Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

マイ・プライベート・アイダホ

2008-01-11 | 外国映画(ま行)
★★★★☆ 1991年/アメリカ 監督/ガス・ヴァン・サント

「抱く者と抱かれる者」


街角に立って、日々体を売る若い男娼たち。母に見放されたマイク(リヴァー・フェニックス)、そして市長の息子でありながら、心の空虚を埋めるかのように体を売るスコット(キアヌ・リーブス)。ふたりは、代え難い絆で結ばれていたはずなのに…。

ほんのささいな幸せすら手にできない、いや、好きな人に好きという権利すら与えられていない。そんなマイクの切なさがスクリーンいっぱいに駆けめぐる。23歳という若さでこの世を去ったリヴァー・フェニックス。彼が薬物中毒だったことは、彼自身の精神的な弱さやストレスの裏返しであろうが、その弱さは本作におけるマイクとぴったり重ね合わせることができる。

そんなリヴァー・フェニックスの魅力にあふれた作品であるのはもちろんなのだが、本作における、もう一つの大きなキーアイテム。それは、リヴァー演じるマイクが抱える病気「ナルコレプシー」だ。とにかく、マイクが突然ドサッと道ばたに倒れてしまうことが、おかしさを誘う。少年の悲哀と倒錯がうずめく物語の中で、この突然の昏倒がもたらすおかしみというのが実に良いスパイスとなっている。そして、突然の昏倒は、マイクをまるで道ばたに放り出された赤ん坊のように見せる。つまり、彼は常に誰かに「抱えてもらわねばらならない」存在であるということ。

もちろん、劇中その抱える役割を担うのはスコットであり、倒れたマイクを抱くスコットを映し出すシーンは、まるで中世の絵画のように美しい。守る者と守られる者、力のある者と無力な者というふたりの関係性を実に的確に、かつ艶めかしいほど美しく表現するためのアイテムが「ナルコレプシーによる昏倒」なのだ。

だからこそ、ラストシーンの昏倒が切なくて切なくてたまらない。あの絵画のように美しい「抱き」を見せるスコットはもういない。されど、マイクは通りすがりの車に拾われる。そう、まるで捨て子の赤ん坊のように。マイクの行く末を思い描けば、おのずとリヴァーの若き死もそこにオーバーラップする。彼の死という事実を受けて、このラストシーンには身を切るような痛みが伴う。実に皮肉なことだけど。しかし心に深く残る珠玉のラストシーンであることは間違いない。