トシノミヤアイコ・・・以後、称号で呼ばれる事のない内親王誕生後、
マサコは非常に上機嫌でハイな状態が続いていた。
天皇も皇后も内親王誕生に嬉しそうにねぎらいの言葉を述べ、新年の写真撮りの時は
主役のような扱いであったし、東宮御所の雰囲気も今までとはがらりと変わり
マサコに好意的に(今までそうでなかったという事ではない)思えたし。
子供・・・皇族の子供を産むという事が、こんなにも環境を変えるのか、「母」としての
権威を高めるものなのかと驚くばかりだった。
「ご出産後の体調重視」の為、正月から全ての公務に欠席しても何も言われなかったし
少しでも「疲れた」と言えば、すぐに「横におなりになって・・・」と女官が飛んでくる。
アイコと一緒だと、誰もが自分に頭を下げる(今まで頭を下げなかったという事ではなく)
彼らの姿に爽快感を感じたのは事実だった。
アイコを見ていると、その弱弱しさがまるで自分のようだと思った。
アイコはよく泣く子だった。まだ生まれたばかりなのに手がかかる・・・そんな印象だった。
マニュアルでは生まれたばかりの子は寝るか飲むかのどちらかでしかないと書いてあったのに
アイコはなかなか寝てくれなかった。
最初は母乳で育てようと必死になったが、どうにも出ないのでミルクに切り替えた。
「お腹が一杯になれば寝ますよ」と女官が言うので、調乳する時に「すりきり一杯」と書かれて
いるのを無視してミルクを増やしてみたり、3時間ごとではなく1時間おきに与えてみたり
したのだが、ちっとも飲まないしただただ泣くばかり。
「妃殿下、お休み下さい。あとは私達が」と養育係がアイコを連れて行く。
ほっとすると同時に、何となく「母失格」の烙印を押されたようで腹が立った。
養育係にしてみれば、時間や量を無視してミルクを与えたりされると、その後の育児が
めちゃくちゃになると思い、妃殿下には任せておけない・・・というだけの理由だったのだが。
マサコはマサコなりに育児書を研究しているつもりだったが、相手が人間であるという事を
忘れているようだった。
それでも眠っている時のアイコは可愛らしかったし、皇太子も積極的にオムツを替えたり
してくれるので、まあ、これはこれでいいのかと思う事にした。
キク君が雑誌に「マサコ様は私どもの望みにもきっと再びお応え下さるでしょう。俗に
一姫二太郎って言いますしね」と発言したそうだ。
それを聞いた時、マサコは言うに言われぬ怒りを覚えた。
まだアイコが生まれて1月にしかならないというのに、もう2人目を望まれているのか。
一体何様なの?あの人、自分は一人も産んでないくせに。
「一姫二太郎」というのは、子育てしやすい順序として最初は女の子、次に男の子を育てる
方が育児しやすい・・・・という意味なのであるが、マサコは「最初は女の子なんだから次は
男子を産め」と言われているような気がしたのである。
「ひどいわよ。人を子産みマシーンのように」
マサコは言うにいわれぬ怒りを抱えて、自分の部屋に閉じこもった。
困り果てた皇太子が「僕からおば様によく言うから機嫌を直して。今はアイコがいるんだから」
と慰めてくれた。
タカマツノ宮家からのお祝いの品には目もくれず礼状も出さなかったし、ぜひ
赤ちゃんの顔をみたいというキク君の希望も無視した。
祝いといえば、皇室では育児用品は代々持ち回りだった。
ベビーカーやベビーベッドなど、ノリノミヤが使ったものをアキシノノミヤ家に伝え
そして皇太子家に戻って来たのだ。
しかし、マサコはその古いベビーカーやベビーベッドを使わず、物置に押し込めてしまった。
東宮家に待望の第一子が誕生したというのにお古を渡されるとは思わなかった。
その事一つをとってみても、アイコが不憫だった。
そういえば、床を張り替える時もなんだかんだと文句を言われたっけ。
おもちゃ一つをとっても皇后はねむの木学園だのアサヒデ学園のものを取り寄せたり。
何もかも貧乏ったらしいったら。
日本一高級な家に生まれた内親王なら、レースのカーテンがついたゴージャスな
ベビーベッドでフランス製の産着を着て、ディズニーの音楽に囲まれて育つべきではないか。
3月になり、アイコを連れて初参内。
賢所皇霊殿に謁するの儀という仰々しい儀式。にこにこ笑うようになったアイコは
マスコミ中の目をくぎ付けにして、久しぶりにマサコも満足した。
東宮御所で行われた内宴は華やかで、子供を産んで本当によかったと思った。
「まあ、ともかくおめでとう」
高級フランス料理店「パッション」の一室では、ヒサシとユミコ、レイコ夫妻にセツコ夫妻
そして皇太子とマサコの総勢8名で、華やかな宴が催されていた。
ヒサシは少し酒が入って機嫌がよかった。
「うちにとってもアイコ様は初孫ですからなあ。嬉しさもひとしおですよ」
「そうねえ。次はレイちゃんかせっちゃんよねえ」
ユミコもにこにこ笑っていた。
「お姉さまが先に産んで下さってほっとしたわ。そうでないと私達もやりにくいわよね」
とレイコが言うと、セツコは苦笑いしながら
「そんな事まで順番って言われてもね・・・」と言葉を濁した。
「何でもいいから早く産んで頂戴。二人とも。孫は沢山いた方がいいもの。私は一人っ子
だったから寂しかったわ。親戚も少なかったし。いつかこの部屋でいとこ同士が集まって
わいわいい出来たら楽しいわよね」
「まあ、お母様ったら気が早すぎるわよ。私はともかく、せっちゃんなんて結婚して何年
経ってるのよ」
レイコの毒にセツコはうんざりした様子で「今日はお姉さま達のお祝いなんだから」と言った。
「子供がいると今までと何か違う?」
その問いには皇太子が「すばらしく違うよ」と答えた。
「日々、アイコの笑顔や眠る顔を見るだけで幸せだし、とにかく可愛いね。子供というのが
こんなに可愛い存在だったとは思いもしなかった。幸せですよ。僕達は」
いわゆるニヤケ顔の皇太子のノロケ話にみな微笑んだ。
「じゃあ、将来お嫁さんに・・・なんてダメよね」
「ああ、今からそんな事は考えたくないなあ」
皇太子は声を立てて笑った。
「レイコ。アイコ様は内親王だぞ。将来、天皇の娘となる方だ。気軽に結婚なんか
出来るわけないじゃないか。後々女帝になるとしたら、その夫となる人は
厳選しなくてはならんしな」
ヒサシの目の光にみな一瞬、黙った。
慌てて皇太子が「女帝だなんて・・・・」と言いかけるのをヒサシは止めて
「殿下。あなたは将来天皇になる方ですぞ」
「それはそうですけど。愛子には皇位継承権はありません」
「なら皇位継承権を持つお子様をもうけるべきですな」
急にその場が凍りつく。マサコは色を失って父親を見つめた。
「お父様はアイコが女の子だった事が不満なの?」
「いいや。心からめでたいと思っているよ。まあよくわからんが俗に一姫二太郎というし。
一人目を産んだら二人目も出来やすいというし。皇統の安定の為には妃殿下にもう一人
頑張って貰わないと。アイコ様にも兄弟がいるといいだろうしね」
ヒサシは皇太子にワインをついだ。
「しかし、妃殿下の夫は皇太子殿下。将来の天皇陛下だ。天皇には次の皇太子が
必要なのだ。それはおわかりですね」
「はい」と皇太子も答えた。
「マサコが不甲斐ないものだから殿下には非常にご迷惑をおかけしていると思いますよ。
でも、大丈夫。アイコ様が生まれたのだから、次もすぐに出来るでしょう」
「ちょっと待って。お父様。私達、まだそんな事」
「私は皇室の側に立って話をしているのだよ。今の皇室典範では女性天皇は認められていない。
何が何でも男子が必要なのです。アイコ様が男子だったら問題なかったんですがね」
ああ・・・・とマサコは全身から力が抜けていくのを感じた。
小さい頃感じた、父の自分への失望。その記憶がよみがえってきたのだ。
父の失望の根本原因は自分が女だった事にあったのだ。
父は息子が欲しかった。自分の跡を継いで外交官になる息子が。
自分はそんな「幻の息子」の座をかけて戦ってきたのだ。
少しでも父の理想に近づきたいと思った。父に愛される為には勉強を頑張るしかなかった。
頑張ってハーバードにも入った。外務省にも入った。
外務省時代、「オワダの娘」という事で自分がどんなに誇らしい思いをしたか。
そしてその「誇らしさ」は父も同じなのだと思ってきた。
「オワダの娘」が「皇太子妃」になり、父の栄耀栄華の望みは着実に叶いつつあると。
自分こそがその手助けをしている者だと。
生まれてから40年近く、自分はただただ父に愛されたい一心で、進路も結婚も決めてきたのだ。
その結果が今。
その結果がアイコ。
なのに・・・・・アイコが女の子だったから、もう一人産め?
なぜ満足できないのだろう。皇太子の娘がオワダの孫になった事でもういいではないか。
父は何が何でも「天皇の祖父」になりたいのだろうか。
ついさっきまでの、アイコを産んだ事の誇らしい気持ちがあっさりと消え、マサコは急に
恥ずかしくなった。
そんな気持ちになる自分とアイコが可哀想でならなかった。
誰だって性別を選んで生まれてくるわけではない。これこそ神の視えざる手のなさること。
その責任を押し付けられているのが自分なのだ。
「今はアイコで手一杯でとてもとても」
ヒサシの思惑を知ってか知らずか皇太子は相変わらずにこにこ笑って言った。
「まあ、子供がいるのは楽しいですから何人いたって僕は構いませんが」
「それこそオーケストラ並みに?」
レイコのジョークにみな一様に乾いた笑いで答えた。
しかし、マサコは笑えなかった。
結婚してから8年。
外国旅行を止められ、国内のやりたくない公務をおしつけられてきた。
誰が何と言おうと嫌なものは嫌。出口のないトンネルに入り込んだような生活に
耐えて耐えて8年。
やっとアイコが生まれ、これからは自分の好きな事が出来るのではないかと
希望を持った矢先。この世で最も愛する父親がまだ不出来だというのだ。
「男の子が生まれなかったらどうなるの」
ぼそっとマサコが尋ねる。ヒサシはちょっと考えて
「その時は、さっきも言ったがアイコ様に女性天皇になって貰わないとな。
マサコ、このまま男子が生まれなければ皇統はアキシノノミヤへ行く。多分その時に
あらためて女帝問題が出るだろうな。そしたら女帝になるのはあっちの長女という事に
なる。そうならない為には皇統は皇太子殿下の直系でという事にしないといけないのだよ」
アイコに生まれた意義があるとしたらそれは「女帝」になる事なのか。
マサコはそう理解した。
アイコには自分と同じような思いはさせたくなかった。
自分がしっかりと教育して、父にも他の誰にもぐうの音も言わせない娘にする。
彼女はそう誓った。