玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

木戸幸一の日記 -その3-

2021-09-15 11:20:34 | 近現代史

戦争が行き詰った1945年2月に、昭和天皇が首相経験者や重臣の意見を聞いたことがあった。その時に「もう戦争は負ける」と明言した「近衛上奏文」が出された。

他の重臣たちの時は必ず藤田尚徳侍従長が侍立(立ち合い)したが、近衛の時だけ、木戸が交代してくれと藤田に頼んだ。

その時の聞き取りメモ回覧には「侍従長、病気のため内大臣侍立す」と書かれ、木戸の日記にも「藤田侍従長風邪につき代りて侍立す」となっていた。木戸という男は嘘をつくにも周到なのである。(7・20付ブログにも記述)

木戸が逮捕されたときに息子孝彦に「戦犯容疑の最重点は東條内閣奏請にある」と言った。近衛第三次内閣の後、東條奏薦が重臣会議で決まったのは1941年10月17日である。

その日付けの木戸日記には「余より政変に至りたる経緯を説明、…東條陸相を御召あり、大命降下す」まで、僅か九行の記載であった。東條の他には宇垣一成や東久邇宮の名が挙がったとしか書かれていない。

その1か月半後の11月30日になって、近衛の内閣総辞職や東條奏薦の経緯が三頁にわたって挿入されている。この時間的推移に粉飾や虚偽の臭いがしてしまう。

ここでも個々の重臣の発言は記されず、最後に「東條の奏薦は…功罪共に余が一身に引き受ける」云々とある。日米開戦の12月8日の約1週間前に東條首相の功罪を言及するのか??敗戦後の後書き挿入の印象である。

ちなみに「木戸日記」の他日の重臣会議の発言メモは一人残らず克明に記録されている。僅か九行では東條内閣誕生に関わる各重臣の意見としては不十分である。この関係部分、私は「木戸は日記を削除・改竄した」と思う。

「主君に都合の悪いことを一部消すなど、木戸が日記に多少手を加えたことはあり得る」とジョン・ダワーも書いている。

尤も、この元の出典は粟屋憲太郎「東京裁判論」だが。粟屋の根拠は「日記中不利な点がある記述は、提出前に関係者によって、若干、消されたとの話もある」との都留重人の談話であるとか。

ここで纏めると、木戸の日記は、時には他者の目を意識して書かれていて、後から都合の悪い個所は削除・改竄したところもあるようだ。

ところで、昭和天皇は、何か理由があって「木戸日記」は「個々の事実は誤りはないが、全体の流れが正しくない」と「原田日記」を引き合いに出して、寺崎に言ったのであろうか?

これについては紙幅の都合で、また次回に、・・・。

 

 

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