それは、ずいぶん昔になってしまったが、2014・7・1集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更の閣議決定である。
これが何故許されるのか、ずっと小骨のように喉にひっかかっていた。
かつて自民党政権は奥ゆかしかった。
今や、当然に行われている、「全国戦没者慰霊祭」は1963・5・14第二次池田内閣で閣議決定された実施要項が法的な根拠となる。
その後も、1982・4・13「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と正式名称が鈴木善幸内閣の閣議決定で名称を定めた。
これらの閣議決定は周辺国への配慮のもとに、法律化を避けた苦心の方策であった。
こういうのが「閣議決定」の効用であり、重みであろう。
ところが、安倍政権は閣議決定で、「セクシーという語の正確な訳出は困難」、「妻昭恵は公人ではなく私人である。」なども行う。これは閣議の私物化という一種の独裁政治である。
平和国家として礎となる憲法9条の法解釈を閣議決定で行うという手続きはふさわしいとは思えない。
ここから安保関連法案へ進むのだが、法律化手続きの瑕疵と言いたい。道義的な意味でだが。
あの時、誰もが不審に思ったが、マスコミも学識者もあまりの非常識に唖然として反応できなかった。
これを許してしまったところに、現在のご飯論法やすり替え、と言った国会無視の自民党一党独裁の国家になってしまった顛末であろう。これじゃ北朝鮮や中国の一党独裁を批判できない。
ところが、最近ネットで、「文理解釈の枠を超えた法解釈は許されない。・・・それは法解釈に名を借りた法創造(立法)を行っているからである」という論考を読んで、少し気が晴れた。(引用文献:棟居快行『政府の憲法解釈雑考』)