寺崎の『御用掛日記』はほとんどが1,2行で、単語の羅列の場合もあり、まるで暗号か備忘録のメモのような場合もある。
ここで扱う1948年1月28日の件は全体で11行だから長い方である。
原田と木戸の日記の比較の前に、天皇の発言として、「重光ハ無罪トシナケレバナラヌト云イシ由」の1行がある。つまり、この日の拝謁では、天皇は東京裁判のことに触れているのである。
とすると、次の行の「原田日記ハ個々ノ事実ニ誤リアレド、全体ノ流レハ正シ、木戸ハソノ反対ナリ」ということは、どういう意味があるのか?そして「全体の流れ」とはどういう意味なのか?そもそも、日記というものに「全体の流れ」があるのか?
天皇によると、日記は全体の流れに沿って書くものらしい。ここで、仮に、「全体の流れ=国家の流れ」としてみよう。とすると、「木戸日記」は「個々の事実は誤りはないが、国家の流れとしては正しくない」ということになる。なぜ、そんなことを天皇は言うのだろうか?この言葉が解るのは天皇だけとして、実は、昭和天皇の漠然とした「木戸日記」の否定かもしれない。
何故、そう思うかというと、この二人の会話の時期には、東京裁判の真っただ中でもある。この二人の会話から約2週間後の1948年2月11日に木戸被告に対して英国のコミンズ・カー検事の最終論告が行われている。
その論告がどのような内容だったか、東京裁判期の「木戸日記」には「2月11日、今日は紀元節・・・検事の最終論告が始められ、まずキーナン、引き続きコミンズ・カー…」と簡単に書いてあるだけである。
ところが、息子孝彦のあとがきでは、「まことに緻密且つ有能なコミンズ・カーに交代し、同氏の強硬な異議を受け、…」と書いてあった。
近衛公上奏の時に侍立を交替させられた藤田侍従長の回想に、コミンズ・カーの最終論告の一部が出て来る。そこにはこうある。
「木戸の天皇に対する真実の態度は如何なものありましたろうか。彼は大いなる忠義を公言しているが、…原田の記録(原田日記)を承認するならば、木戸は内心天皇を秘かに軽蔑の眼をもって見ていたのが真実である。…」とあった。
こんな酷いことを木戸は言われたのである。彼の日記は何の反応もない。彼の性格の一端が出ている。
昭和天皇が寺崎御用掛に「原田日記」と「木戸日記」を寸評したら、僅か2週間後に東京裁判の最終論告に「原田日記」が出て来るのである。これは、一体どうしたことなのだろうか? 次回に、また。…。