うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

菅江真澄の書物と、故郷のこと。

2010年08月19日 04時32分03秒 | 活字中毒の日々、そして読書三昧
この16日が一番暑かった。わたしの体温の平熱を超えて、室内にいてもくつろがずなんだか妙にいらいらする。テレビも底の浅い内容の番組ばかり、9時、エアコンを27℃にセッティングして早めに寝床へ入ったが、深夜、わたしはベッドの上で輾転反則ばかりくりかえしている。

 盆休みには、このブログで既報の手元の菅江真澄の本(旅日記)に取り組み、次に思い出して以前読んでがっかりした中津文彦の「天明の密偵」を再読した。浅間山の大噴火、天明の飢饉、蝦夷地松前藩内のシャクシャインの反乱など夷人の反乱蜂起と不穏な動き、老中田沼意次の悪政、徳川吉宗(松平定信)らの寛政の改革の時代背景のなか、菅江真澄を密偵に擬し物語は進む。
 やはりこの平べったい叙述の小説には味気なく感じながらも、菅江真澄とわたしの故郷のかかわりについて書きこんでみる。

 わたしが読んでいるのは、8/10付けブログで紹介した「改訂-菅江真澄日記/口語訳稿」2002年3月3日発行で、高校時代の恩師、漢文教師M先生が口語訳して自費出版したもの、455頁にわたる厚い書物である。
 そのなかで、なんたる偶然か、平泉・中尊寺から戻ってからのある場所を描写する一節におどろいてしまった。それは、大した和歌ではないのだが・・・。

 ◎かすむこまがた続
 ・三月廿日(天明六年・一七八六年)
  行水の文字のすかたになかれてはきしにかずかく滝のしらいと
   →流水は水という文字の姿で流れ、岸に滝の白糸が数々懸っている

 その昔、関東では造園業界で自然石の石組や石積みの土留めや護岸用に、筑波石や木曽石が大量に使われていた頃、業界的に品不足を懸念して国内を探しまわり福島や秋田の石とともにわが岩手県の 「蓬莱石」も使われ始めたことがある。その産出地が故郷の地元の低い「蓬莱山」の地域にあり、一帯は蛇紋岩地帯でやたらに落葉の躑躅が自生していた。
 あれは、北上川にそそぐ、砂鉄川支流だったか。景石の存在とともに、ひそかに、そこから流れる渓流・沢が日本庭園の流れのモデルにいいことが人知れずわかっていた。(勿論、最大の個所、ピカ一は青森県の奥入瀬川でなのではあるが・・・)
 その場所を、帰郷の折りに、わたしもまだ子供が小さい頃に踏査すべく現地を確認していたのである。
 そこの記述が、期せずして、菅江真澄の旅日記に出てくる。その行動と情景描写は、時系列でたどるとちょうど200年前のことであり、わたしにとって鳥肌が立つほどに感慨深い。

              
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