うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

その秋のために--吉本隆明の詩②

2010年10月09日 03時36分32秒 | 吉本隆明さんはどう考えるか・・・

 色々あった中でこの詩を選んだのは、多少なりとも、移ろう季節感にしたがってみたかったからだ。
 ここでのキーワードは ‘鳥が散弾のやうにぼくのはうへ落下し いく粒かの不安にかはる ぼくは拒絶された思想となつて この済んだ空をかき撩さう’、そして‘ぼくを気やすい隣人とかんがへてゐる働き人よ ぼくはきみたちに近親憎悪を感じてゐるのだ ぼくは秩序の的であるとおなじにきみたちの敵だ’であり、結末の ‘ぼくは拒絶された思想としてその意味のために生きよう’になる。 
 さあて、どうでしょうか。どうお感じになるでしょうか。わたしなどは、このフレーズのみであの時代を生きてきたようなもの。

 仲間内には‘自己否定’という言葉があふれ、既成の社会の仕組みは無価値であり大学は解体するべきだ・・・、などと言いながら。
 お隣の中国は文化大革命の頃。わたしは日常生活でも、好んでプロレタリアートっぽい菜っ葉服を着用していた。工人服(人民服)を気取っていたのか。ああっ、わたしたちは、一応、全共闘世代と言われている。 
 しかし、わたし個人、以後のジグザグ人生が表わすように本当はそれだけではないのですが。それ故に、その後おかげで、わたしにとっては大事なアイデンティティークライシス(!)の解決のために、分厚い“自分史”を書くはめになる。
 これが、伊藤静雄なり萩原朔太郎の詩だと分かりいいのですが。まあ、どうぞ。

その秋のために

まるい空がきれいに澄んでゐる
鳥が散弾のやうにぼくのはうへ落下し
いく粒かの不安にかはる
ぼくは拒絶された思想となつて
この済んだ空をかき撩さう
同胞はまだ生活のくるしさのためぼくを容れない
そうしてふたつの腕でわりのあはない困窮をうけとめてゐる
もしもぼくがおとづれてゆけば
異邦の禁制の思想のやうにものおぢしてむかへる
まるで猥画をとり出すときのやうにして
ぼくはなぜぼくの思想をひろげてみせねばならないか
ぼくのあいする同胞とそのみじめな忍従の遺伝よ
きみたちはいつぱいの抹茶をぼくに施せ
ぼくはいくらかのせんべいをふところからとり出し
無言のまま聴かうではないか
この不安な秋がぼくたちに響かせるすべての音を
きみたちはからになつた食器のかちあふ音をきく
ぼくはいまも廻転してゐる重たい地球のとどろきをきく
それからぼくたちは訣れよう
ぼくたちのあひだは無事だつたのだ

そうしてぼくはいたるところで拒絶されたとおなじだ
破局のまへのくるしさがどんなにぼくたちを結びつけたとしても
ぼくたちの離散はおほく利害に依存してゐる
不安な秋のすきま風がぼくのこころをとほりぬける
ぼくは腕と足とをうごかして糧をかせぐ
ぼくのこころと肉体の消耗所は
とりもなほさず秩序の生産工場だ
この仕事場からみえるあらゆる風と炭煙のゆくへは
ほとんどぼくを不可解な不安のはうへつれてゆく
ここからはにんげんの地平線がみへない
ビルデイングやショーウヰンドがみえない
おう しかもぼくはなにも夢みはしない

ぼくを気やすい隣人とかんがへてゐる働き人よ
ぼくはきみたちに近親憎悪を感じてゐるのだ
ぼくは秩序の的であるとおなじにきみたちの敵だ
きみたちはぼくの抗争にうすら嗤ひをむくい
疲労したもの腰でドラム罐をころがしてゐる
きみたちの家庭でぼくは馬鹿の標本になり
ピンで留められる
ぼくはきみたちの標本箱のなかで死ぬわけにはいかない
ぼくは同胞のあひだで苦しい孤立をつづける
ぼくのあいする同胞とそのみじめな忍従の遺伝よ
ぼくを温愛でねむらせようとしても無駄だ
きみたちのすべて肯定をもとめても無駄だ
ぼくは拒絶された思想としてその意味のために生きよう
うすくらい秩序の階段を底までくだる
刑罰がをはるところでぼくは睡る
破局の予兆がきつとぼくを起しにくるから

「転位のための十篇」(昭和28年)所収

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