一年前の1942(昭和17)年4月18日にドゥーリットル爆撃隊の本土初空襲があったことは事実である。「火災は早稲田下目黒三河島浅草田中町辺り、…」と永井荷風の『断腸亭日乗』に書いてある。
その荷風の住む東京でも、1943年8月3日の条に「先月来町会よりの命令で家々の縁の下又は庭上に穴を掘れり…」と防空壕の造成を命じられている。
防空壕を1943年7~8月に東京と軽井沢に同時期につくらせる。手元の文献上では、長野県と東京都であるが、全国的な規模で防空壕を作らせたのかもしれない。
1942年6月のミッドウェイ海戦の敗戦。1943年1月のガダルカナル島の転進、4月のアッツ島の玉砕までは周知されていたと思うが‥‥。
東京空襲は1944年11月であった。ほぼ1年3か月前に「防空壕を造らせる」ことになる。面子を重んじる東條政権がよく許したモノだと思う。
ふと、そんな疑問がわいてきた。戦況は深刻と政府は認めていたのならば、終戦はあまりに遅かった。
今のこの国も、メディアが隠蔽する、沈黙することによって、同じようなことが起きていなければよいのだが。