夏目漱石がクレオパトラに模して書いたという紫の女 甲野藤尾
美しく賢い彼女は誇りも高い
その誇りを不実な男 小野に踏みにじられた時 彼女の純情な心臓は動く事を止めた
裏表紙に藤尾を傲慢で虚栄心が強いと書いてある
それは違う
不確かな五年前の相手の心も確かめず勝手な片思い
父のかけた恩によって男を縛ろうとする浅ましさ
当然のこと男より人を立て 断られて被害者ぶった号泣
余りにさもしく醜い
私は小夜子のようないじましい女は大っきらいだ
友人づらしてその兄が好きなだけで 才木溢れる美しい藤尾を恐れ みすぼらしい自身をひがんでいる糸子も見苦しくて嫌いだ
しんと余りにうっとうしい
夏目漱石は最初からヒロイン藤尾を殺すつもりで話を書いている
それもクレオパトラのように自殺させるつもりだった
我欲の強い女よと妹を馬鹿にしている母親違いの兄
自分が相手にされなかったゆえに 藤尾の恋が壊れるように動く宗近
どうしてみっともなく男らしくない
娘と暮らす方がラクだからと画策する藤尾の母
別に謎の女でも何でもない
ただの愚かな母親だ
更に死んだ後の娘の身が幸せで かつて世話した中で将来有望な男に何としたって押し付けよう
相手が断れば恩知らず―と己の勝手さは顧みぬ父親
そして恋人を裏切る優柔不断の男 小野
こういうのは優しいのでも何でもない
学問は優れているかもしれないが ただの馬鹿だ
唯一 魅力ある登場人物藤尾を無理矢理最初の構想どおり 死なせようとしたから こんな嫌な話になるしかなかったのだろう
初めて愛した男の嘘
その裏切りに耐え切れず死ぬ藤尾は 作中にあるように憎むべき女とは 到底見えない
むしろ小夜子や糸子の方がよほどしたたかで底意地が悪い
兄の甲野も宗近も ただ自分を正当化するだけの狭量な人間である
たまたま見掛けよく綺麗ではきはきしているから妻に丁度良いと一人決めし 藤尾の気持ちなど何一つ考えない宗近
自分の物にならぬなら 藤尾の恋もかなえさせまいと親切ごかしに喜々として動いている
そしてたまたま小夜子を妻とすると宣言し 目の前で藤尾に死なれた小野は これは幸せにはなれまい
小夜子を見れば 美しかった藤尾を思い出す
小夜子を選んだゆえに永遠に藤尾を喪ったこと殺したことを思い出すのだ
死んだ者は無敵である
その欠点も美点として ひたすら美しく完全な存在として偶像化されるのだ
そんな結婚で幸せになれようはずがない
小夜子はどう無駄にあがいても藤尾にはなれず 少ない自分の魅力さえ摩滅させてしまうだろう
小野は小夜子の父 井上先生に世話となった自分を呪うようにさえなり
むなしい憎しみしか残らぬ家庭となる
となればめそめそ泣くのが得意な小夜子は暗く暗く自分を愛してくれぬ小野を怨じ ただ我が身の哀れさを嘆いて一生を終わるのだ
母親違いの妹ゆえに恋人とできなかった兄甲野も絶えず妹の死にとりつかれ ろくな生き方死に方はすまい
作後の登場人物の生を想像すれば 作者の意図に逆らって 若く美しいままに死んだ藤尾の一人勝ちのように思える
まことに皮肉な話だが
現在の私から見れば藤尾の理屈も才気も可愛いものではあるが 決して滅ぼさなければいけない危険な女には思えない
むしろ一途で古風な可愛い娘である
藤尾が現代に生きた娘であれば 重たいばかりの母親も 煮え切らぬ兄も
がさつ身勝手な迷惑男宗近も見捨て
小野の如きくわせ者のにせもの男は近付けもせず
軽々と自由に生きたのではないか―とも思う
「麌美人草」は 藤尾というヒロインをこの世に送り出したという一点でのみ 存在価値がある