白井聡のモノの見方には日頃から鋭い処があると見ている。が、この『国体論』は消化不良の感が否めない。まず「国体」なるモノの戦後生まれの共通の概念が既に失われている。
白井は「国体」を「近代日本が生み出した政治的及び社会的な政治機構の仕組み」としてとらえるが、抑々戦後の教育を受けた人間たちが其々に戦前文献から「国体なるモノ」を構築しても共通の概念とならない。
白井は「日本は敗戦という<例外状態>にあって、新しい民主主義的な法秩序を獲得したという外観の中で旧秩序の要である国体概念が守りぬかれた」というが、我々の周りのどこに「国体なるモノ」があるのだろうか。
戦前からの門地、家柄、血筋、財産といった旧既得権が残存している「旧支配層」が依然として在ることは認めよう。と云っても、思想としての「国体」を又取り出しても論理概念として復活しないと考える。
近頃、コロナ禍のオリンピックの開催を憂慮した天皇のお言葉をバッサリと切り捨て、バイデン詣りで大きなハンバーガーにパクつく卑しい姿が、白井ならば「新たな国体」と言うだろう。
「菊」から「星条旗」への移行説は、一見正鵠を得ているように思えるが、その鈎となる「国体」概念の意味自体が共同概念として成立していないから、多くの理解や批判を得ることはできまい。
その根底には、白井が考えている以上に、戦前の臣民だった戦後の人民(国民)は全く戦前の歴史を教育上の白紙とされて、一切の共通の理解を所有していない。
白井の考える「国体」という鈎で、この國のアメリカへの従属という体制を「新たな国体」と書き換えても、それを多くの人に理解させる、そして、それを再び概念化する意味が果たしてあるのだろうか。