今、木下道雄『側近日誌』を読んでいるが、これも文芸春秋社だが、解説は元共同通信で皇室研究者だった高橋紘である。
『昭和天皇独白録』の解説は「文芸春秋」の編集長だった半藤一利、両者ともほぼ同じ公表時期、どちらが先だか判らないが、半藤の立場ならば、かなりの箇所を突合できたのではないか。
その事が「独白録」の解説ではあまり触れられていないのが不思議である。より信憑性が高まると思うのだが、・・・。(漢字や助詞は少し違うがほぼ同じモノもある。)
元朝日の記者の田中伸尚は『ドキュメント昭和天皇』第七巻の中で、『昭和天皇独白録』は全編「私」だが、『側近日誌』は「朕」を使っていると指摘した。
ところが、昭和天皇が訴追されないことが公表されて、木下が件の「回想録」(=「独白録」)を持って行くと、その後に、また、新たな回想録を作らされたとか。それが、木下の手元にわずかに残った「聖談拝聴録」。そこでは「朕」と「私」の両方が使われている。
半藤ほどの大家であれば、これも織り込み済みのはずだが、こんなことを一杯抱えて、あの世へ行ってしまわれた、…。そう言った意味で憎たらしい人だが、考えれば、我々にまだ考えさせる余地を遺してくれたと感謝もしたい。
この写真を撮っていたら、後から声を掛けられた。振り返ると私と同じぐらいの爺さんがいて、「その先には何もありませんよ」と。
「知ってます。私も前に行ったことがあります」と返した。その爺さんは茅ヶ崎から来たそうだ。コロナ禍だとみんな人恋しい。