2005年 8月10日 那須静養
雅子さまにとって一番好きな静養地は那須でした。
この年の夏、那須へつくといつも通りの日常がまっていました。
すなわち、夕方5時以降に那須ステンドグラス館へ行って・・・閉館時間などは気にしません。むしろ、閉館以降の方が自由に見る事が出来ます。
庶民には出来ないパイプオルガンを愛子様と奏で、音楽というよりいたずらですけど、それでも二人にとっては「音楽」には違いなかったのです。
さらに「初めてのお買い物」をさせるべく、愛子様に籠をもたせると、愛子様はところかまわず、あれもこれもとぽんぽん籠に入れていくので、その様子が面白くて、雅子様は大笑いされました。
3日後には高級なホテルへ行って、ディナーをコースで食べたり、翌日には、昼間、コート3面を押さえて、テニスに興じます。
一般人はコートの使用が制限されますが、そんな事はどうでもいい事。
そおn後は、りんどう湖ファミリー牧場へ行って、打ち上げ花火を見る。
翌日にも同じところへ行って、メリーゴーランド、スイス鉄道、ちびっこ乗馬、ペダルボートに乗った時は、皇太子様があせだくでこがれるという事もありました。
御用邸はまるで東宮一家しかいないように、人払いされ、到着しても挨拶一つなし。
そういう気軽さが大変雅子様にとって大事な事でした。
しかし、後に、ここでの「テニス」が大波紋を呼びました。
なんとテニスをしたのが8月15日だったのです。
両陛下は「日本人が忘れてはならない日」として、6月23日、8月6日、8月9日、8月15日と定めて、その日はお慎みになるのが慣例。
しかし、雅子様はその日に頓着する事無くテニスに興じられたのです。
勿論、側近はお止めしたりはしません。
どんな罵声や暴力が返ってくるかもわかりません。一応、職員もサラリーマンといえる立場なので、ご主人様の機嫌をそこねて首になるのはいやですから。
2005年 8月22日 帰京
2005年8月29日 奥志賀静養
こんなにも静養のハシゴばかりをしていれば、当然批判が来ます。「雅子様の一体なにがどう具合悪いのか」「テレビで見る限りお元気そう」などと言った声が聞こえてきます。
友納尚子は「元気な振りをしているだけ」「今の雅子様には好きな時に好きな事して自己達成感を得る事が最も重要」などと書き立てますが、一般社会にこんな人がいたら回りが迷惑というのはわかりますので、「雅子様は大好きでお可哀想」派と、「皇太子妃の役割をきちんとすべきではないかという意見に分かれていました。
その間にも、有識者会議では「天皇の長子が皇位を受ける」という事について議論され、賛成が多数を占めていました。
そこには、皇后陛下の「心の友」とも言われる緒方貞子も含まれていました。
つまり緒方貞子は「皇后陛下」の代弁者としてそこに入っていたのです。
ゆえに、「女帝賛成派」の中に彼女がいると言う事は、つまり皇后さまもそうであるという意思表示です。
かつて、皇后様は「皇位に関する事は継承者が考えること」とおっしゃっていたのですが、近頃はすっかり愛子様を女帝にしなければならないと思い込んでいらっしゃいました。
それが息子の平安な日々を取り戻る大きなきっかけになるなら是が非でも。
皇室は男系男子のみが継承するという皇室典範など、皇后陛下にかかってしまえば、法律の「ほ」の字にもならない。
国民の圧倒的な支持を受けている皇后さまの思いは絶対です。
雅子様にとって、そんな皇后陛下の考えは渡りに船です。
遊んでいる時は、愛子様も楽しそうに見えるし、娘を出しにして自分が楽しむ事が出来る。
忘れたい。娘の障碍も、将来も何もかも忘れてしまいたい。
雅子様は取りつかれたように静養出ては、あっちこっちと食べに行ったり、買い物をしたりを繰り返しました。
2005年10月5日 桃華学堂で紀宮結婚記念宮内庁楽部の演奏会
2005年10月9日 葉山静養
いよいよ、紀宮様の結婚式が迫って来ました。
紀宮様の降嫁、これこそが、有識者会議の狙いどころでまさしく「女帝」が誕生する大きなカギになっていたのです。
病気を盾に静養というレジャー三昧。
どこが帝王学を受けた皇太子?
どこが国民に寄り添って?
宮中のお慎みの日は終戦や広島長崎原爆投下の日、沖縄戦終結、皇族の命日など昭和からたくさんありました。
昭和天皇が御存命の時代には関東大震災と二・二六事件の日も含まれていました。
なるさんも知ってるはず。
令和のメディアは秋篠宮家に一切言及せず上皇ご夫妻と今上一家だけが「ご黙祷されました」と大々的に報じますが、お慎みの日に秋篠宮家が何か私的お楽しみをなさったことは1度もないんですよ。
上皇の皇太子時代、(浩宮も)何度か昭和天皇は不快或いは不可解なご感想を呟かれています。
昭和天皇は皇太子と浩宮に対して「なにもこんな日に…」と。
が、お慎みの件で礼宮時代の秋篠宮殿下は、昭和天皇に不快なご感情を抱かせることはありませんでした。
侍従の日記や回想録で確認できます。
終戦記念日に写真や記録に残るのにわざわざテニス、映画、レストランに自ら行ってしまう皇太子夫婦って何なんだろうと思ったものでした。
今と同じ(老けて太ったけれど)手を振る姿www
娘さんには遊んでいるというのに口端にすら笑顔がない無表情。
母親のワガママ病にご静養は効いたでしょうが、情けない浩宮とやっぱり子供らしくない娘を浮き彫りにしただけだったのでは無いでしょうか?
こんな状態でもいずれは天皇皇后になり、その後も天皇の母として権力をふるえると確信していた。
なので、紀子さまの懐妊はそうなると胡座をかいていた者たちには、青天の霹靂程のショックを与えたでしょう。
娘を産んで更に5年が経ち雅子さんにはもうお子様は望めない。
今度は何としても親王殿下でなくてはならない、、、失敗は許されない。
このプレッシャーは愛子さまが誕生されるまで以上のものだと思います。
秋篠宮皇嗣御一家特に紀子さまへの憤怒嫉妬はどれ程のものだったかと想像致しますと恐ろしくて凍りつく思いです。
なので逆に考えると良く耐えてこられたと紀子さまの人としての大きさを感じずにはいられません。
週刊女性に「終戦記念日といったって、日本中の皆がお慎みをするわけでもない、皇太子夫妻がレジャーを楽しんでどこが悪い」という内容の擁護記事があったのを覚えています。
皇太子夫妻の態度はもちろんですが、その擁護にもあきれました。
礼宮さまともうお一方、教えの場をもうけられ、ナルさんが早々に逃げ出したので、紀宮さまが非難されたそうです。
皇太子、そして天皇となる器ではないと表明されたも同然と思いました。
これまた有名なお話ですが、雅子さんもお妃教育を中途で拒みました。
おトクイの英語に切り替えても、理解し取り組もうとはしなかった。
私はどちらのケースもミテコ夫人のせいだと思っています。過剰な甘やかしなのか、放置なのか、それとも弱みがあるせいなのか。
ナルさんには朝日新聞記者の托卵の噂、雅子さんには大作の托卵の噂があり、ともに消えません。
令和夫婦のこのグダグダぶりから、なるべきではない器量のものが無理やり押し上げられたせいという説にそうかもしれない、いやきっとそうなのだと私は思います。
特に妻を御しきれない情けなさに乗じて専横を押し通すのはまともではないです。
他国の歴史をみても、こういうことをやらかすのは正妃ではなく愛妾なんですね。
正妃は国のことを考える誇りがありますから。
ミテコ夫人の罪は歴史に残るほど大きいです。
暗黒時代をもたらした二人の夫人。
一般家庭でも大変なことなのに皇室それも内廷ですから。
「簒奪」は重大すぎる罪です。
紀宮様のご婚約のあたりまでお話が進みましたね。
紀宮様のご降嫁の前あたりに、やたら負け犬負け犬と独身女性を揶揄したりする負け犬ブームがありましたね。
負け犬界の星とか言って、紀宮様を当てこすったり、なんだか嫌なものを感じて失礼なのではないかと思っていました。
紀宮様のご結婚の後、負け犬って言葉が全く出なくなったのを見て、ひょっとして、紀宮様の宮中での影響力を面倒に思う方が工作したのかなと想像しました。
いぶきさま、アレらは勝ち負けに異常にこだわります。しかも勝手な自分達の基準なので迷惑でしかない。
それにしてもアメリカはどれほど日本人を苦しめるのか?
上プッ皇后、ゲ皇后、どちらも日本人にとって不幸だった。