玉川上水探索2回目、拝島駅から玉川上水駅間の続きです。
松中橋上流で柴崎分水と砂川分水の取水口を見ましたが、
砂川分水は玉川上水と並行して流れていきます。
砂川用水は少し先から暗渠になっています。
石橋供養塔 (高さ90センチ、幅30センチの石柱)
「天王橋」上流、右岸のフェンスの中に、寛政4年(1792)建立の供養塔があり、「玉水分派」の文字が判読できます。
「砂川分水に架かってていた橋が洪水により流出し、石橋を渡して修復した時を記念し、
水害の犠牲者を供養する為に建てる」と『玉川上水文化財調査報告』書にあります。
「玉水分派」を砂川用水と解説しているが、「玉水」=「玉川」=「多摩川」と解釈できないか?
「天王橋」には残堀川の合流していたので洪水の危険性は大。
「天王橋」を木橋から石橋に替えた時の供養塔なのでは?と親しむ会の資料を作られたSさんは疑問を投げかけています。
どうしてだろう?何でだろう?なんて疑問を持ちながら歩くのも楽しいです。
追記:別の小冊子には、付近の古老の話によると、玉川上水の木橋が壊れたので石橋に造り替えた時に
犠牲となった「同志之輩」を供養するために建てたということだそうです。
その「天王橋」(一ノ橋)
五日市街道に架けられた橋で、「上水記」には「五日市橋」と記載されています。
「天王橋」は、南詰めにある八雲神社の守護神・牛頭天王からの名称。
「一ノ橋」とも呼ばれ、砂川村に架かる橋(天王橋~清願院橋)は下流に向かって順に番号で呼ばれていた。
一ノ橋・・・天王橋、 二ノ橋・・・稲荷橋、 三ノ橋・・・新家橋、 四ノ橋・・・美影橋
五ノ橋・・・金比羅橋、 六ノ橋・・・宮の橋、 七ノ橋・・・千手橋、 八ノ橋・・・清願院橋
新天王橋
現在、玉川上水には二つの天王橋がVの字に架かっています。
上流側が「天王橋」(昭和6年架橋)、下流側が五日市街道で「新天王橋」(昭和45年架橋)
さらに歩いて行くと、今回のメイン・玉川上水と残堀川が交差する地点にやってきました~
右岸側から
残堀川を伏せ越す手前でアクタ止めが設置されゴミが取り除かれています。
ここは、砂川水衛所跡で、昭和38年に残堀川改修工事の際、金比羅橋上流にあった砂川水衛所を移したもので、
昭和55年に小平監視所に統合されるまで上水の維持管理を行っていました。
残堀川を渡って振り返って撮りました。
玉川上水は中央。この残堀川の下を流れているのですが、仕掛けがイマイチよく解りませんでした・・・
グルッと渡って上水左岸へ来ると、こんなたて看板が。
サイホン工法とか。
先ほど見た(3枚前の写真)場所、ここから深くなっているのが分ります。
残堀川を過ぎて下流に水が見えてきました。鯉が泳いでいる辺りが深いように見えます。
因みに、
残堀川は、瑞穂町の狭山池と狭山丘陵からの沢の水を水源に、武蔵村山市→立川市一番町→昭和記念公園内を抜け、
立川市富士見町3丁目で直角に曲がり、多摩川に合流している一級河川。
かつては、狭山丘陵から立川断層の沿って流れていた川で、玉川上水の見影橋付近を通り、矢川に流れ込んでいた。
水量の一定しない暴れ川で、氾濫すれば土砂を運んでくる事から「砂の川」と呼ばれ、「砂川」の地名の由来になっている。
玉川上水が開通すると、残堀川は玉川上水につながれ、助水としての役割を果たしていた。
元来、立川断層の崖下を流れていたので、玉川上水との交差地点(見影橋)では残堀川のほうが河床が低く、合流は不可能だった。
そのため、愛宕松(伊奈平橋)から新水路を開削して高度の見合う600m上流の「天王橋」付近で合流させている。
明治時代になると、残堀川の水質汚染が進み、明治末、改良事業で残堀川は玉川上水から切り離され、
250年続いた助水の役目は終わり、下流部の水路が開削され根川に接続された。
明治末の改良工事では残堀川の上を玉川上水が赤レンガの水道橋で渡る構造だったが、
昭和38年(1963)の改修工事で、残堀川の下を玉川上水が伏せ越す現在の形になった。
上手く出来てますね!
つづく~
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