2003年 12月3日 雅子妃帯状疱疹
軽い風邪だと思っていたら・・・実は帯状疱疹だった・・・雅子様はストレスでとんでもない病気を発症してしまいました。
幸いにして発見が早かったので重大な事にはならず、宮内庁病院で受診したのち、すぐに戻られました。でも何日かは点滴治療が必要でした。
精神的に追い詰められている雅子様は側近のいう事には耳を貸さず熱が下がるとすぐ小和田家へ電話をしました。
電話の先では母君が心配そうな声で「様子はどう?」とお聞きになります。
雅子様は「全部お父様のせいだから!」と突然言い放ちました。
「どういう事なの?」
「こんな事になるとわかっていたら結婚しなかった。私は嫌だったのにお父様のせいで私は結婚したのよ」
母君は何を言われているのかわからず、何とか詳しく聞き出しました。
「愛子様が障碍?それ、本当なの?」
「・・・そうだって医者が言うもの」
「なんて事なの・・うちの家系にはそんな子はいないのに」
「だから全部皇室が悪いんでしょ?そうでしょ?そういう所にお嫁に行けっていったお父様が一番悪いのよ!」
「電話では話せないでしょ。お父様に相談するから」
電話は切れました。
でもそれで諦める雅子様ではありません。
毎日のように小和田家に電話攻撃をして、お父様を責め続けるのです。
そして「愛子が3歳になるまで公務を休む」と勝手に宣言してしまったのです。
千代田では突然の病と休養の皇太子妃を心配し、情報集めを始めたのですが、湯浅長官は「皇太子妃殿下の帯状疱疹は大した程度ではないのですが、とにかく妃殿下は暫く休養なさりたいと」
「治るには時間がかかるのか」と陛下はお尋ねになりました。
「1月静養されれば公務に戻る事が出来るでしょう。しかし、妃殿下はその後の公務も拒否なさっており、説得の仕様がございません」
「皇太子は?」
「さあ・・・林田に聞いてみたところ、全て妃殿下のおっしゃるようにとのおおせで」
陛下はため息をつきました。
やっぱり小和田家ではダメだったのだ。
ご自分は正田美智子という完璧な女性を手に入れたが、その真似をした皇太子は失敗したのだ。そうは言っても、今更どうしようもなく。
しかし、こうしている間にも皇統が途切れる可能性は高くなる一方で、それを考えるだけでも陛下は具合が悪くなりそうでした。
「陛下。秋篠宮妃のご年齢もお考え下さい。あとがありませぬ」
「皇后はなんと言っている?」
「皇后陛下におかせられましては、やはり東宮家にと。しかし皇統は皇太子様までは決まっています。問題はそのあとなのです。皇太子妃にその気がない以上、もう秋篠宮家に頼るしかないのでは」
「しかし、皇后が紀子を心配している。また中傷されるのではないかと」
「なぜ皇后陛下は紀子様をお守りにならないのですか?私にはわかりません。陛下だってお孫様は多い方がよろしいでしょうに。わざわざ産児制限をかけてまで・・まるで小和田のように」
「湯浅」
陛下はたしなめました。
本当は陛下にもわかっていました。
皇后陛下は昔から感情的に考える質であること。
皇太后さまに「いじめられた」と感じてそれを恨みに思い、平成の世になっても吹上御所には住まず、わざわざ「新しい宮殿を」と頼んで来たことを。
一見「吹上御所を大宮御所に」というのはいい考えのように思えるのですが、結果的に一度も見舞いにいかなかったし、庭も荒れ放題なるままにさせておきました。
つまり皇后陛下を怒らせると、その後が怖いのです。
何でも完璧な秋篠宮妃は、皇后陛下にとってそれはそれで脅威なのです。
だから、結婚の時は職員宿舎に住まわせ、狭い部屋で永遠に暮らせと思ったのですが、故秩父宮妃が「筆頭宮家なのになぜこんなお住まいに?あまりにも不憫です。私が死んだあとはこの宮邸を使っておくれ」と遺言を残され、秋篠宮家はやっと真っ当な宮邸に住む事が出来た程です。
皇后陛下にとっては、会津藩繋がりで秩父宮妃が異常に紀子妃に肩入れするのを苦々しく思っていたし、常陸宮妃や高松宮妃、三笠宮妃にも好かれている紀子様が憎らしいと思われていました。
それゆえに「男子の誕生は絶対に東宮家から」と思って来たのです。
しかし、そんな事を言っている暇はありませんでした。
陛下は「湯浅に任せる」とおっしゃいました。
2003年12月11日湯浅長官は定例記者会見において、まず雅子様のご病状について触れました。
「(ご負担が)病気にどう影響したかは分からないが、 公務に支障がある状況が続いたのは、我々にも責任がある」と謝罪しました。
「この1年、愛子様のご養育と公務の両立に悩んでおられたようである。妃殿下としてじゃもっと内親王のご養育に専念なさりたいお考えだったが、公務との関連もあり、なかなか難しかった。東宮職でも妃殿下が非常にお悩みであった事に気づかなかった。それは宮内庁の責任であると思っている。今後のスケジュールに関しては把握していくつもりだ」
と述べました。正直、記者達は何を言ってるのかさっぱりわかりませんでした。
なぜなら皇太子妃という身分は育児に専念しなくてもいい立場だからです。
元外交官である雅子様はお子様は周囲にお任せになり、皇室外交に打ち込まれると思っていたのです。
ところが全然その気配がない。
という事は宮内庁が意地悪をしているのではないか。
そのような考えに至ります。
「雅子様を子産みマシーンにして男子ばかり産めというから、雅子様は悩まれたのだ」と結論づけました。
でも、そうなると「世継ぎ」は?
記者達はそこを質問しました。
すると湯浅長官は
「「皇室の繁栄を考えた場合、3人目のお子さまを強く希望したい。多くの国民は歓迎してくれるのではないか」と述べました。
実質的な産児制限解除の瞬間でした。
2004年1月1日 天皇一家
お正月から雅子様は一切の公務にお出になりませんでした。
宮内庁は「3月まで公の事は控える」と発表。
マスコミは「わざと仕事をさせないのでは」と疑いました。
マスコミの流れとしては「雅子様にお世継ぎのプレッシャーをかけ続けた宮内庁が悪い。だから雅子様は帯状疱疹になるまでストレスをため込まれ、心を病まれたのだ」という論調が幅を利かせ始めます。
さらに「愛子様が天皇ではなぜいけないのか」とも言い出します。
「マスコミを手中に収めれば怖いものはない。勿論、金はかかる。そこは東宮家で持て。内廷費からだせばいい」と雅子様の父君はそう豪語しました。要するに自分の手を汚す気はまるっきりないという事でしょうか。
大量のお金が各週刊誌や新聞社、そして大鳳会にも流れ始めます。
けれど、雅子様は少しも気が晴れません。
愛子さまを見る度に苦しくなるし、愛しているのに愛せない。
なぜこの子はこうなのだ・・・とそればかり考えてしまいます。
そしていつも矛先は父君に向き、「お父様が無理やり結婚させた」と電話で叫び続けるのです。
「お父様のおかげで東宮御所に住むことが出来て、贅沢な生活が出来るんじゃないの。文句を言ったら罰が当たるわよ」と母君は諫めましたが、雅子様は「外務省にいた方が今よりずっと自由で贅沢出来た」と言い返します。
父君は娘が外務省でお荷物になっていた事を知っていますから、今更そんな事を言い出す雅子様に正直うんざりしていました。
父君だって本当はもっと雅子様には期待していたのです。
ちゃんと結婚してすぐにご懐妊して、男子を産んでいたら、その子は将来の天皇です。
小和田家の権勢は並びない程に強くなった筈です。
それなのに出産まで8年もかかり、日本で最高の産婦人科医を選んでやったというのに女子しか産まず、しかもその子が自閉症かも・・・とは。
「俺の人生はついてない」と父君はいつも思っていました。
世間からは「小和田さん程出世した方はいないでしょう」と褒められますが、
ご自分の野望は全然達成されていません。
皇族の外戚になったがゆえに、政治的な立場は控えろと言われたり、欧州のセレブたちには金の力も及ばず、未だに「あなたは誰?」状態です。
貧しい家から成りあがってここまで来たというのに。
「ああああわかったよ」と父君は電話でおっしゃいました。
「だったら愛子を連れて軽井沢へ来ればいい。あそこの別荘で好きなだけ暮らせばいいさ」と。
軽井沢の別荘というのは、当時、小和田家が所有していた別荘の事です。
しかし、皇族の静養地としてはふさわしい場所ではありません。
静養するなら那須か葉山の御用邸がと言われます。
そもそも、ご懐妊前にスルガ銀行の別荘に宿泊した事を識者たちに
「いかがなものか」と言われて以来、御用邸以外の静養は半ば禁じられてきました。
両陛下も皇太子時代は軽井沢のプリンスホテルで夏を過ごすのが通常でしたが、即位されてからは「なぜ御用邸にいかないのか」と責められて、現在は控えている状態です。
ましてや御実家の別荘、それも部屋数が少ない所に皇太子一家が宿泊するというのはお付きの事を考えるとありえない選択でした。
でも父君は
「皇太子を泊めなくてもいいから。送り迎えだけさせろ」
その言葉に雅子様は「そうね・・行くわ」と答えました。
軽井沢。以前から好きな場所。
そこで娘と二人だけで回りに誰もいない状態で・・・だったらそれが一番いいわ。
早速、雅子様はその事を皇太子様に告げ、
「え?軽井沢?」という間もなく、さっさと荷造りさせ半ば強引に皇太子殿下を伴って東宮御所を後にされたのです。
早速外出をかぎつけたマスコミには「今回の静養は長野です。長野に到着するまでは報道をしてはいけない、長野県のどこに滞在するかも申し上げられません」と申し入れをしました。
記者から「なぜ車にカーテンを?」と聞かれた東宮大夫は
「愛子様がチャイルドシート嫌がり、妃殿下がお抱きになっているのですが、それは道路交通法違反になる為、国民の模範としなければならない皇族がそのような姿をお見せするわけにはいかないとの判断です」
「長野では小和田優美子さんがいて、ご一家と一緒に過ごされています」
実際には、先導車、護衛の車、30台を引き連れてのものものしい姿で長野へ向かったので、マスコミが追いかけないわけがないのですが。
しかも、軽井沢の別荘地には検問所が設けられて、片っ端から職務質問されるという異例の警護ぶりに、周辺の住民も怯え、とても生活しづらい環境におかれる事になりました。
前代未聞の静養が、この先の雅子様の方向性を決めていくのでした。
いつも投稿ありがとうございます。
公に報されたご発言を元に、臨場感たっぷりで、多くの方に読んでいただきたいです。
だからこそ、引用は正確にしていただけるとありがたいです。
湯浅長官の発言で、「皇室の繁栄を考えた場合(東宮家に2人目の、秋篠宮家の繁栄を考えて)3人目のお子さまを強く希望したい。」とカッコ内が省かれて拡がっために、長官にも秋篠宮家にも風当たりが強くなったと思っています。
当時、週刊誌やテレビの報道を見ていて、謎だったことがするすると、氷解しました!
大好きなふぶきさんだから、お願い!
雅子さんのことを「元外交官」と書かないでください。ふぶきさんのような方がそう書くと、知らない人はほんとかと思います。もちろん、雅子さんは外交官だったことはありません。
見舞いかどうかはともかく、美智子さんは大宮御所に行き香淳皇后にひどい仕打ちをしたと言われています。
暑い盛りに冷房を切り女官たちに「皇太后さまはお昼寝なさっているから、だれもお部屋へ行かないように」と命じて去った。あとで女官が蒸し風呂のような部屋に放置された皇太后さまを見つけ啞然とした、等々。
相当ひどいいじめをしたといわれています。
優美子さんは本当は薄々気付いていたのでは?
「もしかして雅子と同じ?」と。
優美子さんも軽めの同類かグレーゾーンなら気付かないかもしれませんが。
アスペルガーの方の中には、雅子さまの不思議な言動にシンパシーを感じる方もいるようです。
あー、自分と同じだと。バッシングもよく似ていると。
私が見たブログの方は、だからこそカミングアウトして啓蒙して欲しいそうです。
でも、逆に「雅子さま・愛子さま優秀=自分も優秀」の論に持って行きたい方もいるでしょうね。(篠原氏妻とか?)
原資は?どう捻出した?具体的な損失金額は?
ご存じの方、いらっしゃいますか?
私は内廷費その他から好きに引っ張り出すための蛇口だったのではと思います。
大好きなおとうさまのために被服費を削る言い訳とか、似合わない高価な着物を用意したくないのでとか。そもそも流用前提があってはならないのですが。
まことしやかなあれこれ、ネット上で目にしました。
中抜き、バックリベートお手のもの。
張りぼて妃がハイブランドのバックやアクセサリーをみせびらかすごとに何割ぬいたかなと思っていました。
国産の御用達は誇り高いのであえて避けていたと見ていました。
小和田親子は皇室と日本に大きな蛇口をとりつけ、好き放題したと思います。
美智子さんの葉山での長期静養は、人目につかない夜に出発したそうで、もしかしたら雅子さんと同じような状態だったのでは?と思います。平成になってすぐの失声症も、ヒステリーと言われていました。
なので、愛子さんは正田と小和田の遺伝の結果なのではないでしょうか。
日本の上流や名門と呼ばれる家は、側室で繰り返し民間の血を入れてきたおかげで、近親結婚の弊害をまぬがれたともいわれていたそうです。ヨーロッパでは、ロマノフ王朝もアルフォンゾ王朝も、長い間の近親結婚の弊害で肉体的精神的に欠陥の多い王が続出し、ついに王室が崩壊している例が少なくないのだとか。
翻って日本は、近代に明治天皇、昭和天皇と英邁な天皇が続きました。明治、昭和の日本が大繁栄したのも、天皇と無関係ではないと思います。
知能は母親からの遺伝といいますけれど、本当はどうなのでしょう。優秀だと宣伝されてきた知能の女系継承の結果を見ると、感慨深いものがあります。
この頃まではまだ東宮を信じてましたわ。
キャリアウーマンである雅子さんでも
皇室ってストレスなんだな~って。
ところがどっこいギッチョンチョン。
続きが楽しみです。
これを読んで覚醒される人が多いことを望みます
(いえ、フィクションですけどwwww)
山芙蓉さまの考察に大きく頷きました。
日本人の血税で医療、特別な教育を受けている半島由来の人がいかに多いか。引きこもりと騒ぐが半島由来の人の割合はどうなの?と。
美智子さん、バックが堤だとすると世論など自分たちの都合の良いように思うがまま。
おいたわしい皇太后、激動の昭和を耐え、しかし世論は一斉に虐め首謀者のように無責任に噂し、それでも嫁に好き勝手にさせない天皇が在った。
同じDNA、大陸も半島も駄目だと、何より欧州王族の態度が言っているではないですか?
美智子さんが各国を飛び回ってもそっぽを向かれたのであろう事は即位の礼の来賓を見ても想像出来ます。