Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

エレファント

2008-01-09 | 外国映画(あ行)
★★★★☆ 2003年/アメリカ 監督/ガス・ヴァン・サント

「交差すれど交錯しない若者たち」



アメリカのコロンバイン高校の銃撃事件を題材にして、素人の高校生をオーディションで選び起用して作り上げた問題作。2003年のカンヌ国際映画祭で、史上初のパルムドール&監督賞をダブル受賞した。

ガス・ヴァン・サントは、全ての少年少女たちを同じ地平で描いている。もし、犯人の少年二人を主役としては描けば、彼らが「悪」になったり、いじめの「犠牲者」だったりして、必ずそこには「対立軸」が存在する。しかし、何かと何かを対立させる見せ方を、この作品は一切拒んでいる。そこが、実に印象的なのだ。

そのことによって、浮かび上がるのは何か。本作は、日常に静かに溶け込む暴力を表現しているのに間違いはないが、私が感じたのはむしろ、凶行を行う少年たちではない、普通の学生たちの日常の空虚さだ。一人ひとりの学生の名前が紹介され、カメラは後ろ姿を捉え続ける。それぞれの学生が交差することはあっても、交錯することは一切ない。その描き方はまるで、路線図の上を黙々と通過する地下鉄のよう。衝突することは決してないのだ。

「クラッシュ」という作品で、人間はクラッシュして浮かび上がることがあると書いたけれど、彼らはクラッシュしない。ただ、横をすり抜けていくだけだ。そのことを、淡々と後ろ姿を捉え続けるカメラワークが如実に物語っている。だからこそ、たった一度のクラッシュに心奪われる。

犯人の少年たちがジョンに「中にはいるな。地獄になるぞ」と語りかけるシーンだ。それまで、少年たちが交わすのは日常会話に過ぎなかった。ようやく登場人物が相手の領域に踏み込む表現が出るのだが、それがこの警告の言葉。実にやりきれない。

確かに多くを語らない映画である。学生の虚無感と交錯しない若者たち、という印象だって、もちろん私なりの感じ方。しかし、ただひたすらに少年たちの後ろ姿を追い続けるという手法をなぜガス・ヴァン・サントはチョイスしたのか。その点に思いを巡らせると、鑑賞後も様々な考えが頭に浮かぶ。81分と短い作品だが、鑑賞後の余韻はいつまでも続く。