って買った。
 1. One more time,One more chance  2. 月のしずく  3. 雪の華  4. Story  5. 愛し君へ  6. 流星群  7. 愛について  8. 明日への扉  9. 夢のしずく  10. 二人のアカボシ  11. FANTASY  12. I’m here saying nothing  13. DEPARTURES  14. Hello,Again ~昔からある場所~ 
15. ら・ら・ら 
 こんなに入ってなんと1円で落札しました!

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12月16日

2012年12月16日 | 学年だよりなど

 学年だより「かっこつけない」

 もうちょっとだけ水野氏ネタひっぱります。
 「女の子に道を聞く」決心をし、しかし声をかけられないまま六時間を過ごさねばならなかったとき、「カッコ良く生まれていれば、こんな思いはしなくて済んだはずなのに」と悔しさがこみあげてきた。みじめだった。それでも、水野青年は自分にこう誓ったという。


 ~ 顔とか、運動神経とか、センスとか、才能とか、そういうので負けるのはいい。
 それは、自分で選べるものじゃないから。
 でも、
 行動は、
 行動することだけは、
 決して、誰にも負けてはならない。
 なぜなら、
 それを「する」か「しない」かは、
 自分で選べるのだから。
 震えが止まらない足は  震えたままでいい。
 一歩、前へ。                (水野敬也『「美女と野獣」の野獣になる方法』文春文庫) ~


 たとえば大学に受かることも同じではないか。
 たとえば試合に勝って勝利の雄叫びをあげることも同じではないか。
 目標が高く険しいものであるほど、それを求め始めた段階においては、途方もなく大きな壁に思えて、本当に実現できるという実感などは抱けないものだ。
 最初から成功を確信して歩み始めた人など誰もいない。
 だからこそ、もがき苦しんで、あがいて、がんばって、いつかその山に登ったときには、山頂にいる自分が本当に自分なのか、夢ではないのかという思いがわく。
 どんなに大きな結果も成功も、最初に一歩踏み出したところからしかはじまらない。
 踏み出さない人には、何も訪れない。踏み出さない人に、踏み出した人の世界は見えない。


 ~ 「人間、一生懸命に生きているときって、あんがいカッコ悪いものなんだ。全力疾走してる顔って、ヘンだろ? それを無理してカッコいいって思う必要はない。でもな、カッコ悪い一生懸命さを認めろよ。憧れなくてもいいから、親父もやるじゃん、母ちゃんもがんばってんじゃん、先生も必死じゃん … ってな。で、おまえらは自分の考えるカッコよさを目指せ。オトナにお手本を示せなんて甘えずに、自分の道を一人で歩いてみろ」(重松清『空より高く』中央公論新社) ~


 やってない人ほど、「おまえ何マジになってんの?」とやっている人を笑う。
 そんなヤツは相手にしないで、かっこつけずに、ひたすら取り組んでみよう。

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「愛の山田うどん」応用問題

2012年12月15日 | 国語のお勉強

 『愛の山田うどん』は、教科書教材「世界中がハンバーガー」とつながる文章だったので、今回の試験の応用問題に使わせていただいた。高校1年生にはちょっとタフな問題だったようだ。

 

 『NAVI』(注)の特集記事にこんなことを書いてあったのが思い出される。二〇世紀、モータリゼーションが変えたのはロードサイドの光景だ。看板はアイキャッチとして巨大化され、派手なイメージカラーが施された。電気で煌々(こうこう)と輝くようになった。スピードが二〇世紀のロードサイドを変える。歩いてる人に見てもらうだけなら看板は小さくていい。文字が小さくても立ち止まって読んでもらえる。クルマに乗ってる人の目につくためには巨大化し、色で内容を連想させ、夜は光っていなくてはならない。モータリゼーションの発達以前には、そんな巨大な広告板も店の看板も必要がなかった。
 いや、これ大意ですけどね。そういう記事を読んだという話。僕がそれで連想するのは唐突だけど、アメリカのモダンアートの画家、エドワード・ホッパー(注)なんですよ。アメリカの荒涼としたロードサイドの孤独。ガソリンスタンドの看板が煌々と輝いていたり、ダイナー(注)に寂しげな人が座っていたり。最初、見たときは何が言いたいんだろうなぁと考えた。何を描いているのか。で、ちょっと時間をおいて思ったのは、a〈そういう光景の「発見」〉なんだろうなということ。絵に描く題材として、二〇世紀的なアメリカの荒涼が「発見」された。たぶんホッパー以前の絵っていうのはそういうものは描かなかったと思うのだ。自然とかヨーロッパの街並みとか、わからないが絵画ってそういうイメージだ。だけど、ここにも(二〇世紀的な)孤独や実存があって、それは圧倒的にリアルなんですよ、と知らない人ながらホッパーさんは語っている気がした。
 それならば僕にもわかる。僕もアメリカではないけれど、そういう光景のなかで育った覚えがある。あの感じは何と言えばいいのだろう。リアルなのだ。若者だった頃、b〈僕はその光景に少しいらだっていたと思う〉。郊外ロードサイドの量販店の看板。ありえないくらいでっかく「靴」と書いてある看板。強い色の発光看板。オレンジを見たら僕は牛井を連想する。ガソリンスタンドはいつも光のなかにある。そのなかにいると自分はものすごく匿名的だ。他に行くところがない。
 で、ここまでガマン強く読んでくれた読者は、僕が山田うどんのかかし看板にもエドワード・ホッパーを見出してることにお気づきだろう。僕は山田うどんは本邦初、和のアイテムだけ使ってダイナーを実現したのだと思っている。実はマクドナルドやデニーズより先に、ロードサイドに二〇世紀アメリカニズムを持ち込んだのは山田うどんなのだ。だって、山田裕通会長が七〇年代、アメリカ視察に出かけて「いくらかかってもいいから、あのケンタッキーの回転看板を日本に持って来い」とトップダウンで命じ、回転するかかし看板1号が所沢本店脇に建ったのだから。そのコストは採算を度外視したものだった。まだ回転看板を手がける国内業者はもちろん、海外メーカーの代理店も存在しなかった。アメリカでダイナーを実見した会長は店舗デザインにも工夫を重ねる。七〇年代、モータリゼーションの発達を意識したアイキャッチ看板、駐車場とセットになった店舗を構想したのは大変な先見性だ。
 それから日本にもモータリゼーションの発達が起きて、山田うどんも量的拡大の時代に入る。それまで観光地のドライブインしかなかったロードサイドに外食の嵐が吹く。農家が転業するケースが多かったと思う。あるいは田畑を売るケース。そこで起きたのはどんな革命かというと「近郊」「郊外」の発明だ。それまでたぶん日本に「郊外」はなかった。言ってしまえば単に田舎があった。関東・首都圏は大きく二分されていたのだと思う。街と田舎。繁華街と田畑。
 で、山田うどんのヘッドクォーターが何をしていったかというと、経験とカン。まあ、最初は経験も何もなかったからカンだねぇ、田畑を売りたいという噂を聞くと出かけて行って「うん、ここはいい」「ここはダメだな」。その基準は言葉にするとこうなるだろう。ここは「郊外」になるところか、ずっと田舎か。
 A〈山田うどんは「近郊」「郊外」をクリエイトしていく〉。「近郊」「郊外」は時代によって変遷していくから、エリアは次第に広がった。いやまぁ、ひとり山田うどんだけでなく外食産業「ロードサイド同級生」(注)たちも躍進していく。そうやって街や繁華街にはないカルチャーが生まれた。街や繁華街にない孤独や実存が生まれた。今や最もありふれていて、c〈匿名的で、リアルな「郊外」というものが形成されていく〉。
 東京のメディア関係者に山田うどんの話をすると、埼玉出身者じゃない場合の反応は決まっている。「うちの近所には山田うどんないんですよね」。それは都心に住んでいますよというサインでもある。
 都心に住んでいる人には「近郊」「郊外」が見えない。見えない円環が東京をとり囲んでいる。山田うどんはその見えない円環にかかしを建ててまわっているのだ。早口言葉じゃないが、かかしでB〈カシカ〉する行為だ。今、どの辺りが「郊外」か、かかしが教えてくれるのだと思う。ロードサイドのかかしはそんな意味を持っている。(北尾トロ・えのきどいちろう『愛の山田うどん』より)

(注)『NAVI』 … 自動車雑誌。
   ダイナー … 街道沿いにある簡便なレストラン。ダイニングカー(食堂車)が語源。
   エドワード・ホッパー … 画家。20世紀アメリカの具象絵画を代表する。
  「ロードサイド同級生」 … スカイラークなど同時期にチェーン展開し始めたファミリーレストランを指す。

問一 a〈そういう光景の「発見」〉とは、どういうことか。六十字以内で説明せよ。

問二 b〈僕はその光景に少しいらだっていたと思う〉とあるが、なぜか。最も適当なものを選べ。

 ア 気が付くと自分の周囲に広がり地域に浸透していたアメリカ型の新しい文化には、何か気詰まりなものを漠然と感じていたから。
 イ 土地に生きる個人の思惑などまったく気にしないような量販店の看板を見て、自分の存在価値に疑問を抱くようになってしまったから。
 ウ アメリカを彷彿とさせながら実態はそうなりきれてない文化と不完全な自分の生き方とが重なり、やりきれない思いにとらわれたから。
 エ 自分をとりまく環境のなかで、自分という存在が何者でもなく、またそれを打開することもできない現実を感じはじめていたから。

問三 傍線部c〈匿名的で、リアルな「郊外」というものが形成されていく〉とは、どういう現象をこう説明しているのか。最も適当なものを選べ。

 ア 都心とは一定の距離をもって生活しながらも、個人が自分のライフスタイルにあわせて自由に食事をするという現代的習慣をもつ人々の住む地域が広がっていること。
 イ 街道沿いに様々な外食産業が出店することによって、それまではあまり関わりを持たなかった都心と経済的、文化的に結びつくことができ、埼玉近郊は田舎とは言えなくなったこと。
 ウ 関東一円に広がる外食文化は、個人が特定されずに食事ができるという意味で最も二十世紀的な文化であり、都市の伝統の中で生まれた文化とは別種の自然発生的な文化が存在していること。
 エ 新しく誕生した郊外に住む人々は従来の価値観にとらわれることのない生き方を選択していて、そういう人々の存在に支えられて、山田うどんのアグレッシブなメニュー展開が可能になっていること。

問四 A〈山田うどんは「近郊」「郊外」をクリエイトしていく〉とあるが、それを可能にした要因は何か。本文から十二字で抜き出せ。

問五 波線部B〈カシカ〉を漢字に直せ。

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アンコン

2012年12月14日 | 日々のあれこれ

 アンコン県大会に出場しました。サックス四重奏チームが、みごと銀賞を受賞いたしました。
 応援いただいたみなさま、ありがとうございました!

 初めての県大会はどんな空気感なのだろう、「おいおい、おまえら、でかい顔してんじゃねえよ。すみで小さくなってろ」と常連の学校さんに言われるのを覚悟で、さいたま市文化センターに出かけていったが、コンクールのような騒然としたかんじはなく、むしろ楽器置き場の静かさが物足りないくらいだった。だから応援にきてくれたOBほった先輩の笑い声がやけにひびいたりした。
 コンクールでは混乱の極みとなる駐車場もおだやかだ。「ちょっと待って、まだ入れないで!」「○○高校、早く積めよ」的な怒号も叫び声もないし、吹連役員さんとセンター駐車場警備員さんとの指示ちがいにとまどうこともない。汗でどろどろの係の生徒さんもいなければ、なぜか日傘さして鷹揚に佇んでらっしゃる女の先生もいない。駐車場にもし入れなかったらどうしようなんて不安がすこしあったが、来年はもう少しぎりぎりに行こうかな。 
 へ? いま「来年」て言わなかった?
 いや、あの銀賞だったので … 。やっぱ人間少しでも上を目指さないといけないし、上はあれ(恐れ多くて言えないけど)しかないし、だとしたら県大に出ること自体は、ま、通過点ていうか … 。
 てめえ、寝ぼけたこと言ってんねえぞ。コンクールで初めてAに出たとき、いきなり県大に進めて、よし次はもっと上だと言ってて、その後どんな状況になってるのか、わかって言ってのか、こるぁ。そんなあまいもんじゃねえんだよ。
 いや、でも昔よりは現実をわかってるので … 。
 ほんとにわかってんのかよ、それより新人戦の曲とかできるのか。こんどは踊って盛り上げてってわけにはいかないんだからな。
 はい、がんばります。このごろみんな休まずに来てるので、なんとかなると思います。

 いただいた講評用紙には、CLの加藤先生、あのご意見番アッキーさまから、「ソプラノサックスの奏者の音楽性の高さに実に感心した」とのお言葉をいただいた。よかったね、いはら君。だから、そんなに泣くな。これからもみんなをひっぱっていってくれ。
 先生は、ひとり学校にもどり、おやつに買っておいた「ぐうちょきパン」のちくわチーズパンを食べて、採点をがんばるのさ。

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流れ星

2012年12月13日 | 日々のあれこれ

 終わりの集合で、「今夜は流れ星が見えるので、アンコンいい結果になるよう、みんなでお祈りしよう」という連絡がなかむら君からあった。
 午前は講習、すぐに部活、終えて採点、アンコンメンバーを送り、夜遅く娘のお迎えにいく。
「今日、なんとか流星群なんだって、最近よくあるよね」と空を見上げると、なかむら君の言ってたとおり新月の晴天で、実にきれいな夜空だった。
「あ、流れた」「ほんとだ」「久しぶりに見たな、昔友達とキャンプに行って、夜ずっと起きてると、ほんとに何度も見れ … 」「また」「どこ」「あっち」
 娘はさんこ、自分はいっこ、寒いからそれで中に入ったけど、見れてよかった。願い事の時間はなかった。

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習い事

2012年12月12日 | 日々のあれこれ

 試験が終わり、今日から午前は講習、午後は部活の日々になった。
 幹部たちからあがっていた練習計画をワープロで打ちながら、もう少し休みがあるといいなあと思ったものの、年末年始はスクールバスが動かないので休まざるを得ないし、入試の時期もまとまった休みがあるので、それ以外の期間はしょうがない。
 ただオフ日があっても、指揮のレッスンがあったり、国語や吹奏楽の講習会にでかけることが多いので、どんだけ仕事が好きなのかと思うが、これは仕事というよりは習い事の感覚だ。
 楽器を練習してできるように吹けるようになっていくのが楽しいのと同じで、国語の問題がうまく解けるようになり、うまく教えられるようになっていくのは楽しいし、指揮法は文字通り習い事だ。
 大人になっても習い事ができるのは、人生を豊かにする。
 たんにその習い事を身につけることの喜びだけでなく、教えてくれる先生がどれほどの時間を費やしてそのことを身につけてこられたか、どれだけの苦労をしてその境地に達したか、つまりその先生の人生全部の一端(矛盾してる?)に触れられる喜びなのだろう。
 でも高校生ぐらいだと、この感覚はわからないかもしれないな。30分のレッスンで何千円もするんですか? って思ってしまってもしょうがない。ちがうよ、何十年間プラス30分のお値段だから。
 仮にレッスン自体はたとえ5分でも、いや言葉一ついただくだけでも、それによって自分に変化がおこったなら、それはとてもお金になど換算できないレベルの話になる。

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ほんとに好きなら

2012年12月11日 | 日々のあれこれ

 大谷選手が日本ハムへの入団を決めたあと、花巻東高校さんには相当数の抗議の電話があるという。
 本人に対するもの、そして指導にあたっている佐々木監督への批判・バッシングが地元からもあがっていたそうで、それを受けて栗山監督が、学校に謝罪に訪れた。
 謝罪というのは、悪いことをした人がするものであって、栗山監督や日本ハムの今回に一連の行動が「悪いこと」にあたる要素はひとつもない。
 正式な手続きにのっとって、一番ほしい選手の交渉権を手に入れ、会社あげての力で口説き落とすという、不断の企業努力が目に見えるかたちで結実したすばらしい事例がそこにあるだけだ。
 大谷くんや佐々木監督は何か「悪いこと」をしただろうか。
 ドラフト前に自分の本心を発表したことが悪い? 心変わりが悪い?
 素直に自分の気持ちを口にすることが「悪」のはずはないから、翻意したことかな。
 でも、人は心変わりする。
 まして自分の夢の実現を第一に考えたとき、いろんな人の意見を聞いてよりよい方向が見いだせたなら、そちらを選ぶのが正しい選択であると、われわれは教えている。
 心変わりが悪いのなら、三年前のマニュフェストとは真逆のことしかしなかった某なんとか党さんて、何。
 自分たちの気に入らない人を追い出す様子なんか、とても子供達には知られたくない醜さだった。
 おっと、政治ネタはよくないですか。
 好きになった人がいる。
 その人に告白しようとしたら、他に好きな人がいることがわかった。
 でも、結婚してるわけではなかった。
 この段階であきらめる人は、もともとたいして好きではなかったのだ。
 日本ハムさんは、一位指名枠がむだになるかもしれないのを覚悟で指名したのだから、「翻意するならメジャーって言うな」とか言ってる他球団さんは情けなくて話にならない。
 星野楽天監督や、野村前監督まで、今回のことを批判されているようだが、立場ある方々なのだから、もうすこし考えてものをおっしゃられたらどうかと思う。
 どうも、えらい人というのは、一般人を上から目線で見られる。
 高校生はもとより、われわれ学校関係者を。
 栗山監督にはそういうところがないからこそ、本校の阿井監督も心動かされたのだろうと、あらためて思った。
 むしろ栗山監督にはこっちに来てほしいくらいだ。「おたくの監督さんをうばってごめん」て。親しい女子アナさんとか連れてあいさつに来るべきではないのか。
 あと、こういう件で学校に電話する人って、どういう人なんだろ。
 きっと名乗りもしないで、「どういう教育してるんだ!」とか言ってくるんだろうね。
 長年この仕事してれば、そういう電話もとってしまうことはあるけどね。そう言ってくるあんたを教育し直したいよ。書いたらすっきりしたので、採点します。

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12月10日

2012年12月10日 | 学年だよりなど

 学年だより「実践2」

 ついに生まれて初めてのデート、水野氏は緊張のあまりトイレに向かう。
 トイレで用を足し、エスカレーターで下の階におりてきた時のことだ。


 ~ 目に飛び込んできた光景に、胸が震えた。
   彼女が椅子に座って、俺の帰りを待っていたのだ。 ~


 「彼女が椅子に座って、俺の帰りを待っていた」光景の、どういう点に水野氏の「胸が震えた」のか、みなさんはわかるだろうか。
 彼女と二人でそこを訪れているのだから、席をはずしてトイレに立った水野氏を、彼女が待っているのは、普通考えれば当然のことだ。
 でも、水野氏にとっては当然ではなかった。信じられなかった。
 一人で座っている女の子が、「自分を」待っているという光景が。
 追い求めて、夢をみて、涙ぐましい努力をして、宮益坂を六時間20㎞歩き続けた過去の積み重ねのうえに、その日があったからだ。
 水野氏は、その光景を味わいたいと思った。もう一度登りのエスカレーターに乗り、降りてきて目に焼き付けることにしたが、さすがにそれは「俺、何やってんだ?」と思ったという。
 と同時に、過去のあの場面が頭に浮かんできた。
 見知らぬ女の子に道を尋ねるというエクサイサイズを自分に課した渋谷の宮益坂の光景だ。


 ~ もしこの瞬間タイムスリップして、宮益坂で足を棒のようにしている自分の前に立ち
「お前は将来、ランドマークタワーのカプリチョーザで素敵な彼女とパスタを食うことになるぞ」
 と告げたとしたら、そして、席に座っている彼女の姿を見せたとしたらたぶん、宮益坂の俺は、気絶したと思う。それくらい、ランドマークタワーのエスカレーターは、宮益坂の俺からは想像できなかった場所なのだ。
 行動を起こすことによって「現実世界が変わる」という感動は、
 映画でもドラマでも味わうことができない、
 お金では決して買うことができない、
 本当に最高の感動だと思う。
 だから、
 行動することがいかに難しいとは分かっていても、
 それが、いかに陳腐な言葉になろうとも、
 やはり、言わなければならない。
 実践して欲しいと。(水野敬也『「美女と野獣」の野獣になる方法』文春文庫) ~


 何かやろうと思ったとき、すぐに少しだけはじめておくことだ。後でがっつりやろうとすると、結局はゼロに終わる。今日思いついたことは今日中にちょっとだけでいいからやっておこう。

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綱引いちゃった!

2012年12月08日 | 演奏会・映画など

 大分市にはかつてコスモレディースという綱引きの世界チャンピオンチームがあった。
 このチームのおばちゃんたちのことは覚えている。十年以上前かな、なんかのバラエティ番組で、新日本プロレスの精鋭達に圧勝したシーンがあった。体重では圧倒的にプロレレスラーチームの方が上だし、なんといってもプレスラーなんだから、負けないだろと思って見ていたら、一瞬で負けた。中西選手が一番前でひいてたな。
 そのチームは、そうか大分のチームだったと、この映画をみてわかった。
 そして、大分市は全国的にみて知名度が大変低いことも。福井もそこでは負けないだろう。

 市役所に勤める井上真央ちゃんが、綱引きチームをつくって、市の知名度をあげるという使命を市長に託される。
 しかし、選手が集まらない。真央ちゃんは、財政上の理由から廃止されようとしている給食センターの職員からメンバーを募集しようと思いつく。
 チームが県大会で優勝したら、センター廃止を撤回するという約束を市長からとりつけることができた。真央ちゃんの母親の松坂慶子さんもセンターに勤めていた。
 集まったメンバーは、一癖ある女性ばかり七人、しかたなく自分も入りチームができあがる。
  メンバー一人一人のかかえるさまざな事情がからみあって、紆余曲折を経ながらも、最後は県大会本番にこぎつけるところまでを描いていた。
 「さまざまな」と書いたけど、やはり家族の事情だ。渡辺直美ちゃんが介護する認知症のお父さんの問題、旦那さんが怪我をして職を失った奥さんの暮らし、事故で夫をなくし、その夫の連れ子をずっと育てているお母さんの葛藤など。
 それぞれの家族の問題と、綱引きチームという家族的な集合体との問題とが、うまく重ね合わせながら物語が進行していく。はっきり言ってすべて想定内だけど、でも何度も涙腺がゆるんだ。
 あのお、正直に言ってしまうと、たとえば高校生が「絆を大事にしたい」とか「人生はうんたらかんたら」とか言ってるのを聞いて、心が揺り動かされることはあんまりない。
 でもさすがに40年、50年と生きた女性が、子育てやら仕事やらで男には想像できないような苦労を乗り越えたんだろなあと感じる方のセリフは、映画のセリフであっても重い。
 そういう重さを感じさせられる女優さんが集まってる作品だとも言える。

 さて、給食センターの廃止問題については、「やっぱり廃止して民間委託するので、綱引きチームは解散!」と命じる市長の風間杜夫が悪役に見える展開になっている。
 ただ、見ているこっちもだいぶ大人になったので、市長が給食センター業務の委託も込みで誘致してきた企業が二千人の雇用を生むと聞けば、市の判断としては正しいのかとも思った。
 給食センターの従業員をその企業に雇ってもらいつつ、綱引きチームも存続していけば問題はないのだから。
 そうやって落ち着いて話し合えばいいのだが、「あたしたちをだましたわね!」と乱闘シーンになるのは、大人げないけど、映画的には仕方ない展開だし、だから最後おもしろくなったんだけどね。

 ぜんぜん別件になってしまうけど、給食費は税金でまかなったらどうだろう。
 ただし、こども手当は一切廃止する。親に毎月いくらか渡す形で、トラブルがおきないはずがない。
 義務教育期間は給食も含めて公のお金で面倒をみる。
 そして日本の食文化を自然にうけついでいくようなメニューで供給する。
 授業はつまんなく思える子でも、給食は食べたいので学校にいこうと思わせるようなものをつくる。
 給食費の滞納問題もなうなるし、子ども手当ほどの予算は計上しなくてすむはずだ。
 この考えに賛同してくださる候補者に一票を投じられないかな。

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