宮邸に戻ってきた時、アキシノノミヤは不愉快そうに顔をしかめ、着替えもせず
椅子にどかりと座り込んだ。
「殿下、お着替えなさいませ」
キコは宮を促し、侍女に着替えを手伝うように言う。
しかし、宮は動こうとしなかった。
「あなたは不愉快にならなかったのかい?あんなこと言われて」
それは皇后が「出産や育児に関してはアキシノノミヤ妃に聞きなさい」と言った事に
マサコが「結構です。母に聞きますから」と答えた件だった。
あの後、続きがあった。
皇后が「今と昔の子育ては違うようだから、私などもマコちゃんやカコちゃんの
時はあまり役立てなかったわね」
と、ちょっとキコを見て微笑みかけ、そのキコは恐縮し
「いえ・・皇后陛下に教えて頂いてここまで育てる事が・・・」
と言いかけた時、マサコがさらにたたみかける。
「宮家と東宮家では育て方も違うんじゃないんですか」と。
は?皇后は正直、マサコが言ってる意味がわからず、珍しく言葉を返す事が出来ず
一瞬ひるんだ隙に皇太子が割り込んだ。
「それはそうでしょう。僕達と他の宮家では立場が違うんだから」
「子育てに違いがあるとは思わないが」と天皇が口を出すと、皇太子はむきになり
「ミカサノミヤ家と東宮家では同じ子育てだったのですか?タカマドのお兄様は
そんな風にはおっしゃってなかったけれど」と言い返した。
「何がいいたいんだね」
「僕もアーヤもサーヤも、内廷皇族として厳しく育てられました。時々、自由な
あちらが羨ましいなと思いましたよ」
「自由って・・・・窮屈だったとおっしゃりたいんですか」
アキシノノミヤはさすがにむっとした。
確かに附育官のハマオは厳しい人だった。でも振り返れば全てにおいて
「ヒロノミヤ様最優先」だった。
イギリス留学にしたって、本人の希望が最優先で叶えられたではないか。
それでも「窮屈だった」と言いたいのだろうか。
「自由がないよ。皇太子という立場は。宮家はその点、自由だなあ」
「宮家も東宮家も、その立場に応じて不自由さを抱えているのではないでしょうか。
人はみんなそうだと思いますが。国民と私達という意味でおっしゃるなら、皇族には
皇族としての役目があり」
「オーちゃんみたいな事は言わなくてわかってるよ。すぐに正論で切り返して」
皇太子は横を向いた。
「私達、学習院は考えていませんの」
唐突にマサコが言い出したので、みな何事か?と耳を疑う。
「学習院を考えていないってどういう事かね?」
天皇の言葉は多少震えていた。天皇は学習院の同窓会の会長でもあるのだ。
「これからの時代は国際社会ですから、グローバルな教育を受けるべきだと
思うんです。私、子供にはそういう広い社会を見せてくれるような、私が受けたような
教育を受けさせたいんです」
「私達というと、皇太子も同じ意見なのかね」
「はい。この間、オワダご夫妻がいらして留学の話なんかをしたのですが。
やはり英語を身に着けるなら小さい時から教育すべきだって」
「英語より日本語が先じゃないのかね」
「勿論そうです。でも母国語は習わなくなって話せますけど英語はそうは行きません。
この僕だってなかなか・・・マサコには叶いません。英語が話せなければ国際社会に
取り残されてしまいます」
「キコはどう思うかね。今、マコとカコが学習院に通っているが、学習院の教育は
グローバルとやらからは遅れているのかね」
いきなり振られたキコは困り果てて、でもここは言わなくちゃとちょっと語気を強める。
「私は学習院に編入した時は日本語を話す事が出来なくて苦労いたしました。
でも先生方のお導きで、日本語のよさを知る事が出来たと思います。子供達は
今の所、普通の生徒と同じように教育を受けており、それで不足を感じた事は
ございません」
「普通じゃダメなんです。皇太子殿下の子供なんですから」
マサコの声が響きわたる。
「だってそうでしょう?私のお腹の中にいる子は将来の天皇です。帝王教育を
しなくちゃ。それはまず語学からじゃないですか。それに・・」
と、マサコは言葉を切り、あらためてキコを見つめて言った。
「ヒサコ妃が申しておりましたけれど、そちらのお嬢さん、タカマドノミヤ家のアヤコ
女王をないがしろにしているんですって?筆頭宮家の娘だからって」
「なんですって?」
思わずキコは椅子から立ち上がった。
「マコは・・・」はっとしてキコは椅子にもう一度座り、冷静になった。
「マコが何か粗相を致しましたか」
「ヒサコ妃が泣いていましたよ。学習院はアキシノノミヤ家とタカマドノ宮家を差別
しているって。アヤコ女王の方が年上なのに、アキシノノミヤ家はあなたが教授の
娘だからそちらのお嬢さんを贔屓しているんだって」
色を失ったキコの表情は固まってしまい、ノリノミヤが慌てて
「何をおっしゃるんでしょう。そんな話、私は聞いた事なくってよ」
「妃殿下が本当にそうおっしゃったのですか」
アキシノノミヤも黙ってはいなかった。
「あまり思い込みでおっしゃるのはどうかと思いますが」
「あら。お聞きになっていないの?タカマドノ宮妃が直々に学習院に抗議した事」
・・・・・・・・キコは答えなかった。
「つまり、そういう事があったというのを・・・あなたは知っていた」
宮は憮然とした様子で、椅子に座ったままだった。
「だからあの時、何も言い返さなかったんだろう」
キコは目を伏せて、黙々と侍女にマコとカコの様子を聞き、
アクセサリーを外し、着替えに部屋へ行こうとした。それを宮が押しとどめる。
「どうなの」
「その通りです。ヒサコ妃から学習院に抗議があったのは。初等科長がこっそり
教えて下さいましたの。そしてマコがあちらの女王殿下に苛められている事も」
「何だって・・・・・」
宮は声を失った。
「何でもっと早くそれを言わないの」
「殿下にこんな下世話な事を申し上げるわけには。馬鹿馬鹿しいお話なんですもの」
「どんな風にばかばかしいんだよ」
「マコも、あまり喋りたがらなくて。廊下でアヤコ女王がすれ違いざまに
「私の事を馬鹿にしているんでしょう。そう、お母様から言われているんでしょう」と
言ったり、「お姉さまじゃなくて女王殿下と呼びなさい」と怒ったり。マコは
どうしていいかわからず、休み時間も教室にいる事が多くなったので、先生が
おかしいと思ったようです」
「親の教育だな」
宮は切り捨てるように言った。
「僕達が結婚した時も、ノリヒトお兄様は「アキシノノミヤには公務の依頼がない
だろう」なんてマスコミに喋った事があっただろう?それだけじゃない。カコが
生まれる時も・・・日頃から僕達の悪口を吹き込まれているんだろう」
「そんな事、マコにはおっしゃらないで。マコに先入観を植えつけるような事は
したくありませんもの」
「じゃあ、何て説明するの?言いがかりをつけられている事に関して」
「何も申しません。いつかマコが気づく時まで」
「それじゃマコは苛められ損じゃないか。皇族が皇族を苛めるなんて。
僕だって苛められた事はあるよ。
「皇族だからって何だ」とか「税金で食ってるくせに」とか言われた。僕ら皇族は
一度はそんな事を言われて傷つくものだ。でも、同じ皇族から・・・」
「マコには気にしないようにと申しました。そもそも現場を見ているわけでは
ありませんから、何もできません」
「だったら現場を押さえればいい。ボイスレコーダーとかビデオとか」
「殿下」
「でも、マコの事だよ。マコが苛められているんだよ。あの子の心に傷が
残ったらどうするんだ」」
「マコは大丈夫です。信頼できるお友達も沢山いますから。殿下は子供達の事になると
すぐに熱くなるので困るわ。この件は私にお任せ下さいな」
宮はぶすっとふくれる。キコはそんな宮の手を引っ張って部屋に連れて行った。
結局、あの場は天皇の
「宮妃たるものがそのような事を言う筈がない。きっと聞き違いをしたんだろう」の
一言で収まった。
誰もがそんな筈ないと思ったのだが、せっかくの夕食の席をそのような話題で
閉めるわけにはいかなかったのだ。
マサコは気分を害したようで
「うそつき呼ばわりですか」とつぶやいた。皇太子が「まあまあ」と宥めるセリフだけが
むなしく響いたのだった。
「おかえりなさいませ」
侍女と一緒に玄関に出迎えに出たヒサコは、形だけ頭を下げて宮を迎えると
さっさと自分が先にリビングに入った。
宮はそんなヒサコの態度も慣れっこになっているのか、別にどうというわけではなく
着替えを済ませると、ワインを持ってこさせた。
「今日はどちらにお出ましでしたの?どちらの大使館でしょう」
嫌味たっぷりにヒサコは言い、わざとグラスになみなみとワインを注ぐ。
「仕事だって言ってるじゃないか。それは事務官の話でわかってるだろう」
「事務官はあなたのお味方でしょうから」
「いい加減にしろよ」
宮は声を荒げる。
「ワールドカップの日韓合同開催がきまりそうだから」
「ワールドカップって、日本で開催される予定の?」
「そう。それを日韓共同開催にしようとしているのさ」
「そんな事が出来るんですの?」
「出来るさ。韓国側が要求しオワダ氏が日本政府にかけあってる。多分
日本は承諾するだろうね。植民地時代の事を蒸し返されたら困るのは日本だ。
日韓共同開催が決まったら、僕を名誉総裁にしてくれるってさ」
「皇室がこの件に関わっていいのですか」
「かまやしないさ。どうせ僕らは末端宮家。皇族であって半分違うようなものだ。
だがな、いつまでも末端で終わる気なんかない。僕が名誉総裁になってソウルの地を
踏めば歴史的な快挙になる。オワダ氏はそのおぜん立てをしてくれるというんだよ」
「皇太子妃のお父様が」
「皇太子の父親は見る目がある。無論、利害関係があっての事。そしてこちらに
とっても渡りに船さ。だからせいぜい皇太子夫妻にごまをすらなければ」
「それは大丈夫よ。マサコ妃は皇室では孤立しているし。私ぐらいしか味方がいない
から。でも、ハーバードを出てると偉そうな顔して、本当に嫌だったら」
「仕方ないだろう。うちには男子がいない。金ばかりかかる娘達3人しかね。
こんな筈じゃなかったのに・・・・側室が認められない世の中が恨めしいよ」
「・・・・」
ヒサコは押し黙ってグラスにワインを注いだ。
長女・次女と続いた時はまだこんな風には言わなかったのに、3女が生まれた
あたりから宮の態度が冷たくなり始めた。年齢的にもこれ以上の出産が
望めないとわかったら、途端に手の平を返すように冷たく・・・
「ああ、君が男の子を産んでくれていたら。娘しかいないミカサノミヤ家の後継ぎ
として、皇位継承権を持つ王の家として、もう少し予算を増やして貰えたかも
しれないのに。皇族とは名ばかりの自転車操業じゃ、プライドもへったくれもない」
宮はそう言い放つと、グラスをおいて、さっさと引き上げてしまった。
一人残されたヒサコは、飲み残しのワインを一気に飲み干し、グラスを床に
叩きつける。カシャーンと乾いた音がしてガラスが散らばった。
「妃殿下。どうなさったのですか」
慌てて侍女が駆けつけてかけらを拾い始める。
「お怪我は・・・」
「人を馬鹿にするんじゃないわよ」
ヒサコは叫んだ。侍女はびっくりして、逃げるようにほうきを取りに下がる。
細かく砕け散ったグラスの破片をぎりぎりと踏みつけて、ヒサコは唇をかみしめた。
「私だって好きで女ばかり産んだんじゃないわ。何でそれがわからないの。
本当にあの人は身勝手。いえ、そもそも温室育ちの皇族に人の気持ちなんか
わかるはずないわ。いい気になってると今に痛い目に遭うから」
ヒサコはふんとかけらを蹴っ飛ばして、自分の部屋に引き上げた。