自前の農産物直売所「農天市場」では、こんな名札を付けていました。
トーちゃんとカーちゃんと(その1)
太平洋戦争末期まで、我が家の家族は岐阜県の片田舎で暮らしていた。当時は一路線だけを権利を持ってバスやタクシーを運行する業態が許されていた。父の姉の連れ合い、つまり父の義兄がそのバスの会社を経営していて、国鉄高山線の白川口駅から中津川に至る峠道までの路線の権利を得ていた。
父からよく聞かされた話に、薪自動車や木炭自動車の話があった。出力不足に悩んだらしいが、工夫を重ねて乗り切っていたとか。「あのまま木炭車が進歩していたら、大した性能になっていただろうな」と繰り返し話していた。
魚沼の実家では父の頑固な継母が一人で暮らしていて、帰郷を強く請われたという。最後は「帰って来ないならば俺がこっちの家をたたんでそっちに行く」とさえ言いだしたとか。
父の姉たちは義母から離れたい気持ちが強くて、三人ともに岐阜で暮らしていた。あの、とんでもない女傑、わがままな義母が来たのではたまらないと、父は説得され帰郷するという流れになったらしい。
岐阜では姉たちは「トーちゃん」「カーちゃん」と呼んでいた。しかし、魚沼の田舎ではそんな呼び方をする家庭は無かった。
(続く)