Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

さよなら、さよならハリウッド

2008-01-15 | 外国映画(さ行)
★★★☆ 2002年/アメリカ 監督/ウディ・アレン

「元祖ダメ男、ウディの面目躍如」



アカデミー賞受賞監督のヴァルは、今ではすっかり落ちぶれてしまい神経症まで患っている。ところが、元妻のコネでハリウッド大作のオファーが彼の元にやってくる。意気揚々と撮影に臨もうとするが当日、なんとストレスから目が見えなくなってしまう…。

最近、「ダメ男」の作品ばっかりレビュー書いてるような気がするんですが、よく考えてみればこの人こそ、元祖「ダメ男」でした。昔の女のことを、いつまでもうじうじと引きずっていて、どうしようもありません。そこが、カワイイと思えるのか!?これまた、思えるんですねえ、悲しいことに(笑)。

元カノとこれから作る映画について話をしているのに、なぜか途中で昔の浮気話に話が転換していく機関銃トークが、おかしくておかしくて。で、なぜか突然目が見えなくなって、映画を撮るなんて、もうハチャメチャもいいところです。コミュニケーションの断絶とか、そんな高尚なことを言いたいわけじゃない。ただもう、「ダメ男」がますます「ダメ男」になるのを、笑って楽しむ映画なのですよ。

ある意味、自分を中心に世界は回ってる映画なので、ウディのそのやり方がお気に召さない方が受け付けられないのは当然だと思います。だって、結局元カノだって、自分の所に戻ってくるわけですから、実に都合のいい展開。それでも、彼の破綻しまくりの機関銃トークは、ここまで来ると名人芸。やはり誰に真似できるわけでもありません。つまり「いつものあれ」を楽しむための映画。落語を聞きに寄席にいくような感覚に近いのかも。

それにしてもこの映画、目が見えない状況で撮影した映画がハリウッドでは酷評されるのだけど、フランスでは大受けというオチ。これって、どうなんでしょ。ハリウッドよりフランスの方が俺の味方だってことなのかしら。見ようによってはフランス人を馬鹿にしているとも言えませんか。試写室でヴァルが、こんな映画最低だってセリフがあるのに。よくわかんない映画をありがたがるフランス人って皮肉ってるのかしら。この結末だと、ハリウッドもフランスも敵に回しちゃうと思うんだけどなあ。


忘れられぬ人々

2008-01-14 | 日本映画(や・ら・わ行)
★★★★ 2000年/日本 監督/篠崎誠
「全部彼らが背負っている」


戦後の復員後、荒れた生活を送る木島(三橋達也)は、孤独な老人。ある日、戦友・金山の遺族を探していた木島の元に、金山の孫娘・百合子が戦友会に顔を出すという報せが届いた。以来、太平洋戦争を共に闘った木島、村田、伊藤の3人の老人と若い百合子との交流が始まった。しかし、百合子の恋人は霊感商法の会社に就職し、その魔の手は3人のところにも及ぶことになり…

決して派手ではないけれど、実にさまざまな現代の病巣を浮き彫りにしている作品です。まず、戦争のトラウマを引きずったまま年老いてしまった老人の問題。彼らはお国のために闘ったという誇りよりも喪失感の方が大きい。しかも時代に取り残されてしまったという寂しさを抱えている。一方、現代日本の空虚さを象徴する霊感商法。悪いこととはわかっていても、抜けることができない若者が彼らと出会ってしまうことが悲劇を招いてしまいます。

●戦争に生き残った老人と現代を生きる空虚な若者
●在日朝鮮人でありながら日本のために戦死した金山の孫娘と
日本人でありながら生き延びた男(老人)たち
●アメリカ人の子どもとアメリカを敵にして戦争を経験した木島

と言った対立関係にある存在が、悲しくも運命的な邂逅を繰り返し、物語の前半は粛々と進みます。そして、3人の老人たちのささやかな幸福にじわじわと忍び寄る闇。彼らの運命はどうなるのか、後半ぐっと物語はドラマチックになり、予想外のラストへ…。

こんな日本にするために戦ったんじゃない、と言う老人に結局、現代の日本の落とし前までつけさせてしまうラストの展開。彼らに全部押しつけてしまっていいのか、と映画は我々に訴えます。戦後60年以上たった今でも、日本はいろんなことにケリをつけていない。そのひずみがどんどん広がるのを私たちはただ黙って見ているしかないのでしょうか。意を決して出発する木島たちの姿が晴れ晴れとしている分、いっそうつらく感じる。背負うべきなのは、私たちなのに。

息子の部屋

2008-01-13 | 外国映画(ま行)
★★★☆ 2001年/イタリア 監督/ナンニ・モレッティ

「何かが起きてそうで、何も起きていない、奇妙な映画」


カンヌ映画祭、パルム・ドール受賞作品と思って見始めてしまったから、正直肩すかし。最近のパルム・ドールって、問題作が多いのですごく身構えて見てしまったのが失敗の元。

本作は息子が不慮の事故で亡くなり、喪失感にとらわれる家族を描く作品。家族の突然の死によりみんなの心がバラバラになり始めた時に、予期せぬ一通の手紙が届く。しかし、その手紙の顛末もさして起伏なく、淡々と物語は進む…。息子を亡くした喪失感を家族で埋めるプロセスが描かれるわけでもなし、主人公が何かを乗り越えるわけでもなし。静かな物語でもじっくりと余韻を残す作品かと、期待して見てたら、あらあら終わっちゃった…って感じなのだ。

ただ、この作品で妙に印象に残ったのは、意図的な「外し」のような部分。例えば、息子に手紙を送った少女が家に訪ねてくる。つい先日、あなたのことが忘れられないという内容の手紙を書いているくせに、なぜかもう新しいBFとヒッチハイク中なんですね。こういう「外し」は個々のエピソードだけではなく物語全体をも包んでいる。何かが起きるんだけども、わかりやすい顛末には決してならないという。

精神科医である主人公ジョバンニは、息子とランニングに出かけようと約束していたのに、急な患者の呼び出しに応じてしまったがために、息子は別の約束を取り付けてしまい事故にあってしまう。だから、ジョバンニは、往診に出かけたことがトラウマになってるわけ。しかも、息子が死んでからもその患者のカウンセリングは続いている。普通なら、そこでその患者と何かが起きる、または、そのトラウマを乗り越える何かが起きると考えるのが普通。でもね、なーんにも起きないんだ、これが。

実はこの「外し」が気になり始めてから、私の頭には北野武の映画がよぎったんです。監督、主演も自分でこなし、淡々と進む物語でテーマは死。そして、出来事と出来事がストレートな因果関係で繋がらない、見ていてもどかしい感じ。北野武の映画がイタリアでウケるのも何となくわかるような気がした。

ただ、非常に個人的な好みの問題なんだけど、北野武の映画には、この「外し」の向こう側に様々なイマジネーションが見ていて湧いてくる。逆に言うと、そこを楽しむ作風と言える。でも、この作品では、それができなかった。息子が死んでもなおカウンセリングを続けるジョバンニの胸中を表現するシーンでいくつか味わい深いところもあったのは確かだけど、パルム・ドールなんて知らずに見れば良かったなあ。


誘う女

2008-01-12 | 外国映画(さ行)
★★★★☆ 1995年/アメリカ 監督/ガス・ヴァン・サント

「ニコールの名演に万歳!」


子供の頃からスターになる事を夢みていたスザーン(ニコール・キッドマン)。地方のテレビ局で無理矢理お天気キャスターの座をゲットした彼女は、いつか自分はビッグになるんだと言う思い込みが増すばかり。しかし、目的達成のために夫が邪魔になることに気づいた彼女は、高校生の少年(ホアキン・フェニックス)をセックスの虜にしてそそのかし、夫を殺害することを思いつく…

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テレビに映らなきゃ生きてる意味がない。世界は私を中心に廻っている。誰かが不幸になったり困っても、それは一切私のせいではない。何人たりとも私にNOと言うことはできない。

スザーンは、自分が美しいのをわかっていて高慢ちきに振る舞っている高飛車オンナ、ではないですねえ…。恐らく彼女は精神科に行けば間違いなく立派な病名を頂くことができるでしょう。かなりの人格障害に間違いないですよ。私はそう感じた。そういう意味で、ニコールの演技力はたいしたもんだ!と感心しちゃいました。

ハリウッドの俳優で故意に太ったり痩せたりして肉体改造して役に成りきる人がいる。でも、ニコールの場合はそういうあざといことをせずに、彼女本来の恐ろしいほどの美しさをそのままに別人格になっている。この演技は、「アイ・アム・サム」のショーン・ペンなどで絶賛される類のものに匹敵すると思う私は、褒めすぎかしら?精神障害や知的障害の役に取り組むのと、ほとんど同レベルのチャレンジに見える。

で、アメリカ人のインタビューなんかを見ていると、「なんでそこまで自分に自信があるの!?」と、驚くことがよくある。先日も、「ドリーム・ガールズ」のDVDの特典映像を見ていたら、ビヨンセもジェニファーも口を揃えて「私には、この役をやり遂げる自信があったのよ!」と身振り手振りで答えている。

確かに成功者が述べれば説得力もあるだろうが、スザーンのような勘違い女が発言すれば、イタイことこの上ない。しかし、良くも悪くも「自信満々のアタシ」というのは、アメリカ人に顕著に見られるメンタリティだろうと思う。根拠がないのに自信だけあるとスザーンのような人間になってしまう。しかし、まず自分に自信を持て!というモチベーションのかけ方というのは、実にアメリカらしいやり方で、そういう意味ではこの映画もまた実にアメリカ的と言える。

それにしても、ニコールは役の選び方がひねくれてますねえ。もう少しわかりやすい感動作なんかに出演すれば、ファンの裾野は広がりそうなんだけど、敢えてしない。だって最新作「毛皮のエロス」はフリークスの撮影で有名になった伝説の写真家、ダイアン・アーバス。でも、私はこういうひねくれた役を選ぶ彼女が結構好き。(あっ、「奥さまは魔女」に出てたか(笑)。

スザーンという人物像も強烈ですが、彼女を通して、テレビというメディアをシニカルに描写するシーンがたくさん出てきます。確かにワイドショーネタのような話ですが、そこはガス・ヴァン・サント。きりっと冷ややかな演出が効いています。それにしても、リヴァーもホアキンも兄弟揃ってガス・ヴァン・サント作品では切ない役どころ。この頃のホアキンは今とは別人みたいだな…。で、この兄弟全然似てないよね。

マイ・プライベート・アイダホ

2008-01-11 | 外国映画(ま行)
★★★★☆ 1991年/アメリカ 監督/ガス・ヴァン・サント

「抱く者と抱かれる者」


街角に立って、日々体を売る若い男娼たち。母に見放されたマイク(リヴァー・フェニックス)、そして市長の息子でありながら、心の空虚を埋めるかのように体を売るスコット(キアヌ・リーブス)。ふたりは、代え難い絆で結ばれていたはずなのに…。

ほんのささいな幸せすら手にできない、いや、好きな人に好きという権利すら与えられていない。そんなマイクの切なさがスクリーンいっぱいに駆けめぐる。23歳という若さでこの世を去ったリヴァー・フェニックス。彼が薬物中毒だったことは、彼自身の精神的な弱さやストレスの裏返しであろうが、その弱さは本作におけるマイクとぴったり重ね合わせることができる。

そんなリヴァー・フェニックスの魅力にあふれた作品であるのはもちろんなのだが、本作における、もう一つの大きなキーアイテム。それは、リヴァー演じるマイクが抱える病気「ナルコレプシー」だ。とにかく、マイクが突然ドサッと道ばたに倒れてしまうことが、おかしさを誘う。少年の悲哀と倒錯がうずめく物語の中で、この突然の昏倒がもたらすおかしみというのが実に良いスパイスとなっている。そして、突然の昏倒は、マイクをまるで道ばたに放り出された赤ん坊のように見せる。つまり、彼は常に誰かに「抱えてもらわねばらならない」存在であるということ。

もちろん、劇中その抱える役割を担うのはスコットであり、倒れたマイクを抱くスコットを映し出すシーンは、まるで中世の絵画のように美しい。守る者と守られる者、力のある者と無力な者というふたりの関係性を実に的確に、かつ艶めかしいほど美しく表現するためのアイテムが「ナルコレプシーによる昏倒」なのだ。

だからこそ、ラストシーンの昏倒が切なくて切なくてたまらない。あの絵画のように美しい「抱き」を見せるスコットはもういない。されど、マイクは通りすがりの車に拾われる。そう、まるで捨て子の赤ん坊のように。マイクの行く末を思い描けば、おのずとリヴァーの若き死もそこにオーバーラップする。彼の死という事実を受けて、このラストシーンには身を切るような痛みが伴う。実に皮肉なことだけど。しかし心に深く残る珠玉のラストシーンであることは間違いない。

エンジェル

2008-01-10 | 外国映画(あ行)
★★★★ 2007年/フランス 監督/フランソワ・オゾン
<テアトル梅田にて鑑賞>
「絶対にお近づきになりたくないオンナ」



大好きなフランソワ・オゾンの最新作。まず舞台がイギリスってことで、英語なんですよ(当たり前ですが)。やっぱりオゾン作品はフランス語で見たいなあ。というのも、言葉遊びってフランス語の方が豊かなイメージがあるのね。それに嫌みをいっても、フランス語の響きで緩和されるところがあるでしょ。オゾンのような男女の駆け引きとか皮肉めいた言い回しなどはフランス語で聞いてこそ、本来あるべき姿に感じられる。それから、女流作家の一生ってことで全編文芸作品的なテイストで、これがあまり私の好みではなかったかな。

さて、原作があるってことですが、主人公のエンジェルは、オゾンが彼女を描こうとするのも納得!というほど、女という生き物の嫌な部分だけを抽出したような人物設定(笑)。もし、私が近くにいたら、私なりの女の本能で彼女には絶対近づかないな。巻き込まれたら最後、とことん相手を振り回すような女だもん。エンジェルに一目惚れされたエスメは、一目会ったその時点から御愁傷様という感じ。

本作を見て私はガス・ヴァン・サイトの「誘う女」を思い出した。スザーンって言うすさまじい自己顕示欲の持ち主をニコールが見事に演じていたけど、エンジェルも今の時代なら間違いなく精神障害じゃないかしら。彼女の人生を支えているものは空想ではなく、妄想。実の母親が死んだ後、食料品店の店主だった彼女を「偉大なピアニストでした」と涙ながらに語るシーンはかなりイタいんだけど、見方を変えれば結局真実の何か、例えば愛とか友情を得ることは絶対にないわけで哀れな女とも見える。まあ、妄想だけでベストセラーが書けるんだから、文才はあるんだし、あれだけ奔放に生きるのもそれはそれで幸せなのかしらね。ただ、エンジェルというキャラクターが観客を強く捉えるには、主演のロモーラ・ガライは今一歩という感じかしら。

終盤、夫の愛人に会いに行く時のエンジェルはやつれ果てて髪の毛もボサボサで真っ青な羽飾りのついた帽子をかぶってまるで海賊のような出で立ちで出かけるワケ。ところがね、このエンジェルのファッションがとってもクールなの。それまでのエンジェルは大金持ちでいいもの着て、幸せの絶頂にいるんだけど、その趣味の悪いこと、悪いこと。不幸になってからイケてる女に見せるってのは、何ともオゾンらしいかも知れませんね。

エレファント

2008-01-09 | 外国映画(あ行)
★★★★☆ 2003年/アメリカ 監督/ガス・ヴァン・サント

「交差すれど交錯しない若者たち」



アメリカのコロンバイン高校の銃撃事件を題材にして、素人の高校生をオーディションで選び起用して作り上げた問題作。2003年のカンヌ国際映画祭で、史上初のパルムドール&監督賞をダブル受賞した。

ガス・ヴァン・サントは、全ての少年少女たちを同じ地平で描いている。もし、犯人の少年二人を主役としては描けば、彼らが「悪」になったり、いじめの「犠牲者」だったりして、必ずそこには「対立軸」が存在する。しかし、何かと何かを対立させる見せ方を、この作品は一切拒んでいる。そこが、実に印象的なのだ。

そのことによって、浮かび上がるのは何か。本作は、日常に静かに溶け込む暴力を表現しているのに間違いはないが、私が感じたのはむしろ、凶行を行う少年たちではない、普通の学生たちの日常の空虚さだ。一人ひとりの学生の名前が紹介され、カメラは後ろ姿を捉え続ける。それぞれの学生が交差することはあっても、交錯することは一切ない。その描き方はまるで、路線図の上を黙々と通過する地下鉄のよう。衝突することは決してないのだ。

「クラッシュ」という作品で、人間はクラッシュして浮かび上がることがあると書いたけれど、彼らはクラッシュしない。ただ、横をすり抜けていくだけだ。そのことを、淡々と後ろ姿を捉え続けるカメラワークが如実に物語っている。だからこそ、たった一度のクラッシュに心奪われる。

犯人の少年たちがジョンに「中にはいるな。地獄になるぞ」と語りかけるシーンだ。それまで、少年たちが交わすのは日常会話に過ぎなかった。ようやく登場人物が相手の領域に踏み込む表現が出るのだが、それがこの警告の言葉。実にやりきれない。

確かに多くを語らない映画である。学生の虚無感と交錯しない若者たち、という印象だって、もちろん私なりの感じ方。しかし、ただひたすらに少年たちの後ろ姿を追い続けるという手法をなぜガス・ヴァン・サントはチョイスしたのか。その点に思いを巡らせると、鑑賞後も様々な考えが頭に浮かぶ。81分と短い作品だが、鑑賞後の余韻はいつまでも続く。

細雪

2008-01-08 | 日本映画(さ行)
★★★★☆ 1983年/日本 監督/市川崑

「女優を魅せる映画だが、真の主役は大阪弁」


女優を見せる映画、というのがある。日本映画でのルーツにおいては、高峰秀子とか原節子などの往年の大女優を真っ先に述べるのが道筋なんだろうが、60年代生まれの私としては、スクリーンで映える日本の女優と言えば、岸恵子、岡田茉莉子、佐久間良子などが真っ先に思い浮かぶ。

というわけで、この細雪は、これでもかと私の大好きな女優陣を美しく魅せてくれる映画。女優を撮らせたら超一流の市川崑の面目躍如といったところ。着物を脱いだときの襟足、はだけた着物から覗く足首など、着物での立ち居振る舞いから日本女性の艶めかしさが匂い立つような映像が続く。そして、はっとしたり、振り返ったり、泣いたり、笑ったりする女優たちの顔、顔、顔…。どれもこれもが美しい。

冒頭、岸恵子のアップがあるのだが、まあ、その美しさにはオンナの私でもうっとり。これが、、市川流「女優真正面斬り」のカットで、とにかく正面斬りが次から次へと出てくる。

しかし、四姉妹の中で特に印象深いのは、つかみどころのない三女・雪子を演じる吉永小百合。姉の言うことなら何でも聞く大人しそうに見える女性だが、次から次へと湧いてくる見合い話にも一向に首を縦に振らない頑固さがある。また、おしとやかで潔癖に見えるのに、義理の兄の前で着物をはだけたりして無防備な一面もある、実にミステリアスな存在。清純そうな彼女が時折見せる微笑がやけにセクシー。吉永小百合という女優には、私は何の思い入れもないが、この作品は、とても良かった。もともと彼女が持っている清純さをうまく利用して、その裏にある物を引き出そうとした監督の手腕がうかがえる。

しかし、これほど女優陣の美しさが前面に出た映画でありながら、一番強く印象に残ったのが、実は大阪弁。大阪弁と言えば、今ではお笑いブームもあって「えげつない関西弁」というイメージが強いが、この船場の四姉妹が話す大阪弁の何と艶やかなこと。そのおっとりした語り口を聞いていると、京都弁かな?と一瞬思うこともある。

原作が谷崎なので、実は京都弁もまじっているのかも知れない。このあたり、厳密なところを突っつくと、怪しい部分もあるかも知れないが、生粋の大阪人である私でも、船場のええとこのお嬢さんがしゃべるおっとりした大阪弁は、すんなり耳に溶け込んできた。きっと、生粋の京都弁ならば、もっともっちゃりした(失礼^^)感じになるだろうし、京都弁独特の「~どす」という表現もなく、大阪弁として脚本は書かれていたと思う。

で、この大阪弁のニュアンスを楽しめるかどうかは、この映画の大きなポイントだと思う。雪子の結婚がようやくまとまりそうな予感を見せる「あの人ねばらはったなあ」「ん、ねばらはった」と言うおねえちゃんとなかんちゃんのラストの会話。「ねばった」という事実には、なかなか見合いを決めなかったことへの非難が込められているが「~しはった」という敬語がそれを和らげている。そして、「~しはったなあ」と感心していることで、ねばって意中の男を射止めたことを称えてもいるのだ。雪子の見合いに翻弄されてきたふたりの姉妹の悲喜こもごもが込められた、いかにも関西人らしい会話だと思う。

このように、「含み」を持たせた大阪弁がこの作品の中にはふんだんに盛り込まれていて、本家や分家という立場の違いで本音が言えない部分だとか、夫への文句を言いたいがストレートに言えない部分などで実に効果的に使われている。そして、その「含み」のあるのんびりした大阪弁が四姉妹そのものをも魅力的に見せている。生粋の大阪人である私も、あのような大阪弁をしゃべれば、「ちょっとは、おんならしい、見えるのんとちがうやろか」と思った次第。スローテンポ大阪弁、私も努力してやってみよ。

華氏911

2008-01-07 | 外国映画(か行)
★★★★☆ 2004年/アメリカ 監督/マイケル・ムーア

「それでもブッシュは再選した」


「エンロン」や「不都合な真実」を見る前に、アメリカを復習しようと思って再見。

これだけのブッシュ批判の映画が選挙前に公開されて、しかもカンヌ映画祭のグランプリまで獲っているのに、それでもブッシュは再選。結局、この映画が反ブッシュのために作られたのなら、一番の目的は達成できなかったということ。目的が果たせなかったという観点から見れば失敗作。この映画の存在をせせら笑うかのようにブッシュが勝ってしまう、まさにその腐ったシステムをムーアは描くべきだった。(もしかして今それをやってるかも)

この映画によって、逆にブッシュに興味をもってしまった人間が出たかも知れないし、ブッシュ側の結束力が固まったかも知れない。この映画の存在そのものが、むしろブッシュのプロパガンダだと揶揄すらされた。まあ、問題作だからこそ様々な論評が出され、否定的な意見も多かったのは確か。

しかし、私はこの映画の存在を否定する気にはなれない。確かにこの映画にはムーアの悪意が満ちている。自らブッシュを小馬鹿にするようなアテレコを入れてるんだもん。そのお調子者ぶりが、知識人の方々には目に余るのも当然かと。でも、私のような小市民にしてみれば、悪意むきだしのムーアの人間臭さに共感することも多い。突撃取材をするというスタイルがそもそも「熱い人間」としての表れだし、そんな彼だからこそ、議員に「あなたの息子をイラクに送りませんか」とよびかけるシーンは十分我々に訴えるものをもった映像だったと思う。

前半部の、石油、パイプライン、武器製造にまつわる巨大な利益が生み出される構造は、驚きの連続でありながら、どんなに噛み砕いて説明されても、やはり遙か遠くの出来事のように感じる。それでも、そのシステム自体は以前に「シリアナ」を見ていたので、ずいぶん理解できるようになった。映画の力って偉大だな。

さて前半にどでかい話を持ってきて、一転して後半はそれらの莫大な利益は、結局は戦場に出向く一人ひとりの兵士の犠牲の上に成り立っているのだということを顕わにしていく。誰だって、息子を戦場に送りたくなどない。誰だって、息子を無駄死になどさせたくない。そんな人間としての真っ当な感情に訴えている。

方法は賢明ではなかったかも知れないが、思いは伝わる。だが、思いだけではシステムを変えることはできない。それもまた現実。そういう事実を知るだけでも、意義は大きい。富裕層を招いたパーティであなたたちは私の基盤ですと演説するブッシュと何のために息子はイラクで死んだかわからないと泣き崩れる両親。両者を1本の糸でつなげようとしたムーアの心意気は買いたい。


ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記

2008-01-06 | 外国映画(な行)
★★★☆ 2007年/アメリカ 監督/ジョン・タートルトーブ
「全肯定か、全否定か」



前作「ナショナル・トレジャー」で、一切のツッコミをはねのけて突っ走る映画で、それはそれでアリだ、と書いたけれども、今作も全く同様。お正月映画で、2時間を映画館で楽しく過ごすことが第一命題であるならば及第点でしょう。私自身は楽しけりゃいい、という映画の見方ではないので、もちろん突っ込もうとすればいくらでもツッコミどころはある。

一番のツッコミどころは、登場人物たちの関係性をきちんと描いていないこと。前回は反目し合っていたビルと父はすっかり仲良くなっているし、ビルと妻はいつのまにか別居状態だし。極めつけはハーヴェイ・カイテル演じるFBI捜査官のセダスキー。敵か味方かというストーリー上の立ち位置はもちろん、全体の登場人物の中でセダスキーをどう扱っているのか、製作者の意図が全く不明。ハーヴェイ・カイテルという名優を使っているだけにその宙ぶらりんさが気になって仕方がない。

前作の方が面白かった、と言う意見も多いけれど、スケール感、スピード感共に前作よりも劣っているとは思えない。むしろ、中盤のカーチェイスシーンなど迫力は増していると思う。結局、構造的なものが何も変わってないから、同じモノを見たような気になり、「前の方が良かった」という意見になってしまうのだろう。とまあ、やはりまじめに語るのがバカバカしくもなる作品ですね。暗号はいっぱい解けたし、黄金都市も見つかったし、良かったじゃんね~と言われれば何も言い返せない、そんな映画です(笑)。ただ、昨年のジェリー・ブラッカイマー絡みの作品では「パイレーツのワールド・エンド」と「デジャヴ」がアクションに加えて奥行きのあるドラマを作っていただけに、ちょっと見劣りしてしまう。パート3作るんだろうなあ…